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2月16日

 

 朝

 「おはようございます。高橋さん、今朝の体温何度?」

 検温に来た看護師さんを見て私は目を丸めた。

 「あれ? 美晴さん」

 「そうよー。まさか由乃ちゃんとこんなところで会うなんて思わなかったわ」

 中学の同級生が苦笑いしながら心電図の数値を書き込む。

 彼女の名前は旧姓・高野美晴、今は結婚して大野美晴だったと思う。

 私もまさかこんなところで見知った人に会うとは。

 もう一人一緒の入ってきた看護師さんが

 「本当よ。まさか由乃ちゃんが入院するなんてねえ」

 と笑う。

 見覚えのない顔に固まっていると

 「覚えてない? 今は大野だけど旧姓は近藤栄子です。由乃ちゃんとは小学校のときの、ほら、そろばん塾、一緒だったんだよ。同じ中学校で、私がひとつ上だけど。ええと、近藤エミ、覚えてる? あのこと従妹になるんだ」

 「ご、ごめんなさい。エミちゃんは覚えてるけど、そうなんですね。世間、狭い」

 私が驚いていると、本当にそうだよね、とみんなで笑った。

 そろばん塾にはよこしまな理由で2年ほど通った。同い年の子は小学校が違ってもだいたい覚えている。

 だが1学年違うと、どんなに中学校が同じでも覚えていないことが多い。

 でも知り合いがいるというのは、心強かった。

 しかも、美晴さんがいてくれたことはとても嬉しかった。

 その美晴さんがしばらくして、重装備でやってきた。

 「髪、洗おうか」

 そういってワゴンにいろいろ乗せてやってくる。

 「もたれずに座れるかな?」

 聞かれて、すこしならと頷いた。

 ベッドをまたぐ、いつも食事を載せたりしている細長い机に突っ伏して作業が終るのを待つ。

 「おまたせ」

 その言葉に促されてゆっくりベッドにもどったら、大きな吸水パッドが広げられていた。

 そのままベッドを倒されて、横になる。その際に髪を上に持ち上げて長くたらした。

 「聞いてたけど、見事にもじゃもじゃだね」

 美晴さんが私のぐちゃぐちゃにもつれた髪を見て苦笑いした。

 母だけでなく何人かの看護師さんも、これまでにこの髪をほどこうとしてくれていた。

 「なかなかしぶといよね。いっそ切っちゃえばいいと思うのに。美晴ちゃんだってさ、さっちゃんがこんな髪で戻ってきたら、ばっさり切っちゃうでしょ?」

 小学生になった彼女の娘の名を挙げると、美晴ちゃんは苦笑いした。

 「さちがこんな髪で戻ってきたら、そりゃあもう、容赦なくすぐさまジャキーンって切っちゃうよ」

 「でしょ? だから切っちゃっていいんだよ、また伸びるし」

 私が言うけれど

 「でもさ。もう少ししてからでもいいんじゃない?」

 彼女はそういって、もつれた髪のまま丁寧に私の髪を洗ってくれた。

 久々に頭を洗うととてもすっきりした気持ちになった。

 清潔でいることはとても大事だ。

 「なんか、髪洗うっていいね。ありがとう」

 お礼を言うと

 「本当、よかったわね。ありがとうございます」

 それらの様子を見ていた母も美晴ちゃんにお礼をいった。


 その日の午後、リハビリも始まった。

 言語、理学、作業、3人のリハビリの先生がかわるがわる病室にきた。3人とも若い。二十代半ばの一番いい時期だ。

 言語の河野先生はこの三人の中では一番年長だと言っていたがとても愛らしい。ふわふわとしていて、有名姉妹キャスターにとても似ていた。

 1日目は小学生くらいの計算をして、言葉の認識について確認をした。

 作業の今井先生は、きりりとした目が印象的な美人で、ストレートの長い髪がよく似合っていた。

 最初のリハビリは、まず寝たままじゃなく座ること、そしてベッドから降りてたつことをした。

 座ることも最初苦労したけれど、立つことはもうひとつ大変だった。

 昨夜、寝ぼけてそれをやったらしいけれど、介助がついてふらふらなのに、一人でするだなんてどれだけ無鉄砲なんだろう。

 自分自身あきれる。

 それにしてもただ立つという動作が改めて大変だと思い知らされた。

 今まで何気なくしていた動作だったのに。

 「ずっと寝ていたんでしょう? そうなりますよ。落ち込まなくていいですからね」

 今井先生が優しく言う。私は頷いた。

 「前に、足を手術したときも10日間、起きちゃダメ、寝返りも打っちゃダメっていわれたことがあったんです。あの時も立つのに苦労しました。高校生であれだけ大変だったんだから今はもっと大変ですよね。体も重くなったし。気長にします」

 私が言うと、そうですねって笑ってくれた。

 綺麗な人だった。

 最後に理学の黒田先生は、線が細い綺麗な超アイドル顔の男の人だった。

 ……なんだ、ここの病院は顔で採用しているのか?

 私だけじゃなく、私の両親に義理の両親もそろって抱いた感想だ。

 白田先生は特に目力が強くて、マスクをしてしまえば、普通に大人気アイドルグループの彼とか、人気歌手と電撃婚をした人気イケメン俳優とか、男子スケート初のゴールドに輝いた彼なんかと並んでも見劣りしない。

 しかし白田先生はこの日は挨拶だけすると「今日は僕は出張なんで、また明日から来ますのでお願いします」とかえった。

 動作の先生、果たしてこれからどんなことをするのか、少し楽しみになった。



 ただリハビリが終ってしまうと、すっかりくたびれてまた眠ってしまうのだけど……。

 

 夢を見るのは嫌だった。

 いつも扉をたたく音がする。

 開けろ、開けろと脅迫されている気がした。

 助けて。

 私の声は届かない。

 助けを求めようにも、手も足も動かない。

 怖い。

 怖い。

 ねえ、誰か来て。

 「どうしたの? 夢を見てるの?」

 かすれた声がした。

 夢?

 これ、夢?

 夢だったら、助けてくれる?

 自然とその声のほうへと体を摺り寄せる。

 「ちょ、どうするの?」

 私の動きに驚いたようだけれど、そんなの知らない。

 「手、ほどいて」

 お願い、ほどいて。

 だってまたアレがくる。

 ドンドンドンッ

 ほら、きた。

 扉をたたく音がやまないの。

 前より音が大きくなった気もする。

 怖くて体がすくむ。

 暖かいほうへ自然と私は体を寄せた。なだめるように手が触れる。 

 「ほどいてどうするの」

 そんなのわからない。

 だけど、ほらまた

 ドンドンドン

 扉をたたく怖い音がしてる。捕まったらもう逃げられない。

 「怖い……」

 身をよじって逃げようにも手がこんなんじゃどこにも逃げられない。

 耳を覆って音を拒絶しようにも、その耳すらふさげない。

 「ああ、あの音か。わかった。とめてくるよ、もう心配ない」

 もう一度なだめるように頭をなでられて、布団をかけなおされる。

 足音がだんだん離れて、そしてあの扉をたたく音はやんだ。

 ああ、よかった。

 私はまた夢に落ちた。

 その日、夢の中に扉をたたく音はなかった。



 「高橋さん、夕飯置いておくわよ」

 看護師さんが机の上にご飯を運んできてくれる。その声で私は目を覚ました。

 「あれ? おうちの人は帰っちゃった?」

 「そうみたいですね」

 そういやリハビリが終わったすぐあとくらいに、今日は用事があるから、もう帰るねという声を聞いた気もする。

 よくわからないけど。

 「そっか。手、ほどいたら自分で食べられる?」

 「はい」

 食事の隣には飲み物があるし大丈夫だろう。

 看護師さんに手をほどいてもらうとお礼を言って、ベッドのリモコンで背もたれを起こし、座った。

 ウェットティッシュで手を拭いて、ベッドのすぐ隣にあるごみ箱に捨てる。

 「じゃあ、ごゆっくり」

 「はい、ありがとうございます」

 お礼を言って看護師さんを見送った後、私は固まった。

 ……お箸がない。

 おかゆは最悪、お椀をもって飲み込むことができなくもないけれど、でもおかずは道具がいる。

 ぐるりと見渡してさがせば、テレビの向こうにお箸箱が見えた。

 どう頑張って手を伸ばしてもお箸まで手が届かない。

 歩いて2歩か3歩の距離だが……。 

 正直一人であそこまで行ける気がしない。

 しかも手には点滴が刺さっている。下手に動いて転んだりしたら……。というか、きっと一人で勝手に立ったらまずいだろう。

 今、もしここで先生が来てくれたら!!

 いつも不思議なタイミングじゃない!

 いつくるの!? 今でしょ!?

 念じてみても、扉があく気はしない。

 10分ほどおかゆがさめるのを見てから、あきらめた。

 「ナースコール押そう」

 あまり自分でナースコールを押すのは嫌だ。

 が、背に腹は代えられまい。

 押すとすぐ、扉が開いて

 「どうしましたー?」

 さっきの看護師さんが来てくれた。

 「えへへ。すみませんが、そこのお箸をとっていただきたくて……取れそうで取れなかったんです」

 「ああ、ごめんね。こっちも気が付かなくって」

 いえいえ、私がそろってないの気づかなかったのがまずいんですよ、ありがとうございました。

 やってきたお箸をありがたく受け取ると、やっと夕食に手を伸ばした。

 しかし……それにしても、見事なまでの食っちゃ寝生活だな。

 おかずを食べながら自分自身にあきれた。



 

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