最初のクライアント
桜木先生は、学園長室の本棚の前に立ち、上から二段目の分厚い本を引いた。すると、カチッという音が鳴り、本棚がずずずと、横に動いた。
公太が目を丸くしていると、隣でアリスとミサキも同じような顔をしていた。
「ふふ、映画見たいでしょ。本棚の奥は隠し階段になっているんだ」
驚いている3人を見て、南がそう言った。
「な、何よ!ちょっと驚いただけじゃない!すぐ慣れるわ!」と、ミサキは強がった。
「で、どこに繋がってるのよ」
「依頼人が待っている桜木先生の研究室だよ」
そう答えたのは、千葉だった。
「では、行きますよ」
桜木先生はそう言うと、隠し階段を下っていった。
5人の生徒も後に続いていった。
「行ってらっしゃい」
3人の学年担任は、学園長室でそれぞれ生徒を見送った。栗栖が本棚の下から二段目の辞書のような本を引くと、本棚は再びもとあった位置へと動き、隠し階段が塞がれた。すると、船橋が大きく息を吐いて、その場で伸びをした。
「ふう、今年も無事に任命まで終わりましたね」
「とりあえず、5名とも契約してくれて何よりだ」と、来栖もアタッシュケースを閉じながら言った。
「あと僕たちにできることは、彼らが無事に初仕事を終えることを祈るくらいですね」と、吉澤は本棚をみつめて言った。
「そうだな。クライアントの精神世界の中では何が起こってもおかしくないからな。それだけに、何が起きても対応できるような想像力が必要なんだ。今年のメンバーのイマジネーション・クオリティは非常に高い。きっと大丈夫だ」
栗栖が力強く言うと、船橋と吉澤もうなずいた。
桜木先生と5人の生徒は隠し階段を通じて、桜蔭学園の地下へと降りて行った。そもそも桜蔭学園に地下があること自体知られていない。
「なにここ。こんなに広い地下があったの?」と、ミサキが驚いている。
「ここの地下は、首相官邸の地下とつながってるんだよ。リニアが走っているから、15分ほどで行き来できるんだ」と、南が言った。
「桜蔭サークルは、政府公認の活動ってわけですね」と、アリスが呟いた。
そして、一行は研究室のドアの前までたどり着いた。桜木先生は、5人の生徒の方を振り返った。
「さて、みなさん。この研究室の中では、すでに本日のクライアントが待っています。このメンバーでの初仕事ですが、私はみなさんのことを信じています。では、いきましょう」
桜木先生がドアをノックしてから開けると、室内には、老齢の男性と、30代くらいの男性が皮張りのソファーに腰掛けていた。老齢の男性は、桜木先生と5名の生徒をみると、その場に立ち上がり、「よろしくお願いします」と頭を下げた。
公太は、ひと目見て志賀親子だと気づいた。父親の志賀直幸と息子の志賀憲一。政治家親子だ。
「はじめまして、桜木道晴です。よろしくお願いします。そして、この生徒たちが今年の桜蔭サークルのメンバーです」
「ああ、この子たちが噂の…」
直幸は、そう言って桜木先生の後ろに控えている5名の生徒の顔をまじまじとみつめた。息子の憲一は、心ここにあらずという表情で、どこかうつろだ。
志賀一族は、K県Y市を地盤として議員を輩出し続けている。特に、父の直幸は、絶大な人気を誇り、官房長官まで務めたが、あと一歩で総理大臣というところで、病で倒れた。一命はとりとめたものの、健康状態から惜しまれながらも政治家を引退した。そして、その地盤を30歳の若さで継いだのが憲一だった。憲一はさわやかな見た目もあいまり、対立候補に大差をつけ初当選。その後、期待の若手議員として注目を浴びており、将来の総理候補とも呼ばれていた。
公太は、志賀憲一を見て、テレビで重病を患って都内病院に入院中と報道されていたことを思い出した。
桜木先生が志賀親子の前のソファーに腰かけると、父の直幸がすがるように言った。
「桜木先生、桜蔭サークルのみなさん、お願いです。息子を、憲一を助けてやってください」
「憲一さんは、どんな症状が出ているのですか?」と、桜木先生が尋ねると、直幸は隣の息子をちらりと見た後で、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
「1週間ほど前から、一切声が出なくなり、表情もなくなりました。この1週間、私は息子を連れて外科や内科、精神科までそれぞれ名医と呼ばれる先生のもとを回りましたが、特に異常はみつからず、原因はわかりませんでした」
「なるほど…。こちらの言うことは分かるのですか?」
「ええ。周りのことはぼんやりと理解できるようです。今日もこうしてここまで自分の足で歩いてきました」
「だいたいの症状は分かりました。では、治療用のベッドに移動してください」
桜木先生は、憲一を研究室の奥にある脳波測定器がついたベッドに案内した。憲一はうつろな表情で桜木先生に従いベッドの上で仰向けになった。桜木先生は、憲一に「大丈夫ですよ。楽にしていてください」と話しかけながら、口元に呼吸器を取り付け、頭にヘッドギアのような装置を被せた。
そして、心配そうに様子を見ている直幸に向かって、「これから、睡眠ガスで眠ってもらいます」と言うと、呼吸器の管の先の機械を操作して、睡眠ガスを流し込んだ。すると、憲一は深い眠りに落ち、穏やかな呼吸音が聞こえてきた。
「さて」と言って桜木先生は、ベッド脇の机に座り、大画面のコンピュータに暗証番号を入力して立ち上げた。
「メンバーのみなさんは、ここにかけて、パッセンジャーを用意してください。千葉くん、メンバーにイヤホンを配って簡単に説明してあげてください」と言って、壁際に並んだ5つの黒革の椅子を指した。
メンバーは、黒革の椅子に腰掛けた。千葉は桜木先生の机から5つのイヤホンをとりだし、メンバーに配った。
「みんな、今、桜木先生はクライアントの脳波を解析している。解析が終わると、そのデータは音楽に変換されて、パッセンジャーに送られる。僕たちは、イヤホンでその音楽を聴いて、クライアントの精神世界をイメージするんだ。イメージに成功すると、僕たちは、その世界にアクセスすることができる」
千葉は、そう言ったが、未知の体験に、公太やアリスは心配を覚えた。普段は強がっているミサキも少し心配そうだ。そんな3人に南は、「大丈夫。僕たちは桜木先生たちに選ばれたんだ。音楽が聞こえてきたら、落ち着いて、冷静にイメージするんだ。そうすればきっとアクセスできる」と微笑みながら言った。
「解析できました。音楽をパッセンジャーに送ります」と、桜木先生が言った。5人の生徒はイヤホンを耳につける。
公太は、目をつむり、イヤホンから聞こえて来る音楽に集中した。低音がゆったりとしたテンポで続く。暗いけれど、どこか大きな世界観。この世界は、まるで…。公太は、音楽の世界をイメージした。すると、イヤホンからピピピッという電子音がなり、「アクセス成功です」というアナウンスが流れた。
公太が目を開けると、真っ暗な空間に佇んでいた。暗すぎて何も見えない。
どこだ、ここは?ここが、憲一の精神世界ってやつなのか?いや、それよりも他のメンバーはどこにいるんだ?
深い暗闇の中で、公太は果てしない孤独を感じていた。