2月19日
朝、うつらうつら眠っていると、
「おはよう、高橋さん」
今日も明るい元気な看護師さんの声が聞こえた。
「おはようございます」
のそりと起きる。
手のかゆみは引いていたけれど、見事な蚯蚓腫れは残っていた。
「今日から朝、体重測定するから。立てられる?」
体重、測定?
「毎朝、測定するように嵯峨先生に言われてるんだ」
看護師さんはそう言って私の前に小さな体重計を置いた。
ベッドから降りて、立ち上がる。ふらりと大きく体が傾ぐと、看護師さんが慌てたように支えてくれた。
「大丈夫? ゆっくりでいいからね」
「すみません。ありがとうございます。もう大丈夫」
体重計に乗った後、ゆっくり手を放してもらって数字を見てもらう。読み上げられた数字に私は目を丸めた。
「あれ?」
「なに? 太ってた? 痩せてた?」
「痩せてた。5kg減ってる」
入院前、最後に見た体重計の数字から5kgも軽くなっていた。
入院して10日経って。その間の記憶はほとんど何も残っていないが、体重も減っていた。
おお、おめでとうと看護婦さんは笑って体重計をワゴンに乗せた。
それから
「ずっとたべてなかったもんね」
看護師さんはパソコンに数字を打ち込み、ベッドに腰かけた私の腕に、血圧測定のバンドをまいた。
「ダイエットしても減らなかっただけにうれしいような、いや不謹慎というべきか?」
私がつぶやくと、看護師さんは笑って、それから昨夜の指先を見た。
「西田先生には、手の件言っておくからね。昨夜の食事のタケノコで痒くなったの?」
「そうですね」
「ほかに痒くなったりするアレルギーある?」
私はしばらく考えてから
「検査したことないんでわからないけど、メロンも痒くなります」
そういうと、看護師さんは血圧と一緒にそれも記入した。
「そうそう。朝の点滴するの忘れるところだったわ」
そういって、前よりもずっと小ぶりな点滴をぶら下げる。そして手の甲に針を刺して、「終わったらナースコールしてね」
またお休みと言って出て行った。
お休みって言われても。
しっかり目が覚めちゃって、もう眠れないよ。
仕方がないので、テレビのリモコンのスイッチを押した。
今朝はお義母さんが来てくれた。
ご飯を終えて、ベッドの上で歯磨きをし蒸しタオルで顔を拭いていると、数度のノックの後、西田先生が入ってきた。
「おはようございます。西田先生」
声をかけると
「おはよう。昨日の夜、手に湿疹が出たって? 見せてくれる?」
まだ寝癖が残る頭でやってきた。
点滴が付いていない、ひっかき傷でいっぱいになった手をしげしげ眺めて
「しかし見事にかいたんだね。タケノコ食べてこんな症状になったこと、今までにもあるの?」
私の顔を覗き込んだ。
最初は目つき悪いとか思ったけど、何気に目が大きい先生でもある。
あと顔立ちも整っているので、目の保養にとてもいい。
「喉が痒くなったりはありますけど、こんな風になったのは初めてです」
「メロンもなるの?」
「メロンはもっとイーーーッてなります」
私が思いっきり顔をしかめながら言ったら先生が笑った。
「そういやこの前の夕飯のメロン食べてなかったね」
思い出したように言われて私は首を傾げた。
「そんなことあったんですか?」
すると先生も首を傾げた。
「あれ? 覚えてない?」
まったく覚えがなくて首をかしげるばかりの私に、先生の顔つきも少し神妙になった。
「とりあえず、タケノコとメロンはつけないように食事を変えてもらうよ。他のは大丈夫かな?」
確認されて、私も首を傾げた。
「検査したことないから」
「そっか。ついでに今度採血の時に検査してみようか」
先生はそう言うと部屋を出た。
西田先生がいなくなった後
「今日、シャワー浴びるって言ってたから由乃さんのお風呂セット持ってきたわよ」
お義母さんがいつも私が使っているシャンプーとコンディショナー、ボディソープとナイロンたわしを1セットにした手提げを棚の上においてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言いながら心はもう「早くシャワー浴びたいな」とワクワクしていた。
けれどその前に、ずいぶんほどけたとはいえ、まだまだ絡まったこの髪をどうにかせねば。
ベッドに座ると大ぶりの櫛で、また少しずつ髪を梳いた。
「髪、ずいぶんほどけたわね」
お義母さんが、そっと指を通した。
「はい。あともう少し」
「やっぱり目の粗い櫛って、大事なのね」
義母はそう言って髪から手を放した。
少しずつとはいえ、引っ張ると痛い。
眉間に力が入ると、瞼やそのあたりもろもろが痛くなって
「休憩」私はぱたんとベッドに横になった。
寝るなって言われても、やっぱり眠い。
少しだけ、そう思って目を閉じると起きたら、昼ご飯になっていた。
ここはもう、昨夜あんまり寝れなかったし、と言い訳するしか……。
だから夜寝られなくなるから昼間寝るなって言ってるんだろうとかいう、サディスティックな声が聞こえてきた。
あー……嵯峨先生の声が幻聴に聞こえるってもう終わった感じ。
嵯峨のSはドSのS……。
ピッタリすぎて笑えん。
昼ご飯を終えたころ、看護助手さんがナイロンエプロンをつけてやってきた。
「高橋さん。お楽しみのシャワーだよ! 車いす持ってきたよ」
手際よく開かれた車いすにそっと乗ると、お義母さんがお風呂セットを持たせてくれる。
それをもつと、初めて私は病室を出た。
なんとなく、病室の前にナースステーションがあるのは知っていたけれど、本当にあった。
リアルに出てきた光景がとても新鮮だった。
「あ、高橋さんだ。お風呂?」
そわそわしていると看護師さんたちが笑顔で声をかけてくれた。
「病室をこうやって出たの、初めてじゃない?」
聞かれて頷く。
「そうですよ。部屋の外ってこうなってたのかって、すごく新鮮」
あまりにきょろきょろしてたら、カウンターテーブルのところでパソコンを見ていた西田先生に笑われた。
「ゆっくり入ってきて」
見送られて、先生の向かい側にある扉の奥に運んでもらう。
そこがお風呂場だった。
自分で服を脱いでいる間に、看護助手さんが大きなたらいに足湯用のお湯を張ってくれた。裸で車いすに座ったままお風呂のいすそばにはこばれて、そこだけ自分で立って移動し腰かける。
看護助士さんに尿の入った袋を椅子にかけなおしてもらって私はそっと足湯に足を入れた。
ああ、あたたかい!
久々に当たるお湯はとても気持ちよかった。
だけどシャワーを当てながらだんだんと現実が襲ってくる。
「すごく、垢だらけです」
お湯でふやけた皮が、あちこちでめくれ始めていた。
「いつ入院したんだっけ?」
「8日です」
「じゃあしょうがないわよ、3日くらいは覚悟して」
そうは言われても、こすればこするほど薄い皮がボロボロ落ちて、ぞくっとなった。
「頭、洗っていいですかね?」
「大丈夫よ。手伝いましょうか?」
「いえ、大丈夫。ありがとうございます」
足を放棄して私はまず髪の毛から洗うことにした。
シャンプー1回目……まったく泡が立たない。
2回目、やはり泡が立たない。
どれだけ汚れているのかと溜息を吐きつつ3回目、ちょっと泡立ちが出てきた。
4回目はふわふわの泡が立ったので、ようやく満足して洗い流すとコンディショナーをつけた。
このコンディショナーの力はすごいもので、流すときに最後まで絡まっていた髪がほぼほどけた。
「お!? おおお!!」
手触りを確認して喜びの声をあげたら
「どうしたの?」
そばにいた看護助手さんに聞かれていたので恥ずかしくなった。
「あ、髪が今ほどけたからうれしくて」
「え? そうなの? あの髪の絡まり方すごかったものね。よかったじゃない」
一緒に喜んでもらえて私もほっとした。
体は3回洗ったところで力尽きた。
もう、無理。
今日のところはこれで勘弁してやる。
まだ気になるところは多々あれど、次の人の時間も差し迫っているはずなので、シャワーを後にした。
貸してもらったドライヤーで髪を乾かしきれいにとくと、久々に絡まりの全くない髪がもどっていた。
「あ、きれいになったじゃない」
お義母さんも後頭部をなでながら喜んでくれる。
「おかげできれいになりました」
「顔も皮がむけたのか明るくなったわよ」
言われて頷いた。
いっぱい垢が取れましたから……。
自分のほっぺたをペタペタたたいていたら
「ああ、化粧水持ってきてなかったわね。明日もってくるわ」
お義母様、そういって手帳に書き込んだ。洗面所の棚のところにあるのでよろしくお願いします、そういってベッドにもたれる。
お風呂に入るのも一苦労だった。
何もかも一つ一つの行動がこんなに大変だっただなんて。
お年寄りにどうこう言えないよ。
「由乃さん、リハビリの先生見えたわよ」
義母の声で目が覚めた。
どうやら眠っていたらしい。
「ごめんね、お休みのところ」
そういってやってきた白田先生は一人じゃなかった。
誰だろうと思いつつ
「いえ、こちらこそすみません。寝てしまって」
机の上に汲み置きしていた水の残りをごくりと飲み干して元に戻す。
「高橋さん、今日は別の病院の先生が見学されますがいいですか?」
聞かれて、私は頷いた。
「ええ、どうぞ」
後ろにいたのは、白田先生より私くらいの年代の男の人だった。
最初は立てって片足立ちをし、相変わらずくらっと倒れると白田先生の手が伸びてきて支えられる。
両足で立つのはずいぶん慣れたけれど、片足立ちはまだまだ難しかった。そのあとは
「今日は歩行器を持ってきたので歩きましょうか」
廊下から大きな歩行器を搬入する。
手すりを抱え込むようにして胸元で押すタイプの歩行器だ。
自分一人で歩くのはまだ難しく、歩行器があるのはずいぶん助かった。
廊下に出ると
「あ、高橋さん、歩いてるじゃない」
看護師さんたちが頑張れと声をかけてくれる。
今まで何の意識もしなくても歩けていたのに、一歩、一歩足を前に出すのがかなり億劫だった。
「ゆっくりでいいですよ」
白田先生の声にかすかに頷く。
うん。ゆっくりしか歩けない。
数歩歩いただけで、歩行器を抱え込む。けれど、歩けるのは良いことだ。
中庭に面した窓辺で外を見れば、少し空が曇っていた。
「高橋さん。正面の窓まで頑張りますか」
白田先生が廊下のつきあたりに見える吐き出し窓を指さした。
ここからでも窓の向こうに海が見える。
あそこまで歩いて外を見れば、きっとここからの風景よりずっと気持ちがいいものになるだろう。
私は歩行器を押すように歩き出した。
やっとたどり着いたとき、赤くまぶしい太陽が輝いていた。
真赤な空、穏やかな海、そこにまぶしく輝きながら太陽が沈もうとしていた。
「今日はいいお天気だったんですね」
「そうですね。昼間は曇ったりしてたみたいですけど、今はいい夕焼けですね」
言いながら白田先生は私の隣に立つと「高橋さん、こっちむいて?」
「はい」
私は歩行器ごと体を白田先生のほうに向けた。
「歩行器、はずしますよ。手すりは持たないでね。何も持たずに立てますか?」
私がまっすぐ立つのを確認して、白田先生が私の前からそっと歩行器を外した。
どうにか、立つことはできている。
「じゃあ、ゆっくりでいいんで、そのままこちらに歩けますか?」
白田先生が手を差し出す、そちらへゆっくりと一歩、もう一歩。
が、姿勢が崩れた。
慌てて白田先生ともう一人の先生の手が伸びて支えられる。
「大丈夫ですか? 手すりつかまって、立てる?」
「はい、すみません。ありがとうございます」
私はそばにあった手すりにつかまるとどうにかまた立ち上がった。
まさか数歩で崩れるとは思わなかった。
もう一度歩行器が運ばれて、それに捕まる。
歩行器があると、また歩けた。
けれど、自力で歩けなかったのはとてもショックだ。
片足立ちもできない。歩くこともできない。
これがもし、頭を切ったことによる後遺症だったら?
思いもしなかったことに背筋がぞっとした。
「高橋さん。大丈夫ですから、ゆっくり気長にしましょうね」
白田先生が笑顔で励ましてくれる。
うん。
けど、私……ついこの前まで歩けたし、片足立ちだってできたし、走ることだってなんだってしてたんだよ?
それがこんなにも歩けないなんて……。これはとてもショックなことだった。
途中でよその病院の先生と別れ、白田先生と二人でゆっくり廊下を歩く。
自分の病室まで戻ったとき、嵯峨先生がにやにやしながら一緒に入ってきた。
私がベッドに座ると、白田先生は、それじゃと歩行器をもって退室する。
残った嵯峨先生はとっても楽しそうだ。
「高橋さん、今日から体重測定だったでしょ? 何キロだった?」
……なんでそんな嬉しそうなんですかね?
「……キロです」
「そっか。じゃああと20キロ痩せないとな!」
20キロって!!!
「一応!! 入院して5キロ痩せてたみたいですよ」
むきになっていったら
「そりゃ、点滴しかしてなかったじゃない。今はもう口からご飯食べたり飲み物を飲んだりする。もう摂取するものをよく考えて選びながらしないと痩せないよ」
そんなのあたりまえだとばっさり切り捨てられた。
あああ、もう!
「けど、こんな短時間で体重落としたら怖いですよ」
急激に痩せるとね、人間の皮がぶよぶよになるんです。
嵯峨先生を見上げたら
「そんなの体重がある状態のほうがよっぽど怖いこと多いよ」
相変わらずばっさり切り捨てられて、私は頭を抱えた。
ああ、もう、きっとこの先生には勝てない。
私はぱたんとベッドに横になった。
今日はもう、いろいろありすぎて大変だったよ……。




