183話・こんな彼女は知らない
レナータは自分にとって弱みとなり得る存在だ。そこを付いて自分の動揺を誘おうとしたのだろうが、レナータの反応の方が早かった。
「将軍。なぜなの? どうしてそのようなことを?」
「……レナ」
心優しいレナータはキルサンを責めつつも涙を流していた。そのレナータの肩を抱き寄せると、彼女が身を寄せてきた。
二人寄り添う姿を見てキルサンはまだ恨めしそうな目で見ていた。そのキルサンに向かってレナータは、思いもよらないことを言い出した。
「あなたは他人の痛みが分かる人だった。私はあなたに会って特権階級者以外の者にも私達と同じ赤い血が流れていると知った。あなたがそれを私に教えてくれた」
その言葉は意味不明だった。レナータがキルサンに会ったのはこの宮殿に来てからだ。レナータは身分問わず宮殿のもの達に気さくに声をかけて使用人皆から慕われている。それは生前のアレクセイを思わせ、さすが兄上の子だと思っていたが、それより前にキルサンとレナータは出会っていたということか?
キルサンを窺えば、やつもまた自分と同じく不審に思ったようだ。訝しむ様子を見せた。
「あなたは六歳くらいの頃、果敢にも馬車の前に飛び出したわ。自分はいいから他の人を助けてって。そんなにも他人思いのあなたが誰かを恨んで貶めるなんて信じられない。あなたの養父も村長だったお祖父さまもいい人達だったじゃない」
「……! どうしてその事を? それはソニア王女しか知らないこと……」
「どうか、お願い。目を覚まして。キルサン。以前のあなたに戻って」
自分はキルサンと出会う前、彼がどうしていたかなど全く知らなかった。キルサンとは軍に入ってから知り合ったからだ。その以前の彼をレナータはどうも知っているようだ。
でもそうなるとレナータが産まれる前の話となる。それを現在十六歳の彼女が知るには無理がある。
キルサンは胸を突かれたような顔をしてレナータを凝視していた。
────これは誰だ? ここにいるのは……?
こんな彼女は知らない。自分の側にいるレナータがまるで別人のように見えた。ここにいるのはレナータの顔をした別人ではないかと思いたくなる。
キルサンはこの事は亡きソニア王女しか知らないと言った。
「あなたはどこで間違ってしまったの? キール」
レナータが泣き顔で懐かしむように、キルサンの愛称らしきもので呼んだ。それにキルサンがハッとした様子を見せた。
「姫さん……。姫さんなのか?」
「あなたは馬鹿ね。王位簒奪なんてあなたに似合わなくてよ。何の英雄のつもりだったの?」
「姫さん。俺は姫さん、あんたに会いたかった。俺たちの為に鍬を握り、畑を耕して笑っていたあんたに……!」
抱いていた肩がするりと手の中から離れていく。それを寂しく思いながらレナータを見つめていると、彼女は間諜に拘束されたキルサンの前に立った。
「姫さん。どこ行っていたんだよ」
「ごめんね。あなたなりに頑張っていたんだよね? もう頑張らなくともいいのよ」
キルサンの拗ねるような声に、レナータは困ったような笑みを返していた。そこには二人だけにしか分からない世界が展開しているようで妬けた。
一見中年男と、若い娘が向き合っているようにしか見えない。いつの間にか二人は距離を詰めていて驚いた。
過去からの知り合いのようにレナータはキルサンを知りすぎている。自分が知らないやつの過去も知っているような素振りだ。
今まで二人は接する機会などそんなに無かったはずなのに、もしかして自分がそれに気がつかなかっただけで相当親しくなっていたのか? と、疑いたくなるほど密接にも思える。
レナータは拘束されているキルサンの前に進み寄ると何とやつの大きな体を抱きしめた。その行動には躊躇いがなかった。キルサンはレナータに抱きしめられて驚きながらも、その腕の中で安心したように泣き出した。まるで幼子のように頼りないやつを見たのは初めてだ。
レナータは聖母のようにじっと彼が泣き止むまで側にいて離れなかった。嫉妬を覚えながらも、その行動が尊く思えて切り離せなかった。




