3月2日
朝、有志から携帯に電話があった。
「今からそっちに行く。洗濯とかある?」
「今朝着替えたからあるのはあるけど……仕事は?」
「今週は遅出なんだ。今顔見て、それで仕事行く準備する」
「そっか。気を付けてきてね」
電話を切ってすぐに看護師さんが私にリハビリの案内を持ってきた。
9時半から、白田先生のリハビリ、と。
ここに書いてはいないけれど、そのあと今井先生のリハビリも続くのを知っている。
時計を見ればあと10分だ。これからトイレなど身支度を済まさないといけない。
これは、有志に会えないのが決定した。
しかし、どうやって有志に不在を伝えるべきか。
とりあえず、携帯メールを打ち込んで……。
でも運転中の有志がそのメールを見るのはどのみち病院についてからか。
……どうしよう?
私はパソコンの中でワードを立ち上げると、そこに文章を打ち込んだ。
「有志さんへ
リハビリに行ってきます。
昨日お見舞いにお菓子をいただいたので持ち帰ってください。
じゃないと食べちゃうぞ!」
中途半端に伏せて、私は病室を出た。詰所にリハビリに行くことを告げて、一人でエレベータに乗る。
最初こそ迷子になったけれど、あれからは病院内で迷子になってはいない。
図書コーナーにもちゃんと行けている。
リハビリに行く前に図書コーナーで前日借りた本を返し、新たに借りてからリハビリを受けていた。
今の目標は、読書を好き嫌いせずに読むこと。とりあえず、本棚の端から端まで手あたり次第行ってみようか、とか。
……要するに暇なのである。
白田先生のリハビリと今井先生のリハビリが順調に終わって病室に戻ると、有志の姿はなかった。
残念。
そしてパソコンのふたが完全に閉じていることに気づいた。
あれ? さっきと違う。
そう思って開いて、私は思いっきり噴出した。
有志は私の残したメッセージに気づいてくれていた。
それだけじゃなく、返信も残してくれていた。
「由乃さんへ
;+;
おらんかった+おかしはいただいた。
フーハハハハハ
テレビカード追加購入してます。
詳細はCMのあと、昼頃電話します。
今日から遅出なので、しばらく来れないと思いまう。
失礼 かみまみた」
なんだよ、この返信。
私の腹筋を崩壊させる気か!?
有志は、ミリタリーオタクでついでにアニメオタクだ。
オタクに関しては私もあまりに人のことを言えない。おかげで、有志がネタに使っている言葉遣いの出典がすべてわかるくらいには私も腐っている。
つまるところ、私たちは趣味方面で似たもの夫婦だ。
「なによ、これ。たまんないなあ」
私は目じりににじんだ涙を指で拭った。
久々に笑った。
いや、声を出して笑ったらまずいから必死で我慢している。
我慢しすぎて頭痛い。
あまりに頭痛くなってきたから、私は時計を見た。まだ前に飲んだ痛み止めから6時間たってないから、次が飲めない。
「氷枕もらって来よう」
こういう時は冷やしてみるのも一つの手だ。
私は詰所に向かった。
詰所に行くと、カウンターのところで西田先生が難しい顔をしてパソコンをにらんでいた。
最近、主治医の顔を見たらどうやって勝負を仕掛けようかな、とわくわくしてしまう。
何の勝負かわからないけれど、ついちょっかいを出したくなるのだ。
が、隣に年配の大先生がいたので自重した。
この病院の脳外科に医師は3人いる。
若い順に、西田先生、嵯峨先生、そしてこの大御所の先生だ。
大御所先生はあまり詰所にいないので、レアな先生でもある。
ただ、平日の何回かは午後から脳外科の先生3人による大回診があることもあるので、一応私も顔は知っている。
ほとんど話をしたことはないけれど。
「高橋さん? どうしたの?」
西田先生が私に気づいて顔をあげた。
御免なさい、邪魔しちゃった。
「次の痛み止め飲める時間までもう少しかかりそうだから、アイスノンでごまかそうかなと思って、もらいに来ました」
私が言うと、奥にいた看護師さんがちょっと待ってて、と冷凍庫の扉を開ける。
「やわらかいの、まだ凍ってないからこっちでもいい?」
水色の一般的なアイスノンを掲げたので、頷いた。
好みを言えば、透明ジェルの柔らかいアイスノンが好みではあるけれど、凍ってないのなら仕方ない。
お礼を言いながらアイスノンを受け取っていると
「……頭、痛いの?」
先生に聞かれて苦笑いする。
「ちょっと笑うの我慢しすぎちゃって」
すると先生が笑った。
「我慢しなくてもいいじゃん、そんなの」
「や、一人部屋だったら声出して笑ってますけど大部屋だとそういうの気を使いますよ」
一人部屋で一人、パソコン見て笑うのもどうかとは思うけれど。
「なにがそんなに面白かったの?」
まさか夫婦の伝言板で笑ったとは言いづらい。
かわりに私は今朝見たとっておきの動画を言った。
「猫がね、トイレでトイレットペーパーをからからと回してほどくんですけど、それが回しすぎて、ほどいたペーパーを全部また芯に巻き付けるんですよ。めちゃかわいかったから」
いうと先生が苦笑いした。
「動画か。あまり目を使いすぎてたら疲れるよ」
その通りですね。
私は頷いた。
お昼ご飯の後、お白湯を飲みながらぼんやりしていると、先生たちの大巡回がやってきた。
私の経過について大御所先生に嵯峨先生が説明して、大御所先生が「調子はどうですか?」私に尋ねた。
「おかげさまで、今は落ち着いています」
答えると、頷いて次の患者さんへ移動していく。
けれど、西田先生だけ私のところに残って少し考える顔で言った。
「高橋さん。最近毎日痛み止め飲んでるけど、でも、それ効いてないよね」
え?
意外な言葉に私は驚いて先生を見上げた。
「ボルタレンにかえてもそうなるのなら、体が薬に慣れすぎたかもしれない。しばらく我慢してみようか」
これは本気の顔だ。
たしかに、痛み止めを飲んでも効いたか効いてないかわからないうちに次の痛みに襲われている。
言われてみればその通りだ。
だけど、飲んだら駄目ですか!?
しかも、対処方法が我慢、とか!!
まじか……。
私はがっくりとうなだれた。
外は嵐が来そうなどんよりとした空。
私の心も重く沈んだ。
頭痛を紛らわせるためにアイスノンに頭を押し付けて眠っていると
「由乃さん、洗濯乾いたわよ」
お義母さんがパジャマや下着を持ってきてくれた。
お礼を言ってそれを受け取り、棚にしまう。
そのあいだにお義母さんが今日の洗濯物を鞄にしまってくれた。
「由乃さん、ちょっと下で事務手続きしてくるわね」
お義母さんが財布と封筒を小さな手提げに移し替えて立ち上がる。
「事務手続きですか?」
「そうよ。高額医療の手続きを終わらせなきゃあなたの入院費の2月分が支払えないから」
あわわわわ。
元市役所勤めのお義母様はこういう時なんとも頼もしい存在だ。
「何から何まですみません。ありがとうございます」
完全に頭が上がらない。
頭を下げお見送りするばかりだ。
病室の中は暑いくらいに暖かい。
27度設定にしているとか。
看護師さんのなかには半袖で仕事している人もいる。
元気だなあって思うけれど、でもこの温度が熱く感じるのは私も一緒だった。
痛み止めを飲むの我慢しようか。
頭痛で頭を押さえるたびに西田先生の声がこだまする。
我慢するから。
ちゃんとするから、おさまってよ。
けどいつまで我慢したらこの痛いのがなくなるかな?
くも膜下出血を起こしたときのような痛みじゃない。
ガンガン痛いのとも違う。
ぎりぎりと締め付けられているのだ。
私がベットでのたうち回っていると今夜の当番らしい栄子さんが
「由乃さん、そんなに痛いのに我慢しないほうがいいよ。退院したらもっと我慢しなきゃいけなくなるのに、入院中は痛み止めでも睡眠薬でも飲んでもいいんだよ?」
私に言った。
よっぽど見かねたのだろう。
もう一人の看護師さんにもうんうんと頷かれ、
「このままじゃ夜眠れないよ」
その言葉には私も頷いた。
この痛みを抱えたまま眠れる自信はない。
私は痛み止めをもらうことにした。
「でも、もう少しして、寝る前にもらいに行きます」
少しでもぎりぎりにしたい。
「あとで持ってこようか?」
栄子さんが尋ねるけれど、私は頭を横に振った。
「ううん、あとで詰所までもらいに行きます。ありがとう」
21時。
もう痛み止めを飲んでもいいだろうか?
部屋の電気は例によって消えている。
携帯の明かりを頼りに靴を履いて、昼間もらってすっかりぬるくなったアイスノンを持って廊下に出れば、廊下はまだ煌々と電気がついていた。
ぺったんぺったん自分の足音だけが響く。
ひときわ明るい詰所を覗き込んで、私は眉をしかめた。
……西田先生、まだいるんだ?
「先生こんばんは」
「うん。こんばんは」
挨拶したら先生はパソコンから顔をあげた。
それからじっと私の顔を見上げて
「やっぱ痛い?」
聞かれたので頷く。
「我慢してたけどこのままじゃ寝れそうにないから。痛み止めもらってもいいですか? あと、アイスノンの交換もお願いしたくて」
奥にいた栄子さんがてきぱきアイスノンを出してくれる。薬も先生が苦笑いしながら出してくれた。
「ごめんなさい。飲むの我慢しようって言われたのに」
なんとなく言いつけを守れなかった気分だ。
しょんぼりしていると
「まぁ、僕らもその痛みを完全に取り除くことはできないから仕方ないよ」
先生が困ったように笑った。
この頭痛とはいえない頭痛と、今後どれだけ付き合うことになるのだろう。
少しでも早く消えるといいのだけど……。




