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3月6日


 睡眠薬飲んでいたこともあって、久々にがっつり8時間以上眠った。

 これくらい寝ると、睡眠薬も残らないらしい。

 朝、看護師さんたちの巡回で起きて、そのまま身支度をしたらよかったのだろうが、眠たさに負けてもう一度眠ったのがよくなかった。

 けんか腰の会話の中で私は2度目の目覚めをした。

 頭の中はすっきりしていたんだけれど、カーテンの向こうから聞こえてくる物々しさに眉根を寄せた。

 どうやら今日、例のベッドのおばあちゃんが家の近くの病院に転院するらしく、家族がすでにきていた。

 いったい何人来ているのか。

 そして、旦那さんと息子さんが私のカーテンのすぐ前あたりで椅子に座っているらしい。大きな影が見えて荒っぽい声がする。

 えーと……。

 着替えるのはリハビリの後のシャワーの時なんだけど、でもね?

 私、今から下着を、というかブラをつけたいのですが……。

 さすがに、カーテン一枚向こうに見ず知らずの男性がいるところで着替えるとか、いやですよ?

 いくら最初の時に西田先生の前で全身すっぽんぽんにされたことがあっても、あの人はあくまで医者で、あれは私の診察という名の観察の一環だったからしゃーないことで、それとこれとは全く別物だからね!?

 この部屋が女性部屋だということに全く配慮してないようなので、私は仕方なくタオルにブラを包むと袋に入れて、廊下のトイレに向かった。

 ……この状態で病室内のトイレを使うこともいやだよ。


 ご飯を食べて、ぼんやりしていると、看護師さんが今日のリハビリの案内を持ってきてくれた。

 けれど。

 「高橋さん、白田先生が今日お休みなので、今井先生のリハビリに直接行ってくださいね」

 と言われた。

 昨日お戻しされたところで、今度これか。

 なんか次に会うとき気まずいな。

 そう思ったのは内緒。

 私がリハビリに出発するタイミングと、前のおばあちゃんにあいさつに来た看護師長さんの退室のタイミングが重なって、そのまま一緒に廊下を歩いていたんだけど、

 「高橋さん、元気になって本当によかったね」

 しみじみと言われた。

 元気、ですかね?

 「その節はご迷惑をおかけしてすみませんでした。ありがとうございました」

 私が言ったものだから、看護師長さんは苦く笑った。

 「もしかして、血管攣縮期の間のこと、覚えてる?」

 聞かれて

 「うっすらと。衝動的に、しなきゃって思っていろいろ抜いたのとか……口で拘束具を外そうとしてもがいたこととか、先生や看護師さんたち困らせてたのは覚えてます」

 言うと、看護師長さんは困ったように笑った。

 「なんで覚えてるの、自分が苦しいでしょ。今からでもいいから忘れなさい」

 そういうと私の肩をポンとたたいた。それから

 「そうそう。高橋さんが順調に元気になってるから引っ越しをまたお願いすると思うんだけど」

 「引っ越し?」

 「そう。こういう病棟じゃなく、包括といってもっとリハビリ中心の家に帰る訓練をするところ」

 ……ほう。

 「でも、あっちも今いっぱいらしくってベッドが満員らしいから、また具体的に決まったらお知らせするわね。ええと、また窓際、よね?」

 私は頷いた。

 個室の贅沢は言えないだろう。なら、うん。

 せめて窓際でお願いしたい。

 看護師長さんは、伝えておくわと戻っていった。

 そっか、この病棟からも引っ越しなのか。

 ……それはなんだか寂しい気がする。



 『今からでもいいから忘れなさい』か。

 あの時期を忘れたら、きっと楽だろう。

 けれど、もう忘れるのもいやだ。

 覚えておきたい記憶もある。

 いろんな看護師さんたちのやさしさも、眠りながら感じたのだ。

 実は、うすらぼんやりと、西田先生のぼやきも覚えている。

 『としゆきじゃないよ』

 私が西田先生の名前を間違えていた時期の記憶だろう。ほかに、困らせてた声も覚えてる。

 ……嵯峨先生は容赦なく説教されまくりの睡眠学習ダイエット講座、とか。

 きっと、忘れちゃいけない。

 夢とまぎれそうな幻のようなかすかな記憶だからこそ、ちゃんと覚えておきたかった。


 リハビリから戻ると、前のベッドのおばあちゃんはもういなくなっていた。

 いなくなると寂しいとか思うのはなぜだろう。

 

 夕方、かわいいおばあちゃんのところに娘さんがお見舞いに来ていた。

 おばあちゃんが、一生懸命手術を受けた後の混乱していた時期を話しする。

 その内容に私は目を丸めた。

 「それはそれはきれいな部屋で寝かしてもらってな、看護師さんや先生が大丈夫な? って見に来るんや。その先生もきらきら光って見えてなあ、あまりのありがたさに、柏手かしわで打ったんや。パアアンてきれいな柏手打てたんでえ」

 娘さんは、そんな冗談言えるくらい元気になってよかったと笑ってたけれど、私としては一つ大きな疑問が解決された。

 「あの廊下中に鳴り響いた柏手は、おばあちゃんだったんだねえ」

 横から失礼しますよ? そう断りを入れておばあちゃんの言葉に目を丸めていると、娘さんも私を見て驚いたように言った。

 「え? まるきり作り話じゃないんですか?」

 私は頷いた。

 「あの夜、おばあちゃん、詰所で寝てたんでそっちのことはわからないですけど、明け方にそれはそれはきれいな柏手が鳴り響いたのは本当です。何の音だろうって思ってたんで、教えてもらってとてもすっきりしました。ありがとうございました」

 お礼を言って、じゃ、お邪魔しましたと自分のベッドに戻る。

 いやー、謎が解明するってすっきりして気持ちいいねえ。


 「高橋さん、外出してみたら?」

 夕食のトレイを返しに行ったときに、詰所にいた嵯峨先生が私を見るなり唐突に言った。

 だから、声をかける手順ってあるでしょうよ!? 西田先生は、ちゃんとこんばんは、とかそういう挨拶から入るでしょ!? どうしてこの人にはそれが欠如しているのかな……。

 「今からですか?」

 無理ですよ。

 眉根を寄せると

 「いやいや、近いうちにだよ」

 嵯峨先生が苦笑いする。

 「あー、家からとってきたい荷物はありますけどね」

 「じゃあ取ってきたらいい」

 ふむ。

 「じゃあ、日曜日に。夫が休みなんで、その日にします」

 私が言うと

 「うん。行っておいで」

 嵯峨先生と西田先生はにこやかに手を振った。

 と思ったら、中から看護師さんが

 「あ、高橋さん、ここにいた!」

 私を見つけて手招いた。

 なんだろう?

 思っていると

 「お客様だよ、面会に来てくれてるよ」

 反対側の受付を指さす。

 「あ、ありがとうございます」

 お礼を言ってそっちに回ると、すっかり迷惑をかけている職場の先生二人が立っていた。

 「一度に大人数で来たら疲れちゃうだろうから、2班に分かれたの。今日は年長コンビ」

 そう言って、今年年長児を担任している二人の先生が笑った。

 「ありがとうございます」

 お礼を言って、近くの談話室に誘った。

 まずは、この忙しい時期に迷惑をかけたことを謝罪する。

 3月のひな祭り会やお茶会、それから修了式に飾る作り物とか、用意するのものがとにかく多いのだ。

 特に修了式関連の作り物は、1月から準備を始めていた。

 1月の間に私が用意せねばいけないものは大体用意していたけれど、それでも途中になったものもあっただろう。

 「修了式もうすぐですよね。本当にすみません」

 私がもう一度謝罪したら

 「でも、高橋先生がいろいろ用意してくれてたし、残りも段取りつけてくれてたから助かってるわ」

 主任の先生がにこにこ言ってくれて私も少し救われた。

 「けど、見た感じわからないわねぇ」

 二人が私の頭を見てしみじみという。

 「よく言われます」

 ヘアピン外すと、ああ、うんやっぱり手術してたってみんなにわかるけど、今の感じだと普通にわからない。

 それから、私が辞めた後どうなったのか尋ねると、以前一緒に仕事し、その後家庭の都合で退職していた私の前任の先生が、私のために一時的に復帰してくれたらしい。

 仕事の中身もわかっている方の復帰に、私だけでなくほかの先生たちも救われた。

 しかも、本当はまだ忙しいけれど、病気になったのが私だったから、じゃあ代わりに行くよって言ってくれたって、それを聞いて、涙が出そうになった。

 きっと私が早く戻れると信じてくれてたんだろう。

 「だから帰っておいでよ」

 言われて、うん、と頷く。

 戻りたい。

 あの職場の人はみんな暖かかった。

 「先生、相談があるんですけど」

 私はダメで元々の願いを告げた。

 年長さんの修了式、一応祝電は用意しているけれど、もし園長先生からお許しがいただけるのであれば、末席でいいので出席させてほしい、と。

 2月までいっぱい一緒に遊んだ。

 正直、仕事については悩みもしたし、子ども相手に本気で喧嘩も、話し合いもした。

 なにより楽しい気持ちをたくさんもらった。

 今、思うのはまたあの子たちに会いたい、そしてちゃんとお別れを言いたい、そのことだ。

 『また月曜日に会おうね』

 そういって木曜日に送り出して、私にはその月曜日がまだ来ていない。

 できるなら、元気でね、バイバイ、そう言って子どもたちとちゃんとお別れがしたい。

 「うん。相談してみる」

 主任先生は頷いてくれた。

 もう退職している身だ、部外者だ。ちゃんとわかっている。

 だから、ダメで元々の願いだ。

 私は二人の先生にもう一度頭を下げた。



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