2月25日
朝、嵯峨先生が歩く許可をくれたのと、「で、今日は体重何キロだった?」という恒例の羞恥タイムを終えた後、唐突に尋ねた。
「高橋さんさ。あと1か月くらいしたら退院すると思うんだけど、そのあとどうする? 僕のダイエット道場に入る? それとも西田君のダイエット道場がいい?」
は?
なんですか?
相変わらずいつも話題の開始点が想定を飛び越えたところから始まりますよね。
「なんの話ですか?」
いつもこう切り返すけど、しょうがないよね?
私の読解力がないとか、そういうレベルじゃないと思うんだ。
「もう一度そういう施設的な場所に入院するんですか?」
私が尋ねると、先生はそれもいいかもと笑う。
いやいや、本当にわかりやすくいってほしい。
「いや、まあ道場はたとえの話だけど、でも僕のは厳しいよ、毎日お小言にお説教だからね」
想像しただけでぞっとした。
嵯峨先生のSはどSのS。
「なんでそんなMっ子歓喜みたいな選択肢しかないんでしょうか」
私が言うと、嵯峨先生が爆笑する。
「痩せるまできっちり締め上げるからね。また考えといてよ」
嵯峨先生は謎の宿題を残して出て行った。
いったい何の話だろう。
首をかしげるばかりだ。
パソコンが来てから私はネットゲームで遊んだり、パソコンの中のパズルゲームで遊んだり、動画配信サイトで音楽を楽しんだり、以前読んでいたネット小説を読んだりと、結構楽しく過ごしていた。
ただ、目を使いすぎると途端に頭が痛くなるので、動画配信サイトで音楽を垂れ流しするという使い方のほうが多いだろうか。
朝、好きだった少し懐かしい曲をかけていると、扉のノックの後白田先生が入ってきた。
「今日はまた病室でして、廊下を歩きましょうか」
「はい」
パソコンの音楽を止めようとしたけれど、『そのままでもいいですよ』と声があったので、そのままかける。
「高橋さんのお気に入りリストですか?」
「そうですね」
ベッドサイドに腰かけて、片足ずつ持ち上げる最初の準備運動のような動作をして、また片足立ちの動作に移る。
片足で立つのだけはどうしてもバランスが崩れた。
それでも、歩くようにはなったから人間て不思議。
「……もうすぐですね」
白田先生が突然いうので、何がですかって尋ねたら「もうすぐ3月、そうしたらすぐに3月9日でしょ? もうすぐじゃないですか」
言われて、ああと思った。
そっか、もうすぐ3月が来る、そしてなぜそんな話になったかというと、今かかっている曲がそのタイトルだったからだ。
「先生もこの曲知ってましたか」
「有名じゃないですか」
「ああ、そうですよね」
うん。名曲だと思う。
その曲が終わった後、廊下に出て、ゆっくりと廊下を歩いた。
片足立ちはよろめくけれど、歩くのはずいぶんと普通になった。
一時はどうなるかと思ったけれど、これだったら大丈夫だろうか。
ふと頭の中にさっきの曲がリフレインする。
3月9日、か。
そのころ何してるだろう。
とりあえずまだ入院してるんだろうな、それだけはわかっていた。
リハビリの合間で、明日、病室を引っ越すというので母と荷物のまとめをする。
そんなに物はないけれど、必要ないものは持ち帰ろうということで……。
「これ、CDどうする?」
お母さんが棚の上からCDプレイヤーと懐かしいアルバムを下してきた。
「あれ? もってきてたんだ?」
私は中のCDを取り出し眺めた。
中学生のころから大好きだった二人組のユニットのアルバムの数々……。
「手術の後、嵯峨先生が音楽をかけて刺激与えてくださいっておっしゃってたからねえ」
「へえ、そうなんだ。ああ、なんかおぼろげな記憶でここら辺の曲がかかってるなあって思ってたのは、それでなんだね」
夢かなって思ったけど、夢じゃなかったらしい。
「けど、どうしてこのセレクトなの?」
たしかにこのアーティストは好きだったけれど、すべて実家に置いていったはずだ。
最近聞いている曲は仕事で使うものも含めて、ウォークマンに大体取り込んでいるはずで、それらの場所は有志がよく知っている。
私が首をかしげていると、母がいぶかしげに私を見た。
「……ねえ、覚えてないの? 嵯峨先生が何か音楽かけてくださいって言ったとき、私とナツちゃんとでクラシックを探そうかっていう話をしてたら、あなたがすごく嬉しそうに、とってもいい笑顔でこのアーティストがいいって言ったのよ? だからお兄ちゃんが埃かぶってたこれらをきれいに拭いてくれたんだから」
私はCDアルバムを手に持ったまま母を見つめた。ナツちゃんというのは、義母の名前だ。母親たちは子どものころからの付き合いなので、母は義母をナツちゃん、義母は母をのっこちゃんと呼ぶ。
それはさておき
「え? 私が言ったの?」
いつ?
本当に記憶になかった。
おぼろげに、これらの音楽が活用されていたのは、この部屋に移る前の記憶だろうことはわかっている。
かけてもらってたのは覚えているけれど、私が頼んだのは覚えてない。
「かけたところで、あなたうるさそうに眉しかめてたけど」
お母さんが苦笑いした。
「いや、うるさいなー、ほかのアルバム聞きたいなあとかは思ってた」
でも、まさかわざわざお兄ちゃんが拭いてくれていたのに、うるさいとか他のかけてほしいとか、申し訳ない話だ。
「由乃ちゃん、あの頃のこと覚えてないの?」
聞かれて私は頷いた。
「あの時期のこと、全く覚えてない……」
全部夢の世界のことって思っていたから。
次々変わる夢だとばかり思っていたから。
私はふと顔をあげた。
夢で気になることを思い出したのだ。
「お母さん、私の髪、もじゃもじゃにもつれてたよね」
私が言うと母は頷いた。
「きれいにほどけてよかったわね」
うん。それはそうなんだけど。
「あれ、なんでもつれたか、わからないんだけど」
私が言うと、お母さんは目を丸めた。
「最初から職場で編んでもらったって言ってたじゃない」
そういいながら、母も違和感を感じたようだ。
「それも私は現実で言ってたんだね? けどそれも私の夢だと思うんだよ。夢で編んでもらったって思ってたのを、実際にお母さんに話してるって気づいてさ、すごく自分が怖いんだけど」
私は自分の記憶をたどった。
職場で行事で編んでもらうといっても、今そんな行事がなかったはずだ。それに。
「そもそも、私、2月の6,7,8日は3連休で休みだったんだよ」
私が言うと、お母さんもはっとした。
「そうか。6日に、チョコいっぱい買って、うちにも持ってきてくれてたわね。で、次の日に家事室の片づけをするって……」
お母さんが考えるように頬に手を当てた。
私も右手で頭をなでる。
「そう。6日はデパートで遊んで、7日は片付けして、8日は朝こうなって入院したはずなんだけど……じゃあ、いつあんなに髪がもつれたのかな」
ずっと疑問に思ってたのだ。
ふに落ちなかったのだ。
夢の中で、職場の人にきれいに編んでもらった、それがもつれてぐちゃぐちゃになったと思っていた。そして夢の中で『こんなになるなんて思わなかったよ。ごめんね』と、何度も髪を梳いてくれてた人がいたこと。
夢と現実の区別が分からない。
一通り二人で頭をひねったけれど、らちが明かない。
「……西田先生に聞いてみようかな」
私はぼそりといった。
「西田先生に? なんで?」
お母さんが不思議そうに私を見る。いくら主治医でも知っていることと知らないことがあるだろう、という顔だ。
うん、確かにそうだろう。
けれど、きっと知っていると思うのだ。
「だって、西田先生、あの日ずっとそばについていてくれたもの。CT撮る前からずっと」
だから、多分知っていると思うんだよね。
夜、一人でパソコンのオンラインゲームで遊んでいた。
もっぱら遊んでいたのは戦車の対戦ゲームだ。
もともとミリタリーオタクが入っている有志が始めたゲームで、見ているうちに私もやりだした。
そんなに上手ではないけれど、楽しく遊んでいた。
もっとも、私がそんな戦争ゲームで遊んでいると医師たちが知ったとき、嵯峨先生は怪訝そうな顔をしたものだ。
「もっと平和なゲームしなよ」って。
平和なゲームも楽しんでいるけれど、たまにはいいじゃないか。
そういいつつ、ほかにやっていたのが戦艦を擬人化した女の子を集めるゲームだったり、刀を擬人化した男の子を集めるゲームだったり、どっちにしろ、穏やかじゃない内容だったりするんだけれども。
その日も、戦闘出撃をしていると、数度のノックの後、西田先生が入ってきた。
「先生、今夜も遅くまで頑張るんですね」
私が言うと先生は苦笑いした。
「そうだね。高橋さんは? 戦闘中?」
「はい。今始まったところで……」
「いいよ、やってて。見てるから」
先生はそう言って私のパソコンの画面を覗き込んだ。
……それはなんか、やりにくいな。
しかも、いかつい戦車で戦争ゲーム。
少なくとも、女の人がやるジャンルじゃないな……。
そうは思うけれど、艦隊娘たちや刀男子たちを見られるよりかは、まだましだろうか?
「これ、どこの戦車?」
「この戦車はイギリスです。ブラックプリンス……エドワード4世王太子の名前をもらった重戦車ですね」
「ふーん」
私が打った弾が敵戦車にあたり、1両撃破した。が、チーム全体で見ればかなり劣勢だ。
たまにそういうときがある。
「まずいな。負けちゃったな」
私は戦車を敵陣地に向けながらつぶやいた。
すでに敵は掃討作戦に移っている。
敵の数に対してこちらの残りは圧倒的に少ない。
そしてとうとう味方はいなくなり、私の戦車だけになった。
「いやすぎる……」
仕方ないので敵陣地に向かって隠れながら進軍する。そして敵の戦車に見つかった。
足の遅い戦車なので、あっというまに5両くらいの敵戦車に囲まれてしまった。
「やーめーてー」
岩場に隠れながら、敵の戦車に球を打つけれど、数の暴力には勝てない。
圧倒的な火力にさらされて白旗をあげた。
「やられたー」
私は苦笑いして、マウスから手を放すと、西田先生に向き直った。
「お目汚し、失礼しました」
「いや、なかなかおもしろかったよ」
どうせなら勝ち戦だったらよかったのに。
なかなかうまくいかないものだ。
そういえば、西田先生に聞きたいことがあったのだ。
「先生、ずっと気になってたことがあるんですが聞いてもいいですか?」
「いいよ?」
私の問いに先生が頷く。
私は今日母と話していて最大の疑問にぶち当たった髪のもつれを尋ねた。
夢で会話したと思ったことが現実で会話してて驚いたことも含め……。
先生は形の良い指を顎にあてて、あーと頷いた。
「編んだかどうかは知らないけど、高橋さんの髪さ、たしか手術前に看護師さんが結んでたよ。輪ゴムで」
「輪ゴム?」
先生のその言葉で、私もはっと思いだした。
「あああああ! 思い出しました! そういえば手術の前に髪を結んでもらいましたね。そっか、輪ゴムならそうなりますよね」
私はポンと手を打った。
「思い出した?」
「はい」
「で、ほかの看護師さんもあれから髪ゴムとってきて結んでたんだよね」
……は?
私は西田先生を見上げた。
「輪ゴムは覚えてますけど……ほかにも?」
先生はうんと頷く。
「長かったからゴムが足りなくて、ポーチにあるからって看護師さんたち何人かが持ち寄ってくれて、けっこうたくさん結ばれてたかな。高橋さん、寝ちゃってる時だからそっちは知らないと思うけど」
なるほど、それじゃあ覚えてないのも仕方ないですね。
先生が顎を撫でながらあの日のことを思い出してくれていた。
そして
「それで手術の移動中にあっちに移動、こっちに移動している間にすごく絡まった」
ああああああ、すべてきれいに合致した。
これ以上ないほどきれいにピースが収まった気がした。
てゆか、そりゃ輪ゴムで結んだら悲惨なことになりますよね!
当たり前ですよね!
絶対輪ゴムで髪の毛を結んだらいけないっていういい見本だよね!!
「あああ、ありがとうございます! めちゃめちゃすっきりした!」
私が笑ったら先生もそれは良かったと笑った。
ところで。
「先生、もう一つ」
私は西田先生を見上げた。
「嵯峨先生に今朝ね、退院したら僕のダイエット道場に入るか、西田先生のダイエット道場に入るか、どっちがいいって尋ねられたんですけど……ここの病院って、そんな施設ありましたっけ?」
私が尋ねると、先生はきょとんとした顔をしてそれから顔面を手で覆った。
肩がくつくつと震える。
「そんな施設ないよ」
ああ、うん、やっぱりそんな施設ないですよね?
よかった。
「それきっとさ、今は高橋さん、入院してるから実感ないかもしれないけれど、退院して、それから定期的に診察を受ける先生をどっちにするかっていう話だと思うよ」
ああ、なるほどね。
「よかった。嵯峨先生のダイエット道場っていうから、なんでそんな鬼畜選択肢しかないのかって焦ってました」
「鬼畜って……」
私の言葉に、さらに西田先生の肩が震える。
「嵯峨先生もあれだね」
西田先生はぼやくように苦笑いしてから体を起こした。
「高橋さん、それは今すぐじゃなく、退院する時に決めてもいい話だからゆっくり考えようか」
私は頷いた。そうします、って。
今は退院のことも見えていない状態。
そういう話は、もう少し先でもいいだろう。
「今夜はぐっすり寝れそうです」
私が言うと、先生はそれは良かったと頷いて、おやすみ、と部屋を出て行った。




