1-1
5月。春の涼しさから、少しだけ陽射しが強くなり、暖かくなって来た。
それでもまだ過ごしやすくて昼寝のし易い環境なのだが……。
「おーい、サボらずにライン引けよー」
隣から田中の気の抜けた声が聞こえた。
田中は手慣れたように運動場にラインパウダーの白いラインを引いて行く。
思わず大きく溜息が漏れた。
春の天気の良い日だと言うのに、学校側の拘束で運動場にライン引かなくてはいけないなんて。
「俺、何やってんだろ」
「そりゃあ体育祭に向けた練習の為のライン引きだろ。つか本当に動け。お前担当のレーン全然作れてないじゃん。それじゃあ体力測定のシャトルランだって出来ねーよ」
働く気になれないのだが、田中からの鞭で仕方なく動く。
そう、この高校はもう直ぐ体育祭なのだ。こんな陽気な春の季節にやらなければいけないのは、受験やら9月はまだ真夏日だからとか、諸々の事情はあるのだが、クラスの団結力を強めようとしたいなら、どんな行事より大きな効果が見込めると言える。ならばこの時期に行えるのは、学校側からしても好都合な事だろう。
けれども、そんなの俺には関係ない事であり、一々従業開始前から早々に着替えてこうやって運動場にラインを引く理由があるだろうか。
まあ体育祭実行委員に選ばれてしまったのだから仕方の無い事なのだろうが。
「あれ?もう石灰のやつ切れたわ。この前部活で補充したばっかなのに」
とかなんとか考えている横で、田中はライン引きの中身を確認している。確かに、田中の少し後ろからラインが途切れている。
「補充したやつとはまた別のなんじゃ?」
「いや、それは無いと思う。俺が使ってる緑は野球部が普段使いしてて、そっちの青のがサッカー部とかが使うやつ。そうやって分かれてるんだよ。だから俺が前に補充したやつで合ってるはず」
成る程、部活動で分かれているのか。中学では幽霊部員、高校では帰宅部の俺には縁もゆかりも無い話だな。
「取り敢えず補充するわ。でもぜってー可笑しいよ。こんな短期間で少なくなるなんて無いもん。少なからず中学時代から考えると」
「適当に部活同士がごっちゃに使い合ってるって可能性は?」
「それもない。このライン引き監督の自腹らしいし、使ったらあの赤鬼怒るだろ。他の部活にも知れ渡ってるくらいうるさいらしいし、手を出すとは思えないぜ」
赤鬼とは、この学校の体育教師であり、野球部の監督でもある、鬼頭という教師だ。真っ赤になって怒るのが特徴的なのと、名前から取って赤鬼の二つ名が付けられている。当然ながら、本人の目の前で呼んだら、地面が震える程の大声で説教である。
運動場を一周した所で田中は石灰を入れ終わって戻って来ていた。
切れたラインを繋ぎ戻し、俺の横を並走して引く作業を再開した。
「世の中不思議な事も起こるもんだな。補充したのが俺の勘違いかと思って在庫を確認したけど、ちゃんと減ってた」
「どれだけ世の中が摩訶不思議だろうと、石灰が神隠しの対象になる事は無いだろうよ。十中八九、誰かが使用したんだろう」
それならまだ良いさ。と、隣の田中は本気で神隠し説を考えていた。神様の世界も体育祭なのかな。
いや、無い無い。俺まで田中ワールドに引き込まれる所だった。危ない危ない。
「では田中くん。貴方がラインパウダーを交換したのはいつ頃かしら」
「あー、確か三日前だったかな。そんで使ったのは替えた日と、一昨日かな。昨日は部活が休みだったし」
「そう。そのライン引きは他の野球部員が授業で使ったりするのかしら」
「それも無いよ。昨日まで別のライン引きがあったけど、それが授業中壊れたらしいから、仕方なく今日から部活のを使ってるだけだから」
「そう。謎ね」
しれっと、並走してライン引きをしている俺たちの横に、ジャージ姿に着替え済みの逸島がいた。お得意の謎センサーか何かで感知をして寄って来たのだろう。田中から話を聴いて早々に謎発言をかました。
「あら、謎とは思はない?突然姿を消したラインパウダー、その行方について興味はわかないのかしら」
「思はない」
俺の返事にコンマ何秒で怪訝な表情に顔をころりと逸島は変えた。
「どうやら貴方の好奇心が神隠しにあったのね」
また新しい罵倒の仕方だ。あの荒川の一件から特に喋っていないのだが、もう百の罵倒を彼女から受けた錯覚がする。
「それで、逸島も田中みたいに神隠しと考えるのか?」
「いえ、それは無いわ」
きっぱりと、良く切れる包丁みたいに切り捨てた逸島に、少しだけ面を食らう。だが、逸島は当然だと言いたそうな顔をした。
「神隠しの選択肢も無きにしも非ずよ、けれど、逃げ隠れ自在の人間に比べて、ラインパウダーは動けない粉よ。誰かが消耗させたと考えるのが一番自然よ」
逸島は推理に関しては本当に真正面から向き合うタイプだ。悪ふざけだったり、可能性の低い事であれば、容赦なく削り取っていく。だからこそ真っ先に神隠し説を否定したのだろう。
「誰が何のためにラインパウダーを使用しているのか。少なからず、そのライン引きが鬼頭先生の私物とは知らない人物となるわね」
完全に逸島は推理モードへと移行した。独り言を発し、俺たちと並んでただただ並行するだけだ。
田中の方はと言えば、上の空でライン引いているだけだ。もう石灰に対して集中力が切れている事が分かる。
もう直ぐ赤鬼が来るだろう。ちらほらと運動場に集まる生徒達を見ていると分かる。レーンの数ももう充分だ。そろそろ引き上げて一度この場を終わらせよう。
と言うか、早く終わらせないといけない、嫌な予感がするんだ。この隣を歩くクラスメイトの変人さんから。
「月等くん。君は放課後暇かしら」
身体のどこかで汗が流れた感触がした。
いや、暇じゃ無いです。って一言をひねり出す事が出来ない。真っ当な言い訳が思いつかないのだ。
「では少し、私と観察してみないかしら。ラインパウダーを盗む人間が、何をしているのかをね」