3月5日
睡眠薬を飲んで眠っても、生理現象では起きちゃうわけで。
時計を見たら朝の5時半。
あれ以来、部屋のトイレがトラウマになっている私は、共用のトイレで用を足して、自室に戻っていた。
夜の廊下は静かだ。自分の足音だけが響く。
すると……。
パアアン
それはそれはきれいな音の柏手が廊下に鳴り響いた。
は?
思わずあたりを見渡した。
しかし私以外誰も歩いていない。
今の音はいったい?
恐怖、病院に響き渡る謎の柏手……。
なんてな?
きっとどこかで看護師さんが何かしたのだろう、私は苦笑いしながら自室に戻った。
二人のおばあちゃんはまだ戻ってきていなかった。
しかし、隣のおばあちゃんは起きていたようで、目が合うと二人で朝の挨拶をした。
「夜、二人とも戻らなかったんですね」
おばあちゃんが、二つの空のスペースを見て首を傾げた。1つはベッドごとからっぽだ。
「あ、そうです。昨夜は詰所で看護師さんが見てくださったようです」
「そうですか。昨日手術してたおばあさん、すごく痛がってたものねぇ」
私が言うと、そのおばあちゃんは頷いて、空のスペースを見つめた。
そっか、あの時やっぱ起きてたのね。
「手術後は、仕方ないですよ」
私は頷いて自分のベッドに戻った。
睡眠薬、眠れていいんだけど、結構あとに響く。
眠いんだけど眠れなくて、ごろごろしていると、今朝は背の高い眼鏡の男の看護師さんが巡回でやってきた。ちなみに4人の娘のパパと言っていた。
「おはよう、高橋さん。……あれ?」
看護師さんは私を見て首をかしげた。
「どうしました?」
私も首をかしげると
「瞼、腫れてる?」
顔を覗き込まれた。
へ?
私も手鏡を見て、リアルに、ふぁ!?ってなった。
「なんじゃ、こりゃ!? って松田節で言っていい案件ですか?」
背の高い看護師さんを見上げたら、彼はぶはっと噴出した。
「言っていいよ」
笑いながら頷いてくれる。
うん、ごめん。なんとなく眠いせいでテンションおかしいから。
しかし鏡を見れば瞼が見事に浮腫んでいた。なんで!?
「今日忙しいかもしれないけど、西田先生に報告しとく」
看護師さんは朝のいつもの測定を記録した後、瞼のことも記録して帰って行った。
いやいや、忙しいならほっといてくれてもいいんですよー?
私の声は届かなかった。
朝ごはんを食べていると、西田先生がやってきた。
うわぉ。早いですね?
しかも今日はいつもの白衣じゃない。水色の手術着だった。
これは手術後、手術前!? さあ、どっち!?
「おはようございます。昨夜は遅くにすみませんでした、ありがとうございました」
言うと、先生は一つ笑って、それから私の顔を覗き込んだ。
「さっき報告受けたけど、まだ目ぇ、腫れてる?」
聞かれて一応頷く。
そうしたら先生が腕を組んで首を傾げた。
「タケノコかなんか食った?」
聞かれて首を横に振った。
「私、もうメロンとタケノコ、除去食です」
食事のトレイのネームカードに、アレルギーのところにタケノコときのこが書かれている。その証拠のネームカードを先生に見せたら「だよねえ?」って先生は頷いてから反対に頭を傾げた。
「んー……今、痒みがあるとか、そういうのは?」
「ないです」
「そっか。じゃあ、今のところは様子みよう? で、症状出てきたらすぐ教えて? あー、この間したアレルギーの検査、結果がそろそろ出てくるはずだからもう少し待っててね」
そういうと、すたすたと部屋を後にした。
わあぉ。
ざっくりしてた! てゆか、忙しそう!
私は頭を掻きつつ、先生を見送った。
さてさて結論から言うと。
目の腫れていたのは一時的なものだったようで、リハビリをして、シャワーを浴びれば引いていた。
たいしたことなくてよかった。
いや、そうじゃなく。
今日はリハビリは短かった。
……というかね、白田先生のリハビリが打ち切られたのだ。
理由は、私の中に睡眠薬が残りすぎてて、眠すぎてふらふらし、危なかったから。
「今日はもういいです。戻って寝てください」
って、そっけなく言われた。
見切り早すぎだよ!
同時に申し訳なさもいっぱいだったんだけど。
そして、早めに行った今井先生のリハビリも半分寝ぼけていたため「また明日にしましょうか」と、苦笑いで返品された。
……睡眠薬、怖い……。
そんな睡眠薬もシャワー浴びるころにはすっかり抜け落ちていつも通りになったんだけど、今更リハビリ再開なんてできないし。
残った午前中をぼんやり読書して過ごした。
昼過ぎ、食事が終わって歯磨きが終わったタイミングで、かなちゃんが部屋までやってきた。
「由乃ちゃん」
声をかけた彼女はそっと私を上から下まで何度も見返す。
「いらっしゃい、かなちゃん」
私はかなちゃんに椅子を勧めた。
本当は談話室に行くべきなんだろうけれど、今は病室に誰もいない。
こういうときくらいは移動しなくてもいいだろう。
かなちゃんに椅子をすすめ、私がベッドに上がる様子をかなちゃんはじっと見つめ
「くも膜下出血、だよね?」
確認をするように尋ねた。
「そだよ? 今隠してるけど、ほら」
前髪のヘアピンを外したら、手術の剃り跡と傷跡がまだわかる。髪は伸びてきているけれど、やっぱりまだまだ微妙な長さだ。
「あ、本当だ」
かなちゃんは笑った。「けど、そんな風に隠せるくらい剃り幅小さくしてもらってよかったね」
言われて頷く。
私はまた髪でそれを隠して「ご心配おかけしました」かなちゃんに頭を下げた。
かなちゃんはプルプルと頭を横に振った。
「でも、なんか想像してたより普通だね?」
尋ねられて、うんと頷く。
「おかげさまで」
「どういう状態だったの?」
尋ねられて、あの日のことをざっくばらんに説明する。
「あー、自分で病院に来れるくらいに意識保ってたのか。よかったねえ」
かなちゃんは納得したように頷いた。
それから
「いつ一般病棟に来たの? 最近? 血管攣縮終わってからでしょ?」
聞かれて首をかしげた。
「いや? バレンタインあたりで戻ってきてたよ?」
すると彼女が目を丸めた。
「うそでしょ!? 8日に手術して14日って早すぎない!?」
「だって、バレンタイン過ぎたなあって思った時には個室にいたし、血管攣縮終わったときだって個室で先生たちにお帰りって言われたから、うん、やっぱりその前から個室にいたよ? なんかね、ICU満杯だったから状態のいい人から戻したって言われてたんだけど……私、いろいろ外してたからもしかして追い出されたのかな!?」
言いながら不安になったので尋ねたら、かなちゃんが苦笑いした。
「いやいや、そういうの外したって、ICUにいなきゃいけない状態だったら置いておくから! あ、でも由乃ちゃんもやったのか。まあ、やるよね」
くすくす笑うので、不安になった。
「やるって何を?」
尋ねたらかなちゃんは
「由乃ちゃんは何を抜いたの? ドレーン? 点滴なんて序の口だよね? 私なんて呼吸器外そうとした患者さんをおさえつけようとして吹き飛ばされちゃったし」
ケラケラ笑いながらかなちゃんは何てことなさそうに言う。
私はというと。
かなちゃんの言葉に光を見つけた気がした。
「ねえ、私ドレーンも抜いたし、点滴も何度も抜いちゃったんだけど……それ、普通なの?」
「そんなの普通だよ、普通。くも膜下やって頭開いて手術した患者さんなら、だいたいやる。そしてみんな覚えてない」
かなちゃんは手を振りながらンなこと気にしちゃだめだと笑う。
でも、本当に?
私は、あの2週間のことを後から夫に聞かされて、とてもへこんだのだ。
「あの時期はね、混乱してて普通なの。手を拘束しようが暴れるし、なんでもするんだよ。だからICUに置いおくの。混乱しない人のほうが珍しいくらいだから由乃ちゃんがあの時期にしたことなんて気にしなくていいよ。一般病棟に戻るころは本人も普通に戻ってるから、家族もそういうの知らないことが多いし。でもそっか。今ちょうど脳疾患とかいろいろ増える時期だから、ここの規模じゃICUのベッド数が足りなくていっぱいになっちゃったのね。由乃ちゃん、残念だったわね」
かなちゃんの言葉に、私はかなりほっとした。
衝動的になったこと、点滴を外さずにおれなかったこと、手かせを外したくてあがきまわったこと、半分くらいは覚えているけれど。
かなちゃんに言わせると、その時の衝動を覚えている私自身も稀ならしい。
「でも、思ったよりずっといい状態でよかった」
かなちゃんが心底安堵したように笑う。
「そう言っていただけて良かった」
二人で笑っていると、スピーカーが鳴った。
「高橋さん、面会の方が詰所まで来てくださってますよ」
「はい、行きます」
私はそっちに返事をした。
けど、見舞い?
さて、どなた?
首をかしげていると
「じゃ、私は帰るよ」
かなちゃんが立ち上がった。
「あ、じゃあお見送りする」
二人で並んで廊下を歩いた。
詰所に一緒に行くと、美晴さんがいて、
「あれ? かなちゃん」
美晴さんが詰所から出てきた。
「ひさびさー」
二人が懐かしの対面をしていると
「例の国立病院の看護師さん?」
まだ水色の手術着を着たままの西田先生に尋ねられた。
「そうです。……あの、私にお見舞いの方が来てると伺ったんですが」
きょろきょろ見てもそれらしき人がいない。
すると
「あ、あっちのエレベーター側にいるよ」
中で佐藤さんが教えてくれた。「呼ぼうか?」
「いえいえ、うかがいます」
私がそっちに行くと、かなちゃんも美晴ちゃんと別れて一緒に来た。
ぐるりと回りこむと、前に一緒に働いていた中田先生がいた。
去年病気退職された先生だ。
「中田先生、ありがとうございます」
言うと
「高橋先生も、思ったより元気そうでよかった」
中田先生が笑顔で言ってくれる。
と、そこにかなちゃんが呼んだエレベーターが到着の前触れ合図を出した。
「じゃ、由乃ちゃん、また」
かなちゃんが私に手を振った。
「うん。今日はありがとう」
私も手を振る。
「あれ? お友達、よかったの?」
中田先生が心配そうに見るけれど、
「もう、子どもも帰ってくるので失礼します」
かなちゃんはそう笑ってエレベーターに乗り込んだ。
私はそれを手を振って見送って、中田先生と病室に戻った。
中田先生と話すのも久しぶりだった。
「あれ? そういや先生、私が入院してるのってだれから聞きました?」
尋ねると
「園長先生から。ちょうどね、役場で園長先生に会って話をしてて、それで聞いたのよ」
中田先生は小さく笑った。
なるほど。
中田先生はローカロリーデザートを差し入れしてくれて、私は久々にスイーツを口にした。
プリンなんてどれだけ久々に食べたか!!
感涙!!
二人で、仕事の話とか、これからどうするかとか、そんな話をして私は中田先生を見送った。
いっぱい話をしたら、すごくすっきりした。
しばらくしていたら、隣のおばあちゃんが手術から戻ってきた。
まだ眠っているらしい。
家族の方はおいでなかった。
代わりに行政の方が様子を見て帰って行った。
お子さんがいらっしゃるといっていたけれど、遠いところで仕事をされていて、今日は来れないといっていたっけ。
私はカーテンの向こうを見つめた。
夕飯の後、トレイを戻しに行くと、詰所で相変わらず西田先生と嵯峨先生がいた。二人とも水色の手術着のままだった。
そっと西田先生のところに行ってこんばんは、と声をかけた。
「先生、きっと今夜も必要になると思うから先にお願いするけれど、睡眠薬くださいね?」
言うと、先生が苦笑いしながら私を見上げた。
「なに? 最近寝れないの?」
聞かれて、眉をしかめた。
ほぅ?
「先生、一度あの部屋で寝てみる? すごく素敵よ?」
私はここ最近の素敵な一連の出来事をパーッと教えてあげると、先生は眉根を寄せた。
「え? そんなことになってるの?」
そして、「まさかそんなことになってるとは思わなくてごめん」と謝られた。
いやいや、謝ることはないのです。
普段のおばあちゃんたちは陽気で楽しいので一緒にいて救われている部分は多いですし。
単に今は手術が続いてるので時期が悪いだけで。
「というわけで、先生もあの部屋で一夜明かしてみるときっと楽しいよ。おすすめ物件」
そういうと嵯峨先生も苦笑いして、二人して
「業務に差し障りそうだから遠慮するよ」
って首を横に振った。
残念だ。もし実現したら私が楽しい一夜を過ごせたに違いないのに……。
一度、白田先生も交えて、この「どSズ」たちと、高校生男子も裸足で逃げだすようなあけすけな話がしてみたいと思い始めていただけに非常に残念だ。
私は肩をすくめて、西田先生からお守り代わりに睡眠薬をもらって、部屋に戻った。
結論を言うと、隣のおばあちゃんはとても我慢強かった。
麻酔が切れて痛みが出るときも声を殺しているようだった。
そして。様子を見に来た看護師さんにやっと、自分で痛み止めがほしいと申し出ていた。
なんてすばらしい。
そして痛み止めを飲むと、静かに眠った。
とても我慢強いおばあちゃんだと思ったけれど、同時に漠然とした不安も感じた。
自分が経験したから、とか、そんなのは関係なく。
本当に痛みがあるときは痛みを訴えてもいいと思うのだ。
あまり我慢しないほうがいいと思う。
特に麻酔の後なんて、その麻酔の種類によっては混乱を生じて仕方ないと思っているし、精神的リミッターが外れる分、大人やお年寄りが子ども返りするのは致し方ないことなんじゃないか、むしろ精神的に健全なんじゃないか、とも思っている。
知識もない個人的持論だけど。
耐える姿はすごいと思うし尊敬するけれど、もし、隣のおばあちゃんが頼れる家族が近くにいなくて、そして一人で耐えてるのだとしたら、それはそれでとても寂しいことだと思ったのだ。
あくまで個人的思いなのだが……。




