八 宵のメール
吉田の店に赴いてから約二週間が経過した日の夜。
自室のベッドに横たわり、妹からもらった英単語帳を開いてうとうとしていたとき、廃人ハウスの主である谷村から電話がかかってきた。
呼び出しに応じるか、ひと眠りしてからあとでかけ直すか。
悩んだ末、電話着信中の画面をフリックする。
寝ころんだまま発した気の抜けた第一声に、突然用向きを告げるマイペースな谷村の声が重なってきた。
「あのさ、念のため聞くけど、おまえの元カノの名前ってコハラユリで合ってる?」
半醒半睡に近かった俺は危うくスマホを取り落としそうになった。
小原優梨。半年ぶりに耳にする名だった。そして人一倍忘れっぽい俺でも、向こう十年は記憶の末端から離れそうにない名前。
夢かと思ったが、瞬時に冴えわたった五感がこれは現実だと知らせてくる。
不快な胸騒ぎを払拭しようとして、真上に広がる天井を見据えた。
壁紙の境目探しは気をまぎらわせるのにちょうどいい。
「そーだけど、なに」
「あーよかった、前行ったバーの人だよな。あの人から俺に連絡があったんだよ」
「は、なんで」
「おまえに用があるらしいけど連絡が取れないんだと」
谷村の説明によると、優梨は俺がアカウントをつくるだけつくったまま放置していたSNS経由で俺宛にメッセージを送ったらしい。ところが、いつまで待っても一向にレスポンスがないため、俺と親しそうな友人に目星をつけて仲介を依頼したのだという。
その仲介役として選ばれたのが谷村だったようだ。
「わざと無視してるわけじゃないよな」
疑問ではなく確認だった。
俺はなにごとにもまめな谷村とは違ってなにごとも三日坊主なタイプだ。
昔からやらなくても不都合のないものにはいまいち積極的になれない。
生粋の面倒くさがりである俺の性格を谷村はよく心得ている。
「うん、気づかなかっただけ」
答えながら、頭には自然とワインレッドのノートPCに向かう優梨の後ろ姿が思い浮かんでいた。
簡易ベッドのマットレスにノートPCを載せ、ぺたりと床に座りこみ、ベッドの縁に寄りかかるようにしてけだるそうにキーボードを打つ。
ディスプレイに目線を合わせようとして背中を丸めている彼女に、「やりにくくないの」と問うと「慣れた」とおざなりな返事が返ってくる。
実際にはメッセージを書いたのはあの部屋ではなかったかもしれないし、ほかの端末を使ったのかもしれない。しかし、いったん意識してしまうとその映像はなかなか頭から消えてはくれなかった。
「そうか。とりあえず深刻そうな雰囲気だったから、さっきおまえのメアド教えといた。念のため番号は伏せといたけど。べつにいいよな」
「いいもなにも、もう教えてんじゃん」
「だからこうやって事後承諾取ってるんだろうが」
「だろうがとか言われても……まあ、いいけど」
「ん、近いうちに連絡くるだろうからよろしく」
「はいりょーかい、おつかれ」
適当に受け答えしつつ、半分うわの空で通話を終えようとすると、なぜか谷村に引き止められた。
「待てよ、そんなことより聞いてくれ」
「なに」
「こないだ伊藤とTバック居酒屋に行ってきたんだけどさ」
「はあ?」
前半の話題との落差にうっかりまぬけな声が漏れる。
音とともにわずかな緊張も体内から抜けて行った。
「あれはだめだ」
もったいぶった口調で谷村が言う。
そっちが本題なのかと思うと、ばかばかしさに頬の筋肉がほぐれた。
スマホを握る手に力をこめ、反動をつけて勢いよく上体を起こす。
「だめってかまずなんなのそこ、セクキャバみたいなとこ?」
「違う。店員の女の子が全員Tバックな居酒屋。キャバよりメイド喫茶のが近いな」
「ふうん。じゃあTバック見放題なのか」
「な、やっぱそう思うだろう? 丸見えのケツ期待するよな? けどさ、ないんだよ。たしかに間違いなくTバックははいてる。はいてるんだけど、見えるのは上のひも数センチだけなんだ。ひどいだろう」
「どういうことだよ」
「Tバックの上にふつうにミニスカもはいてるんだって。んで肝心な部分がほとんど隠れてるわけ。あれはないわ。かるく詐欺にあった気分だ」
本当にショックだったのか谷村の声の端々から不満がうかがえる。
下調べもせず、なんとなく目についた店に入ってみたのだろうか。
期待を裏切られたときの二人の表情を想像すると、笑いがこみあげてくる。
「へえ、勉強になってよかったじゃん」
「ポテトは一緒にシャカシャカしてくれたんだけどな」
「意味わからん。それ楽しいの」
「気になるならつぎは嶋本もいっしょに行こうぜ」
「やだよ。なんで高い金払ってただのひも見に行かなきゃなんねえんだよ」
「支払いは伊藤持ちだ」
「……ほう」
タダか。見えるのはただのひもだけど。
でもタダならダメージは無に等しい。
心がぐらりと揺れる。
いやいや、だめだ。
俺はひまを持てあましたお気楽な大学生じゃない。れっきとした受験生なんだ。スカートの中にTバックを秘めた女の子に接客されて遊んでる場合じゃないんだ。
けどタダだしなあ、と思考のループに陥る。
俺の葛藤を見越したかのように谷村は追撃をかけてきた。
「図書館ばっか行ってないでたまには息抜きしろよ。おまえが真剣に頼めばスカートの中見せてくれるかもしれないし」
「んなもん自分で頼め」
「もうやったって。俺と伊藤じゃむりだったんだ」
「おまえらがむりなら俺なんてもっとむりだよ。まじめに話してても冗談かと思ったってしょっちゅう言われるんだぞ」
「そりゃあネタみたいな人生送ってるからだろう。しょうがない、最終兵器堀川も強制参加させるか」
また行くとき連絡するわ、と言い残して電話は切れた。
一度行って懲りたんじゃなかったのかよ、というつっこみはとうとう出番を得られずに終わる。
こいつらと行動をともにすると楽しいことは楽しいが、そのぶんどんどん大学生活が遠のいていく気がする。
Tバックのお姉さんを妄想しながら、断固拒否できない自分の釣られやすさにげんなりしていると、未登録のアドレスからメールが届いた。
アドレスの長々とした文字列が目に入ったとたん、Tバックのお姉さんは頭からきれいに吹っ飛んだ。
受信したメールのアドレス自体ははじめて目にするものだったが、英字の並べかたや四つの数字には見覚えがあった。
さらに、メールアドレスにつづいて表示された件名が、答え合わせのように差出人の正体を知らせている。『優梨です』の四文字を見ただけで、単調に脈打っていた心臓の鼓動がたやすく乱された。
無意識にスマホをスリープモードにしてしまう。
黒い液晶画面に映った顔は動揺を隠しきれないでいる。
谷村から事前連絡を受けていてもなんの心がまえもできていなかった。
手のこんだいたずらだと思いたかったのかもしれない。谷村が脈絡もなくこんなたちの悪い悪ふざけをする人間ではないとわかっていても。
最初にメールを開かなければと思ってから、それが実行されるまでにはかなりの時差があった。
第一報からは何日も経っているし緊急の用件ではないだろう、シャワーでも浴びてもうすこし頭を冷やしてから見よう、と一寸逃れをしたのがはじまりだった。
湯に打たれている最中、谷村がすぐに電話を切らせなかったのはあいつなりの気遣いだったのかと考えもした。三秒後には、ないなと思い直したが。
浴室を出てまたベッドに戻ってくるころには、もうメールの文面は読まなくてもいいのではないかとも思いはじめていた。
深刻そうだと谷村は言っていたが、仮に彼女の周囲になんらかの問題が発生しているとしても、俺がかかわってどうにかなる程度の問題なら、ほかのだれかが代わりに解決することだってできるはずだ。
あるいは引っ越しが決まったとかで、部屋に置きっぱなしにしてきた俺の荷物の要否を尋ねてきただけなのかもしれない。
もちろん、ただの気まぐれという可能性もある。
事情はどうあれ、彼女の勝手な都合によって振りまわされてはたまらない。
ゆらゆらと思考の波間を漂いながら、振りまわされる、というフレーズに直面したとき、ふと我に返って頭を抱えそうになった。
そうだ。
この未開封のメッセージが真摯なSOSだろうと冗長な近況報告だろうと簡素なあいさつ文だろうと、中身を知ってしまえば行き着く先は似たようなものなんだ。
どうしたって心は揺さぶられる。
自覚した瞬間、二週間前に石井さんから言われた言葉が膨大な質量をともなって押し寄せてきた。
メールを開かなければこれ以上惑わされはしないだろう。だから目をつぶろうとしている。
でも、ひょっとすると俺にしか頼れない状況なのかもしれない、と勘ぐってしまう身のほど知らずな気持ちもほんのひとつまみぶんくらいは存在していて、そのせいで潔く未読のメールを削除することもできずにいる。
渦巻きはじめた波から逃れる術が見つからない。
目の前にある接点を引き寄せるか突き放すか。
結論にたどりつくまでは半年前のほうがまだ楽だった。
あのときは最終段階での決断を相手に委ねることができた。
答えを聞く前から自分が選ばれるはずはないという諦念もあった。
部屋を出たあとの喪失感がどんなものかなんて知りもしなかった。
天井の明るさを目障りに感じて照明を落とす。
用済みになったリモコンをベッドヘッドに戻し、空いた手をシーツの上に滑らせると、ふだんは狭い狭いと文句をつけていたベッドが急に広く感じられた。
結局その日は悩みつかれていつのまにか眠りに落ちていた。
現実の余波は夢にもあらわれた。
優梨が例のノートPCを開き、熱心にディスプレイに見入っている。
丸まった背中に向けて声をかけるタイミングを見計らっていた俺は、まったく振り向きそうにない彼女に失望し、そっと部屋をあとにした。