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2月20日



 今朝は実家の母が化粧水とヘアピンを差し入れてくれた。

 早速、前髪を傷口を隠すように後ろにねじ上げてヘアピンでとめる。

 嵯峨先生が言ったような大五郎ヘアに近いけれど、これと大五郎は違う、全く違う!

 ちょっとだけ膨らみを持たせて後ろに止めた前髪は、以前の自分と違和感なく、これはこれでとてもかわいい髪型になった。

 てゆか、

 「おお! 傷口見えない!」

 「うん。手術したの、わかんないよ」

 私も母も、ちっちゃなヘアピンだけで完全に傷跡が隠せて大興奮だ。

 おおおおおお!

 すっかり上機嫌になって、気持ちよく蒸しタオルで顔を拭き、差し入れてもらった化粧水を顔にふくませていると、とても入院している自分が信じられない。

 ……実のところ、私はいまだ自分が入院しているとこれっぽっちも信じていなかった。

 いろいろ現実味がなかったのだ。

 ……ほとんどの時間を寝ているせいで、夢との境目が分からない。 

 自分の体はまだ自宅2階の寝室にあって、夢を見てるんじゃないか、って。

 長い、長い夢を見てるんじゃないか、って。

 「由乃ちゃん、携帯が光ってるわよ」

 母が携帯をとってくれる。

 「うん」

 私は受信メールを読むと、携帯を閉じた。

 「返事しなくていいの?」

 聞かれて頷く。

 「携帯、怖いからしばらく通話以外で触りたくないの」

 母が不思議そうな顔をした。

 「このまえ職場の人にお礼をって思ってメールを送ったんだけどさ、どうも私、職場じゃない人も選択してたっぽくて、今の自分の判断力を100%信じるのは危ないから、携帯は通話以外しないことにした」

 そうなのだ。

 職場の一緒に仕事をしている人に送信はした。

 それはできていた。

 が、それ以外の人も選択していたのだ。

 それに気づいたのは翌朝になってから……。

 長く連絡を取っていない知人から、いたく心配された返事が来た。

 頭が痛い話だ。

 今の自分の判断力に自信が持てない以上、携帯は最低限以上に持つべきじゃない。

 それいらい連絡が必要な人には、メールじゃなく通話をするよう心掛けている。

 が。

 今、携帯よりも手元にほしいものがある。

 「おはよう」

 西田先生がのそりと入ってきた。そして私の頭を見て驚く。

 「すごい。髪、そうやってたら、手術したのまるでわからないね」

 「今朝も母と驚いてたんです。 先生たちに髪を残してもらって本当よかった」

 ありがとうございますと頭を下げる。

 「そっか、前髪あれくらいあれば、こんなふうにできるんだなあ」

 西田先生が感心したように言うので私は小さく笑って先生を見上げた。

 改めて挨拶をしたら、すっかり恒例の、今日は何日? 何曜日? ここはどこ? の質問が。

 私が先生の後ろに貼られたカレンダーを見ながら言っているので、もう間違えない。

 先生もわかっているので、間違えないようになってきた今、そろそろこのやり取りはやめようか、ということになった。

 それはありがたい。

 あともう一つ嬉しいことが!

 「リハビリで立つのができるのと、手すりに掴まればそこそこ動けるじゃない?」

 「はい」

 「病室内なら、動いてもいいよ」

 本当ですか!?

 それはとてもうれしいお知らせです!

 「それは、トイレも入ってる!?」

 「尿管はもう少し抜けないけどね、排便はトイレでもいいよ」

 やったーーーー!!

 「先生! それめちゃうれしい!」

 ガッツポーズして喜ぶお知らせだよ!

 だって、今まで歯を磨くのだってベッドの上でして、うがいもトレイに吐き出して、それを人に処理してもらってたんだから。

 それが自分でできるんだよ!?

 おしめだって、看護師さんに交換してもらわなくていいんだよ!?

 人にしてもらうのは楽なようで、気持ちが全く楽じゃないんだよ。とくに衛生面的なジャンルは。

 「でも動けるようになったからって、尿管はあるし点滴してる時は管がつながってることに注意してね」

 「もちろんです!」

 もちろんします、しますとも!

 自分でできることが増えるのはとてもうれしい。

 が、嬉しいことばかりでもなかった。

 西田先生はふと表情を変えると、私を覗き込んだ。

 「高橋さん、ほかに今困ってることある?」

 聞かれて、私は西田先生の顔を見た。

 さっきの喜びが固まった。

 聞かれてしまった、そう思った。

 この質問をされるということは、相手に、私が困っているだろうと感じていることがあるのだ。

 「それは歩くときにバランスが崩れることですか?」

 逆に私が聞いた。

 すると先生は大きな目をさらに開けていやいや違うよって笑った。

 「それは今からリハビリすればいいことだから大丈夫だよ。そもそもまだリハビリ始まったばかりじゃないか」

 それはそうなんだけど。

 「今部屋の中を歩いていいって言ったのだって、リハビリの一つだから、今歩けないのをすぐにそんな風に結論付けちゃいけないよ」

 そっか、そっち系じゃないのか。

 本当は、携帯メールを誤送信した、そっちのほうが気になるべきことなんだろうけれど……。

 「西田先生」

 「うん?」

 「パソコン、触りたい。家のノートパソコン、持ってきてもらってもいいですか?」

 このまま入院が長引くのだったら、仕事の引継ぎのこととか、いろいろせねばならないことがある。

 携帯よりも、パソコンのほうが画面が大きいし、使い慣れてるからそっちがいい。

 すると先生はうーんと考えるしぐさをした。

 「パソコン、か。たぶん大丈夫だとは思うけど、嵯峨先生と相談してみるよ」

 西田先生はそう言うと、じゃ、また、そういって病室を出た。

 

 今、困ってること、か。


 もう一度、先生が出て行った扉を見つめながら考えた。


 本当に心苦しかった排泄面や衛生面が改善したことがとてもありがたかった。

 さっそく朝の排泄も自分でトイレに行ってした。

 点滴ケーブルの長さの都合で、トイレの扉を完全に閉めることはできないけれど、そこは個室の強み。気兼ねしないのはいいことだ。

 一番いいことは、座って排泄できることだろう。やっぱりベッドで横になって排泄はしづらい。

 あと、どうしてもベッドで横になったまま排泄するのは、根付いている道徳観念にそぐわないのだ。

 だから思う。

 トイレはトイレの場所で!

 いつか親がトイレの介助が必要になったら、せめてベッドの近くにトイレを置いて、ベッドとトイレの位置は分けてあげよう、そう思った。



 河野先生のリハビリは順調だった。

 たとえば、ひたすら7ずつ引いていく計算や、簡単な記憶力テストは難なくクリアした。

 今井先生のリハビリは、洗濯バサミを箱ぐるりにつけて、それからそれをはずすのと、2枚の絵を見ての間違い探し初級編だった。それもどちらもクリアしこちらもリハビリは順調だった。

 白田先生も、「また歩きましょうか」そういって歩行器を持ってきてくれて、ぐるりとロの字になった病棟を歩いた。

 昨日よりも順調に歩けたと思う。

 「うん。昨日よりずっと歩けるようになったから大丈夫ですよ、高橋さん」

 白田先生に行ってもらってほっとした。

 病室の前では、嵯峨先生と西田先生、それに車いすを広げた美晴ちゃんもいた。

 「あれ? 高橋さん待ちですか?」

 白田先生が先生たちに声をかける。

 「そう。高橋さん待ち」

 嵯峨先生が言うと

 「そうですか。お待たせしました。今終わったんでもう大丈夫ですよ」

 白田先生は車いすのところまで私を連れて行ってくれると、歩行器を外してくれた。

 「じゃあ、高橋さん、また来週」

 白田先生はさわやかに言うと先生たちにあいさつをして歩行器を片付けに行った。

 私は車いすに座らされて首をかしげた。

 ええと、なにがありますかね?

 すると嵯峨先生が私の顔を上から覗き込んだ。

 「じゃ、高橋さん。今から検査に行きますよ」

 「検査?」

 「うん。手術の時に、足に血栓があったんだ。それが今どこにあるか見ておこうと思って」

 はあ。

 私がとりあえず頷くと、美晴さんが紙をめくった。

 「高橋さん。いくつか質問しますよ。体重は?」

 いきなり体重か!

 とたんに嵯峨先生の顔がうれしそうになった。

 ええい、耳をふさいでやりたい! が。

 「……キロ」

 「昨日より減ったじゃないか」

 嵯峨先生がにやりと笑った。

 いちいち人の体重で一喜一憂しないで下さいよ。5キロ減ったって十分重いんですから。

 嵯峨先生の様子に美晴ちゃんも苦笑いしながら続ける。

 「薬物アレルギーありますか?」

 「たぶん、ないです」

 「喘息ありますか?」

 「あー、ここ2年ほど職場の検診で内科の先生に「あなた喘息ですよ」って言われてます」

 そういったら私の背後にいた二人の先生が、えって声を出してとっても驚いた顔をした。

 「検診で? そのあと病院に行った?」

 「いつもいってる地元の先生に話ししたら、一応調べてくれました。それから首傾げながら、もし咳が止まらないならそのとき薬を出すよって……」

 「そうか」

 先生二人は顔を見合わせて頷いた。

 「今風邪ひいてる様子もないし、大丈夫かな」

 先生が美晴ちゃんに言い、美晴ちゃんは頷いて書き込んだ。

 「じゃ、最後。妊娠の可能性ありますか?」

 美晴ちゃん、この前、私が生理になってたの、知ってますよね? おしめ交換の時迷惑かけてたから知ってますよね?

 てゆか、入院中に作っていいんですか。

 「ないですよ」

 苦笑いしながら言ったら、みんな苦笑いした。

 だよねー、って。

 「じゃ、これ、造影剤の同意書なんだけど、最後にここに由乃ちゃんの名前を書いてください」

 美晴ちゃんが、ボードとボールペンをくれる。

 ボードの上にはヨード造影剤使用の同意書が乗っていた。

 「これ、なにですか?」

 私は先生たちを見上げた。

 「今から検査で使う薬剤の同意書。血管を写すのに必要なんだ。一瞬カッと体の中心が熱くなるくらいだよ」

 「そうですか」

 私は自分の名前を右隅に書いた。するとすかさず

「もう一枚お願い」

 美晴ちゃんが用紙をめくった。

 そこにも自分の名前を書くと、

 「じゃ、行ってらっしゃい」

 先生たちに見送られ、美晴ちゃんに運ばれていった。


 美晴ちゃんは迷わず関係者通路に入っていく。

 いわゆる裏道ルートで検査室へ運ばれた。

 あ、ここたぶん覚えてる。

 「最初、ここで検査受けた?」

 私が言うと

 「たぶんね。由乃ちゃんがどういう検査受けたかはわからないけど、ここには来てると思うよ」

 美晴ちゃんが私の代わりにカルテを技師さんに出して検査室に入れてくれた。

 まあるいCT。

 前の時は何人もの人の手で運ばれたけど、今回は自力で移動する。

 「高橋さん、腕に点滴管さしますよ」

 ひじの内側を探り、蝶々のようなひだが付いた管が刺された。そして私の上に小さな点滴がつるされる。

 「撮影始まったら動かないでくださいね。検査の途中で造影剤いれます。カッと全身が熱くなりますが、大丈夫ですから。もし気分が悪くなったらすぐに教えてください」

 そういわれて、技師さんたちが離れていく。

 ぐわんぐわんぐわん

 機械が静かに響く音を立てて私を飲み込んだ。

 まあるい大きな輪の中に通されながら不思議な気分だった。

 うん、眠い。

 目を閉じていると寝台がゆっくり動き、また最初の位置に戻った。

 「高橋さん。造影剤が入りますよ」

 スピーカーから技師さんの声がする。

 はーいと心の中で返事をすると、再び寝台が動き出し、輪の中をくぐる。その瞬間本当に熱くなった。

 体の中心、たとえるなら子宮付近からぎゅっと締め付けられ、凝縮した熱が一瞬で一気に全身にめぐる感じ。

 瞬間的にアルコールが全身をめぐった気がした。

 そしてその熱は、回ったと同時に溶けて消える。

 うわ、これが造影剤か……。

 再び一通り輪の中を通ったあと、技師さんが出てきて、点滴管を外された。

 「お疲れさまでした」

 「ありがとうございました」

 お礼を言って、美晴ちゃんが運んできてくれた車いすに移る。

 「じゃ、次行くよ」

 再び関係者通路に入って、エレベーターに乗り込んだ。

 どこをどういったのかわからないけれど、今度は別の知らない部屋に運ばれた。

 今度の技師さんは若い女の人だった。

 うん? この人見たことある気がする。

 けど、名前が出てこない。

 どこで見たんだろう?

 その人は私のカルテを見て

 「高橋由乃さん、37歳、ですね。では足のエコー検査をします」

 自分の隣にカルテを置いた。

 「エコーですか?」

 妊婦さんが良くするあれ?

 「はい。足にローション塗りますよ、少しひんやりします」

 声がかけられて、冷たくぬるっとしたそれが塗られた。

 「では検査しますよ」

 まあるい機械がふくらはぎに押しあてられて、白黒の画像がモニタに映った。

 何度も何度も場所を変えては機械が押しあてられる。

 右足が終わって左足も同じようにローションを塗られて検査した。

 最後に足をきれいにぬぐい取ってくれる。

 検査の間中、静かにその女の人を見ていたのだけど、やっぱり私はこの人を見たことがある気がした。

 しかしどこで会ったのかが思い出せない。

 仕方がないので、直接聞くことにした。

 「あの、失礼なことを聞きますが、どこかでお会いしてますよね。見たことあるなあとずっと思ってて、気になってたんですが」

 私の言葉にその人が目を丸くした。

 「え?」

 言いながらその人は私のカルテを覗き込む。

 すると、美晴ちゃんがトントンと私の肩をたたいた。

 「由乃ちゃん、ほら……アキラくんのお母さんだよ」

 ああ!

 私が手をポンと打つと、技師さんもポンと手を打った。

 「ああ! 幼稚園の高橋先生でしたか! アキラの母です」

 私は保護者や子どもたちに先生と呼ばれているけれど、実際は先生じゃないので直接保護者とかかわることは少ない。しかし園生活の上で行事などでかかわることは多くある。だからだいたいの保護者の顔も知っているが、アキラ君の場合、朝の送りも夕方のお迎えも、ほとんどおばあちゃんがしていた。だから印象が少なかったのだ。だが言われてみれば行事や時々迎えに来ていたのはこのお母さんだ。

 なるほど、どおりで見た顔だと思ったのだ。

 「すごくすっきりした! あの、失礼な声をかけてごめんなさいね」

 私が謝罪すると、彼女もいえいえと笑顔で頭を下げた。

 ちなみに、美晴ちゃんの子どもも同じ幼稚園にいたので全員知っていた。

 

 検査室を出て病室に戻りながら

 「危うく変なナンパ師になっちゃうところだったよ。美晴ちゃんありがとう」

 彼女にお礼を言った。

 「いえいえ。けどよく覚えてたよね。私もそうだけど、あの子もあまりお迎えに行かないでしょ」

 「そこはほら、美人は忘れませんっていうじゃん」

 私が言うと美晴ちゃんがたしかにって笑った。

 特にメガネ美人はポイントが高いのだ。


 病室に戻り、ベッドに横になっていると、ノックののちに嵯峨先生と西田先生が入ってきた。

 「高橋さん。検査結果が出たよ」

 そういって、台に乗せたノートパソコンを一緒に運んでくる。

 「今日の画像ね」

 写されたモニタを見てもいまいちよくわからない。

 「こっちが手術前の画像。ここのところ白いでしょ。これがくも膜下出血の画像だよ」

 ほう。

 頭の真ん中あたりの断面が白く濁っていた。

 「で、こっちが今日の画像」

 もう一枚写されたほうは、白黒はっきりしていて脳の輪郭もしわもきれいに見えた。

 「違うでしょ?」

 聞かれて頷く。

 「再出血の可能性を作る血栓が、前調べたときは足にあったんだ。けど、今日のエコー検査で足の血栓がなくなっていた」

 嵯峨先生の言葉をききながら、私は画像じゃなく先生の顔を見た。

 血栓がなくなる、それがいいことなのか悪いことなのか、判断が付かない。

 「CT映像で探した結果、その血栓が今は肺に飛んでる」

 先生は私の胸元を指さした。

 そ、それは、ええと……。

 いまいち自体が分かってない私に代わりに

 「血栓がより近くなったということですか? 心筋梗塞とか、大丈夫でしょうか」

 義母が心配そうに先生に問う。

 血栓が脳に詰まれば脳梗塞、心臓で詰まれば心筋梗塞、どちらにしてもかなり危険な状態になりかねない。

 先生は笑って顔を横に振った。

 「いえ、大丈夫でしょう。これから血栓を小さくする薬を飲んでもらうことにはなりますけれど」

 とりあえず、先生の大丈夫という言葉に私と義母は胸をなでおろした。

 先生たちのノートパソコンを見ていると、嵯峨先生がそうそうと私を振り返った。

 「パソコン、使ってもいいよ。けどパソコンよりもトランプとか折り紙とか、指先や頭を使うゲームをたくさんして遊んで」

 私のおでこに張ったクリームテープを指で押し付ける。

 「ここ、目玉は書かないの?」

 まだ目玉いうのか!

 私は思わず噴き出した。西田先生も笑う。

 「書きません」

 私が言うと、そっかーと嵯峨先生は残念そうに病室を出た。

 あの先生は私に何をさせたいのだろう。

 


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