2月8日(3)
そこに、別の若い男の看護師さんがいた。
他の看護師さんとはなんだか雰囲気が違う。
(もしかして、医者とか?)
ぼんやり思ったけれど、他の看護師さんと服の見分けがつかなかった。
医者にしたらとても若くみえる。
だがとても目つきが悪い人だった。
顔立ちは整っているようだけれど、腕を組んで壁にもたれたままこっちをじっとにらみつけていた。
なんか、ものすごく……見られている。
専門的な看護師さん、とか?
そんなことを思っていると、何人かの出入りの音ともに「たぶんクモ膜下、かな。今からMRIいくけど」誰かが話す声が聞こえた。
なにがクモ膜下ですか?
もしかして私ですか?
それよりもいつの間にか囲まれた看護師さんに
「高橋さん、血圧測定しますよ」
「測定終ったので、血液採取しますよ」
かわるがわる流れる作業にされるがままになっていた。
わらわらっと女性看護師さんに囲まれるとつい、どこかに見知った人いないかな? とか思うのは医療系の友人知人が多いせいだろうか?
でもここにはいない。
一通りされるがままになって看護師さんが離れると、ずっと壁際から私を睨んでいた人がこちらにやってきて
「高橋由乃さん、37歳、か。今朝のこと、もう一度お話してもらって良い?」
ストレッチャーに横になったままの私にその人が少しかすれを含んだ声で私に尋ねた。
さっきの内科医に答えたのと同じことをもう一度言うと、「そっか」と頷いた。それから親族で脳出血、がん、肝臓病になった人はいるかと聞かれてそれについても返事した。
最後に、「これまで全身麻酔の手術受けたことある?」聞かれて、私はその人を見上げた。
なんでこんなことを聞くのか。
でも聞かれた以上答えなければいけないのだろう。
「あります。高校生……16歳の春に」
一抹の不安が胸をさした。
「なんで手術したの? 病気? ケガとか事故?」
「いえ、皮膚移植です。病気でもなく、自己都合で。とりたいあざが足首にあったから、大きさ的に足の付け根の皮膚を切り取って足首に貼りました。そのとき1度だけ」
私が返事をしていると、扉があわただしく開いた。
看護師数人が準備できましたという声と、有志の声がした。
「ごめん、遅くなった」
そういって、有志が私の隣に立つ。
「検査の準備が整いました。移動します。ご主人さんはそちらで待っていてください。あ、あと大事な質問」
彼はそういうと私の目を覗き込んだ。「高橋さん、今妊娠してませんか?」
は?
「してません」
目をぱちくりさせながら私が言うと、本当に? なんなら調べるけれど? と念が押された。
有志が隣で「調べてもらえ!」とわめくけれど、ここ最近のうちにそんな覚えがひとつもない。
「もし妊娠してたら、胎児を被爆させるかもしれないよ?」
そういわれたときぞっとした。
……私、どんな検査を受けるの? って。
心配そうな有志を置き去りに、大きなまあるい穴の開いた機械に通される。
目をあけようかなと思ったけれど、頭は痛いし「目は閉じてて結構ですよ」という声があったのでそれに甘えた。
寝台の移動も全部人任せだ。
この大きな体を人に動かしてもらうのが申し訳ない。
再びさっきの部屋に戻されたとき、もう有志はいなかった。
「安定剤の点滴準備をして。様態確保します」
さっきの人の指示が飛ぶ。
そしてあたりで、くも膜下出血です、その言葉が飛び交うようになった。
……くも膜下出血って、やっぱり私?
鈍い私でも、さすがに想像がつく。
かかった人全員が全員死ぬ病気じゃないけれど、それでも死の危険がすぐ隣にあるものに間違いない。
祖母と叔父はその病気で亡くなった。叔父は即死だったという。
脳出血で手術をした親族のおじいさんは、麻痺が治らなかった。
私も、そうなるのか?
いつだったかお見舞いに行ったときの姿を思い出して背筋が凍る。
頭を押さえていると、さっきの目つきの悪い彼が近づいて
「痛い?」
私に問うた。
「そりゃ痛いですけど……」
私が目を伏せると
「高橋さん。これからあなたのくも膜下出血の治療をするため、手術をしますからね」
とても軽い調子で言われた。
まるで近所のスーパーに買い物に行くからねくらいの軽い勢いだ。
思わず、「あ、そうですか」と頷きそうになるけれど、でもいや、まて。
そんな軽く流しちゃいけない。
「くも膜下出血、ですか。やっぱり」
やっぱりさっきから言ってたのは間違いなく私のことだったんだ。
うん、そんな気がしてた。
あの音は変な音の気がしてた。やばい音だって思った。
「やっぱりって?」
不思議そうに聞かれて小さく笑う。
「いや、そうだろうなって思ったから」
ずっと、叔父や祖母のことを考えてた。
頭の中でぐるぐるしてた。
でも、今なら助かると漠然と思った。
だから。
「手術、お願いします」
その人を見上げた。
手術をしなかったら、もしかすると祖母のように亡くなるまで植物人間になる可能性もあるのだから。
けれど、手術しても元の生活に戻れるだろうか?
ああ、万が一のことを考えると一筆残しておくべきだろうか。
脳裏に「遺書」という言葉がよぎった。
「大丈夫ですよ」
私の不安を和らげるためかその人が落ち着いた声で言う。
私が顔を上げると
「手術後は1ヵ月半くらい入院になりますけど、きっと大丈夫でしょう」
その人はさっきと変わらず軽い調子で言うけれど。
私はつい眉を寄せた。
いやいやいや。そんな軽くしれっと言ってますけど、さすがにそれは流せないでしょ。
「1ヵ月半ですか?」
「そうですね、退院するまでに2ヶ月近くはかかるでしょうね。リハビリしだいですけど」
遺書なんて言葉が吹っ飛んだ。
2ヶ月って。
そんなに長く入院ですか?
その数字を聞いて仕事のことで頭が一杯になった。
この年度末が迫った時期に1人欠けるとか。そうでなくても人手が足りなくて厳しいのに。
しかも今年度はなんだかんだといろいろあったのに、ここで私までが職場に迷惑をかけてしまうのか……。
職場の面々の顔が走馬灯のようにぐるぐる思い浮かぶ。
今年は、春からいろんなことがあって、退職したり代わりの新人が続かずもう一度人を雇ったと思えばそれもいろいろあって、今年は散々だねえって言いながら頑張ってたのに、ここにきて今度私が迷惑をかけるのか?
私も病気休業する?
いや、春に別の人が病気休業したとき、代わりの人を雇ってもらえなくて、残った面々で仕事を回しとても苦労した。
だから、これはもう、早く退職願出さなきゃ。
でもどうやって退職の意思を伝えよう。
さっきまで万が一のことを考えていたなんて思えないほど、どうすべきか考えた。
とはいえ手術が決まったら、こっちがぐるぐるしていても、次々看護師さんがやってきて私の身の回りのことをしてくれる。
おちおちじっくり考えるなんてことはできなかった。
せめて今夫がここにいてくれたら、いろいろ話ができただろうに。
さっきまであったはずの私のかばんは夫が持っていったのだろう。せめて携帯で電話する時間さえもらえたら上司に一報を入れられるのに……。ここにはもう私のものはなにも残っていない。
「高橋さん、点滴の前に手術着に着替えますよ。つらかったらこちらでやりますがどうしますか?」
看護師さんが簡素な青い服をびらっと広げた。
「自分で着替えます!」
驚くぐらいの勢いで即答した。
前に見たテレビで、看護師さんが着替えをするのに容赦なく服をはさみで切っていたのを見たから。てゆか、前に皮膚移植で入院したときに、ハサミジャキーンされて、下着がおしゃかになったのがショックだったので、今回自分で着替えるという選択肢があるなら自分でしますとも。
男の看護師さんたちがぞろっと出て行き、女の看護師さんにぐるりと囲まれて、ただし壁際ではあの目つきの悪い人がやっぱり腕くんでこちらをにらんでて、なんでいるんだよとか思いつつ、看護師さんたちに手際よく服を脱がされる。
肌着もブラもパンツも全部、容赦なく、すぽぽぽーーん。
その手際のよさはいっそすがすがしい。
「尿管入れますよ」
「このあとのこともあるからおしめしますね」
「はい、ここに腕通して、そうそう。結びますよ」
見事な連係プレーであっという間に着替えが終った。
この寒い季節に、薄くて胸元当たり数か所で止めただけの心もとない手術着。物珍しさについまじまじと見つめる。うっかり俯いたら頭が痛くて額を抑えたら、ずっと様子を眺めてた彼がやってきて、
「痛い? 静かに上を向いて横になってて」
そういって、近くにいた看護師さんに用意していた安定剤の点滴の指示を出した。
ストレッチャーにおとなしく寝転がっていると、投げ出していた腕を看護師さんが指先で探った。点滴の針を刺す場所を探しているのだろう。ひじの内側の柔らかいところを、とんとんとたたいては首をかしげて少しずつ位置を変える。
「看護師さん泣かせの腕だって昔から言われてます。先に言いますがごめんなさい」
謝罪すると、「大丈夫ですよ。ほら見つけた」看護師さんはぱっと顔を上げて安心したように笑った。
アルコールで湿らせた脱脂綿で消毒されて、点滴針が入れられる。
看護師さんにお礼をいって私はゆっくり落ちる点滴を見つめた。
安定剤が落ちだすのを確認すると、わらわらいた看護師さんたちは部屋から静かに出て行ってしまい、あたりは静かになった。
さあ、本当にどうしよう。
静かになったとたん、再び思考回路がぐるぐるめぐる。
くも膜下出血、か。
まさか自分がこんな病気になるとは思わなかった。
明日から仕事に行けなくなるなんて、これっぽっちも思ってなかった。
ああ、やっぱり夫と話がしたい。
私は頭をめぐらせた。
すると怪しい動きをする私に気づいて、目つきの悪いその人がどうかしましたかと声をかけてくれた。
どうやらずっといたらしい。
「主人と話がしたいのですが」
お昼ももう過ぎただろう。
考えてみれば朝からご飯も食べてないのだ。
私はなにも欲しくないけれど、夫は健康体。
何か食べさせないと。
あと仕事のことも言わなきゃ。
しかし、彼は私を覗き込んだまま頭を横に振った。
「あとで話ができますから。今は、なにも考えずに静かに寝てて」
そういわれても素直には頷けない。
「そんなこといわれても、考えます。仕事のこととか、これからのこととか」
だって、怖い。この病気は怖い病気だ。
今こうしている間に、私の意識は変わるかもしれない。
薄暗い、無機質な部屋。
この部屋の天井が最後の光景だったら、それは最悪すぎる。
今、話がしたいのに。




