2月24日
翌日、看護師さんが私の尿を取り除いてくれているところに、義母が難しい顔をしてやってきた。
「由乃さん、これ書類書いてくださいって預かってきたわ」
「あ、ありがとうございます。すみません、いろいろ走ってもらってしまって」
「それは別にいいんだけど……」
「……なにかありましたか?」
義母の含む様子に私は首を傾げた。
義母は困ったように
「由乃さんの休職に診断書がいるから西田先生にお願いしてたのよ。あれ五千円以上かかるでしょ? これ書いたら、その診断書が不要になっちゃうんだけど、もう間に合わないわよね」
……それはゆゆしき事態だ。
が。
「まだ連絡来てないんでしょ? だったらキャンセルできますよ」
尿の処理をしてくれていた看護師さんが顔をあげてにっこり笑う。
「いいんでしょうか」
義母が申し訳なさそうに言うけれど
「必要なくなるんでしょ? それくらい平気ですよ」
看護師さんはそう言って、尿を廃棄に行ってくれた。
そっか、キャンセルできるのか。
「じゃあ、私、西田先生のところに行ってきます」
私はベッドから起き上がろうとしたけれど
「あ、でも、今は西田先生おいでなかったわよ? 詰所、だれも残ってないの」
へえ?
「それは珍しい」
西田先生、だいたい詰所のいすで座ってるイメージだったのに……。
「じゃあ、見かけたら伝えます」
私が言うと、義母がお願いねと頷いた。
それから義母にレクチャーしてもらいながら退職届の書類を記入する。
最後に印鑑を押したら、簡単なものだ。またしてもこの書類の提出を義母にお願いすることは心苦しいけれども。
しかし、この紙切れ一枚で退職になるのか。
そう思うとちょっと寂しい。
仕事自体はとても楽しかった。
毎日子どものまぶしい笑顔に触れられた。
どんどん明るく元気に成長していく子どもたちと触れ合うのは楽しかった。
「……自分の体に無理がなく復帰できる時が来たら、また復帰したいです」
私は先日職場からもらった花束を見つめた。
動き出すと、回復は早くなるもので、少しは歩けるようになっていた。
昼過ぎに、詰所のカウンターの中で嵯峨先生と西田先生が並んで座って、それぞれパソコンをにらんでいるのを見つけたので、そそっと近づく。
「あれ、高橋さん、ここまで歩いてきたの? ずいぶん動けるようになったんだね」
西田先生が目を丸めた。
「おかげさまで。少しくらいなら歩くのもできそうです。ところで西田先生」
「なんだい?」
「先日、うちの義母が先生に診断書を頼みましたか?」
私が問うと、先生は、ああと頷いた。
「うん。もうすぐ用意できるよ。ごめんね、遅くなって」
用意できるという言葉に、私は顔面を覆った。
先生たちも、おや? と首をかしげる。
「どうしたの?」
「いえ……それがその、大変申し上げにくいのですが、不要になったというか……」
私が目を泳がせながら言うと先生が首を傾げた。
「ん? 高橋さんが休職するから職場に提出するっていう診断書だったよね?」
「はい。でも、もう退職に切り替えたから……休職すること自体が不要になったというか……」
私が言うと、先生たちは二人で顔を見合わせた。
「そっか、前から悩んでたもんね」
「はい。仕事を3月4月を休むのは本当に申し訳なくて。3月は間に合わないかもしれませんが、4月だったら異動で人の手配がしやすいですし……年度末と新年度業務は激務ですから、タイミング的にやめるなら今しかないな、と思いまして」
私が言うと先生たちはそっかと頷いた、
「わかった。書類のキャンセルはしておくよ。高橋さんて、結構気にしぃだよね」
西田先生が言うと、隣の嵯峨先生も笑って
「だから血管裂けるんだよ」
私を見上げる。
私は苦笑いした。
だって仕方ないじゃないか。
「そういう性分なんです」
私が言うと先生たちはまた笑った。
西田先生は椅子の背もたれにぎしっともたれながら
「そうそう、高橋さん」
私に声をかけた。
なんでしょう?
「昨日、師長さんが部屋の引っ越しのこと言ってたでしょ?」
「ああ、はい。大部屋に引っ越すかもしれないっていう話ですよね?」
私は頷いた。
昨日の夕方、看護師長さんが部屋に来て、私の様子を見ながら打診があった。
『高橋さんが元気になってきているからお願いしたいのだけど、引っ越しを頼んでもいいかしら? そして個室も様態が悪い人や大部屋に向かない人を優先しているから、大部屋になってもいいかしら?』
と。
この季節の変わり目の時期は患者数が一気に増える。
そして様態が悪い人も多い。
今私がいる詰所に近い部屋は、目の離せない患者さんを置く場所。
血管攣縮の期間を乗り切った私は、回復に向かう患者になった、ということらしい。
たしかに、この詰所の目の鼻の先にある部屋は重篤な患者さんが入るべきだろう。私は大部屋行きを了承した。
でも一つだけお願いしたことがある。
『窓側の場所でお願いします』
と。
それで考えておくわって、師長さんは帰ったのだけど……。
進展あったのだろうか?
「あの話さ、26日くらいにお願いすることになりそう」
私は頷いた。
「わかりました。家族に伝えておきます」
引っ越しか。個室が気楽ではいいんだけれど、その分料金は高いし。もう仕事をしてないから夫に料金を払ってもらわないといけない、そう思うと贅沢は言えないだろう。




