七 夜の帰り道 下
「わかりましたよ、嶋本さん!」
ぱちんと手が鳴った。
乾いた音を合図に心にかかった黒いもやが霧散する。
はっとして目を開けると、石井さんがいきいきとした表情でしきりにうなずいていた。
「なにが」
「ずーっと疑問だったんです。どうして私に振り向いてくれないのかなって。ルックスや性格が好みじゃないのか、隠してるけどほんとは彼女がいるのか、年上好きなのか、いろんな可能性を考えたりしたんです。でもいまやっと理由がわかりました。未練ですね!」
「未練?」
「きっとまだ元カノさんを引きずってるんですよ」
「へえ」
そうだったのか。言われてもあまりピンとこない。
今回のようにきっかけがなければ思い出さないくらいだし。
不可抗力な刺激を受けてたまに記憶のふたが開くことはあっても、わざわざ自発的にそうしようとは思わない。
ただ、最後の衝撃を打ち消すために思い出が美化されすぎているきらいはある。
懐旧の念が未練となっているのだろうか。
いずれにしろ、石井さんの分析が俺に新鮮な驚きを与えたのはたしかだった。
当の石井さんは戦うべきものが見えてきたとひとりで意気込んでいる。
いったいなにと戦うのかと聞いたら元カノだという答えが返ってきた。なんて不毛な戦いだ。
「戦うまでもなく石井さんの圧勝だよ」
この際、年齢的なものは除外するとして。
「男が百人いたら、九十九人は石井さんを選ぶと思うよ」
「そんなの、残りの一人が嶋本さんだったら意味がないんですよ」
「いや、残りの一人は蓼食う虫も好き好き的な意味であってね」
「だから、嶋本さんがその蓼虫なんでしょう」
「ええとね……」
いいや、めんどくさくなってきた。
彼女の機嫌も好転の兆しが見えてきたし、些細なことで議論をこじらせる必要はないんだ。
石井さんはいまから新たな対策を練る気らしい。
対策ってなんだよとつっこみたくなるが、こうもひたむきな姿勢を見せられると、ついついほだされてしまいそうになる。
つべこべいわずにつきあっちまえよと悪魔のささやきが聞こえてくる。
だが、一時的な感情に流されても後に残るのは索漠とした思いだけだ。
石井さんは鈍い女ではないから、俺の不誠実な感情なんてただちに見抜かれてしまうだろう。
この二か月足踏みしてきたのは、もしかしたら今度こそは誠実に向き合いたいという思いが根底にあったからなのかもしれない。
だったら俺のほうから彼女を裏切ったらだめだ。
誠実に向き合った結果うまくいかなかったとしても、不誠実な関係を結んで傷つけたり傷ついたりするよりは、たぶんよっぽどいい思い出になる。
「参考のために聞きますけど、その人のどういうところを好きになったんですか」
「どういうところ。考えたことないな」
「いまからでも考えてみてください」
なかなかむちゃを言う。
それでも自分から質問に答えると言い出した手前、言われたとおり考えてみた。
一部の記憶には触れないよう用心に用心を重ねて。
「うーん、しいていうなら部屋に生活感がないとこかな。備えつけの簡易ベッドとノートPCしか置いてなかった。かろうじてエアコンはついてたんだけど、テレビも冷蔵庫も洗濯機もソファもチェストもテーブルもなくて、小物も最小限のものだけ」
「借金のせいですか」
「いや、金がなくて質素なのとは違うと思う。いくつかハイブランドもののバッグ持ってたし。けど部屋は常にがらんとしてた。ゴミとか、つぎの日の出がけにぜんぶ持って出てくもんだからゴミ箱もなかった」
「そういうところが好きだったんですか」
「たぶん」
「きれい好き?」
「じゃなくて、言葉にするのがむずかしいんだけど、その部屋が妙に印象的だったというか」
「あ、もしや元カノさんではなくてお部屋に恋してたとか」
「それはない」
「ですよね。困りました」
「なんで」
「さっぱり参考になりません」
「そっか」
ごめんとしか言いようがなかった。
俺には石井さんがなにを参考にしようとしているのかがよくわからない。
コンビニを通過した直後。
石井さんから最後の質問が届いた。
どうしてもほしかったものってなんですか、と。
「時間」
「時間?」
「同じ空間にいる時間」
石井さんは一瞬きょとんとしてから、「元カノさんと?」と首を傾げた。
「そう。彼女がはたらいてるあいだ、部屋でただじっと待ってるのがいやで、毎日彼女の勤務先に通ってたんだ。だからバイトしないと到底金が持たなくて」
「ええっ!? き、勤務先って吉田さんが言ってたあのっ」
石井さんがうわずった声を上げる。
このリアクションは間違いなく勘違いをしている。
まったく、いたいけな女の子に余計なこと教えやがって。
心の内でおせっかいなお姉さんに毒づいてから、「誤解しないでほしいんだけど、いかがわしい店のことじゃないから」と渾身の紳士スマイルをつくってみせる。
「その人、バーの雇われ店長だったんだ。昼から夜まではさっき話した中華料理店でバイトして、そっからバーへ直行して閉店まで居座って、で、店長の業務が終わるのを待って一緒にマンションへ帰るってのが日課になってた。ていうかいくらバイト詰めてたって、あの人が副業してたほうの店には通えないよ」
「そうだったんですか。すみません、はやとちりしちゃって」
紳士スマイルの効果か、彼女は胸もとに手を当てて安心したように小さく息を吐く。
よかった、これで不名誉な誤解は免れた。と思いたい。切実に。
「恋人とはなるべくそばにいたいタイプなんですね」
意外です、と言った彼女のもうひとつの誤解は訂正しないでおいた。
マンションに着くと、石井さんはエントランスの前でくるりと半回転した。
白いワンピースのすそがひるがえる。
間接照明から放たれる淡くやわらかな光の中に、俺と相対する形で彼女が立っていた。
「嶋本さん、私、石井ももこです。ひらがなで、ももこ。覚えてくださいね」
ほほえむ彼女を見て胸をなで下ろし、そしてふと思い出す。
「ああ、そうだ。ももちゃんだ」
「えっなっなんですか急にっ」
「週末だけ図書館に来る小学生がそう呼んでたじゃん」
「あ」
透花ちゃんですね、と恥ずかしそうに頬を両手で隠してから彼女は目を細めた。
「あの、新しい髪型、とてもよく似合ってます。吉田さん髪の毛切るの上手ですね」
「どうも。今度吉田にも言っとくよ。よろこぶと思う」
会うたびに言いそびれていた、敬語はやめてほしいという注文を今夜は珍しく忘れずに伝えることができた。
こちらの要望を快諾してくれた石井さんはなぜかやたらと照れまくっている。
家族とも敬語で会話する絵に描いたようなお嬢様育ちだったらどうしようかと思ったが、それに関しては杞憂だった。
思い返せば以前透花とはふつうにガールズトーク的なものをしてた気もする。
「えっと、今日は連れてってくれてどうもありがとう」
「なんかややこしいことになっちゃって悪かったね」
「いえ。気をつけて帰ってくださ、じゃない、帰ってね。また来週、図書館で」
「うん。じゃあおやすみ、ももちゃん」
本日の最終目的地である我が家に向かおうとして踵を返すと、背後で「ひゃあっ」というへんな叫び声がした。
帰宅後。一枚の名刺に端を発する不名誉な誤解を解くため、ベッドに入る寸前だった妹を取っ捕まえた。
帰りの道中でねつ造した弁明は多少怪しまれはしたけれども、妹が睡魔に負けたおかげでどうにか疑いは晴れたようだった。
おかえり、平穏な日々よ。
そうして(受験をのぞけば)なんの迷いも不安も懸念もなく順調にカレンダーはめくられていき、暦は六月から七月へと移り変わった。