月降る夜は青く/ナーサシス
青・月・猫の三題噺です。
1
化猫症候群――カビョウショウコウグン、と読む。
西暦二三××年、今からおよそ三年前、人類に発症し爆発的に蔓延した病であった。罹患した患者の肌には四肢から順に薄っすらと透明な猫の毛が広がっていき、やがて全身を覆う。これが第一フェイズであり、後三段階、全部で四つの経過を経て化猫症候群は完全に発症する。次の第二フェイズでは頬から猫の髭が、頭からは猫耳が、腰骨からは尻尾が盛り上がり始める。人間にはない器官が育っていくのである。第三フェイズでは骨格が歪み身体が縮んでいよいよ猫の姿に近づいていき、最後第四フェイズでは第一フェイズのとき生えてきた猫の毛が色づき、猫特有の器官も成熟し、完全に猫の姿に変わってしまうーー化わってしまうのだ。そして、二度と人間の姿には戻らない。言葉すら失い、にゃあにゃあと甘やかな鳴き声を上げるだけで意思疎通は出来ず、人間だったときの意識が残っているかも不明である。
ヨーロッパで発症した少女を皮切りに、世界全土に化猫症候群は広がった。
男も。女も。老人も。子供も。白人も。黒人も。善人も。悪人も。富豪も。貧者も。賢者も。愚者も。
一切合切の差別なく平等に全員猫と化していき、現在では人類の数は半分にまで減少、逆に猫の数は幾何学級に増加し地球を覆い尽くそうとしていた。
化猫症候群についてわかっていることはふたつだけ。
ひとつは、猫になった者はもう絶対に人間には戻らないということ。
もうひとつは、化猫症候群が伝染病であるということ。
空気感染か飛沫感染か、はたまたそれ以外の経路によってなのかは不明だがともかく、化猫症候群を発症した人間の周囲では、発症の確率が格段に跳ね上がるのである。
それ以外は、原因も治療法も一切不明。
人類は化け続ける猫の前になすすべもなく、地球上から撤退した。
どこへ?
地球外と、地球下である。
地球外――すなわち地球の衛星、月。月に基地を創り、世界中の天才とVIP――人類の僅か〇・〇一パーセントの精鋭である――を集めて猫からの鉄壁の守りを築いた。ここで、化猫症候群から人類を救う手立てを死に物狂いで研究している。月には、猫はどう足掻いても飛び移れない。あの日見上げた銀月は人類にとって最も安全な要塞として、そして文字通りの期待の星として宇宙を照らしているのである。
地球下――すなわち海底。猫は水を嫌う。人類は海底に都市を築きそこに移住した。海底都市の開発はますます進み、今でこそ居住者数は人類の四割といったところだが、五年後には人類のおよそ七割の受け入れが完了する見込みである。化猫クライシスを期に発明された白煉瓦という素材は水中に建造物を作るのに打ってつけで、海底には白亜の街が幻めいて横たわった。そこは古代遺跡のようであり、はたまた近未来のようでもあった。太陽光が届かない深海はひどく暗かったが、人類は道路や白煉瓦をはじめとするあらゆる建造物に発光体を埋め込み、海底都市はいつでもぼんやりと明るい。老爺はその光を妖しげだと評したが、童女はお伽話のようだとはしゃいだ。道端には珊瑚礁が顔を出し、見上げれば燃える燐のように青い水母が泳いでいる。人類は屋内では完全に制御された空調の中で生活し、屋外では一定時間海底での活動が可能なカプセルを飲んで移動した。海底都市には水圧や酸素量の流れをコントロールするシステムがあらゆる形で備え付けられているため、そのような生活が可能になったのである。
少年は、そんな世界の住人であった。
海底都市に住むことを早期に許された世帯として比較的幸運な環境で育ち、今年でちょうど十五歳。海底都市で暮らし始めてから二年半。家庭内は円満、友人も多く、健康状態も良好。成績は優秀で運動神経も中の上、この混沌とした世界では珍しすぎるほどしなやかに、安定した人生を送っていた。
月面の人間のようなプレッシャーもなく。
地上の人間のように不安と恐怖を抱えることもない。
皆は口を揃えて「恵まれてるね」と言うだろう。
しかし彼は、再び地上に帰ることを夢見ている。
月。
天高く星空に上る月を見て暮らしたい。
ただそれだけの願いのために。
2
海底都市の夜には静寂が滾々と噴き出している。
瑠璃色の静謐に溶け込むように、少年は街へと出た。家族が深い眠りに落ちたのを確認して裏口から抜け出し、人目につかない夜道を慎重に泳ぐ。ここで失敗したら全てが台無しだ、耳元で鳴り響くような心臓の鼓動――上がっていく呼吸を強いて鎮める。しかし、少年の脳は海の水に冷やされて妙に冴えわたっていた。
瞳が青く爛々と輝く。
うずたかい白壁に挟まれた濃紺の路地を掻き分ける。彼は細心の注意を払いながら、あるいは石畳を這うように、あるいは白煉瓦の壁に張り付くようにして薄暗い水の街をすり抜けて、時には屋根の上に登り、冒険小説に登場する大怪盗よろしく人々の住処の上を駆けたりしながら、白亜の街のランドマークでもある時計塔の天辺を目指した。
高み(と言っても海の底なのだが)から見下ろした海底都市の町並みは、アンティークのようで、しかしサイバネティックで。
機械仕掛けの指で丁寧に組み上げられたドールハウスのような煉瓦造りの街は、濃厚な青色のビロードで幾重にも包み込まれ、古典的な浪漫と品格を感じさせる。その一方で、白煉瓦を構成する砂の中や帳を編み上げる糸の中には光の粒子やファイバーがいくつも織り込まれ、気が付けば幾何学模様が広がるのだ。その融合が何とも美しく、怜悧で、それでいて耽美で、これは人類のひとつの最高傑作に違いないと少年は場違いに実感した。
彼は、この街のかたちを愛している。
でも、月がないから嫌いだ。
少年はなるたけ時計塔の凹凸の陰に身を潜めるようにしながら泳ぎ、その頂きにやっとのことで辿り着いた。短く感慨に浸り、唇に小さく別れの言葉をのせる。サヨウナラ。白いあぶくが桜の花びらのように濃紺の海水に舞い、やがて溶けて消えた。
少年はそれを見届けてから、鉛筆のように尖る塔の先端を思い切り蹴って、海面に向けて飛び出した。
否――海面ではない。
月面へ。
重力を振り切って。
深海を切り裂きながら、少年の脳裏をいくつもの記憶が流れた。彼はお母さんを思い出した。彼はお父さんを思い出した。彼は妹を思い出した。彼は先生を思い出した。彼は友達を思い出した。彼は――
渦潮めいて乱れる心を鎮め、潤む瞳を乾かす効果を期待するように、少年はまた一粒カプセルを食む。
これは、海底においても一定時間生身で活動することを可能にするためのカプセルで、少年が今日のためにひたすら溜め込んだものだ。量は両掌で作った器いっぱいくらいだろうか。海面までの距離、カプセルの持続時間、自身の泳ぐ速さを綿密に計算して弾き出した量だ。すべては月を見るためだけに。
少年は無駄な体力を消耗しないよう、ゆるやかに両脚を動かす。
海底都市が少しずつ遠くなっていくが、彼はそれを見届けることなく、ただひたすらに天を仰いだ。
暗く暗く、蒼い深海。遠くにぼんやりと光る巨大な海洋生物が見える。ダイオウイカだろうか、メタリックな銀色がかったボディ。この深く青の底においてもなお一層の重厚感を湛えて君臨するその御姿には、神々しいの一言がよく似合った。流線的な腕はしなやかにゆらめき、重たい深層水を撫でまわす。圧倒的に金属的なその身体は、プラチナで作った巨大な彫像を深海に沈められたかのようであった。絶えずとろけ自律する天然の銀色の芸術作品。遠大な海の底に悠然と遊ぶその姿はさながら深海の王であり、この日この晩海底都市から脱走する少年を見守るかのように現れた。少年はぬらりとした大きなまなこから発されるその視線を錯覚し、すれ違いざまに心の中で祈りを捧げる。どうか無事月を見られますように、海中お守りください。
深海には様々な生物がいる。見上げれば海底都市からも観測することができるが、距離が遠く頻度も少ないので、存在感としては流れ星のようなものだ。海底都市の上空にはそんな流れ星以外の変化がない。星座もなければ太陽も雲もないので、少年以外の住人はやがて宙を見上げる習慣を失った。月に焦がれ、くる日もくる日も頭上を仰いでは唇を噛む少年は、海底都市のそんなところも嫌いだった。
(だから、今は何だか宇宙飛行しているような気分だ)
毎夜見上げた、あの無限とも思われた空間に自分が泳いでいるのだ。遥か向こうであるが、それでも海底都市よりは近いところに色とりどりの発光体が点々と浮遊している。
紫電を散らしながら妖しく咲き誇るハナガサクラゲ。火星のように赫々と照るメンダコ。シードラゴンの黄色は子供が画用紙にクレヨンで描きつけるお星さまにも似た原色だ。エメラルドグリーンのヴェールを靡かすクシクラゲに、硝子のように透き通った輝きを放つユウレイイカ。
きっと、神様が深海に落とした宝石箱から生まれてきたのだろう。
少年はまたひとつカプセルを飲み下し、貝殻色のピルケースをポケットに丁寧にしまった。
ここまでは順調だった。安定したペースで、特に大きなハプニングもなく浮上を続けられている。もうすぐぼんやりと海面からの光が知覚できてくる頃なのではないだろうかと、少年は神経を研ぎ澄ませた。
何となく上方を仰ぐ。目を凝らすと、遥か頭上で――きらっ――と何か瞬いたのに気が付いた。
(あれは何だ?)
幽かな瞬きは浮力と重力に挟まれながら、深い青のなかをゆっくり静かに降りてくる。その無機質な動きは生物ではなさそうだ。少年がこのまま予定通り泳いでいけば、きっと目の前ですれ違うだろう。
少年は緊張感を脳髄に溜め込みながら上昇を続けた。瞬きは徐々に大きくなっていき、それがどうやら金属の塊らしいことがわかってくる。後五メートル。
――ナイフ。
それは、少し大ぶりな鉄のナイフだった。鋭い切っ先を海底都市に向けながら、溶けるように沈んでいく。投げ込まれたのか? 誰に? 何故こんな太平洋のど真ん中に? どうやって?
やがてそれが目の前を通るとき、彼は、その刃にべったりと赤黒い血が付着しているのをまざまざと見せつけられた。
悲鳴は何とか飲み込んだ。喉がぎゅっと締まる。
血痕はここまでの長い海中旅行を経てもほとんど洗い落とされた形跡がない。血は朱色に薄く透ける帯を長く引いて、僅かずつしか海に流されていかないのだ。
あかと、ぎんと、あお。
少年は、レコードの針が水面を撫ぜるような無音のなか、身じろぎも出来ず、ただただ見開いた双眸を釘付けにされていた。
ようやく光の差してきた薄暗い海に現れた赤いほうき星はたまらなく恐ろしかった。彼が、その血液を人間のものだと正しく直感したからである。
しかし遭遇は一瞬で、ナイフは少年の視界を静かに引き裂き、海の底へ淡々と潜っていく。
ずっと喉の奥で堰き止められていた息が解放され、心臓がばくばくと音を立て始めた。全身を激しく巡りだしたのは血液だ。そう、赤いほうき星!
少年はピルケースを縺れそうになる指先で取り出す。ああ、動揺してしまって呼吸が乱れて、息が続かなくなってきた。早くカプセルを飲まないと。
少年は錠剤を唇に含む。即効性の成分で、バイタルがみるみる立て直されていくのがわかった。
故に、油断した。
緊張の後の安心。ただでさえ非日常の、一世一代の脱走劇の最中である。気が緩むのも無理はない、ありふれた不注意をしてしまうのも。
ただ、無理はなくともそれはどうしようもない命取りだった。
少年の掌から、貝殻色のケースが滑り落ちる。あっと思った瞬間に伸ばした指は虚しく潮水を掻きケースはカプセルを溢れ返させながら水底にゆらゆら泳いでいった。
カプセルが、少年の生命線が青い海中に散乱する。即効性の薬だけあって溶けるのも早く、マリンスノーのようにばらまかれた白色の粒は既に僅かながらも形を失い始めていた。
頭蓋骨が殴り砕かれたような衝撃。
右脳と左脳も無残に千切られもう何も考えることができない。目の前が真っ暗になるという描写がこんなにも正しいことを少年は今日初めて知った。カプセルを拾い集めようという気にすらならない思考停止。冷汗が止まらない。指先が氷のように冷える。全身が瘧にかかったように震え始め、足から力が抜ける。唇が真っ青になる。乾いた涙がこぼれる。この描写、全部小説で読んだことあるよ。これも! これもこれもこれもこれも!
神さま。どうかどうかもう一度だけやり直させてください。
十秒前からでいいですから。
死にたくない、なんて思うはずじゃなかった。死んだ方がましだとさえ思っていたから逃げ出したのに。
月さえ――月さえもう一度見せてくれたら、僕は笑って死んでやるのに。
少年は海面を仰いだ。光は届いているが、月を仰ぐには馬鹿馬鹿しくなるほど遠く、水の壁は堅牢だった。さっき飲み下した最後のカプセルの持続時間では、絶対にたどり着けない道のりだ。
ああ、どうして。
どうして僕はこんなに愚かで、月に行くことも、見ることさえできなくて――
ごめんなさい。
少年は、殉教徒のように懺悔の言葉を心臓いっぱいに唱え続けた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
神様に許しを乞うつもりは更々ない。だけど、きみ(、、)にだけは許してほしい。
ごめんなさい、一緒にいられなくて。ごめんなさい、迎えに行けなくて。ごめんなさい、こんなに愚かで。ごめんなさい、こんなに無力で。ごめんなさい、一人にして。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
だけど、きみの願い通り、大人になる前に死ぬから、許して下さい。
3
少年には好きな女の子がいる。
彼女は生まれたときからの幼馴染で同い年、化猫クライシスまでは家族に勝るとも劣らないくらいの時間を共有していた。
少女は機械仕掛けの脳味噌なのではないかと揶揄されるほどに頭が良く、かつ無口で表情にも乏しい性質だった。そのくせ輝くほど美しい容姿の持ち主であったため怖い性格だと思われやすく、孤立しがち。少女は飛び抜けた天才だったが、周囲のレベルに合わせることを身につけるにはまだ幼く、その会話には大人ですらついていくのに気力を要した。彼女にも周りを疲れさせてしまったり、劣等感を植え付けてしまっている自覚はあったのだろう。もともとの無口な性質には拍車がかかり、自ら人と関わるのを避けている様子も見られた。
しかし少年はそんな彼女の温かさを誰より理解していたし、少女との会話に何とかついていける程度には頭がよい。少女は少年には心を許していて、少年も少女のことが大好きで、二人はよくいっしょに遊んでいた。気がつけばいっしょにいた。かといってお互い男女としての恋情を抱いたことは一度もなく、中学校の入学式の朝少女がセーラー服を、少年が学ランを着ているのを見たとき初めて、ああ僕たち私たち異性だったのだと認識したほどであった。しかも認識はしたがそれだけで、少女が少年を「女」というカテゴリに放り込むことはなかったし、逆もまたしかりだった。
シンプルな愛情。
恋人よりは友達に近く。
友達よりは家族に近い。
「来世では、私たち、双子に生まれられたらいいのにね」
「そうだね。ひとりでふたりがいいね」
「うん。ふたりでひとりになりたいわ」
彼らはふたりでいると繭にくるまっているようだ。透明で柔らかい糸で幾重にも覆われ、外界の空気や時間の流れから優しく隔絶されている。それが、いっとう心地よくて。
実際、彼らは二卵性双生児に間違われるほどよく似ていた。二人とも中性的な美少女・美少年だったというだけではなく、雰囲気の問題である。浮世離れ、という表現が最もしっくりくるだろうか。周りの大人たちは、少年は少女と一緒に居すぎてこうなったのだ朱に交われば赤くなるとは本当だと口を揃えた。皆少年が少女の影響を受けたと言うばかりで、その逆――少女が少年に影響を受けたという説は一切出なかった。少女がそれだけ特別で、ずば抜けていて、神々しく、いくら似ているといってもよく比べてみれば、少年はどうしても「何か」が足りず、その分元来の人間臭さが浮いているように見えた。少年は会話好きだったし、少女と違って友達が多かったのである。孤高ではなかった。
しかし、本人たちに言わせれば最大の相違点はそこではなかったらしい。
「三日月」少年は少女の額に触れる。
「海」少女は少年の瞼に触れる。
そしてくすぐったそうに笑いあった。
少女の額の真ん中には大きくて白い三日月型の傷があり、少年の瞳は深い海の水を注ぎこんだような濃厚な青色だったのである。双方生来のものだ。
お互い三日月と海をそれぞれの象徴だと感じていたようで、少年は少女の額の三日月をよく指で撫ぜていたし、少女は少年の瞳を覗き込むのが好きだった。
少女がじぃっと彼の瞳に眼差しを送る。最初の瞬間はいつも緊張してしまうが、彼もまたじぃっと耐える。少女の影が青の瞳の中に浮かび、ゆっくりと虹彩の微細な揺れにリズムを合わせていく。どぽん、と少女が群青の海に身を投げ込んだような感覚。そして彼の瞳の奥深くに身を任せて揺蕩う。そうすると少年の体からも強張りが溶けて、目の前の少女と、眼球の中にいる少女を包み込むような落ち着いた呼吸が始まる。そこでやっと、少女の顔は微笑みにとろけるのだ。
彼は少女のこの笑顔を見るたびに、何回でも恋に落ちてしまいそうな気分になる。
実際には少女を異性として意識したことはないけれど、ああきっとこんな風なんだろうとうるさい鼓動の中で思う。心臓がびくっとなって、深くて真っ暗な穴に頭から真っ逆さまに吸い込まれていって、でもそれがすごく気持ちよくてしかたがないのだ。
でもきっと少女は、そんな感覚に陥ったことはない。
少年が彼女の玲瓏な額に指を添わせると、少女は喉を撫でられた猫のようにうっとりと目を閉じるだけだ。
確かにその傷はここにあるのに、どうしても触れている気分にはなれない。だから、何度も繰り返しなぞる。
まるで水面に映った月を掬おうとしているような焦燥。
だからまさしく、少女が月なら少年は海だったのだ。
月は天高い星空の中にいて、孤高で、地球には唯一海面に月影を落とすことで接することができる。夜の海はただ月にのみ照らされ、触れることはできないものの凪いだ水面にその銀色の光を丸く映し出すことができる。月光は深く海を貫く。人々が少年の中に少女の影響を見出し、しかしそれを偽物だと断じたのもむべなるかなであろう。それが少女と少年の、清く正しく美しい繋がりだったのだから。
少女が月で、少年が海。
しかしそれは、単なる象徴では終わらなかった。
二三××年×月×日、化猫クライシス。
彼らが十二歳のある日。
少女は地球上の〇・〇一パーセントの才能として選択され、月から摘まみ上げられた。
少年は幸運の女神の手にさらわれて、海底都市へと沈められた。
まるで世界全体が、少女と少年の象徴を現実に変えるための舞台装置になってしまったみたいに。
少女も少年も抵抗し、特に少女の暴れようは、天才児としての本領を発揮したかのような凄まじいものだったという。
「彼も連れてって! 一緒じゃなきゃ嫌! 私行かないんだから!」
あらゆる手練手管を駆使して公的機関を翻弄すればする程、皮肉なことに少女の評価は上がっていった。
「助けて、助けて!」
この叫びは、どちらのものだったかわからない。けれど、二人は引き剥がされて、彼らをくるんでいた優しい繭はぼろきれになってしまったのである。
海底都市に、月はない。
月を見ることはきっと生涯できないだろう。
地上では人口が激減して街が機能しなくなり、空気がひどく透明になったそうだ。夜空は特に澄みわたり、星どころか月さえ降ってきそうなほど美しいらしい。
月降る夜。海底では、人類がついぞ見ることのできなかった夜空の光景が噂されていた。
地上は恐ろしく、海底都市こそが最高の安息の地だという人類の共通認識を、少年とて信じていなかったわけではない。けれど月に照らされない海底都市は、こんなにも薄暗くて、汚くて、みすぼらしくて、息苦しくて、生き苦しいのに。
少年はその日、水母を見て泣いた。都市の真上で、青白く海流に光る柔らかな球体。でも水母では駄目だ。所詮は海中を漂う贅肉で、手を伸ばせば届き、握ればぶよぶよと蠢くただの軟体生物である。そこには少女はいないし、それは少女ではない。一瞬それに月を重ねてしまったことが悔しくて悲しくて、彼は喉を絞った。涙は潮水に溶けてあるのかないのかもわからなくなり、嗚咽は水圧に吸い込まれ何処にも響かない。月には届かない。月降る夜もない。
もう限界だ。
この二年半、来る日も来る日も海面を仰ぎ月を探し溜息をついてきた。
月に行けなくたっていい、そんな夢物語はとうに諦めた。
ただ、天高く星空に上る月を見て暮らしたい。月降る夜に、あそこに少女が暮らしているのだと、銀色の光を浴びながら想いを馳せられれば十分だ。月を見るか猫になるかの二択なら、僕は喜んで猫を選ぼう。
月がなければ、死んだほうがましだ。
4
銀焔と青焔が渦を巻いて燃え盛っていた走馬燈がふっつりと鎮火して回想が終わったとき、力が抜けてだらんと海底都市に垂れ下がっていた彼の手足に再び精気が吹き込まれていった。
赤いほうき星が迸り始める。
無我夢中で薄暗い潮を掻き、水を蹴った。今まで少年は忘れていたのだ。彼はいつの間にか、少女そのものではなく月を求めるようになっていた。心の何処かで、少女にはもう会えないのだと諦めてしまっていたからだろう。そんな水母みたく生半可な気持ちだったから、あんなことくらいで諦めた。
死んじゃっても海面に打ち上げられれば月に近づけるしそれでいいやなんて思ってしまうところだった。
男性は死んだらうつ伏せの水死体になり、女性は仰向けの水死体になるという。月に、少女に背を向けて死ぬ。死んでも月は見られず、文字通り少女に顔向けできないまま溺れ死ぬ。そんな運命、足掻かずにいていいわけがない。
走馬燈は消えたが、引火した想いは炎を取り戻した。僕は月が見たいんじゃない、ただきみといたいのだ。もう忘れない。
だから昇ろう、息吹尽き暗い海に絡めとられる命の果てまで。
深海を蒸発させろ。
最後のカプセルの効果が少しずつ切れてきた。水圧は遥かに重く、鼻腔も気管も侵食する潮水に締め付けられ、息苦しく生き苦しい。でも、海底都市に閉じ込められていたあの苦痛よりはましじゃないか。
そのうちまともなフォームすらとれなくなって、藁にも縋る人のようにみっともなくただ藻掻く。身体中言うこと聞かないし、至る所が悲鳴を上げる。水もいくらか飲んでしまった。それでも顔だけは上げて、背筋はすっきりと伸ばして。
(……嗚呼)
それは不意に、少年が仰いだ先の彼方に現れた。朧げになってきた視界が見せた幻かもしれないと何度も瞬きをする。しかしそれは揺らめくばかりで消えることはなく、現実と信じるためにはあまりに儚げに、そして優しく光を少年の真上で浮かべていた。
月影だった。満月が落とした光が海を射抜いて、少年の虹彩まで、今、ようやく届いた。
澄み渡る青い水面に白光が滲んでいる。
双眸から火のように熱い涙が、ぼろぼろと転がっていく。月光を浴び、少女の透明な声をリフレインした。もうすぐだ、もうすぐ少女に会える。希望はますます燃焼し、神経という神経が目いっぱいに泳ぐよう指令を出した。
――しかし。
彼の手足は、ただ海流に投げ出された。糸の切れたマリオネットのように動かない。弛緩した四肢が既に微かに前後することくらいしか出来ていなかったことに、少年は今更気が付いた。それでも今まで無理やり駆動させていた身体は、とうとう本当の限界を迎えたのだ。
(こんな、こんなところで)
ただ諦めて死ぬよりも、何千倍も惨い。
慟哭が喉を引き裂いた。嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ。頭も、想いもこんなにはっきりしているのに身体だけが動かない地獄。すぐそこに月光があって、少女を初めてきちんと感じられているのに。どうして僕は、どうして!
少年は縋るように月影を仰いだ。途端、ふっと光が暗くなる。とうとう目まで機能しなくなったのか、それとも月にすら見放されたのか。彼は一縷の祈りを込めて、ゆっくりと瞳を閉じた。瞬きを終えたとき、そこに月光があることを祈って。
少年は再び目を開いた。
月はなかった。
それが揺れていたはずの海面に、魔法のように白く輝きが弾けたから。
巨大な銀白色の水柱が海中を一気に貫く。幾億もの泡が砕けて光の粒となって散り、少年にきらきらと降り注いだ。
天の川の星が一斉に濃紺の海に雪崩れ込んできたようで、世界は一瞬で銀河に変わる。
星屑のシャワー。
何かが海底から勢いよく噴き上がってきたのか、それとも大きな塊が彗星のように海に落ちてきたのか、それはまさに少年の鼻先、指先で触れられる位置に立ち現れたのに、混乱した意識ではそれすらよくわからない。
けれど、眼前に突如現れた燦爛たる銀柱の中には誰(、)か(、)がいた。人影がゆらめく。長く奔流に広がる髪。ほっそりとした体躯。
きっと、この子が夜空から落ちてきたのだ。
白銀の水柱は崩れゆき、海は透明さを取り戻していく。人影は煌めく水泡の衣を脱いで、少しずつ露わになっていく。
いや――
姿が確かめられなくても、わかる。わからないはずがない。
僕たちはふたりでひとりで、ひとりでふたりで。
きみと一緒にいたかった。きみも、僕との永遠が続けばいいと祈っていた。
僕たち、大人になりたくなかったわけじゃない。お互い大人になってほしくなかったわけでもない。本当はただ、二人で、ずっと遊んでいたかったんだ。星空のシーソーで、海岸のブランコで。日が暮れて遊びが終わるのを恐れることなく、幸福の青い鳥を籠の中に閉じ込めて不死鳥にして、時間さえ置き去りにした世界の向こう側で、いつまでも身を寄せ合い、囁きあい、笑いあい、無邪気なままでいたかったんだ。
だから。
今ここにいるのがきみだというのなら、僕たち、最後の遊びを始めよう。
少年は少女の名前を呼んだ。
人影は――少女はそれに応えるように腕を伸ばし、少年の両手に指を絡めて引き寄せる。少女と少年の指が、触れたところから白くとろけあった。
消失していく水泡の銀河の中で、二人は再びひとつになった。
少年は少女を見る。
少女は少年を見る。
白いワンピース姿の少女は、あの日のままだった。全てが目まぐるしく変わるこの宇宙で、たった一つ神聖なもののように、そこにいてくれた。
睫毛が触れる距離まで近づいて、少女の左手は少年の左手からするりと抜け出した。白蝋のように滑らかな指先が群青の海を泳いで、少年の瞼を愛おしげに撫でる。海よりも青い少年の瞳の中に少女は真っ逆さまに身を投げ込んだ。
どぽん。
天女のような微笑みを桜色の唇に含ませる。
「海」
少年も、精一杯微笑んで少女の額に指先を乗せる。泣き笑いだった。
「……三日月」
生まれて初めて、少女の三日月に触れられた気がした。何度も何度も、そのほのかな傷跡を確かめる。
少女はそんなことはしなくていいというように、額をこつんと少年の額にあてた。
「海が見たかったの」
「僕も、月が見たかったんだ」
少年が海底都市を抜け出して月に昇っていったように、少女もまた月面から飛び降りて深海に降ってきたのだと知った。
二人の唇から澄明なあぶくが次から次へと零れて、海面に――月影に消えていく。
「僕は」少年は喉を絞る。「僕はきみとずっと遊んでいたかった」
恋ではない。愛ですらないかもしれない。
けれど、それはこの深海で最も美しい告白であり、遺言だった。
全ての思い残しを果たしたとき、拒んでいた限界に追いつかれ、少年はとうとうその青い瞳を閉じた。彼の擦り切れた肉体は静まり返り、魂は悠かな海に溶かされていく。
この一瞬の邂逅は永遠の輝きになり、地球が終わるそのときまで消えることはないだろう。
少女は華奢な腕で少年を抱きしめて、彼の頭を自らの首筋に埋めた。
「おやすみなさい」
次目が覚めたら、私たち、今度こそずっと終わらない遊びを始めましょう。
そうして後は、月の引力に導かれるままに、いっしょにゆっくりと海面へと運ばれていった。やがて少女の身体からも力が抜け、お互い触れ合った部分にもたれあい支えあうばかりになり、後には時間さえ飲み込む深い潮流だけが残され、月降る夜の旅は青き結末を迎え、それから――
5
にゃあ――にゃあにゃあ――にゃあにゃあにゃあにゃあにゃあ――にゃあ――
猫が鳴いている。
世界中で鳴き声がこだまする。化猫クライシス以降、地上は昼夜の区別なくこの甲高いハーモニーに満たされて、途絶えることはない。それは今朝とて同じことだった。
ビルの隙間、山茶花の木の根元、高台の教会、駅の改札の中、この星の上に猫のいない場所はない。そんな日常が、これからもずっと続いていく。
ただひとつ、海上という例外だけを除いては。
その日は雲も風もなく、乾いた朝の気配だけがどこまでも広がっていた。波の音もこの茫漠たる午前四時三十分のなかではかすかな響きしか残せず、今か今かと朝日をひたすらに待っている。
日の出前のほのかな明るさ、鈍い銀波に埋め尽くされて伸び広がる海面には、ぽつんといびつな穴が空いていた。
それは、折り重なって浮かぶ一組の少年少女の水死体だった。
齢は双方十五歳ほどだろうか、少しあどけなさが残っている。陽だまりの揺りかごのなかでの寝顔みたいな表情。少し肌は青白いものの、まるで海の神様に守られているかのような、無疵で繊細ななきがらだった。
男性は水の中で死んだらうつ伏せで浮かび上がり、女性は仰向けになるという。しかし彼らはまるきり逆向きに抱き合って死んでいた。少女は少年に覆いかぶさり、少年はそんな少女を下から支えている。
きっと夜になれば少年は星空に天高く昇る月を仰ぎ、少女はそんな夜空を映してきらきら輝く海に見蕩れることができるだろう。
そうやって、その身が溶けて海の泡となって消えるときまで、さざ波に揺られているのだろう。まるで二人遊んでいるみたいに、ゆらゆらと。
彼らは空と海の境界線に、果てなく遊び続ける。
*
×月×日深夜、月面第一ターミナルで殺人事件が発生した。犯人は門番の男性を刃物で殺傷し、同ターミナルから地球へと逃走した模様。男性は間もなく搬送先の病院で死亡が確認された。
凶器は依然行方不明。犯人は十代の少女と見られ、逃走先の地球への警戒を呼び掛けるとともに、今もなお捜索が続いている。
〈了〉
最後までお読みくださってありがとうございました!
叩いてもホコリしかでませんが、何かお言葉下さればうれしいです!