2月8日(4)
でも、やっぱり会わせてはもらえなかった。
もう一度、あとで呼んであげる、ちゃんと話する時間をとるから今はなにも考えずに寝てて、そういわれて、目を閉じた。
目を閉じればぐるぐるいろいろ考えてしまう。
昨夜眠る前に水を飲んで寝てたらこんなことはならなかったのだろうか?
背伸びしなければ、血管が切れなかっただろうか?
そもそもちゃんとダイエットしていたらよかったのだろうか?
なんで、
なんで、
なんで。
ぐるぐるしながら、次第にまぶたが重くなった。
どれくらい時間がたっただろう?
「高橋さん。高橋由乃さん」
呼ばれる声に目をあけた。
めがねをかけた背の高い細い男の人が私を覗き込んでいた。
「今から君の手術をします、医師の嵯峨です」
その人はそういうと、ぎゅっと私の手をとって握った。
筋張った熱くて、力強い手だった。
「はい。よろしくお願いします」
私もその手を握って頭を下げた。
これから先、私はなにもできない。
ただ、医師たちの手に身をゆだねるのみだ。
「高橋さん、手術の前に髪を結びますね。あ、でも今私輪ゴムしか持ってない」
看護師さんが困ったように言う。
私の腕にいつもなら何個か入っている髪ゴムも、今は家においてきた。
「輪ゴムでもいいので貸してください」
そういうと看護師さんが苦笑いして、後でくくろうねと輪ゴムを私の脇に置いた。
と、そこにめがねの医師と目つきの悪い人が2人で私の肩をとんとんとたたいた。
「高橋さん。手術をはじめるにあたってお話しすることがあります。その……あなたの髪の毛を剃るんですが……」
二人の目が申し訳なさろうに私の髪を見た。
髪を、剃る。
私は点滴のはいってない手でまだ結ばれていない自分の髪をすくった。
長く伸ばしている髪は、今腰の辺りまで届いていた。
『長い髪がいい!』夫がそういうのでずっと伸ばしていた。それに伸ばしていると、あまり髪を切りに行かなくていいという利点もあって、都合がよかった。だから前にはさみを入れたのは一年以上も前。
もっとも、年度末行事の前に切ろうと思ってはいた。どこまで切ろうかは考えていなかったが……。
そっか、剃るのか。
うん。頭の手術だからどこを開けるにしても髪の毛を剃ったり切ったりはしなければいけないだろう。
足の皮膚移植のときにも事前に看護師さんたちにいろいろ必要な部位を剃られた。
ちゃんと過去の経験が残ってる。頭の手術だ、必要な毛剃りが髪の毛になるのは仕方ない。
「いいですよ。近く切る予定はあったし、この際だからすっぱりさっぱりつるっといっちゃっても問題ないです」
私がさっぱり言ったけれど、まわりにいた女性の看護師たちからブーイングが上がった。
「え、でももったいないですよ。こんなに綺麗な髪なのに」
髪を結ぼうと私の髪を集めていた看護師さんがさらさらと髪をこぼす。
「こんなに綺麗に伸ばすの、大変ですよ」
気が付くと2,3人の女性看護師さんが二人に意見を言っていた。
いや、伸びてたのはたんに私があまり髪を切りに行かなかったずぼらさんなだけなんですけどね。
でも、自分の髪の毛は好きだよ。
体は太いけれど、髪の毛は細くて気持ちのいいストレートのネコ毛だ。
親からもらった体の中で一番気に入ってるパーツ。
私が自分の髪の毛で遊んでいると、医師たちも私の髪の毛を手で拾い上げ撫でた。
「うん。でも……ごめんね」
あまりに申し訳なさそうにいうもんだから私が笑ってしまう。
気にしなくていいよ、って。
ぼんやりしていると声が聞こえた。これから手術に向かいます。その前に家族の方とお話をどうぞ、って。
ここでやっと夫と話ができた。
「大丈夫?」
心配そうな目で覗き込まれて、私は笑いながらその顔に手を伸ばした。
朝、忙しかったから髭を剃ってなかったのだろう、ざらざらした感触が手に残る。
「ごめんね。心配かけて」
謝罪すると
「まったくだ」
指で鼻先をぐりぐりされてまた小さく笑った。
いつものやり取りに心の奥でカチカチになってたモノが少しほぐれた。
手術を受けて戻ってきて、またこんなやりとりができるだろうか?
「有志さん」
私は夫を手招きした。
「なに?」
「私の携帯を、高橋のお義母さんにわたしてくれる?」
「そっちのお母さんじゃなくって、うちの母さんに?」
「そう。お義母さんが、私の上司と知り合いなの。だから、お義母さんから上司に電話してもらって、そして仕事の退職手続きをとって欲しい。病休じゃなく、退職で手続きして欲しい。ちゃんと伝えてね?」
私が言うと、
「わかった。ちゃんと伝える」
夫の頷きに私は安心して夫に手を伸ばした。その手を握り返してもらいほっとする。
「心配事って仕事のことだけ?」
聞かれて苦笑いした。
そうだな、他に言わなきゃいけないこと一杯あるんだけど……。
「あ、ちゃんとご飯食べるんだよ。売店あったでしょ。食べれるときに食べないとダメだよ」
「わかった。ちゃんと食べるから」
「うん」
夫の声が震えていた。
見ればくしゃりと顔をゆがめていた。
「脱水症状で点滴1、2本打てば帰れると思ってたのに……」
手術ってなんだよ、そんな声が聞こえた気がした。
今日は2人で取った三連休の最終日。どこか遊びにいって、そして明日からまた仕事に行くって思っていたのにね。
「ごめんね」
病気になっちゃって。
「まったくだよ。この、阿呆……阿呆……ッ」
うん。
ごめん。
本当にごめん。
私は夫の頭を引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
頭を数度よしよしと撫でる。
こんなんじゃなくて、ちゃんと、ぎゅってしたい。
そう思った。
これが最後になったら、嫌だなって……本気で思った。
「高橋さん……麻酔に行きますよ」
静かに言われて、私は夫の頭を離した。
「行ってきます」
そういうと
「ちゃんとかえって来い」
言われて頷いた。
うん。ちゃんと帰るから。
昨夜寝る前は、目が覚めればいつもの日常が繰り返されると思っていた。
ご飯を食べて、どこかに出かけて、戻ってお風呂に入って、翌日の仕事に備えて眠って。
きっとありふれた、それまで過ごしてきた日々と同じ連続。
それがこれからも続いていくと信じてた。
けれど、今の私は、この手術の先が見えない。