2月28日
24時間点滴が終わり、先生たちからのお帰りなさい宣言の後、私はあまり昼間に眠らなくなった。
かわりに、頭痛に悩まされる時間が増えた。
どうやら、点滴の中に痛み止めや安定剤が入っていたらしい。
なのに、夜眠れなくなるから昼間寝たらダメだって言われていたとか……。眠くなるの当然だったのに、そんなこと言うなんてどれだけ鬼畜……。
ところで。
大部屋になって気づいたこと、というか人間の器官の中で最も大事にしたいなと痛感した出来事があった。
耳。
人間、これだけは本当に大事にしたほうがいいと思う。
私は入院生活でそのことを心から思った。
耳がいいと、多少認知症が入っていようが、会話の声は穏やかだ。
お互いに穏やかに会話を楽しんでいる。
ただし手話言語を習得している患者さんはこれにあてはまらない。静かに穏やかな会話を楽しんでいるからだ。
だが、そうではなく、加齢などにより耳が遠くなると当然ながら付き添う人たちの声が大きくなる。
さらに何度説明してもその声が聞こえないとなると、口調が荒くなる。
けんか腰で話すようになると最悪だ。
とどめに「聞こえないからもういいや」という事態になるともう言葉にならない。
荒くたくて、大きな声は女性のものも男性のものも受け付けない。
聞いていると頭が痛くなる。
一人部屋では感じなかった苦痛を、大部屋で味わうようになった。
耳、大事。
本当に大事!
私は退院するまで、耳の機能のありがたさをしみじみ実感するのだった。
28日
大部屋の朝は早い……。
おもに、おばあちゃんたちの朝が早い。
朝が早いということは夜も早いということだ。
夜9時の消灯に対し、夕ご飯が終われば、することがないとばかりに電気が消えている。
そして看護師さんが「まだ早いよ!」と電気をつけていくのだけど、看護師さんがいなくなると『なんでつけるんじゃろな!』とぷりぷりしながら電気を消すといういたちごっこが繰り広げられている。
それに強制的に付き合っているせいで、早寝になり、朝の4時ごろには目が覚めてパソコンで静かに遊んでたりするんだが。
この日は私は朝からめそめそしていた。
漠然と将来に対して不安を感じたからだ。
もし、本当に自分の体に後遺症が残っていたとして、どう付き合えばいいのかわからない。どんな後遺症が残っているのか、本当にわからないからだ。
「高橋さん、おはよう」
「おはようございます」
朝6時より少し早いくらいに看護師さんがやってくる。
今朝の看護師さんは同じ地元の佐藤さんだった。この病棟は世間が狭いらしく、看護師さんだけで同級生の美晴さんや栄子さんを含め、近所の人が3人いることになる。
佐藤さんに血圧や体重、酸素濃度を測られつつ、もう一人の看護師さんに昨日の尿と飲水量を報告する。
「あと変ったことない?」
佐藤さんに聞かれて、私は佐藤さんを見上げた。
「……先生の無料カウンセリングコース受講希望です」
私が言うと佐藤さんは笑った。
「西田先生だね。当直明けただろうからおいでるよ、大丈夫、言っておくよ」
それからはたとして私の顔を見た。「ねえ? そんなメニューあるの?」
私が笑った。もう一人の男の看護師さんも笑う。
「ないない、ないですよ。ただあったらいいなあと思って、言いました。あと嵯峨先生にそんなこと言ったら冷たい目で黙殺されるのも知ってますよ」
私が言うと看護師さん二人が爆笑した。違いないって。
西田先生だから通じるんだよ、こういうの。
カウンセリングと相談室、どっちをいおうか迷った。
なんとなくニュアンスが違うと思う。
相談室は助言を得ることを目的にすると思う。
けれど、カウンセリングは相談して助言を得るというよりも、もう少し自力な気がしたのだ。個人的な感覚として。
とりあえず話を聞いてもらってべたべたに甘えたい。
そういう意味でいくと、嵯峨先生に相談するのは容赦なく切り捨てられそうだから却下した。まだ、西田先生のほうが甘やかしてくれそうな気がする。
リハビリが終わり(今日で残念なことに河野先生のリハビリが終了した。『言語面は問題なさそうなので』と。喜ばしいことなんだけれど、あまりに寂しかったので、またお時間のある時はおしゃべりしましょうね、とお別れした。)、シャワーを浴びて浴室を出ると、詰所のカウンターで西田先生が仕事をしていた。
当直明けとあってかなり眠そうだったけれど、西田先生は私を見ると手を振った。
「ごめん、お昼から行けると思うから」
私は頷いた。
「ありがとうございます。でも無理しなくていいですよ」って、声をかける。
うん、そこまで深刻じゃないし。
昼を過ぎたころ、有志がやっていた。
有志も仕事が忙しいようで、少しイライラしているのが分かる。
それでも、頼みごとがあるので、頼むことは頼みたい。
「加奈子の高校入学祝と、真ん中のお兄ちゃんのところの芹香の中学入学祝がいるんだ。新札を作ってきてほしいんだけど頼んでいい?」
すると有志が眉をしかめた。
「お金を用立てるのはいいけど、わざわざ新札にしなくてもいいんじゃないの?」
私は顔面を覆った。
しまった、相談する相手を間違えた。
こういうことは、お金を持ってきてもらってから、お義母様に『すみませんが新札に両替をお願いしていいですか』と頼むべきだった。
「いや、喜び事のお金はなるべく新札だから」
何故私は自分より年上の男に一般常識を説かねばならないのか……。
まあ、そういう事情に疎そうな人は多いけれども。
それにしても、彼も痩せた。
頬のあたりがげっそりとやつれている。
「お金の話はいったん置いといて、有志さん。ご飯食べてる?」
お義母さん、ごはんしてくれてると思うけど、ちゃんとそれ食べてる?
夫は好き嫌い多くて、気にいらないことがあるとすぐへそを曲げてしまう。ごはんだってそうだ、嫌いなものや食べたくないものがあると「腹へってないから」そういって、食べずに寝てしまう。
「食べてるよ」
そうは言うけれど、あまり期待できない。
結婚する前『食事はカロリーメイト』と公言していたのを思い出す。
ちゃんと親と同居してるんだから、作ってくれるご飯はちゃんと食べなさいよね。
私は苦笑いをしながら有志を見上げた。
先日借りた本を読んでいると、西田先生がやってきた。
「ごめん、おまたせ」
時間は午後三時。
当直明けなのに、まだいるのか。どれだけ病院好きなの。てゆか医師のシフトってどうなってるの。
ありがとうございますってお礼を言いながら苦笑いを浮かべた。
本当は先生に相談したいことがあった。
けれど。
私はちらりと有志を見て先生を見上げた。
あまり夫に聞いてほしい内容ではないと思った。
「すみません、忙しいのに」
私が言うと
「いいよ。今日は旦那さんが来てるんだね」
「やっと休みなんで」
有志が笑いながら頭をかいた。
「交代シフトは大変だね」
「本当にそうですね」
有志と先生がしみじみと頷きあう。こういうのは、そういう職種の人じゃないと理解できない内容だ。
それから先生は私を見て首をかしげた。
「今日はどう?」
「おかげさまで、ボルタレンになったら痛み止めが効いてます」
薬のチェンジをお願いしてから、ほどなくして、きりりと切れ長の目をした、俳優のようにきれいな顔をしたイケメンの薬剤師さんが薬の説明に来てくれた。
薬の説明なんて右から左だ。ついつい観察してしまう。この病院はどれだけイケメンをそろえているのか、と。
それはさておき、そこからはちゃんと効く痛み止めが処方されるようになった。
おかげで今は頭痛とおさらばして気分がいい。
「そっか、ちゃんと効いてよかった。もう少し様子を見ていけそうだったら、外出してみたらいいよ」
「外出、していいんですか?」
先生の言葉に有志が目を丸めた。
「うん。少しずつ慣れて行かないと。外出で行けそうだったら外泊もやってみてもいい」
先生が有志と私を見る。
外出に、外泊。
私と有志は顔を合わせた。
入院生活がこの先、どれくらい続くかわからない。
「あ、じゃあ、3月の半ばくらいに職場の修了式があるんです。年長さんのお見送りと、あと子どもたちにちゃんとお別れできてないから、してきたいんですが、いってきてもいいですか?」
私は先生を見上げた。
一番の心残りは一緒に遊んできた子どもたちのことだ。あまりに急すぎて、なにもできていない。
職場の一緒に働いてきた面々にもまだちゃんと挨拶していない。
いっぱいお世話になったのに。
私が顔をあげると先生は笑って頷いた。
「うん。いいと思うよ」
それはうれしいかもしれない。
心の中のつっかえが軽くなる。
「外出ついでに、ハローワークいってもいいですか? 退職したらいろいろ手続きがあるし、職業訓練とかの技術学校、面白そうなのがあったら行ってみたいし」
私が言うと先生はそれにも頷いた。
「ハローワークだったら合間を見て行ってもいいと思う。もちろん今一人で行っちゃだめだよ。家族と行くっていう前提。職業訓練も……そうだな、時間が合うなら行けるかもしれない」
なるほど。
いってもいいのか。ハローワークはともかく職業訓練校までもとなるとちょっと衝撃。
「職業訓練って、何がしたいの?」
先生に聞かれて私は窓の外を見た。
「そうですね……。前に取り損ねたCADも、もう一回チャレンジしたいし……もし、前の職場に戻れるなら、ちゃんと保育資格取りたいかもしれません」
今までしていた仕事は、あくまでも保育補助。保育所は保育資格がいることが多いが、あそこは保育資格がなくても大丈夫だった。
でも、足りないことが多いと痛感した。
もし再びあそこに戻れるのなら、ちゃんと資格を取ることを考えたい。
私が言うと、先生はそれもいいねと笑った。
ついうっかりと長話をしてしまった。
私はお礼を言って先生を見上げた。
それにしても、と、これまでずっとため込んでいた本音がポロリとこぼれた。
「先生も、昨日の朝から家に帰ってませんよね? 当直明けからずっと残って今も仕事してるって、医者ってつくづくブラックな仕事ですね」
私の口から出た言葉に有志が目を丸めた。
「ちょ、由乃さん!?」
「いや、うん。助けてもらってるのに、こんなこと言っちゃいけないのはわかってるよ。けど、先生、ずっと病院にいるでしょう? 椅子で寝ちゃうくらい疲れてるのに。世の中いろいろブラック企業の話いうけど、私だって一度30日連続で勤務しちゃったこととか、月の残業がすごく増えて体のバイオリズムくるっちゃうくらいに仕事にのめりこんだ時期があったけど、でも先生、それはあとで必ず体を悪くするよ? 先生はまだ若いからできるって思ってるかもしれないけど、続かない。ちゃんと休む時は休まないと。……先生たちの勤務見てたら、本当に医者はブラックだって、心配になる」
私は西田先生を見上げた。
ずっと先生たちをみていた。
いうべきじゃないって思う。でも、もう止まらない。
もし誰も言わないんだったら、先生たちはこんなもんだと流し続けてしまうかもしれない。
でも、そうじゃない。
「今、お医者さんって産婦人科だって小児科だって少ないって問題になってる。きっと脳外科だってそうだよ。先生がちゃんと志もって医者になったっていうのはわかるけど、医者だって人間なんだよ? 志だけで無理やってたら体がダメになるよ。ぜったい、体制を見直したほうがいいと思う」
私が言うと西田先生がふんわり笑った。
最初のあの厳しく睨まれていた怖い目が嘘のような穏やかさだ。
「ありがとう。でも大丈夫、ちゃんと休む時は休んでるから」
本当かな?
私は首をかしげた。
「本当に休む時は休んでくださいよ? でもおうちで子どもとも遊んでほしいな」
私が言うと、先生は顎に手を当てて、あー……とうめきながら天井を見上げた。
「そうだね。心がけます」
そうだよ。
子どもは、お母さんだけが育てるんじゃない。お父さんはご飯の種を作るだけじゃいけないんだから。
あとで有志に怒られた。
夜通し14時間も手術をして助けてくれた先生にあんなこと言うなんて、さすがにいけないよ、と。
そうかな?
でも、私、自分では間違ったこと言ったつもりないんだ。
「先生、気を悪くしてたに違いない。怖くてそっち見れなかった」って有志が言うけれど、いや、先生そんな怒った感じじゃなかったと思うんだけど。
でもまあ、ね? 自分の仕事をブラック呼ばわりされたら気分は良くないか。
それは思う。
折を見て先生に謝ろう、そう思った。
夕飯が終わり。
おばあちゃんたちが消灯を前に早々に部屋の電気を消してしまう。
とはいえまだ眠たくない。
私はスタンドの電気をつけて、パソコンを開いていた。
作っていたのは、修了式に届けようと思っていた祝電だ。
もし外出許可が下りて、そして上司たちに列席を許してもらえるのならば、必要ではなくなる。
しかし、今のところ五分五分だ。
「うん。あとこれに折り紙とかでデコればいい感じかな」
私は出来上がったそれを見て頷いた。
と。
「高橋さん、起きてる?」
カーテンの向こうでかすれた声が聞こえた。
「起きてますよ」
返事をしながら、正直驚いていた。
「……先生、まだ帰ってなかったの!?」
入ってきた西田先生を見て正直な声が駄々漏れる。
時計を見ればもうすぐ8時だ。
いやいやいや。
「うん、もう帰るんだけどね。その前にさ」
先生は頭をぼりぼりとかいた。
だったら帰りなよ。
だって昨日の朝からずっと病院にいるんだよ?
せっかく謝ろうって思ってたのに、こんなんじゃブラック企業だって裸足で逃げちゃうよ。
あれだね、医者の世界はブラック通り越して暗黒決定。
「どうしました?」
先生を見上げたら
「うん。昼間の時旦那さんいて、話を聞けなかったんじゃないかって気になってさ」
先生が首をかしげて私を見た。
そういえば、今日いろいろ話したけれどそのことについては話しなかった。
でも、ちゃんと気づいててくれたのか。
私はうれしくなった。
一人めそめそ迷ってたことがすうっと軽くなる。
「なんか今日話したので結構すっきりしちゃったから、大丈夫。もう少し頑張れそうな気がします」
これは本当だ。
今、先生が来てくれたことで……、私の悩みに耳を傾けようとしてくれたことで、全部帳消しになった。
「ありがとうございます」
私がさっぱりした笑顔で言ったものだから先生はきょとんとして、それから小さく笑った。
「うん。なんか大丈夫そう」
「ええ。私より先生のほうが今は危ないですよ」
いうと先生は違いないって笑った。
うん。
弱気になったらいけない。
前を向いて、今できること頑張ろう。




