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閑話 2月9日

 2月9日 A:M4:35

 「いま、手術が終わりました。無事ですよ」

 途中何度も経過報告をしてくれていた看護師が穏やかにロビーにいた面々に告げた。

 それまでロビーで待っていた十人ほどの面々は、一様に安堵の息を吐き表情を緩めた。

 8日の朝、由乃が自分自身で病院に行き、昼の3時から始まった手術。

 最初8時間ほどで終わるだろうといわれていたそれは、手術中、彼女の脳内で再出血を起こしたことにより延長を余儀なくされた。

 結果、かかった時間は14時間。決して短い時間ではない。

 「ありがとうございます」

 由乃の両親と有志の両親がそろって看護師に礼を言う。有志も頭を下げた。

 「もう少ししたら、ICUに移動します。医師から説明もありますので、ご家族の方はもうしばらくお待ちください」

 看護師の言葉に有志はわかりましたと頷いた。

 看護師が去る方向を見送っていると

 「……高橋さん。無事に終わってよかったです」

 ずっと手術が終わるのを一緒に待っていてくれた由乃の職場の上司である細野が、有志の母に言葉をかけた。

 手術前、由乃が言った通り二人は親交があったらしく、有志が由乃の伝言を母に伝えると、母は滞りなく細野に連絡を取り、細野はすぐに病院に駆けつけてくれた。

 そんな細野に有志と母は何度も礼を言い、有志はすぐにその場を離れたけれども、母と細野は手術中も二人で何度か話している光景があった。

 「ゆっこちゃん、最後までいてくれてありがとうございました」

 母が深々と頭を下げると、細野ははにかみ頭を振って

 「無事に終わってくれて何よりです。今日はもう、帰ります。また、落ち着いたころに様子を見に来ますから、どうぞおだいじに」

 もう一度頭を下げた。

 それを家族で頭を下げ見送る。

 もう一人

 「由乃ちゃん、無事終わってよかった」

 由乃の母のいとこで、同じく由乃の上司である岡本が、そちらは由乃の母に安堵の笑みを浮かべていた。

 「佳代ちゃんも最後までいてくれてありがとう」

 そちらも母同士で涙を浮かべ礼を言い合う。

 もともと専業主婦をしていた由乃に、4年ほど前に今の職場を紹介したのがこの岡本だった。

 それから2年半、由乃はこの岡本の下で働き、岡本は別の幼稚園に異動したが今なおこうして由乃を気にかけてくれていた。

 細野にしても岡本にしても、あと数時間すれば月曜日の業務が始まるだろうに、最後までいてくれた。

 一応、何度か途中で声はかけたのだ。

 二人の務めのことは皆知っていたので、終わったら連絡するので家に帰って体を休めてほしい、と。だが「どうせ帰っても気になって眠れないから」と最後までいてくれた。

 由乃は本当に職場環境そして人事環境に恵まれていた。

 有志はしみじみと感じ、最後までこの場にいてくれたこの上司たちに深く頭を下げた。

 由乃の長兄夫婦も

 「無事終わってよかったわ。安心したし、子どもたちもそろそろ起きるかもしれないから帰るわ」

 そういって帰っていく。

 残ったのは2組の両親と有志の5人だ。

 5人になると、途端に辺りは静かになった。

 さっきまでがうるさかったわけではないが、長引く手術の不安から、気を紛らわすために自然とおしゃべりをしていた風がある。

 特に有志の母と細野は久々の再会に積もる話もあったし、由乃の母と岡本も従妹ならではの会話があった。

 また細野と岡本では、ここぞとばかりに仕事談議をしていたこともあっただろう。

 ……ただこれらのことはあくまで由乃の手術の不安を紛らわす一手段だ。騒ぎすぎていたわけではない。


 途中経過は、看護師がこまめに伝えてくれていたのでパニックになることはなかったが、それでも、8時間ほどで終わると聞いていたそれが伸びたのは大いに不安だった。とくに、再出血したため時間が伸びました、などと言われたときは皆の表情が一斉に曇った。

 それをどうにか乗り越えられたのは、由乃や有志の両親がそれぞれこの病院にかかっており、その主治医がたまたまこの手術にかかわり、中の様子を伝えてくれたからだ。

 たとえば。由乃の母親は数年前にうけた心臓カテーテル手術のあと、経過観察をずっとこの病院についていたが、その主治医がたまたま由乃の心電図チェックをしてくれていたようで、「大丈夫。逆に頭を開いた状態の再出血で良かったですよ。閉じた状態で出血するほうが、血液が脳を圧迫するぶん危険なんです」そう教えられて皆一様に安どの表情を浮かべた。

 また岡本と細野はオペ看に知り合いを見つけ、こまめに中の様子を報告してもらったりしていたようだ。

 みんなそれぞれのコネを使い不安を乗り越えていたということらしい。

 

 しばらくして有志が医師たちに呼ばれた。

 小さな部屋のいすに二人の医師と向かい合うように座り、有志はまず手術のお礼を言った。

 一睡もしていないこと、途中再出血などによる時間延長などいろいろあったけれど、無事手術が終わったことの安心感で有志の頭の中は飽和状態になっていたが、どうにか意識を保ち続ける。

 14時間座っておろおろしていた家族と違い、14時間、集中して妻の命をつないでくれたのはこの二人なのだから。

 有志達家族の疲労もすごかったが、医師二人の疲労も半端じゃない。

 特に西田先生の疲労困憊ぶりがすごく、有志は頭が下がる思いだった。

 嵯峨先生は、それでも医師としての説明責任を続ける、

 「まずは、手術が終わってよかったです」

 そういって有志に苦笑いをすると、パソコン画面を有志に向けて、術前に取った由乃のMRIと術後のCT画像を表示した。そしてどこが出血し、どういう手術をしたのかの説明を始めた。はじめ、手術は順調だった。当初の出血個所のクリッピングに成功し、予定通り8時間で手術は終わると思っていた。

 しかし。

 「手術後半に、再出血が起きました。起こる予定じゃなかっただけに、どこで起きたかわからず、止血に手間取りまして。すみません。もしかすると奥様に重篤な障害が残る可能性があります」

 嵯峨先生の説明に有志が目を丸めた。

 「障害が、残るんですか?」

 「今はまだ判断できませんが……高橋さん。手術前に西田先生から説明を受けていると思いますが、くも膜下出血は、3人に一人が亡くなります。残る二人のうち、一人は程度の差があれ、障害が残ります。何もなく社会復帰できるのは残りの一人、今の段階で死亡を免れた奥さんがどちらになるかの判断は難しいです。それにですね」

 嵯峨先生は姿勢を改めて有志を見た。

 「手術は終わりましたが、これから2週間が勝負です。まだ気を抜けません」

 有志は首を傾げた。

 「手術が終わったんですよね?」

 「手術が終わっても、これから2週間は血管攣縮と言って、脳の血管が細くなって脳梗塞を起こしやすい状態になるんです。それに奥さんは手術中に再出血したぐらいだから血管が切れやすい。再出血の可能性や水頭症と言って頭に水がたまる症状が起きることもあり、まだまだ安心できない時期なんです。これから2週間、厳重にこちらで管理下に置きますのでご協力よろしくお願いします」

 嵯峨先生の言葉に、有志は頷いて、そして頭を下げた。

 よろしくお願いします、と。

 一緒に小部屋を出て家族のもとに向かう途中、

 「高橋さん。これだけは言わなくちゃと思ってたんだけど」

 嵯峨先生に声をかけられて有志が振り向いた。

 「なんでしょう?」

 「奥さんをあんなにぶくぶく急激に太らせたらいけないよ? 何事も節度が大事だ。甘やかせて何でもかんでも食べさせるのはいけない」

 歯に衣着せぬ嵯峨先生の言葉に有志が首を傾げた。

 「はあ。申し訳ありません。たしかに僕は食べたがる妻をかわいそうに思って、欲しがるままに与えてしまったのは認めます。でも急激って? 妻が太りだしたのは子どものころ続けて骨折したからと聞いてますが」

 有志の言葉に、嵯峨先生が目を丸めた。

 「え? あんなぶくぶくなのは子どものころから!? 嘘でしょ!」

 その声に、ソファで待っていた家族が顔をあげた。

 「少なくとも、僕が結婚する前から彼女はあんな体形ですよ」

 有志がいぶかしげに言っていると、由乃の母親が申し訳なさそうに立ち上がり嵯峨先生のところまで歩いてくる。

 「先生、手術ありがとうございます。由乃の母です。さっきの会話が聞こえてきたので、少し……」

 一度頭を下げると、今度はまっすぐ嵯峨を見上げた。「さっき有志さんが言ったように、由乃を太らせたのは有志さんじゃありません。私の責任です。申し訳ありません」

 その謝罪に嵯峨先生は絶句した。

 言葉が出てこなかったようで少し手を顔に当てて考えたのち

 「……そうですか。あの……今回手術にあたり、彼女内臓脂肪が少なかったんです。あの体はほぼ皮下脂肪の塊だった。だからてっきり急激にぶくぶく肥えたのかと思ったんです。でももしもあれが内臓脂肪だったら、彼女、死んでいましたよ」

 嵯峨先生の容赦ない言葉に有志と母は苦笑いをした。

 それは喜んでいいことなんだけれど、とても複雑な気分だった。

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