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3月8日(1)

 「眠い、疲れた……」

 深夜勤務明けの有志がふらふらしながら病室に来た。

 「お疲れ。直接来たの?」

 尋ねると

 「うん。家に帰ったら寝そうだったから」

 そういって私に袋を差し出す。

 「あ、持ってきてくれたんだ!? ありがとう」

 私はお礼を言ってそれを受け取りさっそく中を出した。

 が。

 出てきたものに自然とテンションが下がった。

 私が有志に頼んだもの、それは私服。

 病院にいると、パジャマばかりだ。入院した日に着ていた服は持ち帰られてて残っていない。

 パジャマ以外には羽織りものとしてパーカーを持ってきてくれてるけれど、さすがにパジャマにパーカーで外出はできない。

 というわけで、有志に家事室にある服を持ってきてと頼んでいたけど……。

 いたけど。

 「このGパン、私……奥底にしまい込んでたよね?」

 サイズが合わなくて相当奥底にしまい込んでいたはずだ。

 「とっておきなのかな、って思って」

 有志は、誇らしげな笑顔だ。

 いや、使えないからしまい込んでるんですよ!?

 で、上もまた……。

 ……ていうか、これしか入ってないし。

 紙袋をさかしにしてもそれ以外でてこない。

 有志の服のセンスうんぬんより、これはそれ以前の問題だ。

 この人は私が普段着ている服をどう思っていたのだろう?

 「どうしてこのチョイス?」

 思わず尋ねてしまった。

 「とりあえず手元にあったから」

 ……そうだった、こういう人だった。

 てゆか、手元にある服を選ぶんだったらズボンも手元にあるやつ取ってよね!!!

 有志はぼんやりさんなので、服も無頓着だ。

 ただし着心地だけは重要視するお坊ちゃんだ。

 着心地だけじゃなく組み合わせや重ね着方法も重要視しろよ、と突っ込みたいのだが。

 病院に来る時なんか、GパンにTシャツ、上にフリースのジャンパーを着て終了。

 重ね着をしようとか服のコーディネイトをしようなんてかけらも思っていない。

 なので、私が入院する前は、出かけるときは私が服を合わせて渡していた。

 彼に服を買うのを任せていたら、洋服ダンスの中が真っ黒になるので、服も私が買うようになった。

 仕事は、作業着というユニフォームがあるのでそんなセンスは問われないけれども、いやはや。これは由々しき事態だ。

 そんな人なので、私にもってきてくれた服もGパンと薄い長そでのセーターで終了だ。セーターの中に着るインナーなんてない。

 タンクトップの肌着の上から直接セーターを着るのか!? ちくちくしちゃうじゃないか。

 この3月の寒空に、これはどうなの!? コートもないし。

 だがしかし、背に腹は代えられない。

 「服、ありがとう」

 一応お礼を言って、私は着替えることにした。

 もしGパン入らなかったら、パジャマでご帰宅、だな。

 ええい、ままよ!

 ほんのり恐怖心を持ちつつ、以前は窮屈で入らなかったGパンをえいや、と持ち上げたら、すんなり入った。

 私は目を丸めた。

 おおおおお!?

 ジッパーもすんなり上がるし!!

 伊達に5キロ体重落ちてたわけじゃないのね!?

 「着れるじゃん」

 有志はご満悦だ。

 いやいや、そういう問題じゃないし。

 セーターは仕方ないので肌着の上からきて、寒いのでパーカーも着て帰ることにした。

 これで外に出るとか極寒だから……。

 「なんでコートないの」

 ぼやいたら

 「え、コートなんている?」

 自分はダウン着といてそれを言うのか!?

 そんなこと言うんだったら、そのジャンパーよこせよ!

 ってジップ下げたら、中肌着だし……。

 有志君……有志君。

 しっかりしてよ……。

 私は有志の首をキュッとしたくなった。

 しないけどね。

 パジャマを片付け終わるとちょうど看護師さんが

 「高橋さん、これ外出許可証」

 用紙を持ってきてくれて

 「あ、着替えたんですね。どこのお見舞いの人かと思っちゃった」

 と私を見て笑った。

 「ありがとうございます。じゃあ、私たちはこれで一度帰宅して夜に戻ります」

 「ええ、楽しんできてね」

 私は荷物を持った。

 有志も立ち上がり

 「じゃ、由乃さん、後は任せたから、運転よろしく」

 ポケットから車のカギを出して私に渡すところで、看護師さんが目を丸めて慌てて首を横に振った。

 「いえいえいえいえ!! ダメですよ!? まだ由乃さんに運転の許可は下りてませんから、絶対に運転させないでくださいね!?」

 この時の看護師さんは本当に早かった。

 私と有志は首をかしげて、え? そうなの? と看護師さんを見つめたんだけれど。

 ちょうど朝の巡回で廊下を歩いていた西田先生も騒ぎに気づいて中に入り、 

 「たしかに今の高橋さんの様子だったら、車の運転もできそうだけど、でももしそれで事故を起こしたら、高橋さん、言い逃れできないよ?」

 渋い顔で言われた。

 そ、そうなんですか?

 「気を付けます」

 私と有志は素直に頷いた。

 この時は詳しく聞かなかったけれど、あとで今井先生が教えてくれた。

 くも膜下出血及び脳こうそくをした患者さんにまつわる重要なこと。

 病気をする前まで私は車の運転を毎日普通にしてました。

 が。

 てんかん患者や脳梗塞患者の重篤な事故が続いたため、法律が変わっていたのです。

 そんなわけで、この日は眠い目をこすりながら有志が運転した。

 私はいつものように助手席に座ったのだけれど。

 しかし……。

 私は久々に動く景色を見て、数分で気分が悪くなった。

 嘔吐こそしなかったけれど、目が回る。

 「ちょ、大丈夫?」

 有志が心配そうに私に問うけれど。

 「いや、うん。まずい」

 運転なんて、これとてもじゃないかもできないかもしれない。

 ヘッドレストに頬を押し付け、私は窓に背を向けた。

 景色を見ない分には大丈夫なんだけどなあ……。


 「ただいま」

 私は声をかけて通り土間を抜けた。

 あの日からちょうど1か月。

 一か月ぶりの帰宅だ。

 入院前、玄関先に置いていたクレマチスにたくさんついていたつぼみはどうなっただろう?

 そう思っていたのだけど……。

 「あれ?」

 私は眉根を寄せた。

 玄関先に置いていたクレマチスの鉢植えは完全にドライフラワーになっていた。アイビーの鉢もしかりだ。

 大きめのプランターの中もほぼ壊滅。唯一残った花は雨が当たる場所にあったものくらいだ。

 ……クレマチスは仕方ないとして、アイビーを枯れさせるってどういう才能よ……。

 きっと興味がないんだろうなあ。

 私は家の鍵を開ける有志の背中を苦笑いしてみた。

 家の中はそんなに変わっていない。

 まあ埃は舞っているけれど、これくらいは想定内だ。

 そしてキッチンの前で違和感を感じた。

 何か、違う。

 幸いビールの缶はちゃんと洗ってシンクの縁に干してあった。ゴミ箱に入れていなくてもここまでしてれば、まあ許容内だ。

 が違和感の正体は出窓……。

 あ、そうだ、窓辺に置いていたゴムの木がないし、水で育てていたアイビーも枯れてる……。

 「有志さん、ここにあったゴムの木知らない?」

 有志に尋ねれば

 「え? そんなのあったの?」

 不思議そうに首をかしげた。

 ……ああ、はい。

 存在すら知らなかったのですね?

 ということはお義母様か。

 トイレの観葉植物も枯れそうだし……。

 ……やっぱり玄関先のクレマチスが枯れてたのはつらいなあ。

 今の時期、黄緑色の可愛い花がいっぱい咲くのだ。

 楽しみにしていただけにとてもつらい。

 あと、大きなプランターも完全にドライになってたし、あそこはもう全部植えなおしだなあ。

 私は苦笑いした。

 これが男やもめになるということか、と。

 ただ感心したことがあった。

 病院で脱いできたパジャマを洗濯しようと家事室に入れば、そこに有志がちゃんと洗濯物を干していた。

 「これ、自分でしてるの?」

 尋ねると

 「うん。毎日洗ってるよ」

 得意そうに言った。

 干し方はちょっと難があるが、それでも田舎の長男でおばあちゃんに育てられて、あれこれ上げ膳据え膳してもらっていた箱入り息子。

 まさかこんな風にちゃんと洗濯を干すなんて想像もしてなかった。

 「乾燥機使わずに干してたんだ? えらいね」

 私は有志に振り返った。

 うちの洗濯機、一応洗濯乾燥のボタンもあるので、そのボタン一つ押せば干す作業なんていらないのに。

 「俺もさ、こんな便利な機能あるのになんで由乃さん、使わないのかなーって思ってたんだけど、最初に一度洗濯乾燥を使ったらさ、作業着がしわくちゃになって、トランクスもしわくちゃで、ああ、なるほど、こんなになるんじゃあ使えないわけだって学習した」

 有志が眉をしかめる。

 私も過去やらかしたことがあるので、どんな状態になったか容易に想像できて、つい声を出して笑った。

 「どうして私がちゃんと干してたか、わかってもらえた?」

 尋ねたら

 「うん。よくわかった」

 有志が感慨深そうに頷いた。

 「そっか、じゃあさ、ここで干すときもう少しきれいに伸ばして干したら、しわの数も減るんだけど?」

 そのアドバイスはぷいっと顔を背けられてしまった。

 なんだよ無視するなよ。

 「で、そのときのしわしわの作業着はどうしたの? もう一度洗いなおした?」

 尋ねたら

 「そのまま着たよ。めちゃくちゃ着心地悪くてごわごわしてたけど。で、職場でみんなに同情のまなざしで見られた」

 なんというか、もう。

 私がくも膜下になって入院中というのはあの部署で知れ渡っているというから、そりゃあもう残念なまなざしで見られるだろう。

 「でも奥さんのありがたみ、理解したかい?」

 私の意地悪な質問は背後から抱きしめられてそれが答えだった。



 せっかく旦那さんが持ってきてくれた服だけれど、ズボンはともかく、上は新たに着替えて、母屋に行った。

 「お帰り、由乃さん。お昼どうする? 今から買い物いくけど、何が食べたい?」

 お義母さんがにこにこしながら問うてくれた。

 「あ、カレーが食べたいのです。今から作ろうと思って」

 私は冷蔵庫をさっそく開けた。

 ジャガイモも玉ねぎもあるし、人参もある。

 お肉も少々あるから大丈夫だ。

 「カレーならできそうね」

 お義母さんもご飯の残量をチェックしてくれる。

 早速私は久々に料理を始めた。

 先日、栄子さんが料理の段取りができなくなった人がいたという話を聞いて心配だったけれど、ジャガイモの皮をむいて切って水にさらしたり、ニンジンや玉ねぎの下処理も問題なくできている。

 鍋に油をひいて肉を炒め、根菜を炒めて、塩コショウで味をつけ……その順序もできている。

 うん。

 これで野菜が煮えたらルーを入れておしまいだ。

 「栄子さんから、くも膜下出血の患者さんで料理できなくなる人がいるっていう話聞いてて心配してたんですけど……できてますよね?」

 お義母さんを見たら

 「ええ、ちゃんとできてるわよ」

 お義母さんも頷いてくれた。

 よかった。

 まな板や包丁など片づけをして、野菜を煮込んでいる間に入院に必要なものを買い出しに行くことにした。

 ついでに食材も食べたいもの買ってくるといって、有志と家を出る。

 

 久々に出た『外』は何とも言えない。

 『外出の時は、必ずマスクをつけるように!』

 先生たちに言われていたので、私はちゃんとマスクをつけている。

 そういや、この日、私は久々に自分のカバンと財布を持った。

 財布の中身は秘密の貯金箱から補充したので、とりあえず問題ない。

 このお金でパジャマを買い、病院で履いているスリッパも新しくサンダルに変えることにし、生活雑貨のお店でかごを二つばかり購入。それから100均で必要なものを買い物かごに入れていた私は、ふと目の前に中学の時の同じ部活をしていた同級生がいるのに気付いた。

 彼は子どもと一緒に買い物をしていて、こっちには気づいていない。

 彼とは互いに独身の頃に同じ職場で働いたこともある。割とイケメンなので女の子にもてたようだが、私には気心知れている分、仕事に関して容赦がまったくなかった。ただし、私も容赦しなかったのでおあいこだ。

 が、その顔を見てビミョーな気分になった。

 ……ああ、彼の顔、嵯峨先生の顔に似てるんだ……。

 狐顔というかなんというか……。

 ああ、せっかく久々に病院の外に出たのになあ。

 

 私は彼に声をかけることなく自分の買い物を続けた。

 いつもだったら声をかけただろうけれど、今声をかけたら、何やってるの? の流れで入院してるって言ってしまいそうで……。

 いや、彼は部署こそ違えど実は夫と同じ会社勤めなので(つまり私も夫と一時同じ会社に偶然にも働いていた。そして共通の知り合いもいる)、まわりまわって私の病気のことがいろいろな方面に広まるのも嫌だと思い避けた。

 まあ、元気そうなのは見ればわかるし。たがいに気づいてないってことにすればいいよね。

 そんな感じで買い物を続けた。

 最後に食品館で食材を探す。

 とりあえずうどんを買うのはうどん県民のお約束だろう。

 で。

 ぶりのあらがおいしそうだったので、それもショウガと一緒に買い物かごに入れる。

 大根は畑でとってあったのを家に出る前に確認している。

 そして。

 ついついお菓子に手が伸びていると

 「何買おうとしてるの」

 有志に冷たく言われた。

 いいじゃん、少しくらい!

 そう思ったけど、今は買わずに戻した。

 ちゃんと我慢した、えらい!


 家に帰って、早速買ったばかりのパジャマを洗濯する。

 有志には言わなかったけれど、洗濯の後一度洗濯物をぱんぱんと広げて乾燥機にかけるとしわになりにくいんだよなー。

 こっそり思いながら、洗ったパジャマをぱんぱんと広げて、今度は乾燥機のスイッチを押す。

 ちょっとしたひと手間なんだけど、ね。

 洗っている間に病院にもっていくものを準備する。

 コンタクトレンズ、ケース、コンタクトの水、そろそろ来そうなので、生理用品……と。

 そしてキッチンに向かった。

 大きめのガラスのティーポットとお気に入りのマグカップ、お正月に買った紅茶の福袋のノンカフェイン系のティーバッグお徳用紅茶を数種類を、さっき買ってきたかごに詰め込んで。それからブラシに、ドライヤー……っと。

 これであとは今日買ったものをもっていけばばっちりだ。

 私はそれから二階の寝室に上がった。

 あの日、頭の中でひどい音がした場所……。

 

 この期に及んでなんだけど、私はまだ自分がここで眠っているんじゃないかと、この時まで思っていた。

 長い夢を見て、ずっと夢を見て過ごしているんじゃないか、って。

 私の体は、ここにあるんじゃないか、って……ずっと、ずっと思ってたのに。


 ベッドの中は当たり前だけれど空っぽだった。

 

 だた、布団はぐしゃぐしゃになっていた。

 こういう布団の扱い方をするのは有志だ。

 寝室にはセミダブルサイズのベッドを2台くっつけて並べている。

 有志のベッドの上の布団もくるくると丸められていて、私は苦笑いをした。

 どうやら有志は二つのベッドを行き来しているらしい。

 有志は布団を蹴り上げて起きる。『もう少しおとなしく起きてよ』そういっても、彼の癖は抜けない。

 その乱れた布団をなおすべく手に触れると、ひんやりと冷たかった。


 夢だったら、よかったのになあ。

 ここに私の体があったらよかったのに。


 そしたら、起きて、起きて!

 仕事に行こう!

 そういえるのに。


 「これが、現実」


 くも膜下出血を起こし、仕事を辞めて、入院生活をしている。

 それが今の私。


 「今動いてるこの身体が私の実体。私の体はこれがそう」


 私は自分に突きつけるために声に出していった。

 言葉にしたら、気持ちが据わった。

 私は、完全に夢から離脱した。

 22日で夢は終わった、そう思っていたけれど、まだ続いていた未練のようななにかを、ここで完全に断ち切った。

 そのとき、下から

 「ごはんできたわよー」

 お義母さんから声がかかった。

 「はーい!」

 返事をして階段を下りた。

 うん。階段の上り下りも問題ない。



脳梗塞・くも膜下出血などの脳疾患をした患者さんの車の運転再開には

いろいろ許可が必要です。

おいおい本文中にも書きますが、まず公安に行って、事情を話すと「医師に診断書を書いてもらってください」と用紙を渡されます。それを主治医に書いてもらって、再び公安、もしくは免許センターに行きます。

そして許可を受けてから、運転が再開できます。

今までしてたから問題ない、なんて思わないでくださいね。

医師たちが言っていたように、万が一のことが起きたとき、どんなにこっちが悪くない状態での事故でも、全く言い訳ができなくなることもあるのです。

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