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閑話 2月9日その2



 その日はいったん解散した。

 再出血により追加した全身麻酔が覚めていないとのことで、会うこともできなかった。

 ICUの面会はお昼と夕方の2回、各30分ほどの時間の中で、一度に部屋に入れるのは3人までと決められていた。

 昼にこようかということになったが、それもまだ麻酔が覚めていないため面会できないと連絡があった。

 そして夜。

 やっと許された時間がきた。

 有志が入り、あと二人は由乃の両親が一緒に入った。

 由乃はまだ眠っていた。

 呼吸器をつけられて、腕には点滴、胸には心電図、腰にも管が入っていた。

 ピ、ピ、ピ

 静かな部屋に、心電図の電子音が響く。

 その姿はあまりに痛々しく、見たものの心をぎゅっと締め付けた。

 しかし、それでも。

 一緒に入った嵯峨先生が説明をする。

 「長くのばされている髪なんですが、申し訳ありませんが一部そりました」

 たしかに、ヘアバンド大の剃り跡がある。縫合した部位はガーゼに覆われて見えないが

 「てっきり丸坊主になっているものと思っていました」

 髪があることにほっとしたように母が由乃の手を握る。

 「たぶん、この位置だったらごまかしようもあると思うのですが……」

 嵯峨先生の言葉に由乃の母が頷いた。

 「このこめかみのところから、こちらのこめかみまで、皮膚を開いた後、尖頭と言ってキリのようなもので頭蓋骨に穴をあけ、それからのこぎりで頭蓋骨を開けます。それから脳を覆う膜を開け、出血していた脳動脈瘤をクリップで止めました。この奥のほうです。再出血したときは正直焦りました。どうにかクリップで挟みましたけど血が止まってよかったです、本当に」

 嵯峨先生がしみじみ言うので、有志は苦笑いした。

 手術中の映像は申請したらもらえるかもしれないけれど、もらう気にはなれなかった。

 「はずした頭蓋骨ってどうやって止めるんですか?」

 それまで静かに聞いていた父が質問をした。 嵯峨先生は頷くと説明を続けた。

 「頭の中をきれいに戻したら、骨はプレートでとめます。これくらいの丸いプレートで奥と手前の4か所をとめています。そして骨の隙間は、彼女のおなかに豊富にある皮下脂肪と骨くずを混ぜたもので隙間なく埋めています。徹底的に痩せさせないと、次は高血圧で死にますよ?」

 じろりと睨むように言われて、有志達は肩をすくませた。 

 嵯峨先生は苦く笑うと有志達に場所を譲った。

 「ぜひ呼びかけてあげてください」

 促されて、有志は由乃の顔を覗き込んだ。

 「由乃さん、由乃さん」

 手を握るとその瞼が少し動いた。

 「由乃ちゃん」

 母が、もう片方の手を握り名を呼ぶと、由乃の目が開いた。

 とび色の色素の薄い目が声の方向を探す。

 「由乃さん、俺。わかる?」

 有志が顔を近づけ覗き込むと由乃がほっとしたように笑って頷いた。

 「……有志さ、ん。ごめ、……ね」

 呼吸器の中でくぐもった声であやまり、点滴管のつながった手を伸ばし有志の頬に触れる。

 手術前にした時のように。

 その手は冷たかったけれど、確かに体温を持っていて……。

 再び聞けた彼女の声に、有志の瞼が熱くなった。

 それまで我慢していたものの堰が切れたように肩が震える。



 今朝、家に帰り一番にしたことは、職場に休むと連絡を入れたことだ。

 電話を受けた有志の上司は、普段あまり有給を取らない有志が突然の申し出をしたから、最初は有志自身が病気になったのかと心配されたが、妻がくも膜下手術になったというと、上司の対応の空気が変わる。

 「一応手術はうまくいったんですが……」

 有志が言うと心得たように上司が頷いた。

 「ああ。こっちは大丈夫だ。いまはそばにいてあげなさい」

 そうは言われても、そうしたくてもICUの中には勝手にいけない。

 有志は心の中で苦笑いをして、謝罪とお礼を言って電話を切った。

 それから熱めの湯でシャワーを浴びるが、頭の中はぼーっとしていた。

 いろいろなことがありすぎて何も考えられない。

 有志は飽和した頭の状態のまま、ベッドに入った。

 睡魔はすぐにやってきた。

 しかし、あらかじめセットしていたアラームで目を開けた。

 目が覚めて、隣をみればそこに由乃がいない。彼女の布団も冷たいままだ。

 時計のカレンダーを見れば月曜日のお昼前。

 「ああ、そっか。仕事か……」

 つぶやいてハッとする。ちがう、そうじゃない。

 「そうだ、病院……」

 午後の面会に行かなきゃ、そう思って起きだすと母屋で両親も起きていた。

 「行くでしょう?」

 母がそういって、自分たちの食事を用意してくれていた。

 正直食欲はなかったが、どうにか流し込む。

 と、そのとき電話が鳴った。

 ビクリ

 全員の体が震える。

 「はい、高橋です」

 母が応対に出た。相手の名を聞いた時に母が反射的に胸元を手で押さえ、有志を見た。

 病院からだ、と有志と父も身構える。

 「ああ、はい。ええ、……わかりました。では夕方伺います。ありがとうございます」

 母は電話に向かって頭を下げいうと、電話を置いた。そして安堵したように息を吐き、こちらを見る。

 「病院? なんて?」

 有志がせかすように言うと

 「由乃さん、まだ全身麻酔が覚めてないから、まだ会えません、て。容態は安定しているから大丈夫、夕方の面会の時に来てくださいって」

 母が一つ一つしっかりいう。

 有志も父もほっと息を吐いた。

 「あ、そうそう。のっこちゃんにも電話しなくちゃ」

 母はそういうと携帯をもって、由乃の母親に電話をかけた。

 ふつう、全身麻酔は計画した時間とそう変わらない時間でさめる。

 ただし、それは事前に肺活量に身長や体重を調べ入念に計算を重ねた結果だ。

 今回由乃はすべてが緊急だった。身長と体重は由乃が自身で告げたとして、肺活量までは調べられない。

 しかも今回予想外の時間延長で麻酔を追加している。

 無事に何事もなく目が覚めてくれたらいいのだけれど。

 有志は痛む頭を押さえた。


 由乃はきっと何事もなかったかのようにすぐ戻ってくる。

 そう信じたかったが、最初ICUに入った瞬間、目にした管だらけの姿が衝撃が強すぎた。

 祖母が病院で亡くなった時の姿がフラッシュバックする。

 もう、この目は開かないんじゃないか。

 自分を見てくれないんじゃないか。

 名前を呼んでくれないんじゃないか。

 ……というか、由乃は自分を覚えているだろうか?


 唐突に嵯峨先生に言われた言葉を思い出す。

 「もしかすると奥さんに重篤な障害が残ったかもしれません」

 それがどれほどの障害かわからない。

 記憶力の良い妻だったが、脳をいじったのだ。

 ……ちゃんと自分を認識してくれるだろうか。

 「由乃さん、由乃さん。俺、わかる?」

 色素の薄い瞳が自分を認め認識し、微笑んでくれたとき。

 「……有志さ、ん。ごめ、……ね」

 名前を呼んでくれたとき。

 ふとましいけれど、管だらけの手が延ばされて頬に温かさを感じた瞬間。

 有志のそれまで張りつめていた糸が、切れた。 

 

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