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2月26日

 今日は引っ越しがある。

 朝歯磨きをしてたら、看護助手さんが計量カップをもってやってきた。

 「高橋さん、お願いがあるんだけど」

 「はい、なんでしょう?」

 私は首をかしげた。

 すると看護師さんが申し訳なさそうに言った。

 「ポータブルトイレが足りなくなったから高橋さんのを回収しなきゃいけないの」

 はあ。

 「いいですよ? 自分でトイレいけますし。あ、でもインアウトのアウトって?」

 私は尿の量を計測している。どうやら尿の比重もとっているらしいし。

 それをどうするのか?

 そう思っていると、看護助手さんが計量カップを掲げた。

 「自分で量を測って調べてもらってもいいかな? 検尿するときは事前連絡するから取っておいてもらえると助かる」

 なるほど、そういうことか。

 「わかりました。尿の量は、たしか飲水量の表のところに書く欄があったんでそこに書いて足し算していったらいいですか?」

 「さすが話が早い! お願いします。ごめんね!」

 看護助手さんはトイレに計量カップを置くと、部屋にあったポータブルトイレを回収していった。

 まあ、これでほぼトイレが自立ということになるのか。

 よかったよかった。

 

 それからほどなくして有志が眠そうな顔をしてやってきた。

 「夜勤明け? 大丈夫?」

 尋ねると有志は眠そうにしながらも、うんと頷く。

 「今日大部屋に行くって言ってたから、必要だと思って」

 そういって紙袋を差し出した。

 出てきたのは、ヘッドセットだ。静穏性を兼ね備えたタイプの奴。

 「イヤホン買うのもばからしいし、これだったら、うるさい時も使えるだろ?」

 今まで個室なので、テレビもパソコンも音を垂れ流しにしていたけれど、確かに大部屋になれば必要だ。

 「助かる。ありがとう」

 有志にギュッと抱きつこうとしたけれど

 「ギュってしたいけど、仕事明けで汚れてるからダメ」

 有志に押し返される。

 「そか。じゃあ我慢する」

 私はヘッドセットをパソコンのところに置いて我慢した。

 と、そこに看護師さんがやってきた。

 「高橋さん、今日のリハビリの時間、これね。もうすぐだから、また迎えが来るよ」

 「ありがとうございます」

 メモを受け取り、そして思い出したように看護師さんを見上げた。

 「あの、主人がいるので、今日は主人と移動しても大丈夫ですか?」

 尋ねると、看護婦さんは笑って有志を見上げた。

 「いいですよ。行くときに、詰所に声をかけてくださいね」

 「はい、わかりました。お願いします」

 私は看護師さんに手を振った。

 「リハビリもうすぐなのか?」

 有志がメモを覗き込む。

 「うん。まだ少し時間あるんだけど……。あのさ、下に図書コーナーがあったんだよね」

 私が言うと、有志がそういえばあったなと頷く。

 「本借りたいから、早めに行こうと思って」

 「ふうん? じゃ、いく?」

 有志の問いかけに私は頷いた。

 

 詰所をみると、今朝は西田先生もいなかった。

 とはいえ、今朝はもうすでに有志が来る前に嵯峨先生の体重チェックは受けてたけども。

 「高橋さん、どうしたの?」

 中にいた看護助士さんが顔をあげた。

 「あ、ちょっと早いけど図書コーナー寄りたいからリハビリ行ってきます」

 いうとにっこり笑っていってらっしゃいと手を振ってくれた。

 そして左に行こうとすると、有志に首根っこ掴まれた。

 「左じゃなくて、右」

 「へ?」

 疑問に思いながら有志についていく。

 すると詰所をまわりこむように移動してエレベーターがあった。

 「ああ、そうか。私、いつも看護師さんと一緒に移動するから、こっちのエレベーター初めてだ」

 ポンと手をたたくと有志が苦笑いした。

 初めて乗るエレベーターなのだから、降りた場所も初めてだ。

 でもエレベーターホールを出ると、見慣れた場所に来た。

 看護師さんと一緒なら反対側から出てくる広い通路、この角を左に行けばリハビリの部屋に行く。

 よし、リハビリには行けそうだ。

 ちなみに、この広い通路は、最初、救急受付まで死にそうになりながら歩いた広い通路だったりする。

 「そっちがリハビリだから、あっちが売店?」

 「そう」

 有志と並んで歩きながら、売店まで行くと、なんだかいろいろほしくなる。

 「寄っていく?」

 有志に声をかけると

 「だめだよ。だいたい由乃さん、お財布持ってないでしょ?」

 残念な反応が返ってきた。

 「えー、そこは有志さんのお財布で」

 「今、財布持ってきてない。駐車場代しか持ってないから買ってあげられないよ」

 有志は手のひらを上に向けてひらひらと振った。

 なんだと?

 たしかに有志は鞄を持ってない。ジャンパーのポケットに入っているのは職場での自販機用に持ち歩く小銭入れだけだ。

 「そっか、残念」

 私はうつむいた。

 そういえば、私は自分の財布やカバンを長いことみていない。

 これまでお金というものを必要としていなかった。

 飲み物は買わなくてもお茶やお水があるし、テレビカードは有志さんや両親が来てくれると買い足してくれているので、お財布がなくても不自由を感じていなかったためともいえる。

 そっか、お金ねえ。 すっかり存在を忘れていたなあ。

 ぼんやり思う。

 売店を過ぎたところで道が二つに分かれた。

 「図書コーナーこっちだったかな。じゃあ、私こっち行くから」

 「うん。じゃあリハビリ頑張れ」

 有志は私に手を振ると表玄関へと歩いていく。

 さて、私は図書コーナー、と。

 こっちだっけ?

 私は外来患者でごったかえすフロアへ足を向けた。

 ……が。

 いや、違うな。

 数歩いって立ち止まった。

 なんだか全く見覚えのないほうへと足を踏み出した気がする。

 とりあえず、こういう時は元に戻って考えるんだけど。

 そんなに距離を歩いていないはずなのに、振り返ると売店が見えなくなっていた。

 あれ?

 なんで?

 ここ、どこ?

 私は自分の居場所を見失った。

 だって、確かにさっきまであったはずの売店がない。

 10mも進んでいないはずなのに、肝心の目印である売店すら見失った。

 なんで? そんなに距離歩いてないのに、どうして?

 まずい。

 心細くなっていると

 「由乃さん、こっち」

 有志が困った顔で迎えに来てくれた。「図書コーナー、こっちだよ」

 手を引いて、その場所に連れて行ってくれる。

 どうやら私は、さっき有志と別れたところからそう遠くない場所で迷子になっていたらしい。

 有志が自分の帰り道に図書コーナーがあることに気づいて迎えに来てくれたというわけだ。

 そして売店を見失った理由、それは廊下の真ん中にあった壁面が衝立のように売店を隠していたからだった。

 売店を見つけてほっと胸をなでおろすと

 「道、わからなかった?」

 聞かれて頷く。

 「今歩いた場所が、覚えられなくって、そんな歩いてないのにわけわかんなくなっちゃった。どうしよう、これ、後遺症?」

 私は有志を見上げた。

 よく先生たちが言っていた。

 どんなふうに後遺症が出てくるかわからない、と。

 くも膜下出血を起こした患者は、三人に一人が病院に着くまでに亡くなる。

 病院にたどり着き手術ができたとしても三人のうち一人は、後遺症が残る。

 そして、社会復帰できるのは残りの一人だ、って。

 この数字は昔に比べると高くはなっているけれど、それでも怖い病気だって。

 後遺症の症状は人によってさまざまだ。言語、身体、高機能、いろいろある。

 今の段階で、私に後遺症が残っているかどうかわからないと先生たちは言っていた。

 ただ。

 「申し訳ないが奥さまの体に後遺症が残った可能性が高いかもしれない」

 有志は医師たちから宣告されていた。

 そして私は知っている。

 母たちが頭を寄せ合い、退院後、リハビリ施設に通う算段をしていることを。

 河野先生の言語のリハビリは順調だ。計算の、簡単な暗記も問題なくできていて、打ち切りの話も出ているらしい。

 しかし。

 白田先生のリハビリで、私は片足立ちをするときバランスが崩れてしまう。

 そして、今日はこんな簡単に迷子になってしまった。

 医師たちや家族が心配しているのはむしろこういうことなのだと実感してしまった。

 「私、もしかして本当に後遺症残ってるのかな」

 今日、初めての道を使った、そしてうろ覚えの場所に行こうとした、だから混乱した、そういう理由だったらいいんだけど……。

 私がうつむくと、有志が私の手をぎゅっと強く握った。

 「大丈夫。どんなことになっても、絶対に大丈夫だから。……本、借りてリハビリに行くんだろ?」

 ぽんぽんと背中をたたかれる。

 その手は優しいけれど、有志の目にはどこか覚悟めいたものが宿っていた。

 私は頷いて、図書コーナーに向かった。


 本を選んで、そして有志がリハビリルームまでついてきてくれた。

 「ごめんね、長くつき合わせちゃって」

 「それはいいよ。けど、帰りは大丈夫?」

 不安そうに尋ねられる。

 「それはもう大丈夫。ここから部屋に帰るのは大丈夫だよ。いざとなったら迎えも来てくれるし。ありがとう」

 今度こそ私は有志の背中を見送った。

 ……これはリハビリを本腰入れてやらないと、大変なことになりそうだ。



 白田先生と今井先生のリハビリにいっている間に部屋が引っ越ししていた。

 リハビリの後迎えに来てくれた看護助士さんと並んで歩く。

 詰所からずいぶん離れているが、希望通り窓側だ。

 新しい部屋に入ると、義母が荷物を前のように整えてくれていた。

 この部屋は4人部屋。私以外の3人はおばあちゃんばかり。

 そのおばあちゃんたちに、よろしくお願いしますと声をかけ、私は義母を手伝った。

 一通り荷物が収まると、西田先生が様子を見に来た。

 「高橋さん、どう?」

 私は苦笑いした。

 「さっき、1階で迷子になりかけました」

 「え? 今?」

 「リハビリに行くときに、途中で主人と別れて図書コーナーに行こうとしたんですけど、よく考えたら私、あのあたりって最初の日にもうろうと歩いた記憶しかなくて、方向見失ってしまって一瞬パニックになりました」

 笑いながら言うと、先生は私の手元の小説を見た。

 「でも一応、本は借りれた?」

 「ええ、まあ。迷子になってた私を主人が迎えに来てくれて、図書コーナーまで連れて行ってくれたんでどうにか。もう道分かったんで、多分大丈夫だと思うんですけどね」

 「ああ、高橋さんにしたら、このフロア以外は未知の領域だよね。初めての場所は一人で行かないこと、行く場所は必ず看護師や僕らに言って、なるべく誰かと一緒に動くこと。もし迷子になったら、助け求めてよ?」

言われて、私は頷いた。

 「あ、それから先生」

 私は西田先生を見上げた。

 「なに?」

 「痛み止め、ボルタレンに変えてもらえますか?」

 「カロナールは効かない?」

 聞かれて頷く。

 すると先生は少し考えるしぐさをした。

 「ロキソニンは……」

 言われて私は頭をぶんぶん横に振った。

 「ロキソニンは絶対に嫌です。昔は効いてよかったけど、今は飲んだら気持ち悪くなる」

 私が言うと先生は苦笑いした。

 「気持ち悪いってどんな風に?」

 「血圧下がって頭のあたりグレーっぽくどんよりしたり貧血っぽくなったりとか、おなかのあたりが重苦しくなったりとか、吐き気が出そうになったりするときもあったから」

 最初は良かったのだ。よく扁桃腺が腫れて、それでも仕事があったときとか、おなかがねじれるように痛いときとかに飲んだときはとても良く効いた。

 けれど、いつからか気持ち悪くなるようになった。

 私が言うと先生が首を傾げた。

 「大丈夫だと思うんだけどなあ。僕、手術した後君に6時間おきにロキソプロフェン流し込んでたし……」

 ぼそりといわれた言葉に私の笑顔がひきつった。

 なんか今、私の中の結構隙間だらけのパズルが、一つぴしっと入った気がする。

 うん、たぶん、間違いないな。

 「先生、私記憶がまだらな時期に、気持ち悪くて気持ち悪くてあがきまわってたの、それかな?」

 吐きそうなくらい気持ち悪かった時期があった。詳しくは覚えてないけど、気持ち悪かった時期があったのは覚えてる。

 先生はまた苦笑いして、それはそういう時期だよって言ってから

 「でも、飲みたくない薬を飲むことはないよ。ボルタレン出るようにしておく」

 病室を出て行った。

 まあ、ボルタレンが処方されるなら問題はない。

 

 

 私は窓の外を見た。

 それから眉をしかめる。

 話をしたら思い出すこともある。

 けれど。

 記憶が滑り落ちていく。

 昨日したこと、一昨日の一日のこと。

 大まかなことは覚えてる。

 しかし、順序が分からない。

 手の隙間から零れ落ちていくように、記憶が零れ落ちて行く気がした。

 したことを順序立てて記録して、やっとそういえばそうだった、と思い出す。

 今日、下で迷子になったのだってそうだ。

 後遺症、残ってないと信じたかった。

 今まで通りの自分でいるって信じたかった。

 でも、本当に?

 これ、何か障害残ってるのかな?

 自分が、怖い。




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