さようなら、また会いましょう
「アレンのばかー!!!!」
ぼくの前で音が爆発した。子供特有の敏感な耳がビリビリと痺れている。目の前の癇癪さんは、ぼくよりも背が高く、そのよくとおる声にぼくは本能的に背筋を丸めた。ちょっと猫みたいだと思う。ぼくはすこしだけ猫が嫌いなのに。
ぼかん、という音を立ててぼくの頭を上から叩いた彼女は、ちょっと信じられないくらいに目から涙を流して泣き出した。
「アレンは、、、あ、あた、あt、しの、、いうこと、きいて、れば、、いいの、、のーーー!!!」
泣きじゃくりながらいうもんだから、何を言っているのか分かり辛いが、そういうことらしい。一歳年上の女の子。今年11になるんだから、彼女の精神年齢は男子中学生と同程度のはずだが、ときたま彼女はこうして感情を爆発させる。
考えてみれば当たり前のことだ。中学生のころの「私」は彼女よりどれだけ落ち着いていただろうか。彼女よりもひねくれていたことは確かだが。
「ねえ、泣かないでよローラ。ぼくは変なこと言ってないだろ…「言ってるもん!!!」」
さて、困った。癇癪を起した子供、特に女の子の対処法は、「私」もしらない。こういった時に、20後半になって結婚もできない。どころか、姪にすら碌に会いに行かなかったロクデナシの人生経験の薄さを恨んだりする。まあ、こんなに大きな姪っ子はいなかったのだが。
一向に泣き止む様子のない彼女を見つつ、ぼくは現実逃避としてボンクラの「私」をなじり始めた。
大体5歳頃からだろうか。ぼくの中に「私」が存在しているのをぼんやりと自覚し始めたのは。コミュニケーションは感情の交換だけでなく、論理の交換をすることもあるのだと「私」は知っていた。
「私」は時々顔をだすと(大抵は口喧嘩のときだ)、ぼくの口を使って言葉を発した。同年代の子供たちは、そのころ「私」が話す言葉を理解できなかった。
「変な呪文を使う」ぼくに対して、彼らは数の力でぼくを黙らせようとした。つまるところ、暴力である。
子供たち同士の遊びは、大人の目に入らないところで行われた。親や兄たちは労働で忙しいのだ。子供たちの定番の遊びは木の枝を使った騎士ごっこ。一番ちょうどいい太さ、そしてなるべくまっすぐな枝を見つけてきた子供がリーダーになる。
ごっこ遊びのそれがいじめへと変貌したのぼくらが6歳になったころだ。
ぼくをいじめようとするのは全部で5人だった。ぼくはいつも山賊だった。たまには敵国の将軍もやってみたかったが、彼らは許さなかった。
「私」はどうやら体を動かすコツを一つだけ知っていた。緊張をしないこと。力まないこと。始めの内はかなりいたい思いをした。手加減を知らない同世代の暴力をまともにうけた。遊びがいじめに変わったその一度目は、下手したら死んでいたかもしれないと今から振り返ればゾッとする。
けれど、いじめも4度目あたりになると、ぼくはひとりかふたりを撃退できるようになった。予想外だったのは、難易度の上がったゲームに彼らが夢中になったことだ。遊びの一つだった騎士ごっこが、毎日のように繰り返された。
そんな中でも、ぼくは段々と撃墜数を増やしていった。子供のうちから体の効率的な動かし方を知っている子は少ない。普通の子供に対してなら、「私」の思考力は実に有効な兵器として機能したのだ。
いじめが止むのはほどなくしてだった。一か月も要らなかったと思うが、しかしその時間は、ぼくがこども同士の交流に嫌気を催すようになるのに十分すぎた。
「私」の言葉に理解を示したのは、当然のように大人たちだった。
が、おとな達にとってもぼくは異物だった。子供の身なりで、ときたま大人よりも大人っぽい言葉を操る「私」は、かれらの心にさざ波を立ててやまない存在だったのだ。
端的に言って気持ち悪かったのだろう。
両親と姉はぼくに愛情をもって接してくれたが、兄たちがぼくに複雑な感情を持っているのは分かった。村長はぼくに目をかけてくれたが、彼の好々爺然とした顔の裏から、ぼくを将来的に奴隷のような身分で村の運営を任せようという意図が見えた。
7歳になる頃にはぼくは立派に村の鼻つまみものになっていたのだ。
そんな中、ぼくがたいして歪まずに成長できた理由は、目の前で鼻水をたらしながら泣いている、この少女のおかげなのだろう
「アレンのばか!なんで村からでるなんていうのよ!!」
「なんで村から出ていくなんて言うのよ!!」
私は激怒していた。目の前の弟分が、ケロッとした顔でとんでもないことを言い出したからだ。
アレンは昔から変わった子だった。いつもは別になんの変哲もないやつだ。ちょっと頭はいいかもだけど、なんだか鈍臭くて、こっちのいうことに反応するのが他の子よりもちょっとだけ遅い。いいところは家の仕事にあんまり文句を言わないことだろうか。これは女衆のかあさんたちから評判がいい。いい旦那は文句を言わない旦那、とはかあさんたちの口癖だ。
でも、時々アレンがこわいことを村の子供たちは知っている。だけど、これはまだ小さかったアレンと遊んだことがある何人かしか本当には知らない。
アレンが生意気、っていうのは、わたしたちより2,3歳年がうえのにいさんたちが言い出したことだった。
アレンは大人みたいな言葉を使ってバカにしてくる、とにいさんたちはキーキーいってた。最初は何人かで小突いてからかう程度だったのに、気づいたらアレンが意識を失うくらい激しいものになってた。
「ねえ、止めようよ、アレン死んじゃう」
私や他の女の子の言葉は彼らにとってはうるさいコバエみたいなものらしい。
大人たちもやり過ぎるなとは言ったけれど、止めようと必死になってはくれなかった。結局、アレンを巻き込んだ騎士ごっこは私たちや親の目を盗んで続けられた。
いじめっ子たちは注意されないラインを探し始めていたみたい。
女の子たちはそのころ、彼らと遊ぶ場所を変え始めていた。騎士ごっこが怖いものになっていたのに、そんなのを見たいと思う子は殆どいなかったから。
そんなある日、いじめっ子の中では年少の二人が顔に青痣を作って帰る姿をみた。彼らはいつもよりも興奮しているみたいだった。
何日かあと、にいさんの一人も青あざをつけて帰るのを見かけた。それからひと月位したらあの日がきた。
「助けて!!ポルコがアレンに殺されちまう!」
いじめっ子のリーダーだったポルコを残して、ほかの四人が泣きながら私たちの所にやってきた。
私と他には5,6人の女の子は 弟たちと10人くらいでおままごとをしていたと思う。平和な村に山賊がやってきたみたいだった。泣いている彼らはいつもよりも迫力があって、おとうとやいもうと達が泣き出した。
私と女の子の中で気の強い数人は現場に、他の子といじめっ子の一人は大人たちを呼びにいった。
私たちがアレンとポルコを見つけた時、その場にいた子供たちは立ちすくんでしまった。 ポルコは片足だけをだらんと伸ばして、うつぶせになりながら背を丸めていた。頭を腕全体で覆って、片足だけがぶらぶらしている姿は、かたつむりを思い起こさせた。
背を向けるアレンはの表情は見えなかったけれど、棒を一本持っただけの立ち姿はなんというか、とても自然だった。
怒ってる時のお父さんの後ろ姿とは全然違っていて、寧ろ夕食のとき、先にテーブルについていたお父さんの後ろ姿に似ているとおもった。それが怖かった。
固まっていた私たちが動き出したのは、顔の覆いを取ろうとしたポルコの頭にアレンが蹴りを食らわせたからだった。
「アレン!!」
アレンは肩越しにこちらを目だけで確認すると、そのあと体全体でゆっくりと振り返った。背後の虫みたいに伸びているポルコに、まだ注意を払っていたみたいだった。
走って近づこうとする私たちに対して、アレンは
「ワッ!!!」
大声と一緒に、アレンは片腕と持っていた木の枝を肩の位置まで大きく振り上げた。私たちの足は石でできてるみたいに重くなって、全員が立ち止まった。
「援軍かな?そこの4人はまだやるつもりなの?」
さっきの大声から一変してアレンは穏やかに語りかけてきた。おはようを言うとき位に普通の調子だった。
「ねえ、アレン。ポルコはもう伸びてるよ………」
「うーん、どうかな。演技かもしれないよ。まだ隙を伺っているのかも。さっきまでは散々悪態をついていたからね。
ぼくは山賊役みたいだし、ここで止めるのは違うのかなって。
ほら、彼は高潔な騎士さまで、悪い山賊をやっつけるのが仕事みたいだから。ここで逃すのは「私」的には怖いかなって」
アレンに声をかけたのは、私だった。喉が私のものじゃないくらいに重くって、言葉が全然遠くに飛んでいかなかったのを覚えている。
男の子たちは小鳥みたいなうめき声しか出していなかった。頭の片隅で、将来はこういう時に黙る男の下に嫁には行かないと誓った。
女の子の中には、泣き出してしまう子もいた。私も泣きたかったけれど、それはしちゃいけない気がした。
「ああ、ごめんね。さっきのは意地悪だったよね」
泣き出してしまった女の子を見て、アレンはバツが悪そうに謝った。
「ちょっと手伝ってほしいことがあるんだ。こっちに来て」
枝を捨てたアレンは、微笑みながらちょいちょい、と手を振った。
それからアレンは私たちにポルコへの処置を指示した。男の子の一人が来ていたシャツを脱ぐように言うと、ポルコが動かないように見張るよう他の子たちに命令した。
「ポルコ。今から君の足に応急処置をするから、「私」の指示に従いなさい。痛むだろうが、歩けなくなるよりマシだろう。我慢しなさい。騎士様だろう」
アレンがポルコの足に触れると、ポルコは水に怯える動物みたいに体をブルブルして、何ごとかを叫んだ。だけど、アレンが眉をしかめて耳元でぼそっとつぶやいた途端、ピンと体が伸びた。そして、徐々に体の力を抜き始めた。
アレンはいい子だ、とつぶやくと、まっすぐな枝とポルコの伸びた足をシャツでぐるぐると一つにした。
アレンが手を打ち鳴らすと、それでやることは終わったみたいだった。
アレンの指示で、ポルコを男の子たちが肩を貸しながら家に帰った。ポルコは一番年上で体も大きかったから、力の抜けたポルコを運ぶ男の子たちは大変そうだった。帰る途中、何かを話す子は誰もいなかった。
帰る途中、呼びに行っていた子と大人に出くわした。
大人を呼びにいった子が私たちをみると、キーキーとアレンに文句をつけ始めたので、私たちはその子を全員で黙らせた。
アレンが何を考えているか分からなかったが、私たちはとにかく彼の機嫌を悪くするのは勘弁だったから。
アレンとポルコ達の喧嘩は、村の中でちょっとした事件になった。アレンも怒られたようだが、アレンのことを悪くいう大人は殆どいなかった。ポルコの親はしばらく不機嫌そうで、アレンの話題になると一切口を開かなかった。
大人たちは多数を返り討ちにして、ポルコを治療したアレンを口には出さなくとも見直した。特に自警団と村長がアレンに目をかけたらしい。
腕っぷしと頭の良さを大人たちに認められたアレンは、他の子たちよりも早めに自警団の練習と村長宅での勉強に参加を許されるようになった。
女衆からの評判も上がり、それを聞いた女の子たちの中で、アレンがかっこいいかも、と言い出す子たちがでてきた。
私は、そういう全部にむずむずした。
アレンのあの日見せた大人顔負けの行動は私からすれば怖いものだった。だから、私と、あの事件でのアレンを直に見た子供たちの間に約束ごとが出来た。
アレンを怒らせちゃいけない。怒らせると、モンスターが出てくる。
とはいえ、それからアレンが怒るようなことは起きなかったように思う。なぜなら、彼はそれから同年代の子供たちとはあんまり遊ばなくなったから。
とはいえ、その分下の弟たちや妹たちの面倒を見る時間は増えた。すると、彼は寧ろ女の子たちとよく話すようになった。事件からしばらくは、アレンの顔を見るだけで泣きそうな子もいたけど。
でも、普段のアレンはおとなしかった。大きく口を開けて笑わなかったし、いつも小さな笑顔でみんなと話していた。
そういうアレンをいいね、っていう女の子はどんどん増えて、私はやっぱりむずむずしていた。
むずむずは段々大きくなって、ある日そのむずむずが爆発した。多分夏の終わり頃だったと思う。ちょっと風が涼しかったから。
その日の夕方、遊びから家に帰った私はお母さんの声を後ろにおいて、アレンの家に駆け出した。アレンの家のおばさんはこんな時間に来た私にびっくりして、居間に向かってアレンを呼んだ。
アレンに会うや否や、自分でもよくわからないことをまくしたてた。多分、結構泣いたと思う。玄関の前のことだったし、今思うと時間的にも迷惑だったろうな。アレンは困った顔で、私に尋ねた。
「えーと、つまりどういうことなんだろう」
「だから、その……ごめんなさい!!ポルコ達を止めようしなくて、見て見ぬふりで、ごめんなさい!!」
ぼやけた視界で、私は足元に広がるまばらな雑草しか見られなかった。
私の首元にずんと大きい石が乗っかってるみたいで、顔を上げる気が全く起きなかった。そんな頭の上に、小さくてあったかくて、やわらかいものがのっかった。
私はすっきりするまで泣いたあと、アレンに手を引かれて家まで帰った。
私はその日から、アレンのお姉ちゃんになったのだ。
引っ込み思案なアレンの手を引っ張って、いろんな遊びをした。
虫取り、肝試し、おままごと……私の後ろをアレンはいつもついて回った。嫌だとかなんとかは、殆ど聞いたことがなかったと思う。
ただ、勉強については、アレンは熱心だった。私は何が楽しいのかわかんなかったけど、アレンは必死で私に教えようとした。いつか必ず役に立つってアレンは言ってたけど、本当かしら。
読み書きとか計算とかそういうのは、頭のいいアレンとか、村長の仕事だと思う。
アレンは私に読み書きを教えると、私に計算を教えるのは諦めたみたいだった。でも、それは私が悪いんじゃなくて、アレンとか村長の教え方が悪いんだと思う。何言ってるかちんぷんかんぷんなんだから。
アレンに先生面されるのが嫌だった私は、アレンについて行って自警団の訓練に参加させてもらった。最初はアレンにも負けるし、走ってばっかりでつまらなかった。だけど、ここでもアレンに負けるのは嫌だった。お姉ちゃんだし、私の方が身長は大きいんだから。
訓練が終わっても、私はアレンを連れて訓練した。アレンは嫌な顔をしてたけど、最終的には私についてきた。
しばらくすると、私はアレンに勝てるようになったし、年上のにいさんたちにもあんまり負けなくなってきた。
団長さんは、私に才能があるって言ってくれた。女の子にしておくには惜しいって。逆に、アレンには不思議と才能はあんまりないって。おかしいなって首をひねっていたわ。
お母さんは、嫁の貰い手が、って悩むようになったみたい。でも大丈夫。手先はお母さんほどじゃないけど、ちゃんと編み物も作れるし、ほつれた服の修繕だって出来るもの。ほかの子よりも、ちょっと雑で時間がかかっちゃうだけ。
それに、嫁の貰い手だってちゃんといる。だって約束したんだもの。
「ねえ、アレン。あなたが大きくなったらね、きっとだらしない大人になってしまうわ。頭がいいだけじゃダメなんだから。お母さんが言ってたの。そんなのじゃお嫁さんを貰えないって。
仕方ないから、だからね。大きくなったら、私があんたを…………」
アレンはあの時頷いてたのに。それなのに、こいつは!!
泣き止む気配のない目の前の少女を見ていると、罪悪感が沸々と湧き上がる。「私」がささやく。おまえ、いい年して何してるんだ、と。
「ねえ、ローラ。そんなに困らせないでおくれよ」
ローラ。ぼくの姉貴分。彼女に手を引かれるようになったのはいつ頃だったか。気づけば、いつも傍にいるようになっていた。
時間が欲しかった。考える時間が。あと一時間くれれば、彼女の気持ちに適当な推論を立てることが可能なのだが。
「ねえ、聞いて、ローラ。ぼくはしがない4男さ。畑を継ぐわけじゃないし、村の経営にかかわるような仕事は残ってない。いずれ出ていくんだよ。それが他の子よりもちょっと早いだけさ。
それに、貧乏だから売られに行くんじゃない。読み書きも計算もできるんだ。逆にぼくを売り込みにいくんだよ。仕送りや手紙だってすぐに出せるようになるさ」
こういう理屈を目の前の女の子が欲しがっていないことは分かっていた。ぼくがいなくなることに、喪失感に泣いているんだろう。ありがたいし、胸も暖かくなる。だけど同時に、心の中で小さく、どうしようもない邪魔さを、それに対する小さな苛立ちを感じる。
だから人付き合いってやつが嫌いなんだ。ぼくにとっての他人なんて、ただの機能でいいんだ。ヒトデナシなのは分かってる。だけど、それを自覚させられるのはちょっとだけイライラするんだ。
「アレンのばか。昔、わ、私と、約束したじゃない。覚えてないの……?」
しゃっくりをしながら、ローラはまた困ったことを言い出した。
「……どの約束だろう?いっぱいしたじゃない。ああ、今年の誕生月のお花かな。大丈夫、ちゃんとにいさんたちに頼んであるし、奉公先でも探すよ。行く先は都会なんだ、きっと見たこともないようなものが……」
「アレンのそういうところ、ホントに嫌い!!!」
ローラの癇癪玉をまた踏み抜いてしまったようだ。
「アレンってば、いつもそう!誤魔化すときになると、変にニコニコ笑って、長くおしゃべりして!そうやってワタシが言い返せなくなればそれでお終い、って顔して!
そういうことじゃないもん!おかしみたいな言葉でその場しのぎしようだなんて、そんなのに騙されたりなんかしないんだから。そんなの、今まで黙ってあげてただけなんだから!家に帰ったあとの、こっちのモヤモヤなんて考えもしないで!!
そうやって、全部わかってます、って顔するときのアレン、大嫌い!!!」
言い終わると、ローラは犬のように舌を口からだして、獣みたいな呼吸音を響かせた。ぼくは彼女の言葉を聞くと、恥ずかしくなって、とても彼女の方を見ることができなくなってしまった。
恥ずかしい。「私」は随分と年上で、知識もきちんとしていた筈だった。
近代に入りかけのこの時代において、認知科学的な知見なんて誰も持ってない。一握りの天才や、よっぽど熟練の人物でない限りは、人の心をもっとも把握して、操ることができるのは「私」だと己惚れていた。
それがどうだ。そんな薄っぺらい知識と、いまだに幼稚な精神性はまだ年端もいかない少女にすら看破されていたのだ。
「あ…ちが、今のは…そうじゃなくって……」
ローラは自分の言葉に、ぼくよりも余計に傷ついてしまったようだった。一歩こちらに近づこうと、彼女の足が地面を擦った。今のぼくには耐えられない嫌な音だった。
「ローラ。本当にごめんよ。そんなつもりじゃ……
いや、君の言う通りだよね。分かってる。いや、分かってるなんて言うつもりじゃ……
……とにかく、本当にごめんなさい。今まで気づけなかったよ。
それと……ありがとう。ぼくと一緒に遊んでくれて。今までずっと、その、嬉しかったよ」
彼女の手がゆっくりとぼくに触れようと近づいてきたけれど、その手が怖かった。ぼくは早口でなにかを捲し立てながら、数歩後ろに下がった。
彼女の手が虚空を切るのを見ると、ぼくの心臓は塩もみしたみたいに縮んでしまって、壊れた繊維から水が出るみたいに体から熱がどんどん外に出てしまった。
彼女の顔を見ることができずに、ぼくはさっと後ろを向いて走り出した。
耳がジンジンと熱くなって、風の音が嵐のときみたいにうるさく感じた。後ろの方でローラが何か言っている気がしたが、意味のある塊がぼくの頭にまで届くことはなかった。
それから家について、夕食を食べて、沐浴をして、ベッドに入るまで、ぼくの体は3センチくらい中(宙?)に浮いているような気がした。ずっと軽い吐き気を感じていたけれど、ぼくはいつも通り家族のみんなと話せただろうか。
それから約一週間、ぼくは引っ越し用の準備に追われた。といっても、ぼくの荷物なんて殆どないし、大抵のものは一年前から両親が用意してくれていた。幸い、我が家の大きなネズミさん(兄さん達を母さんはよくそう呼んだ)に干し肉の類を齧られることもなかった。
大変だったのは、近所へのお礼参りと、村長宅での勉強の引継ぎだった。
その間、ローラとは会うことはなかった。よくよく考えてみれば、自分から彼女を呼びにいったことなどあっただろうか。いつも彼女がぼくのところへやってきては、あれこれと世話を焼いてくれた。彼女が来なくなった途端、ぼくは急に一人になったことを感じた。
ぼくは、大切な友人を失ったのだろうか。このままではそうなるだろう。
「私」は、仕方ないと言っている。人が交流するとは、常に傷つけあう可能性がある。それが別れという特殊な状況で、リスクが最大化しただけだと。さらに、と「私」は続ける。
お前はもう帰ってこないつもりだっただろう、と。「ぼく」はずっとこの村の異物だった。なにもそれは悪いことではない。異端は変革時に必要とされるのであって、安定期には無用の長物。ただのリスクだ。
「ぼく」と村との衝突は時間の問題だった。この村は保守的で安定している。そんな中に異物が一人。可能性は闘争か逃走か。「ぼく」も「私」も穏便な方を好んだというだけのこと。
村全体とは穏便に済んだのだ。個人との関係全てを穏便に済ませるのは難しかった。可能性が高い方にサイコロの出目がでた。それだけだ。
今回のことは次の人間関係に生かせばいい。人生は終わらないのだ。只々次の現実が、次の今が押し寄せてくるだけなのだ。
「私」から漏れ出てくる感情は、徹頭徹尾少しの寂しさと、大きな諦めだった。
だけど、とぼくは思う。なんだか嫌だ。それに、「私」は彼女の言葉を全然考えていない。彼女は確率的に怒ったんじゃない。
ぼくが、彼女のたいせつを忘れたからだ。
約束ってなんだっけ。彼女にとってのそれは、とても大事なものなんだ。
その日の夜、ぼくはそっと家を抜け出した。
夜になると、この村はすっかり静かになる。街頭なんてないもんだから、21世紀の夜とは比べ物にならない。本物の闇って奴は、本当に怖い。一寸先は闇なんて言うけれど、本当に30センチ先が見えなくなるとこんなにも怖いものかと思う。
ただ、今夜は綺麗な満月だ。中秋の名月とは言わないが、別れを告げるのにはいい日だ。
「私」はあまり乗りきではないようだが。まあ、当たり前か。わざわざ夜に出かける必要なんてどこにもないんだから。非常識だ。今までのキャラとブレ過ぎている。
だけど、仕方ない。ぼくの中で出た答えっぽいものは今にも壊れてしまいそうで、すぐに彼女に伝えてしまわないと、風に飛んで行ってしまうだろうから。
こんな時間に来たぼくを、おばさんは呆れた顔で迎えてくれた。もう少しで寝るところだったんだろう。おじさんは不機嫌そうだった。
「こんな夜更けに悪いんだけど、ローラ呼んでもらえる?仲直りしに来たんだ。
安心してよ、おじさんおばさん。出ていく前の記念に、可愛い子に唾つけとこうってんで来たわけじゃないんだからさ」
ぼくが軽口をきくと、二人から交互にありがたい拳骨を頂いた。おじさんはぼくを机を挟んだ正面の席に座らせて、じっとこっちの顔を覗いてきた。
おばさんがローラを呼んでくる間、ぼくたちは一言も言葉を交わさなかった。目を見ても、相手のことは分からないと「私」は言う。
そうかもしれない。でも、そうやってお互いが勘違いし合うことで何かが生まれるってことが、きっとそこら中で起きてるんじゃないのかな。
「……アレン?」
「やあ、こんばんは、ローラ。ちょっと外に出ない?今夜は月が綺麗だよ」
ローラは寝巻の上にローブみたいなものを巻いて、少し乱れた髪を手櫛で梳いていた。彼女の少し赤みがかった目元を見つめて、ぼくは言った。
ローラがおじさんの方を一瞥すると、おじさんは少し間を開けて小さく首肯した。
外にでると、やっぱり満月が空に輝いていた。ちょっと薄みのかかった緑色の月が、秋の始まりにはとても相応しく思えた。
ぼくはローラを彼女の家の玄関に繋がる階段に腰掛けさせて、なるべく軽やかな調子で話し始めた。心臓は、バカみたいにうるさかったけど。
「急にごめんね。でも、明日発つ前に、もう一度話しておきたくてさ」
ローラはうつむいて、こくんと一度だけ首を振った。
「色々考えたんだ。約束って何だっただろうって。でもごめんね、結局思い出せなかったや」
「……いい。そんなのあの日に分かってた。アレンにとっての私って、私にとってのアレンじゃなかったのよね。
……こんなときまでごめん。嫌な子で。来てくれたことはホントに嬉しい。
でも、それが余計つらいよ……」
彼女は静かに涙をこぼした。あの日の時と彼女の流す涙は全然違うものだった。そのことは分かった。それは、自分と他人との距離を永遠に感じるときの悲しみだった。ぼくたちが、人間同士がそれぞれのたいせつで繋がれない時の哀しみだった。
ひとの一番もろくて、綺麗な部分。そういうものに触れたとき、「私」はどうすればいいのか分からなかった。
ぼくは少し待って自分の気持ちを落ち着けてから、なるべくゆっくり話始めた。できるだけ彼女に伝わるように。内容じゃなく、ぼくの気持ちとか、心ってやつを。それが、岩に水に沁みるように、少しでも彼女の心にぼくのたいせつが届いてほしかった。
「あのね、ローラ。実はね、今日は謝るために来たんじゃないんだ。自分勝手でごめんよ。ただ、君と話したかったんだ。きみとぼくとで、随分いろいろな経験したじゃないか。それをきみと、ただ、話したかっただけなんだ」
「……なにそれ。ヘンなの」
ローラはちょっと顔を上げると、ズビッと鼻水を吸った。口は尖がるし、眉はしかめられている。そして、その顔のまま少し笑った。
ブサイクだけど、その笑顔はぼくが見てきたなかでも、格別に暖かいものだった。
それから、ぼくたちは他愛もない話を繰り返した。
いじめられてた頃のこと。
ローラがよくわからない謝罪をしたこと(そう言うと、ローラはぷりぷり怒った)。
村長宅での解散の勉強のこと。ぼくがいくら教えてもローラは理解しなかった。
二人で行った虫取り。
初めての畑作業でローラがふざけてきて、ぼくも一緒に盛大に怒られたこと。あの時の拳骨は全く容赦がなかった。
自警団の練習についてきたローラが、いつの間にかぼくの実力をあっという間に追い越してしまったこと。
嫌なこともあった。不作が二年続いたこと。その年の冬は、とにかく二人でくっつきあっていた。
ポルコ達が今度はローラを狙おうとしたこと。それを二人で返り討ちにしてやったこと。
ローラが他の女の子たちと険悪になったこともあった。ぼくも「私」も碌に手助けしてやれなかった。最終的には、ローラとリーダー格の子でキャットファイト(ライオンファイトだと当時のぼくは感じたが)でケリがついた。不良漫画の世界かよと呆れたが、ぼくはかなりホッとした。
ぼくたちはどれくらい話しただろう。話がひと段落つく頃には、星座の位置が少し傾いていた。秋を告げるような冷たい風が一陣、ぼくたちの首筋を撫でていった。
ぼくたちの間には、まだ壁はあった。だけど、その壁を越えてお互いの暖かさを感じ取ることが出来ていたと思う。ぼくはそう信じたかった。
「ねえ、アレン。わたし分かったわ。あなたにヘンな期待してたのがバカだったのね。
勘違いしないでよ。これはあんたへの宣戦布告なんだから。
きっといつかあなたはわたしとの約束を思い出すわ。その時には、わたしの方が約束を破っちゃうかも。そのときに、せいぜい後悔すればいいわ!そうなった時のあんたの悔しそうな顔、それを思うと笑っちゃうの!」
ローラは、満開の笑顔でそういった。月に照らされたその顔を見ると、今が昼間なんじゃないかと勘違いしちゃうんだ。そう、ぼくはその顔が見たくて満月の夜に君を尋ねに来たんだ。
ローラは軽やかに階段を駆け上って、彼女の家の扉を閉めた。閉まったドアがきい、と小さく鳴くと、彼女が狭い隙間から顔を出した。
「おやすみアレン。また明日」
ぼくの返答を聞かず、彼女は家の中に消えていった。彼女のいた空間にむかって、また明日、とつぶやくと、軽い靴底を家の方角に向けた。
家に帰る途中、重力が30パーセントほど軽くなったみたいだった。そんなふわふわした感覚が、今は全然気持ち悪くなかった。
家に帰ると、母が泣いて待っていた。父はお不動さんのような顔つきで、ただいまを言い終わる前にぼくに拳骨を食らわせた。
ぼくが事情を説明すると、父は眉間の皺を取って首肯した。母は泣き止んだが、今度は呆れたような、どこか気の毒そうな顔で私の頭をはたいた。
その後ベッドに入ると、すぐに意識が闇の中へ落ちていった。
その日、めずらしく夢をみた。暖かくて、だけど無性に胸が痛んで、心臓を取り出してかきむしりたくなる、そんな夢だった。
出発の日は、幸いにも晴天に恵まれた。村の皆がぼくを見送ってくれるみたいだ。ポルコ達もいるのを見ると、何だかおかしかった。
彼らともまあそこそこあった。
今日くらいはいいだろう。ぼくは彼らに近づいた。
「やあ、ポルコ。今日でお別れだね。色々とあったけど、ぼくはそんなに君のことが嫌いじゃなかったよ。まあ、これからも元気でいてくれよ」
「俺は嫌いだね。今日は清々するかと思ったが、ふん。やっぱりお前の顔はムカつくな」
そういいながら、ぼくたちは握手をした。ポルコは親父さんに殴られたが。ぼくがそれを笑っていると、彼に睨まれた。うん、こういう関係だって悪くはないさ。別れの時にはね。
おとうと、いもうと達との別れはちょっと辛かった。一人がぐずりだすと、集団で泣き始めてしまったから。ぼくもちょっと泣きそうになった。なんだ、ぼくって案外慕われていたんだな、ってそう思えた。
特殊なシチュエーションに感情が振れただけなんて、そんな風に思う必要は感じなかった。
血のつながった家族とは、案外あっさりとしたもんだった。
兄さんたちからは特に何にもなかったな。まあ、男兄弟なんてそんなものか。一応、兄さんたちが結婚する時には、都会の流行り物を送るように念押しされたが。
父さんはいつも通り無口だし、母さんともここ数週間は散々話しをしてきたからか、涙ぐんではいたが、いつもと大して変わらなかった。多少の小言は愛嬌だろう。
でも、別れ際、二人に抱きしめられたときは流石にウルっときた。
ぼくは果たしていい息子だっただろうか。あんまり頷けない。両親に対する感謝は、どう伝えればいいんだろう。「私」はやっぱり役に立たない。正直、感謝も大してしているのか自信がなかった。こころの握手を、ぼくは彼らに差し伸べただろうか。仕送りとかそんなもので処理することが正しいとは思えないが、かといって何かをしようとする意欲も、ぼくには薄かった。
せめて、そのなにかって奴を頭の片隅で常に考えておきたいと考えている。
あとは村長と自警団長から一言ずつもらって、それで別れの挨拶はお終いだった。ローラの姿はどこにも見えなかった。
ちょっと、いや、かなり残念だったが、昨日夜更かしさせたのはぼくだ。自業自得ってやつか。背負った荷物が背中で重さを増した。
ローラの両親には、彼女によろしく、元気でやってくれ、と伝言を伝えた。彼女にも手紙を送るだろう。一度か二度は。そして、それでぼくの感じている義務感みたいなものとはお別れだ。
そろそろ出発するぞ、と商人のおじさんがぼくらに声をかけた。彼にお礼を言うと、馬車の隅に荷物をいれた。その荷台は、彼が都会で仕入れた商品は全てはけて、この村から仕入れたわずかな干し肉と、ウマの飼い葉だけの綺麗なものだった。
殆ど空っぽな荷台につまれた、ぼくとわずかな荷物。今更不安が足元から這い上がってきた。なるべく軽やかに荷台に飛び乗ると、ぼくはおじさんに馬車を出してくれるように頼んだ。
「待った、その馬車待ったーーーーー!!!」
馬に最初の鞭をいれた瞬間、村から女の子の大声が聞こえてきた。ウマの嘶きが響く中で、収穫前の小麦みたいな髪の毛を靡かせて、ローラが走ってきた。
「ちょっと、出るの早いわよ!碌に挨拶もできないじゃない!」
ローラは止まった馬車に追いつくと。はい、これ。と手紙と一輪の花をぼくに手渡した。
「さよならなんて言わないわ!また会いましょう。たまには帰ってきなさいよね!もし帰ってこないなら……それは手紙よんで頂戴」
フフフん、と彼女は得意げに胸を張った。その姿に自然と笑みがこぼれた。
こっちに走ってくるときはあんなに綺麗に見えた髪は、今ではいつものみなれた、こげ茶色なんだから不思議だ。
「そうだね、ローラ。また会おう。
そういえば、言ったことがなかったけれど。太陽が照らすと光る君の小麦色の髪。あれ、とっても綺麗だよ」
ローラは顔を真っ赤に染めて、アレンのばか、と叫んだ。ぼくは大きく笑った。
ちょっと苛立った声で、おじさんはもういいか、と聞いてきた。
出してください、とぼくが返すと、鞭の音と一緒に車輪が土に轍を刻み始めた。
さようなら、と村に叫んだ。
また会おう、とローラに叫んだ。
ぼくたちは、お互いの姿が小さくなるまで、しばらく見つめ合っていた。
村の姿が見えなくなると、ぼくはローラから貰った手紙を開いた。
「またね。わたし、あんたがかえってきないので、ゆうめいに、ハンターにでなってやろうんだから。まってろなさい」
汚い字で、誤字だらけで、そう書いてあった。
きっとこれが宣戦布告なんだろう。
望むところさ。ぼくはきっと商人として成功する。そのときには、彼女に言ってやるんだ。お客さん、お望みのものはございますか、なんでも揃えてみせましょう。ってね。
吹く風に、背中が軽くなった。ぼくのほほを濡らす東風は、遠くの草原へと帰っていった。遠く、遠くへ
連載の方には、前日単として「私」の最期があります。
サスペンス的な展開が好きな人は、そちらも見ていただければ幸いです
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