3月4日
朝のコースを済ませ、洗面所で朝の身支度をしようとした私は眉を寄せた。
何か、おかしい。
臭う。
嗅いだことのあるそれの正体を探って、思い当たった。
胃液のにおいだ。いわゆる嘔吐の後のにおいが立ち込めていた。
場所を探るべくトイレを開けてすぐに閉じた。
これは開けてはいけない。
どうしよう。
ほかのおばあちゃんたちは、それぞれベットの近くにポータブルトイレがあるから大丈夫だろう。
そして私も、近くのトイレを使えばいい。だからそれはいいのだが。
このままではまずい。
困っていると、昨日の夜の若い男の看護師さんが巡回で来たので
「ごめん、トイレ、起きてたらこうなってたんだけど、どうしたらいい?」
相談したら中を確認して
「これは……すぐに清掃入ってもらいますね」
そういってポケットからピッチを取り出すと内線をかけて掃除の手配をたのんでくれた。
「申し訳ないですがお願いします」
謝罪しつつほっと胸をなでおろす。
「一応確認しますが、高橋さんの調子が悪い、とか?」
「そう見えますか?」
「いえ。とてもお元気そうに見えます」
「ありがとうございます。おかげで元気です」
まあ、あくまで確認なんだけど。
看護師さんも目星がついているようで奥のカーテンを見る、
「あの方ですか。昨夜牛乳飲んでたみたいですが」
「まあ、冷蔵庫に入れてたといっても、よくこの冷蔵庫冷えないってぼやいてらっしゃったから、電源の入ってない、この27度設定の室温に置かれてたいつのものかわからない牛乳がどういう状態かは……想像に難くないですよね」
看護師さんは苦笑いして、くだんのおばあちゃんのところに入っていった。
患者さんはいろんな人がいる。
この病棟の患者でたぶん最年少は私だ。
基本的におじいちゃんやおばあちゃんばかり。
個室にいたころの夢の日々に、扉をどんどんとたたいていたおじいちゃんがいた。夢じゃなく、現実に扉を開けろ、開けろとたたき続けていた。
そのおじいちゃんはいつの間にか退院された。
そのあと別のおじいちゃんが、大きな声を張り上げて人を呼ぶようになった。「誰か、私とお話をしましょう」「誰かいませんか、来てください!」退屈でも歩ける患者さんは談話室に集って会話をしたりしているけれど、基本的にこの病棟にいる患者さんは一人で動けない人のほうが多い。
病院は退屈で、そして窮屈だ。
十人十色。家族の接し方も十人十色。
患者さん一人一人の病院での過ごし方も、皆それぞれ。
つくづく感じた。
同室のもう一人のおばあちゃんのところに、朝早くから娘さんが来て付き添っていた。今日、朝一番に手術するらしい。
脳外科の手術だと、しばらくICUにはいったりするけれど、外科だったり整形の手術だったりすると、手術直後から病室に帰ってくる。
しかも手術の間、家族はこの病室で待っていなければいけないらしい。
なかなか科によって違うものなんだな。
私はぼんやりと思った。
この日、嬉しい知らせがあった。
シャワーが開いていたら、声をかけたらいつでも入ってよくなった。
そ・し・て!
ついに!
おしめが外れた!!!
やった!!!
さよなら、紙おしめ!
ショーツは着替えの中にお義母様がちゃんと用意してくれていたのでばっちりだ!
リハビリ後、シャワーを浴び、ごわごわしないすっきりしたお尻周りに、私は非常に満足した。
ひゃっほい!
病室に戻ると、隣のおばあちゃんは明日が手術らしく、今日は朝から検査検査が続いていて、ご飯を食べた後また検査に行ったんだけどまだ戻っていなかった。
今日が手術のおばあちゃんもまだ戻っていないようで、娘さんが静かに本を読んでいた。
もう一人の例のおばあちゃんはまだ体調がすぐれないようで、内科を受診しに行ったらしい。
私がベッドの上で図書コーナーで借りてきた本を読んでいると、西田先生と嵯峨先生が一緒にやってきた。
「体重減った?」
嵯峨先生が私を見るなり尋ねる。
開口一番それかよ!
「減ってません」
私が本を閉じながら言ったら
「減らさなきゃだめだよ!」
嵯峨先生が目を丸めて言った。
くっ、沈まれ、わが右腕よ! ……って、いや違う。
「そっか。じゃあ白田先生にもっと自転車こぎさせてって言わなきゃな」
嵯峨先生が遠くを見ながら言った。
あー……私のリハビリに自転車こぎが始まったの、それでですね?
了解しました。
私の目もぬるくなる。先日からリハビリで自転車こぎが始まったのだ。
最初こそ、心拍数が上がりすぎて短時間で切り上げられたけど、今日は15分こいだ。
まあ始めたばかりなので、ぼちぼちと。
「で、どう?」
どうって、なにが?
「退屈です」
言ったら嵯峨先生がぷはっと笑う。
「いいねえ、退屈! 変わる?」
「変わりません」
絶対にヤダ。
程よく忙しく、程よく退屈、それぐらいがちょうどいい。
今の生活は私は退屈ばかり、嵯峨先生たちは忙しいばかりだ。
それなら退屈のほうがまし……ましじゃないけどまし。
「今日、頭痛いのはどう?」
「今のところは大丈夫です」
「やっぱ天気かなあ。今日は晴れてるもんな。昨日は天気悪かったから外来にも頭痛いっていう患者さん結構いたよ。天気と一緒に頭の痛み方メモしたらどう? 気象予報士になれるかもよ」
天気によるんですか。
そんな気はしたけど、やっぱそうなんだ?
「でも気象予報士にはなりません」
私が笑うと先生も笑った。考えといてよ、って。
夜、私の携帯が震えた。
かなちゃんからだった。
きた。
私は胸元を押さえつつ電話に出た。
「ごめん、ちょっと待ってて。談話室まで移動するわ」
大部屋で携帯はできない。私は足早に談話室に移動した。
誰もいない談話室。
そこに入って、私は開口一番謝った。
「ごめん、黙ってて」
『いや、それはいいんだけど。今会話しても大丈夫?』
「うん。もう談話室の中だから」
『移動って、自立歩行? 車いす?』
「もう一人で歩いて移動してるよ」
言うと、彼女は安堵した様子だった。
『いつなったの? くも膜下』
「んーと、2月8日」
『ああ、もう血管攣縮の時期終わってるんだね』
さすが本職さん。すらりとそれが出てくるのか。
彼女は看護師になってずっとICUで看護師をしている。普段遊ぶ時はそういう風に思ったことなかったけど、するすると専門用語が出てくると、やっぱり看護師さんだったのねと感心した。
『再出血とか、大丈夫そう?』
「再出血は、手術中になったらしいよ? それからは大丈夫」
私が言うと、手術中かよ、とつぶやきが聞こえた。
『とりあえず、明日行くわ』
「うん。ありがとう。あ、午前中はリハビリしてると思うのでお昼からでお願いします」
『わかった、お昼からね』
簡単な会話だったけれど、とりあえず首はつながったか!?
「ありがとう」
それから心配かけてごめん。
かなちゃんに言葉をかけて電話を切る。
私は額の汗を拭きつつ再び自室に戻った。
部屋に戻ると、部屋の明かりが消えていた。今日手術だったおばあちゃんの娘さんも帰るところだったようだ。
「お母さん、もう帰るね」
「心配かけたなあ、ありがとなあ」
おばあちゃんは眠そうな声で言っている。娘さんは私と目が合うとぺこりとお辞儀をして帰って行った。私も会釈をして自分のスペースに入る。
さて、今夜はどんな夜になるやら……。
隣のベッドのおばあちゃんはとても静かだ。
お向かいのおばあちゃんは、どうやら目が覚めたらしい。
「ないんじゃがな」
また何やら探し始めた。
多分おなかがすいているのだろう。
夕飯のときに寝ていてご飯を食べ損ねていたから。
「また勝手に持って行ったんやな」
おばあちゃんはぷりぷりしながらふて寝を始めた。
私は湯冷ましを飲んで目を閉じたのだけれど。
「痛い痛い、いたあい!」
その声で目が覚めた。
ガバッと起きて眼鏡をかける。
「痛い、痛いよう」
泣き声だった。
今日手術をしたおばあちゃんの声だった。
どうやら麻酔が完全に切れたらしい。
「お邪魔します」
私はそのおばあちゃんのところにそっと入った。
おばあちゃんは眠っていた。
けれども、痛そうに顔をゆがめていた。
「おばあちゃん、痛いの?」
尋ねると、しばらくして大丈夫と声があった。
ああ、私がよく先生に痛いの? って聞かれたら痛くないって答えて、先生いなくなったら痛いって喚きだし、家族がどっちだよって突込みが入ってたのはこれか……。
聞いた話を思い出し苦笑いする。
「そう。じゃあ、辛くなったらナースコールするんだよ。これ押したらいいからね」
おばあちゃんの手にナースコールを握らせ、私はその場はいったん離れて自分のスペースに戻ったけれど。
ほどなくして再びおばあちゃんが痛い痛いと繰り返した。
「どうしたの?」
尋ねると、おばあちゃんは
「これ押しても、私がしてほしいことしてくれん」
そう泣いた。
「そばにいて」
と。
しわしわになった手が伸びてきたので、私はそっと手を握った。
さて、どうしよう。
私はおばあちゃんの顔を見つめた。
おばあちゃんは夢の中で混乱を起こしている。
私がこのままこのおばあちゃんにつくわけにはいかない。理由は私もまた病人の一人だからだ。そしてこの部屋には明日手術を受けるおばあちゃんもいて、その人に万が一のことがあってもいけない。
ここはもうナースコールを押すしかないか。
おばあちゃんの点滴も、もうなくなっていたようなので、私はナースコールを押した。
『どうしました?』
ほどなくスピーカーから尋ねられたので
「高橋です。このおばあちゃんの点滴終わったみたいです」
声をかけた。すぐ行きます、その言葉通りほどなくしてきてくれた。
来てくれた看護師さんは、私がおばあちゃんの手を握ったままだったから
「どうしたの?」
って目を丸めた。
これこれこうこう、という理由を説明している間も、看護師さんは作業をしていて、新しい点滴に付け替えている。
点滴を付け替えた後、看護師さんは、そうかって笑って、でもこのままじゃ高橋さんが眠れないし、じゃあ今夜は詰所でこのおばあちゃんを預かるよ、といってくれた。
そうと決まれば仕事は早い。
扉を全開にして、ベッドごと移動を開始する。
が。
点滴スタンドが別体だったため、引きずられて倒れそうになるというあぶない事態が勃発。
これは一人では運べない。
「一緒に行きます」
私は点滴をガラガラ押しながら詰所までご一緒した。
今夜は西田先生は残っていなかった。夕食のお膳を返しに来た時に『また今夜も遅いの?』って聞いたら『今日は早く帰るよ』って言ってたから、まあちゃんと帰れてたようでよかった、そう思った。
が。
かわりに詰所に見慣れたおばあちゃんがいた。
ご飯食べ損ねておなかすいたって言ってたところまでは知ってたけど、いつの間に外に出たのだろう。
「あのおばあちゃん、どうしたの?」
尋ねると看護師さんが苦笑いした。
「放浪してたみたいだから保護してるの。今夜はあのおばあちゃんも預かるわ」
そ、そうですか。
よろしくお願いします。
看護師さんにお礼を言った。
「で、高橋さんはもう眠れそう?」
尋ねられたので、しばし考える。
さっきうとうとしたところから目を覚ましたものだから、しばらく眠れそうにない。
「あったら睡眠薬がほしいところです」
そういうと、それくらいお安い御用と看護師さんは詰所の中で私の薬袋をあさった。
前は処方されていたのだ。
が……。
「あれー。もう残ってないなあ。西田先生に電話しよう」
言うなり受話器を取り出し短縮ボタンを押す看護師さんに目を丸めた。
「いやいや、そこまでしては……」
「いいのいいの。待っててね」
時計は22時半を超えている……。
いやいやいや、えええええ!? 一般常識的に個人に電話をする時間じゃないですよ!? 寝てるんじゃないの!?
私の焦りをよそに、看護師さんは西田先生と話をして薬の了解を得たようで、ご機嫌に戻ってくる。
そして別の引き出しから薬を出すと、私の手に一粒チョンと乗せた。
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
「ありがとうございました。なんか、いろいろすみません」
「いいのいいの、こっちこそありがとうね」
私は睡眠薬をもって自室に戻った。
睡眠薬欲しかったのは本当だ。
でも、ね!?
なんというか。
ごめんね!? 西田先生!!
私が早く帰れって言ったのに、その私の案件で夜に電話がかかってくるとか!
『いつコールあるかわからないから子どもと一緒に寝れないよ』そう寂しそうに言ってたのに、私がこの時間に電話かけさせちゃってるとか!! つまりこんな感じでコールが夜中でもかかってくるってことか!?
そりゃ子どもと寝られないよ!
うわあああ、本当にごめんなさいぃぃぃ!!
何気なくあったらでいいから睡眠薬が欲しいってぐらいの気持ちだったのに、まさか帰宅後の先生を巻き込むとは……。
心の中で盛大に謝罪したわ……。




