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妹の左目は、冷凍イカの瞳。  作者: 五条ダン
第二章――解凍篇――
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2.妹(私のからだはミユの言葉を受け入れ始め)


「では、これからおねえちゃんに催眠術をかけまーす」


 妹はイチャラブタイムの開始を宣言する。

 夜、家族の寝静まった頃。私はベッドに寝かされて、といっても自分のベッドなのだけれど。

 まあ、ミユはまだ中学生だ。催眠術のようなオカルトじみた遊びに興味を持つのも仕方がない。姉として付き合ってあげるか。


「催眠術って分かってたらかからないよ?」


「大丈夫。ぼくとおねえちゃんは切っても切れない信頼関係で結ばれている。偽薬と知っていてもプラセボ効果はあるように、ほら、もう無意識は、ぼくの心を受け入れ始める」

 はいはい、と合わせておく。どうせかかりっこない。


「催眠といっても、おねえちゃんにとって良い暗示しかかけないから安心して。身体を動かしてはいけないなんてルールもないし、可笑しかったら思い切り笑うこともできるよ」


 催眠術者と被催眠者とに形成される心的関係をラポール、と言うそうだ。つまりは相互信頼関係。ラポールが生まれなければ催眠状態にはならないとされる。ゆえに、自分の望まない暗示にかかる心配はない。そこが催眠と洗脳の決定的な相違点なのだ。


「じゃあ仰向けになって、目を閉じて」

 まぶたを閉じる。暗がりにぼんやりと見えていた妹の姿が、消える。掛け布団は胸のところまで掛けていて、両腕も布団の中。温かい。


「ぼくの合図に合わせて、深呼吸をして。息を吸ってー、吐いてー」

 言われたとおりに深呼吸をする。十回ほど繰り返す。

 しかしこれは私の意思だ。自分の意思で制御できている。変性意識に入る感覚は《落ちる》と表現されることもあるが、具体的にどのようなものか想像つかない。本当にトランスできるなら楽しみだが、さすがに雑念が多すぎた。


「息を吸うたびに、煌めく雪のような皓白が身体の中に取り込まれるよ」

 その表現はないわー、と思いながらもミユの言葉に耳を傾ける。


「息を吐くたびに、漆黒の闇に包まれた瘴気が身体を抜け出て、浄化されるよ」

 ここで思い切り吹き出してしまった。


「あっはははは、それはないって」

 妹の催眠があまりにもチープで可笑しさがこみ上げる。笑いすぎてお腹が苦しくて、思わずベッドから身体を起こしてしまう。

「はははは、ふふ、ふ、ミユちゃんやっぱ無理。催眠にはかかれそうもな」

「ほら、やっぱりもうかかってる」

「え」

 そういえば私、何でこんなに笑って――。


「無意識はぼくの言葉を受け入れる。目を開けて」

 薄っすらと目を開ける。

 ぼんやりとした小さな光が目の前をちらちらと動く。小型のペンライトだろうか。

「見つめて。意識が段々と遠のいていく」

 視線は暗がりの明かりを自然と追って、くるくると移動する。あ、これ五円玉を糸に垂らして揺らすやつの応用だ。


「段々と眠くなる。眠くなる」

 これで眠れたら睡眠薬はこの世に不要だなと思った。光は次第に動きを小さくし、目の前の一点に静止する。


「ゲーデルの不完全性定理とハイゼンベルクの不確定性原理の違いは」

「えっ」

 唐突な質問が思考を一瞬奪う。

 ぬくもりのある妹の手のひらがおでこに触れる。刹那、パチン、と光が消え、目の前が真っ暗になった。

「落ちて、ずーんと重くなる」


 瞬間、私は落ちていた。

 柔らかいベッドに、再び。

 落ちた衝撃で意識が身体から切り離されるようだった。


「目が自然に閉じる。ふわぁとした心地良い感覚が全身に広がる。眠くなる。もう意識は眠っている。無意識だけ」

 な、何。


「からだが重くなる。力が入らなくなる。ふにゃふにゃになる」

 まるで遠くから話しかけられているような、頭に声が響く。


「力を入れようとすればするほど、力が抜けてゆく。動かすのが面倒になって、ふにゃふにゃなのが気持ちよくて、からだを動かそうとも思わなくなる」

 右腕に、妹の両手が優しく触れた。


「無意識が、ぼくの言葉を受け入れるようになる」

 右腕が温かい。

「右腕からすーっと力が抜ける。抜けてゆく。最初はその感覚にびっくりするかもしれないけれど、段々と気持ち良くなって楽しくなってくる」

 何、ちょっと待って。


「左腕からも力が抜ける。力が抜けるのはとても心地ち良いよね。だからどんどん抜けていく。ほら、自覚するともう止まらないよ。ふにゃふにゃになって、自分の意思では動かせなくなる。でもそれが安心」

 待って、何が、腕の感覚が遠のいていく。

 まるで布団のなかに溶けてしまったように腕の存在感が消える。


「試しに腕を動かそうとしてみたっていいよ」

 まだ意識ははっきりしている。でもどれだけ頑張っても腕には力が入らなかった。

「そう、絶対に動かないよね。動かそうとも思えないよね。だってそれが気持ち良いから」

 力がシチューの鍋にトロトロに溶けてしまったように、身体の外に漏れ出してゆく。


「次は肩だね」

 ミユは、両肩にも同じことをした。

 肩の筋肉からすーっと緊張が溶け、感覚がぼんやりとしてきた。心地良いのは本当だった。肩こりになったときは妹に催眠をやってもらおう。意識はまだそのようなことを考えるくらいの余力を残していた。


「次は脚だね。太ももから足のつま先に向けて、意識を集中させて。ほら、力がすーっと抜けてゆく。力が抜けてゆくと、身体はぼくの言葉を自然と受け入れるようになる」


 ミユはそうやって、何度も何度も同じフレーズ、言葉を繰り返した。そうか、催眠は繰り返しなのだ。滴る雨水がやがて岩をも穿つように、相手の心が抵抗を解き、やがて受け入れるようになるまで、何度も言葉を繰り返すのだ。


「背中の力が抜ける」

 何度も。

「首の力が抜ける」

 何度も。

「顔の力が抜ける」

 繰り返し。


「最後は、頭の力を抜こうよ」

 やがて私は声に従うことに快楽を覚えるようになる。その快楽というのは睡眠時のウトウトとした感覚に近い種類のものだった。


「意識がぼーっとしてゆくね。考えようとすればするほど、頭から力が抜けてゆく。考えるのが面倒になってゆく。何もわからなくなる。ぼくの言葉が、おねえちゃんの思考の代わりになるから安心してね。ぼくの声がすべてになる」

 心に直接、妹の言葉が響くようだった。

 ミユの声が、私の意識と同化してゆく。


「考えようとしてもいいよ。無理して思考を止めなくても大丈夫。でも、頭を使おうとすればするほど、頭から力が抜けていく。今までもそうだったんだから、当たり前だよね」

 ふと、幼い記憶がよみがえる。お母さんの胸に抱かれていた頃。


「何もわからなくなる。意識のスイッチをオフにしようか。無意識にすべてを委ねられるよ」

 無意識、ふと身体の感覚が消え、力が抜けた。頭がぼんやりとする。

 白い霧がかかったようだった。思考の残滓が空間を漂っていて、それさえも今に無くなってしまいそうに。


「数字の五十を思い浮かべて。思い浮かべたね。じゃあ、五十から七を引いてみようか」

 五十、四十三……。

「四十三引く七は?」

 三十……六……。

「引く七」

 二十……九……、二十……二……。

「数字が小さくなればなるほど、考えるのが難しくなるよ。ほら、数字が小さくなるのをイメージして。頭がぼーっとして、思考が真っ白になるよね。二十二引く七は?」

 十――あれ、引き算ってどうやるんだったっけ。

「ご、よん……」

 数字って何だったっけ。


「さん、にー、いち、ぜろ!」

 何も考えられず。

「……眠って」


 意識が、消える。



 おねえちゃんはいま、深い催眠状態。意識は眠っているけれど、無意識がしっかりぼくの声を聞いているから大丈夫。この世界では、ぼくの言うことがすべて。ぼくの作り出した世界だから、当然だよね。


 この世界で生きる理由を悩む必要はないよ。ここには未来はない。過去もない。だから、何も視えなくて当たり前。


 心配しなくても大丈夫。

 未来が視えなくなったら、恋をしましょう。

 恋が絶望から救ってくれる。


 人魚姫が、恋することで魚から人へと変われたように。おねえちゃんが望むのであれば、変身することができる。


 ぼくの言葉が、すーっと無意識の深い深いところまで沈み込んでいく。心の奥まで入っていく。だからこれからぼくが言うことは真実として、胸の中に刻み込まれる。


 おねえちゃんは、本当はイカなんだ。

 おねえちゃんは、海を泳ぐイカ。イカとしての記憶を忘れてしまっているけれど、昔は深海に暮らすイカだったの。


 イカはある日、人間に恋をする。人間が恋しくて恋しくてたまらなくなって、魔女の魔法で人間に姿を変えて地上にやってきた。


 ゆーらゆら、ゆーらゆらと深海に意識が揺れる。気持ち良い。


 形は人間でも、本当はイカだから、おねえちゃんは人間界の人間であることによる危難からは守られる。ぼくのそばにいる限り絶対に守られる。それはおねえちゃんが最初に恋をしたのは、ぼくだったから。


 おねえちゃんは、本当はイカだから。

 ぼくに恋をする。ぼくに恋をしている。

 思い出す。心の奥に封印していた感情を。


 これから、冷凍された恋愛感情を解凍するね。


 ぼくが十からゼロまで数えると、おねえちゃんの中で眠っていた恋する心が覚醒する。氷が溶けて、熱い恋の炎が目を覚ますんだよ。

 それは生きるための灯火。


 じゅう、きゅう、はち

 なな、ろく、ご

 よん、さん、に

 いち

 ゼロ!


 ふふ、なにも感じないかな。

 それは意識がまだ眠っているから。もう無意識では、恋する想いが心からゆっくり、全身に溢れだしているんだよ。


 ぼくがこれから、ゼロから三まで数え上げて手を叩くと意識が戻り、おねえちゃんは目を覚ます。手を叩く音で、目が自然に開く。

 でも、催眠はかかったままだから安心してね。


 ゼロ、いち、にー、さん。

――手を叩く音。



「起きて、おねえちゃん」


 自然と目が開く。

「あれ、何してたんだったけ……」

 身体を起こし、手を組んでうーんと伸びをする。ぐっすり眠ったあとのような心地良い開放感があった。


 部屋には暖色のルームライトが灯っていた。目が慣れて、周りの様子がぼんやりと見えてくる。


「おねえ、ちゃん」

 その声に一瞬、からだがゾクッとと痺れるが、ミユがベッドのそばで立っているのだった。ミユの姿が、顔が、次第にはっきりと浮かび上がる。


 心臓の鼓動がはやくなる。

 突然の感情に私は戸惑った。

 何かが胸から飛び出して、今にも弾けてしまいそうだった。全身が火照ったようにかーっと熱くなる。感情を抑えようとすればするほど、それはますます熱を持ち、理性を溶かそうとする。


「どうしたの、大丈夫? おねえちゃん」

 そう言ってミユはいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 笑顔は心をときめかせた。我慢できなかった。理性の抑圧を越えて、言葉は喉から飛び出る。


「ミユちゃん、大好き」

 身体が勝手に動く。

 気が付くと私はミユを強く抱きしめ、ベッドに押し倒していた。


「大好き、大好き、大好き」

 ミユはなすがままにベッドに身を預けた。


「ぼくも、おねえちゃんのことが大好き。だから、イチャラブしよっか」


 その一言で、リミッターが外れる。

 私は感情のままにミユを愛し、ミユはそれを受け止めた。

「大好き」



 それから後の、記憶は――。



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