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九 朝の運動

 翌朝。奇妙な音で目が覚めた。

 薄暗い部屋を見渡し、音の発信源を探るとそこに妹がいた。

 朝目覚めたら部屋に妹。なんだろうこの既視感。


「なにしてんだよ」


 のそのそと起き上がって声をかける。

 妹はドアの手前に置かれている母のウォーキングマシンでウォーキング中のようだった。

 タイトフィットなタンクトップとショートパンツを身にまとい、一定のリズムを保って黙々と手足を動かしている。

 朝っぱらからよくやるよ。


「ねえ、優梨ってだれ」


 含みのある低い声がした。

 のんびりカーテンを開けていた俺は、はっと振り返って妹の手もとを確認する。

 そこにはしっかりと俺のスマホが握られている。


 まずい。やばい。油断した。

 近ごろはやましいやりとりもなかったせいで完全に警戒を解いていた。

 妹からの非好意的な視線を感じ、身体を伸ばすふりをして焦りを隠す。


「さあ。迷惑メールだろ」

「そ。じゃあ消しとくね」

「待て!」


 叫ぶと同時に慌ててベッドから抜け出した。

 母が俺に無断で設置した数々の健康器具を障害走の要領で跳び越え、最短距離で標的へと肉迫する。

 そのまま勢いを殺さずウォーキングマシンの横合いから目標物に向かって手を伸ばした。が、妹は壁際に逃げるようにしてするりと俺の手をかわした。


「お兄ちゃんってたまーに異常なほどすばやい動きするよね。年に一回くらい」

「いいから返せ」


 ウォーキングマシンをも乗り越えて妹と対峙する。

 妹は壁に寄りかかるようにしてスマホを背中に隠した。


「やだ。迷惑メールなんでしょこれ」

「返せっつってんだろ。寝てるあいだに人の携帯見るとか、そういうことしていいと思ってんのか。盗み見は家庭崩壊のはじまりだぞ」

「なにわけわかんないこと言ってんの。さっき見ていいって聞いたら、うんって言ったくせに」

「うそつけ」

「ほんとだもん。ほーら、取れるものなら取ってみなさい」


 妹は余裕綽々の表情でタンクトップからのぞく胸もとにスマホをつっこんだ。

 平均サイズの胸周りをむりやり寄せて上げて作ったような谷間に、タンクトップの支えを受けてどうにかスマホがはさまっている。

 なんてやつだ。恥知らずにもほどがある。


 もし相手がグラドルのあいちゃんあたりだったら俺も泣く泣く引き下がったかもしれない。だがしかし、しょせんは妹。

 迷わず左手で妹の右手をつかみ、哀れな捕虜の奪還をはかる。すると、妹は片手で胸もとを覆い、身をよじりながらきゃあきゃあと騒がしい悲鳴を上げた。


「変態!」

「おまえなあ。やっててむなしくなんねえの」

「やだくすぐったいっ変態っ!」

「もういいよ変態で。おまえは変態の妹として強くたくましく生きていけ」


 わき腹くすぐり作戦が功を奏し、無事に谷間から愛機を奪い返す。

 中身の無事も確かめようと何気なくロックを解除した俺は、液晶画面を見て硬直した。


 目の前にあらわれたのはメールの本文だった。

 しかも、昨夜あれだけ開くのを躊躇していた優梨からのメール。

 読むな、と脳に制止をかけるよりもはやく、文字は否応なく視界に飛びこんでくる。

 いったん読みはじめてしまえばもう途中で止めることはできなかった。


『久しぶり。

 突然ごめんね。

 ヒロくんの友達からメアドを教えてもらいました。

 いまはもう大学生になって新しい生活を楽しんでいるかもしれないあなたに、こんなわがままを言うのはずうずうしいことだとわかっています。

 でもどうしてももう一度二人だけで話をしたいと思っています。

 もし迷惑でなければ返事をください。待ってます。

 小原優梨』


 一番最後の行には電話番号が記されている。

 俺の記憶にはない番号だった。

 半年ぶりに優梨から送られてきたメッセージは、SOSでも近況報告でもあいさつでもなかった。


 もう一度二人だけで話をしたい?

 どういうことだろう。

 なぜいまごろになって終わった話を蒸し返そうとするのか。

 俺を切り捨てたのは、ほかでもなく彼女だというのに。


 疑問はまだある。


 あのとき取り上げられた携帯は結局返してもらえなかったのだろうか。

 このメールは新しく買った携帯から送信してきたのだろうか。

 それともだれかの携帯をこっそり借りている?

 そうまでして俺に連絡を取ろうとするほどのなにかがあった?

 わからない。

 文面からは特段事件が起きたような様子も感じられない。

 彼女の意図が読めず、消化しきれないわだかまりが残る。


 メールの後半部分を目に焼きつけるように見つめながら、俺は想像していたよりもいくらか冷静に彼女の言葉を受け止めている自分に驚きを感じていた。

 しかし、まったく心の揺らぎがなかったかといえばそれもうそになる。

 いつもならば写真を撮るように一秒とかからず頭に入ってくる十一桁の数字。それらを正確に記憶するまで、いつもよりよぶんに時間がかかってしまった。


 急にぱっと部屋が明るくなった。

 妹が照明をつけたらしい。


「その人なんなの。前につきあってた人?」


 顔を上げると、俺がメールを黙読しているあいだじゅうしつこく変態コールをつづけていた妹が怪訝そうに尋ねてきた。

 問いには答えず、スマホをウォーキングマシンのパネルディスプレイの前に置く。


「消したきゃ消しとけ」

「いいの。ゴミ箱からも消しちゃうよ」

「いいよ。ただの迷惑メールだし」

「あっそ」


 不機嫌そうな妹は乱暴にスマホをつかんで手早くメールを削除した。

 これで気も済んだだろう。そう思って部屋を出ようと妹に背を向けたとき、後ろから思い切りシャツのすそをつかまれた。


「ねえヒロくん、また家出てったりしないよね」

「しないしない。てかなにその呼びかた」

「優梨のまね」

「つまんねえことすんな」

「そういえば、あの名刺にもヒロくんって書いてなかったっけ」

「ないない。あれは伊藤の私物がまぎれこんでただけって言ったろ」


 妹の舌打ちが聞こえてくる。

 むやみやたらに勘のいい妹は、名刺と優梨の関連を疑っているらしい。

 おそらく自ら名刺をシュレッダーにかけたことを悔やんでいるのだろう。

 詰めの甘いスパイだ。

 勝ち誇ったような気持ちでドアのレバーハンドルに手を掛けると、さらにシャツを引っ張られた。

 心なしかさっきからすそがどんどん伸びている。


「待ってよ。私心配してるんだよ」

「なにを」

「お兄ちゃんを! 受験辞めて、ある日突然ふらっとどっか遠くへ行っちゃいそうで」

「だから行かないって。どこにも行く当てなんてないし」

「いまは、でしょ。先のことはわかんないじゃん。前だって、二、三日姿見ないなと思ってたら、旅に出るとかいう意味不明な連絡を最後に何か月も帰ってこなくなったんだし、いつどこに行ったっておかしくないじゃん。そういうことされるとこっちは困るんだよ」

「困るって? 父さんも母さんも好きにしろって言ってたけど」

「え? うん、だから、それは、お母さんたちは、お兄ちゃんの性格わかってるから、半分あきらめも入ってるっていうか、言ってもむだだと思ってるからあえて言わないだけで、でも内心ではもっとしっかりしてほしいって思ってるよ絶対」


 ゴミを見るような目で見られたり携帯を投げつけられたりすることこそなくなったものの、俺の行動にあれこれケチをつけてくるところは変わらない。

 落ちこぼれ街道驀進中の兄とは異なり、妹は昔から文武両道、才色兼備と褒め称えられてきた。周囲の期待を裏切らず、与えられた役目をなんでもそつなくこなしてきた。

 妹にとってはそれが呼吸と同様に当たり前のことだったようだ。

 だから当たり前のことすらまともにできない俺が、理解のおよばない異質な存在に見えるのだろう。


 そりゃあさんざんだらしのない生きかたをしてきた俺も悪いんだろうけど。

 けどなあ。

 のどもとまでせり上がってきたため息をぐっと押しこめる。


「わかった」


 後ろ手に細い手首をつかまえてひとまずシャツの安全を確保し、回れ右をして妹と差し向かう。


「万が一つぎにどっか行くってなったときは、ちゃんとみんなに行き先伝えて、あいさつして、あと餞別とかもきっちりもらってから出てくようにする」


 それなら文句ないだろ、と開き直った。

 妹はうんともすんとも言わなかった。

 いきなり俺の横をすり抜けたかと思うと、騒々しくドアを閉めて部屋を出て行ってしまった。まもなく派手な音を立てて階段を下りる音が聞こえてくる。


 たぶん論点が違うと言いたいんだろう。

 わかってるよ。

 けど俺はおまえみたいに出来た人間じゃないし、おまえみたいに要領良くは生きられない。

 将来自分がなにをしでかすかなんて、自分でも予測不可能なんだよ。


 後につづいて一階へ下りると、朝からがたがたうるさいと母に怒られた。

 なぜか俺だけ。理不尽すぎる。

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