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23 君を望む

23 君を望む


「魂は精神的な存在の楔。肉体は物質的な存在の固定。記憶は力の集積体。君のような若輩に説いても、理解は出来んと思うがね」

 初老の男性は、そう言った。

 屋上に吹く風は、夏だと言うのになんだか冷たい気がした。

「神とは物質界に存在していられない、高次元の存在。彼らが元々存在する世界とはメンタル的な要素が強い場所だ。故に、神とは魂が肉体より勝る構造をしている。人間ならば物質的な構造と精神的な構造がイーブンだが、神や霊、悪魔などと言った超常の存在は違う」

 彼の表情にはこれと言って感情は出ていない。一切の動揺もなく、落ち着いた平静状態そのものだ。今の状況がまるで想定内とでも言うように。

「悪魔の契約に魂の代価を必要とするのは、彼らが物質的な利を利としてみていないからだ。魂のトレードこそ意味のあるモノ。それで利益を得てこそ、彼らにとっては価値が存在する。……さて、ならば神の魂を得た私は、彼ら高次の存在と神の魂に相当する何かをトレードする事が可能なのではないか? 魂こそが神の本質であると言うなら、それと引き換えに素晴らしい力を得る事は、もはや不可能とは言えないのではないか?」

 ただ一人の舞台で歌い上げるように喋っていた男性は、クルリと振り返る。

 視線の先には駿平。

「どうだね、三嶋駿平」

「……僕の事を知っているんですか?」

「この学校の中で起きている事は大体把握している。それも魔術の一端だ」

 ゆったりとした動作の初老の男性は、ふぅと長い息をつき、改めて駿平を見据える。

「さて、少年よ。どうやって私にたどり着いた? 一応、私としても無益な騒ぎを起こすのは不本意だ。鳴りを潜めていたかったので、隠れて行動していたつもりだがね」

「これだけの大事件を起こしておいて、よく言う……ッ!」

 その問いに対して、今度は駿平が落ち着くように息をつき、男性を見据える。

「ヒントは幾つかあった。まずは魔法陣の構築が学校の敷地の真北から開始され、時計回りに進んでいった事」

 プレイトミルが言っていたのは、魔法術式は一ヶ月前から準備されていたものと言う事、そして地道に少しずつ、学校をグルリと囲むように定着させられていた事。

 それは術式を見ただけで、知識のあるモノならすぐにわかるのだと言う。

「術式が一ヶ月もかけて構築されたのは、人目につかないように慎重に行動したからだろう。だが、それは思わぬ失敗を生んだ。……それは直径が体育館の外側ギリギリだった故に、工事現場の内側を通ってしまった事」

「ほぅ……」

 初老の男性は少し口元を上げる。初めて感情が見えた瞬間だった。

 駿平は構わずに続ける。

「体育館の工事の件は三ヶ月前から告知されていた。しかし、魔法陣を組んだ人間はそれを知らず、それを知った時には魔法陣の直径を変えるわけにも行かず、術式を定着させるのにフェンスの内側に侵入しなければならなかった。それは人目を嫌っていた犯人にしてみれば、明確なミスだ。何故なら、体育館での工事作業は放課後の誰もいなくなってから行うから」

 工事の作業は出来るだけ生徒に危険がないよう、下校時間をすぎてから行われるようになっていた。本格的な作業は夏休み中に行う予定だったが、ここ数日で作業のための足場を組んだりしてフェンスが取り付けられ、作業も開始されていたのである。

「こうなると必然的に人目につくリスクは高くなる。実際、犯人は工事現場の作業員に姿を目撃されていたらしい。……ならば、どうして犯人はこんなミスを犯してしまったのか。それは単純明快。学外の人間だからだ」

 工事の件は学外の人間には知らされていない。それは当然だ。そうする理由がないから。

 学校の近所の住民には流石に知らされているだろうが、そうでもなければまず知らない。

 つまり、犯人は学校外の人間。

「学校外の人間で、ここ一ヶ月自由に校内を行き来出来る存在。僕はすぐにピンと来た。そう言えば、ここ最近、妙な輩が堂々と校舎内を歩いてるな、ってね」

 それは来賓。聞くに『生徒の中に優秀な人間がいるらしくて、その生徒にツバをつけておこうと思って学校へ来ている』と言う。もちろん、その理由は建前だ。

 実際は人目を盗んで学校の周りに魔法陣を敷き、今回の事件を企てていたのである。

「犯人はあなただ、大学教授、桐生良蔵さん」

「お見事だ、三嶋駿平。この混乱の中で、良くぞ私を見抜いた」

 初老の男性の正体は、大学からの来賓として学校に度々訪れていた桐生良蔵。

 生徒の大半は彼の存在をほとんど認識していなかった。駿平でさえも名前自体は情報通くんから聞いて初めて知ったぐらいだ。

 それぐらい、彼は自分の存在を極力薄くしていたと言う事。人目を避けていたと言う事だ。出来るだけ目立たないようにした結果、今現在、良蔵が犯人であるとたどり着けたのは恐らく、駿平だけであろう。

「だがそれを見抜いたところで、君にはどうする事も出来まい。魔術式の鑑定が出来る程度のマジックユーザーでは、私には敵うまいよ」

 それはごもっともである。その上、実際の所は駿平自身が魔術式の鑑定をしたわけではないし、する事も出来ない。魔法も使えないし、覚醒者ですらないのだから、犯人を見つけたとしても取り押さえる事は出来ない。

「まさかとは思うが、私を犯人だと見抜けば、私が涙ながらに動機を吐露し、嗚咽を漏らしながら術式を解除するとでも思ったか?」

「大学教授殿に若輩と思われるのは仕方のない事だとは思いますが、僕もそれほど馬鹿じゃない。あなたが素直に術を解いてくれないのは百も承知だ」

 言いつつ、駿平はポケットの中を探る。

 取り出したのはプレイトミルから貰った木彫りの人形。

「だから、僕には切り札がある!」

 駿平はそれを良蔵の足元目掛けて放り投げる。

 別にぶつけようとしたわけではない。この人形には別の意図がある。

「むっ?」

 それを見た良蔵の表情がわずかに曇る。

 木彫りの人形は地面にぶつかって跳ね返る……と思ったのだが、器用にもその場に着地して立ち上がる。

「今だ! プレイトミルさん!」

 駿平の言葉に反応して、木彫りの人形の足元から奇妙な波紋が広がり、コンクリートの地面が水面のように波打つ。

 波はいつの間にか黒く変色し、人形の足元には真っ黒な穴がぽっかりと開いていた。

 その穴から勢い良く飛び出てきたのは、自分の身の丈ほどもある、長い杖を持ったプレイトミル。

「桐生良蔵とやら、覚悟ッ!!」

 その杖の先端を良蔵に向けると、まばゆい光が走る。

 反射的に目を覆う駿平は、光が収まった頃に、恐る恐る目を開ける。

「なるほど、確かに悪くない案だ」

 聞こえてきたのは良蔵の声。

「真っ向勝負では敵わないと見て奇襲策に出る。常道と言えば常道だな」

「く……ッ!!」

 プレイトミルの構えた杖は良蔵によって受け止められている。彼女が操った魔法も恐らくは無効化されてしまったのだろう。

「だが悲しいかな、私は今、この学校の敷地内で起こっている全ての事を把握する事が出来る。君が学校外から跳躍してきたのならともかく、校舎内から奇襲を仕掛けようとしても無駄というものだ」

 それはプレイトミルにもわかっていた。

 だが、黒い壁は強力な結界。プレイトミル程度の魔女になれば出入りは可能だが、外から屋上までの距離を一瞬で移動するにはかなり複雑な術式を必要とする。複雑な術式はそれ相応の手順と時間を要求する。そんな準備をしている時間はなかったのだ。

「さて、幼い魔女よ。これで君の策はおしまいかな?」

「ぐっ、まだよ!」

 プレイトミルは良蔵の身体を蹴飛ばして距離を取る。

 蹴り自体にはそれほどダメージはなかったのか、良蔵は蹴られた場所を手で払い、プレイトミルの様子を窺う。

「余裕と言う事ですか。後で痛い目を見ますよ?」

「それは楽しみだ」

 良蔵の挑発を受け、プレイトミルは喉を鳴らして魔法を操る。

「その顔が悔しさで歪む所が楽しみです!」

 プレイトミルは腰に帯びていたポシェットから口が閉じられた試験管のようなものを取り出す。その中にはやたらケミカルな色で淡く光る液体が入っているようだった。

 それとほぼ同時、風向きが変わる。ちょうどプレイトミルの立ち位置から良蔵へと吹く風に。

「ウィッチクラフトの真髄は薬学と占術! この時間、風向きが変わる事は予測済み!」

 風が吹き始めたのを確認した後、手に持った試験管を前方に放り投げる。

 割れたガラスの隙間から液体と同じヤバい色をした煙が立ち上り、それらが一斉に良蔵へと襲い掛かる。

「三嶋さん、念のため口と鼻を押さえて出来るだけ呼吸をしないように!」

「そういう事は先に言ってよ!?」

 慌てて口と鼻を押さえ、煙から遠ざかる駿平。

 その間も煙は容赦なく風になびき、良蔵へと襲い掛かる。

 様々な色の煙が混ざり合って、もはやどす黒くなった空気は良蔵の周りをじっくりと滞空し、彼の呼吸に合わせて体内へと侵入する。

 毒々しい色の煙が身体に良いとは思えない。当然、あれらの薬品は悪用すれば劇毒となるモノばかり。

「これだけでは終わりませんよ!」

 更に追い討ちとして、プレイトミルは杖を振り回す。

 杖の先端で輝く光球が、空中に文様を描く。

 文様は、まるでそれが生命を得たかのように動き、コンクリの地面に張り付いて滑る様に移動する。

 良蔵の足元までやってくると、そこで一層激しい光を発した。

「これで彼の五感をほぼ取り払いました。今、あの男は単に心臓を動かしているだけに過ぎません」

「え、えげつない……」

 いつの間にか煙も晴れ、辺りが見通せるようになっている。

 良蔵は立ち位置も変わらず、そこに佇んでいた。

「それじゃあ、あとはアイツからゴンベエの魂ってヤツを取り返せば良いのかな?」

「……いえ、待って下さい。おかしいです、薬品の煙が晴れるのが、異常に早すぎる」

 良蔵に近づこうとする駿平を、プレイトミルが止める。

見ると、良蔵は首を左右に動かし、ため息をついている。とても五感を失っている人間とは思えない。

「ふぅ、なるほど、君の魔法はこの程度か」

「やっぱり……効いてない」

 プレイトミルはその手応えに違和感を覚えていた。

 魔法は確かに発動したが、相手への影響が著しく軽減されている。

「君も魔法を使う人間ならば覚えておく事だ。相手の魔術師のテリトリーに入って戦う時は、相手は全ての準備を万全にして備えているはず、ならば自分はそれを遥かに凌駕する力を持ってして挑むべき、と」

「そんな事はあなたに言われなくてもわかっています」

 つまり、良蔵はプレイトミルの手の内を全て読んだ上で予防策を打っていたのだ。

 恐らく、プレイトミルの魔術を最小まで弱体化させる結界を張るなど、この屋上と言うフィールドは良蔵にとって不利になる要素をすべて排除した上で、良蔵にプラスに働く要素を強化している。

 これが敵地に踏み込むと言う事。それはプレイトミルもわかっていた。

 だが、見誤っていたのは良蔵の手腕。

 魔術書を受け取ってそれほど時間が経っていないはず。にもかかわらず、これほど魔術を使いこなしているとは思わなかった。

 相手を侮って手加減をしたつもりはない。ただ単純に、良蔵がプレイトミルの本気を凌駕していたのだ。これには生まれてからずっと魔術の訓練を積んでいたプレイトミルの自信とプライドも傷つく。

 しかし、傷心を表に出しても駿平を不安にさせるだけだ。

 次の手を打たなければ。

「さて、どうするかね?」

 良蔵は脚を一歩進める。

 それに合わせて、プレイトミルはジリと退いた。

 今のままでは勝ち目は薄い。

「駿平さん、一か八か、逃げますよ」

「に、逃げる!? そんな、ここまで追い詰めたのに!」

「追い詰められたのは私たちです。一度体勢を立て直します」

「体勢を立て直せば勝てる相手なの? ……違うでしょ!?」

「だったらどうするって言うんです!? 今の私の力ではどうする事も出来ない……ッ!」

 悔しげに歯噛みするプレイトミル。それを見て駿平は何も言えなかった。

 この場では一番無力な少年である。失敗した奇襲のための囮ぐらいにしか役に立てないのだ。元々発言権なんてありはしない。

 二人が逃げる算段をしている時、背後から声が聞こえる。

「きゃ!」

「逃がしはしないわ!」

 それは屋上の出入り口となっている鉄の扉の裏側。

「ゴンベエ!」

 最初の短い悲鳴はゴンベエのモノ。

 どうしても駿平についていくと言って聞かなかったので、扉の裏側で隠れてもらっていたのだ。

 そしてそんなゴンベエを捕まえ、ナイフの刃を突きつけて登場したのは秋野垂千穂だった。

「動いたらこの女を殺すわ」

「あなた……秋野さんと言いましたか。何故ここに?」

 冷静を装い、プレイトミルが尋ねる。

 垂千穂はゴンベエを捕らえたまま、屋上へと入った。

「それに答える理由はないけど、特別に教えてあげるわ。アンタたちが言った最後の言葉、覚えてるかしら?」

 プレイトミルと隼人、ついでに虎勝の三人が垂千穂との別れ際、もうすぐこの事件が終わると零した。

 もし、その言葉から察して良蔵の所へ来たというならば、考えられるのは一つ。

「ありていに言えば、私は桐生教授の味方だからよ」

「共犯という事ですか……」

 秋野垂千穂は桐生良蔵の共犯。

 ここまで場をかき乱していたグラウンドの王の指揮を取っていたのが垂千穂だというのなら、グラウンドの王が誕生する事からして二人の目論見なのだろう。

「私は教授に見込まれ進路を約束してもらった。だから、その恩返しにこうやって手伝いをしてるってわけ。私自身も楽しませてもらったし、これほど楽しいパーティで遊べるなら文句はないものね」

 垂千穂は校内でも秀才で通っていた。彼女を目当てに良蔵が校内に入り、歩き回るのならば道理も通る。

 垂千穂は良蔵が教鞭をとっている大学へと進学する事が決まっており、将来もほぼ安泰、その見返りとしてこの黒い壁の事件を最初から今まで、ずっと支えてきたのである。

 グラウンドの王に手を貸し、好き放題暴れていたのは、半分は彼女の趣味だが、グラウンドの王と校舎側が対立し、その対応にてんやわやになれば、良蔵がひっそりと行動する事にも繋がる。

 目論見通り、教師陣も生徒たちも、誰もが目の前の出来事への対処でいっぱいいっぱいになって、姿を消した良蔵の事など誰も気にしなかった。蜀が出来て事態が一瞬でも沈静される事を嫌がったのには、人々が落ち着いてしまえば姿を消した良蔵が訝しがられると思ったため、というのもある。

「正直、教授の言う魔法なんてものがあるとは思わなかったけどね。どうせ変態教授が女子高生目当てでやって来てるんだろうと思ってたけど……まさかこんな事になっちゃうとは! クソみたいな現実より、何倍も刺激的だわ!」

「あなたの所為で、何人も人が傷ついたんですよ……死人だって出た!」

「それがどうしたのよ? こんなまともじゃない事件で怪我人が出ない方おかしくない? それにこの黒い壁の中で起こった出来事は、ほとんどが現実味のない覚醒者が関わった事柄ばかり。事件性を訴えた所で壁の外のヤツらがどれだけ信じるかしらね?」

「国が裁かなければ罪はないとでも考えているのですか!?」

「世間様はそう見てくれるでしょうよ。むしろ、妙な事件に巻き込まれた可哀想な被害者として、丁寧に扱ってくれるかもね?」

「清々しいクズですね……ッ!」

「褒め言葉として受け取っておくわ」

 プレイトミルとの会話を切り上げ、垂千穂はプレイトミルと駿平から距離を取って良蔵の傍へと移動する。もちろん、ゴンベエは拘束したままだ。

「で、教授? これからどうするの?」

「お前が現れるのは計算外だったが、まぁ良いだろう。その娘をこちらに」

 良蔵に言われて、垂千穂はゴンベエの背中を押した。

「言っておくけど、いつでもブッスリ刺せるってのは覚えておいてよね?」

 垂千穂の手にはナイフが握られている。

 いくら神の身体とは言え、力を失っているゴンベエが刺されればただでは済むまい。

 怯えるゴンベエを前にして、良蔵はポケットから何か取り出す。

「あれは……!」

 それを見て駿平は自分のポケットをまさぐった。

 良蔵が取り出したのはビー玉だったのだ。

 それを見て、プレイトミルが声を上げる。

「あれは、神の魂!?」

「えっ? あんなガラス球が!?」

「ガラス球そのものではありません。あの中に封印されているモノが、神の魂です」

 良蔵の持っているビー玉は、ゴンベエに近づけると淡く光を帯びる。

 良く見ると、ビー玉の内部に炎のようなものが燃えているようだった。

「ふむ、やはり君が神の肉体だな」

「え……!?」

 良蔵に尋ねられ、ゴンベエはたじろぐ。

 だが、その瞳はビー玉から離れない。

「魂だけではなく、肉体も生贄に捧げればもう少し出力も安定するか」

 怯えるゴンベエの目の前で発せられた言葉は、血も肉も伴っていないような冷たい言葉だった。

 良蔵はどこまでも自分の研究にしか興味のない男なのだ。黒い壁を出現させ、学校中を混乱に陥れた男が、今更少女を生贄に捧げる事などで躊躇うはずもない。

「ま、待てよ!」

 良蔵の手がゴンベエに触れる寸前、声を上げたのは駿平だった。

「アンタの行っているこの儀式とやらは、本当に成功してるのか!?」

 それは根本的な事を尋ねる言葉だった。

 答えたのは垂千穂。

「アンタ、この期に及んで何言ってるの? 心理戦がしたいなら、もっと上手くやる事ね!」

「……いや、秋野、ちょっと黙っていなさい」

 噛み付く垂千穂を制止し、良蔵は駿平に向き直る。

「君が私が犯人だという真実にたどり着いたその事に関しては、私は君を評価している。何かまだ言いたい事があるなら、聞いてやっても良い」

 それは強者ゆえの余裕。

 圧倒的優位に立っているからこそ、駿平程度の取るに足らない存在の発言を許していると言う、驕りだった。

 駿平は内心で思う。

 後悔させてやるぞ、と。

「これに見覚えは?」

 駿平がポケットから取り出したのはビー玉。

 事件直後、クラスメイトから貰ったモノである。

 それを見て、良蔵は一瞬自分の手の内にあるビー玉を確認した。

「まさかとは思うが、それがこの神の魂を有した玉と同じものだとでも?」

「さっき尋ねたでしょ? アンタの儀式は本当に、万事抜かりなく、完璧に成功したと、胸を張って言えますか?」

 それは駿平にとっても賭けだった。

 人間は完璧を追い求めるが、本当に完全無欠の完璧と言うのは実現し得ないものである。

 それを不安がる心が良蔵にあれば、この話に乗ってくるはず。

「……つまり、君は何が言いたい?」

 そして駿平の目論見どおり、良蔵は話に乗った。

「アンタがどうやってそのビー玉に魂を封じ込めたか知らないが、それが失敗していて、このビー玉の中にも入っているとしたら?」

「君はそんな事が起こり得るとでも思っているのかね?」

「この学校を見てれば、どんな事象も『ありえない』なんて頭ごなしに否定は出来ないと思いますがね」

 今、この学校は何でもありえる世界となっている。

 覚醒者なんていう荒唐無稽な存在が跋扈し、常識を尽く打ち砕いて、人の敷いたルールを撥ね付けて、好き放題になっているのだ。

 こんな状況で、何がありえて、何がありえないのか、なんて問答はナンセンスだ。

「あえて答えましょう。僕はありえると思っている」

 揺ぎ無い駿平の言葉を聞いて、良蔵の瞳に興味が灯る。

「仮に君の言うように、そのビー玉に神の魂が宿っていたとしよう? だったら何だというのかね?」

「僕の持っているこれがなければ、アンタの儀式は成功しない。だから、取引しよう」

 駿平はビー玉を握った手を差し出すように前に出す。

「このビー玉はあなたに預けよう。その代わり、ゴンベエをこちらに返してくれ」

「……取引材料が釣り合っているとは思えんが?」

 先程、良蔵が言ったとおり、神の存在とは肉体よりも魂の方が勝っている。神の魂を宿したビー玉があるのだとしたら、それは肉体よりもはるかに価値のあるモノだろう。

 だが、それを知っていてなお、駿平はこの取引を進める。

「僕にとって神の魂とか儀式とかは関係ない。大事なのはゴンベエだ」

「駿平さん……」

 駿平の言葉を聞いて、ゴンベエが声を漏らす。

「三文芝居だな」

 その場違いすぎる様子を見て、良蔵は苦笑を漏らしていた。

「なるほど、若い内は物事を正しく理解する力に欠けるというが、まさにそれと言う事か。君はその辺の凡愚とは違うと思っていたが、残念だな」

「人の価値観にケチを付けられるほど、アンタは偉いのかよ? 僕に言わせりゃ、こんな大掛かりな儀式なんてクソ食らえだ」

「一理あるな。人の価値観は個人個人、振れ幅がでかいものだ。しかし大局を見たまえ。君がこの少女を取り戻す事と、私が儀式で得るはずの力、どちらに価値があるのかと問われれば、百人に尋ねても同じ答えをするだろう」

「聞こえなかったか、教授さん」

 どんなに良蔵が手管を用いても、駿平の意志は揺らがない。

「僕の価値観にケチがつけられるほど偉いのかよ? 図に乗るなよ、老いぼれ」

「口の利き方も知らん若輩に何を説いても無駄、とは私が前置きしたのだったな」

 呆れたようなため息を漏らした後、良蔵は厳しい視線を駿平に送る。

「君は勘違いをしているようだから正しておこう」

「何……?」

「私はこの儀式によって神に匹敵する素晴らしい力を手に入れる機会を得た。だが、その成果は私にとって二の次なのだ」

 その言葉は駿平に届いたが、それを理解するのに時間を要した。

 あのイカレた教授は、一体何を言っている?

 世界を覆すほどの力が、二の次?

「だったら何のためにこんな……!?」

「私の目的は、手に入れた魔術書に書かれている魔法が、本当に実現できるのかどうか、実証する事だ。つまり、儀式によって手に入る力が不完全であろうと、儀式自体が成功すれば私としては研究の成果の一つとして満足できるわけだ」

「つまり……アンタは……」

「ああ、君が持ちかけた取引自体、的外れの論法って事だな」

 桐生良蔵。間違いなく彼も、この狂人が多く存在する黒い壁の中で、その筆頭たる狂人であった。

「さぁ、儀式も大詰めだ。君たちもそこで見ているが良い」

 良蔵は天を仰ぎ、両手を広げる。

 黒い壁の内側には更に黒々とした暗雲が渦巻き、今にも雨を降らせそうな雲行きだった。

「あ……あああ……」

「ゴンベエ!」

 暗雲の濃さが増すごとに、ゴンベエの顔が苦悶に歪み、胸を押さえてうずくまる。

 しかし、駿平は苦しそうな彼女の元に駆け寄る事すら出来ない。

「どうしようもないのか……ッ!!」

 悔しさで頭がどうにかなりそうだった。

 状況を窺うしか出来ない自分の無力さを噛み締め、無意識の内に拳を握り締める。

 その時、指の隙間から光が漏れ始める。

「これは……?」

 手を開くとビー玉が不思議な光を発している。

 まさか本当に神の魂でも宿していたのか、と訝ってみたが、仮にそうだったとしても、最早交渉材料にもなりはしない。

『厄除けの神のご利益、見せてやろう』

 不意に声が聞こえた。

 それは確かにゴンベエの声だったが、違和感があった。

「……えっ!?」

 驚いてゴンベエを見やるが、彼女は今も苦しげにうずくまっている。どう見ても駿平に声をかけられる様な状況ではない。

 では、さっきの声は一体……?

『お前にとっての厄とはなんだ?』

 混乱する駿平に、声は尋ねる。

 一瞬、どう答えて良いやら、そもそも答えてしまっても良い物なのか悩んだが、何が起きても不思議ではない、と言うのは自分で言った事。これもありえる事象として捉えるしかない。

 声が聞こえている。それに尋ねられた。ならば答えよう。

『ゴンベエがいなくなることだ!』

『よかろう、ならば手助けしてやる』

 声が答えた時、駿平の手に持つビー玉から、まばゆい光が奔り、一瞬だけ辺りを照らす。

「な、なんです!?」

 プレイトミルの声が聞こえた。

 閃光は一瞬で消え、屋上が静まり返る。

「こ、これは……」

 駿平と垂千穂には理解出来なかっただろうが、この場に変化が起きた。

「結界が……破られた?」

 空を仰いでいた良蔵が振り返る。

「君がやったのか? 三嶋駿平」

「僕!? そんな事が出来るわけ……いや、そうなのかもしれない」

 一つ、思い当たってビー玉に目を落とす。

 ゴンベエが校長の言っていた土地神――近所の神社に祀られた神であったのだとしたら、その神は厄除けと縁結びを司っている。

 そしてそのゴンベエの魂ないし、それに類するものが本当にこのビー玉に宿っているのだとしたら、駿平にとっての厄が取り払われたのではなかろうか?

「ははっ、こんな事ってありか!?」

 こんな状況になってまで後生大事に抱えていたラッキーアイテムが、本当に事態を好転させるほどのラッキーアイテムになってしまった。

「そのビー玉……なるほど、それには神の記憶が宿っていたか……ッ!」

 儀式を邪魔されたからか、良蔵に怒りのような感情が見て取れた。

 少しも冷静さを崩さなかった男が、初めて激情に駆られている。

「どうやら君はどこまでも邪魔な存在な様だ。排除させてもらおう」

 右手を掲げ、掌を駿平に向ける良蔵。

 たったそれだけの事で、駿平の身体は蛇に睨まれたカエルよろしく、縮こまって動けなくなってしまう。

「消えたまえ、三島駿平!」

 良蔵の掌に光が収束し、ハンドボール程度の球体を作り出す。

 それがどんな効果の魔法だかは窺い知れないが、きっと俊平がぶつかればあっけなく殺されてしまうだろう。それを容易に想像出来るほどの殺気が、良蔵から溢れかえっている。

 しかし、

「させませんッ!」

 それを阻んだのはプレイトミルの魔法。

 いつの間にか、良蔵の足元には再び光の文様が浮かび上がっている。

「うおおぉ!?」

「教授ッ!」

 垂千穂が驚いて声を上げたのと同時、良蔵の足元に波紋がうねる。

 これは先程、プレイトミルが登場した時に発生した移動魔法。

「三嶋くん、今だ!」

 聞き覚えのある声を聞き、駿平は弾かれるようにかけだした。

「貴様……誰だ!?」

「僕の名は、林隼人!」

 移動魔法の穴から勢い良く飛び出したのは隼人。

「人呼んで、でしゃばりキングとは僕の事だぁ!」

 プレイトミルの魔法によって身動きが取れなくなった良蔵から、素早くビー玉を奪い取り、彼から距離を取る。

 更に、垂千穂が動転した隙に、駿平はゴンベエを助け出して、すぐさまその場を離れる。

「ゴンベエ、ゴンベエ! 大丈夫か!?」

「う……駿平……さん?」

「良かった、怪我はない?」

「は、はい……」

 安心したように目を瞑ったゴンベエは、駿平に身体を預ける。

 駿平はその華奢な身体を強く抱いて、良蔵を見据えた。

「これで立場逆転ですね、教授!」

「ぐっ……」

 悔しげに喉を鳴らす良蔵。その隣で垂千穂も落ち着かなさそうに視線をめぐらせている。

「諦めたまえ、秋野さん。僕らが神の魂、肉体を抑えた。そして三嶋くんの持っている神の記憶が揃えば、ゴンベエさんは完全に神としての力を取り戻す」

「神の、記憶?」

 駿平は自分の手の中にあるビー玉を見て首を傾げる。

 そんな様子を見て、隼人はため息を漏らした。

「もしかして、知らずにずっと持っていたのかい? それはゴンベエさんの記憶。記憶とは即ち、力の集積体。それを持っている人間が神と同等の力を有すると言っても過言ではないのだよ?」

「そんなすごい物だったのか……」

 単なるラッキーアイテムだと思ったら、とんだ大物を受け取ってしまった。

「ほら、三嶋くん、これと一緒にゴンベエさんの記憶を返してやると良い」

 隼人が放って渡したビー玉を受け取り、駿平はゴンベエを見やる。

「そうか……僕が奪ったゴンベエの大事なものって、この記憶の事だったのか」

「私も今、わかりました。多分、そうなんだと思います」

 駿平の腕の中でゴンベエが頷く。

「じゃあ、これを返すよ、ゴンベエ」


「待て!」

 駿平がゴンベエにビー玉を渡そうとした時、良蔵が声を上げる。

「少年、もう少し慎重になった方が良い。ヤツらは魔女の一味。善良な人間を騙して利を得る賢しいヤツらだ」

「今更負け惜しみですか」

 往生際の悪い良蔵に対し、駿平は少し失望した。

 もっと毅然とした悪役であると思っていたのだが、それは買いかぶりだったようだ。

「今更、プレイトミルさんや林くんが僕らを騙す理由がわからない」

「そのビー玉を使えば、神としての主人格が、仮初の人格を食うぞ」

 良蔵の言葉は真に迫っていた。

 嘘だ、と撥ね付ける事は簡単だが、それをさせぬ迫力があった。

「良く考えると良い、三嶋駿平。今、その少女が被っている仮面、ゴンベエと言う名の偽りの人格は、人としてのコミュニケーションをとる為に最低限の物で寄せ集められた酷く脆い物だ。そんな物に神の力をぶつければ、ゴンベエと言う人格は木っ端微塵に砕ける!」

 良蔵の言葉を聞いて、駿平はプレイトミルと隼人を交互に見る。

 彼女らの表情は肯定を表していた。

「迷わないでください、三嶋さん。ゴンベエさんを神として覚醒させるのが、この黒い壁を取り払うための最短で最善の策です。そうでなければ、グラウンド側と校舎側の衝突が始まり、犠牲が増える一方です」

「否定しない……じゃ、じゃあプレイトミルさん、教授の言ってる事は本当なのか!?」

「……本当です」

 喉が鳴った。

「じゃあアンタたちは、僕にゴンベエを殺せって言ってるのか!?」

「事の大小を考えてください、三嶋駿平!」

 駿平の怒声にプレイトミルの叫びが被る。

「ゴンベエさんの人格は仮初、本来は存在しなかったものです。それを元の人格に返還する事で多くの人が傷つかずに済むんです! あなたは多くの人を犠牲にしてまで、ゴンベエさんを守るというのですか!?」

「ああ、守ってやるさ!」

 今も腕の中にいる華奢な女の子。

 ゴンベエを強く抱きしめ、駿平はなおも叫ぶ。

「僕はゴンベエを守る! 責任を取るって決めたんだ! そのために今まで行動してきた! それを全て覆す事なんか出来ない!」

「あなたって人は……ッ! 隼人、彼からビー玉を奪います! サポートを!」

 プレイトミルが杖を構えるのを見て、駿平は身を固くする。

 一触即発の状況で聞こえてきたのは隼人の口笛だった。

「隼人、何をやっているんですか!?」

「いやぁ、僕は彼の決意を評価したいと思ってねぇ」

「何をバカな事を……」

「何かを決めた男ってのは強いもんだよ? それに魅力的に見える。男として憧れに値するよ。それに、君に彼を折る事が出来るかい?」

 隼人に言われて、プレイトミルは駿平と視線を合わせた。

 強い光が中空で交差し、互いを射抜く。

 先に目を逸らしたのはプレイトミルだった。

「……くっ、ですが、こちらも諦めるわけにはいきません。この黒い壁の術式を解くにはかなりの時間を要します。恐らく、桐生良蔵を殺した所で術は解除されないでしょう。とすれば、神の力を以って一息に吹き飛ばさなければ、怪我人や死人が多く出ます」

「ふむ、それも一理ある。で、三嶋くん。君はその責任を背負えるのかな?」

 隼人に尋ねられ、駿平は逡巡する。

 改めて尋ねられると心に波紋が浮いてしまう。

 確かに、ここで足踏みしていれば、グラウンドの王と校舎側が衝突してしまうだろう。ゴンベエを生かすとは、それを座して見ているという事だ。責任は駿平の双肩にのしかかる。その時、高校生の少年は重圧に押しつぶされはしないだろうか?

「僕は……」

「駿平さん」

 駿平の迷いを察し、ゴンベエが彼の身体を抱きしめる。

「ありがとうございます。こんな中途半端な私を、ここまで想ってくださって」

「ゴンベエ……?」

「いいんです。私が消えても、私がここにいた証明は確かにありますから」

 その声はとても穏やかで、迷いに戸惑う駿平の心を透き通らせていく。

 なるほど、彼女が神様だ、というのを納得できそうだった。

「駿平さんが私を覚えていてくれる限り、私はなくなりません。だから……」

「キレイゴト言うなよ、ゴンベエ。消えたくないって言えよ! 僕はそうするから!」

「ありがとう、駿平さん。そんなあなたが、私は好きです」

 まるで聖者のような言葉。

 全て納得尽くで、全てを達観し、どこまでも清く、純粋な心。

 それは三千世界を見通した神の様でもあり、無邪気な子供の様でもあった。

 そんな言葉を聞いて、駿平はこれ以上、駄々をこねる事も出来なかった。


 およそ八時間の恋が終わる。


 駿平からビー玉を受け取ったゴンベエは、そのビー玉を静かに抱きしめる。

 指の間から漏れる光が強くなり、屋上全てが光に埋め尽くされた。

 溢れた光は天を貫き、黒い壁にひびが入る。

「結界が、破れる!」

 プレイトミルの声が聞こえた。

 黒い壁はボロボロと崩壊を始め、その奥から夕暮れに染まる空が顔を出した。

「ありがとう、駿平さん。また、どこかで会いましょう」

 ゴンベエの声が駿平の心に染み込む。


 その内、光が薄れ、視界が確保されると、そこはいつもと変わらぬ屋上。

 見上げれば夕空。見回せばいつもの町並み。

 黒い壁も天井も消えうせていた。

 それを見て、良蔵は悔しげに表情を濁らせていた。

「桐生良蔵、あなたの身柄を確保します」

 プレイトミルに杖を突きつけられ、観念したように笑った。

 その横で垂千穂も観念したように尻餅をつき、ナイフを捨てていた。

 プレイトミルと隼人の完全勝利。

 しかし、どこかスッキリしない。

 理由はわかっている。

 ゴンベエの代わりに空しく転がる二つのビー玉。

 彼女の姿を見つけられず、静かに涙を零す駿平の姿が胸に痛かった。

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