差し障りのある人たち
「多いでしょ? ああいう人。土地柄なのか、この駅にはああいう人が集まるんです」
いきなり背後から声をかけられて私はびっくりした。振り返ればメガネをかけた三十代前半の男が立っていた。ぴしっとシワの伸びたスーツにビジネスバック、きっとこのあたりに住んでいるサラリーマンなのだろう。彼が声をかけてきた理由に私は心当たりがあった。
私たちが電車を待っているホームで奇声をあげている男性がいる。差し障りがある言い方だが、「頭のネジが飛んじゃっている人」である。誰もいない場所に話しかけたり、罵声をあげる。そんな人が私の数メートル先にいる。朝からそんな障りのある人に絡まれれば、一日の始まりとしては最低だ。
――こっちに来ないでよ。
と、願いながら私は、彼がこっちに来るようなら離れようと様子を伺っていたのだ。私に声をかけてきたサラリーマンはそれをみていたに違いない。
「多いんですか?」
「毎朝、この駅を使うんですけど、だいたいいますね。一本のる電車をズラしてみても、別のああいう人が必ずいます。そういう精神病院とかが近くにあるのかもしれない」
私はこの夏からこの駅にいるようになった。それまでは別の場所にいたのだが、どうもならないことが事情があってこちらに移ってきたのだ。それなのに、ああいう人が多いという情報は、あまり嬉しいものではない。
「そうですか。絡んできたりするんですか?」
私が声を潜めて尋ねると、サラリーマンも声を落として答えてくれた。
「あんまりないけど、雨の日とかは傘を振り回す人もいるから気をつけたほうがいい」
幸いなことに今日は雨ではない。雨の日は、大学に行くのをやめようか、と思っていると西回りの電車が来た。私が待っているのは東回りの電車なのでこれではない。しかし、サラリーマンと障りのある人はこちら向きの電車らしい。
私は、サラリーマンに同情しながらも東回りの電車に乗ってこなくてよかった、と安心した。
大学生である私にとって登校時間などあってなきものである。気分が乗らなければ自主休講して、浮遊霊のようにフラフラとウィンドショッピングする。そんな生活をしていると、どの時間帯でも障りのある人がいることに気づく。朝でも昼でも夜でも誰かしら障りのある人がいるのである。
もう、ここを離れようかな、という気持ちが心の中に広がってきていたある日、またホームでサラリーマンと会った。サラリーマンはホームの柱に取り付けられた鏡の前でネクタイを必死に整えていた。朝寝坊でもしたのだろうか。
「あ、どうも」
私はかるく頭をさげた。顔見知りであるが、きちんと挨拶するほどでもない。そんな相手というのは扱いに困る。無視していいか、と思う反面、挨拶くらいは、という気持ちもする。
そして、その間をとった言葉が
「あ、どうも」
であった。
「どうも」
サラリーマンも慌てたように私に頭を下げた。向こうもまさか声をかけられるとは思ってなかったに違いない。こんなことなら無視しておけばよかった。だが、かけてしまったものは仕方ない。
「今日もいますね」
目線だけで私が障りのある人を指し示すとサラリーマンも頷いた。
「いますね。最近気づいたのですけど、この駅に現れるあの手の人に共通点があるんです」
「共通点?」
気にはしていたが、まじまじと観察したことのなかった私は、共通点なんてあったか、と首をかしげた。
「それは、二十代から三十代前半の若い男性であること」
いわれてみればそんな気もする。女性や老人が奇声をあげていたという記憶はない。
だが、だからどうしたらいいのだろうか?
私は女性だから大丈夫じゃん、と喜べばいいのだろうか?
それとも、貴方は危ないんじゃないですか?
と、サラリーマンを心配するべきなのか、と悩んでいるとまたしても電車がやってきた。彼は何か言いたげだったがすぐに車中の人になってしまい会話はここで終わってしまった。
またそれからしばらくの間、サラリーマンと出会うことのない自堕落な生活が続いた。もともと継続力に欠ける私は、前期の単位取得を諦めていた。残り二年半で取り返せばいいのである。簡単なもんじゃない、とうそぶいてみる。
とはいえ、不安はあるもので、たまには、という感じでホームに行くとサラリーマンがいた。声をかけようかと近づいて私は驚いた。初めて会ったときは型崩れのないスーツを着ていた彼だったが、今日はヨレヨレのスーツに無精ひげというずぼらな格好だったからだ。
そういえば、前回会ったときはネクタイを必死に直していた。そして、今回はヨレヨレのスーツである。もしかすると、奥さんに逃げられたのかもしれない。これは話しかけないほうがいい。
そう思って私が撤退しようとしていると
「おい」
と、横柄な声をかけられた。声の主はやはり、サラリーマンだった。語気が荒いところから機嫌はあまりよくなさそうである。私は少し怯えた様な声で答えた。
「なんでしょう」
「どうやら、ああなるまでには段階がある」
なんのことだろうと考えてみたが、私と彼の会話は障りのある人のことだけなのでそれに違いない。
「段階ですか?」
「そうだ。最初は普通にここで電車を待っているだけだ。しかし、しばらくするとブツブツと独り言を漏らすようになる。そして最後には誰もいない場所向かって叫んだり、怒鳴ったりするようになる。理由は分からない。君は、これをどう思う?」
どう思う、と聞かれても私にはそんな理由は分からない。私が何も答えられずにいると彼は苛立たしいといった顔で私を睨みつけていたが、電車が到着するとすぐに行ってしまった。今日ほど、電車が来てくれたことに感謝した日はない。
大学が夏休みになったことで私は自然と電車に乗らなくなった。私は彼に会わずに済むことに感謝しながら公式に与えられた余暇期間を満喫した。楽しい時間というのはすぐに終わってしまうもので、新学期が始まってしまった。
後期くらいは単位を取らないと、いう気持ちから久しぶりに駅に向かう。彼とは会いたくないので一限目の授業はスルーして二限目から登校することにした。こうすれば社会人である彼とは出会わずにすむ。我ながら素晴らしい考えである。自画自賛しながらホームにたどり着くとそこには彼がいた。
ボロボロのポロシャツに汚れたジーンズを身につけた彼は私の顔を見つけるなり、何かをわめきたてながら私のもとに走ってきた。私は身を翻して逃げようとしたが、すぐに追いつかれて肩を掴まれた。
「痛い、痛いです。やめてください」
私が悲鳴を上げると、彼は私の頬を思いっきり殴りつけた。ホームに倒れ込んだ私を見下ろすと、彼はわけのわからない言葉を私に浴びせつける。周囲にいる人は彼が怖いのか、遠巻きに見ているだけで助けてくれそうにない。まるで私がいなような態度である。
――ああ、みんな私と一緒なんだ。こんな障りのある人と関わりたくないんだ。
と、私は思ったが怖くて何言えなかった。
しばらく、私を罵って彼は満足したのか。まともな思考ができないせいか、彼はホームから去っていった。私はホームに倒れ込んだ際に汚れた服装を正そうと、柱に取り付けられた鏡を覗き込んだ。
しかし、そこに私の姿はなかった。
鏡に映っていたのはホームだけで、私はまるで透明人間かのように消え失せていた。
「私も障りある人なのかな?」