五 夜の美容室 下
「ほらあ」
はやく話せと吉田がせっついてくる。
おせっかいにもほどがある。
石井さんに対する妥当な説明が即座に思いつかず黙秘権を行使していると、ハサミを持ったおせっかいなお姉さんが本領を発揮した。
「わかった、言いづらいなら私が代わりに言ったげよう」
なぜかハサミがバリカンに変わっている。
俺ツーブロックにしてなんて頼んでないよ!?
と気をそらしたのがまずかった。
「んとね、この子去年まで年上の風俗嬢とつきあっててね、一時期家族にないしょで彼女のマンションに二人で住んでたんだって。んでいろいろあってプロポーズまでしたらしいんだけど、あっさり振られて実家に戻ったみたいよ。まあ先立つものもないんだから当然の結果だし、受験を控えた身でようやるわって話だけど。案の定大学落っこちてるし、ほんっとあほだよねえ。さっきの妹に見つかった名刺っていうのは、たぶんその元カノが使ってたやつだね。つきあってただけで貢いではいないって本人は言ってるけど」
制止する間もなく、吉田はご丁寧に俺の過去をダイジェスト化してくれた。止めたら刈るぞとばかりに手にした凶器で俺の限りある資源を人質にしつつ。
彼女の語った内容に大きな誤りはない。誤りはないが、感情を排して事実のみを羅列されると俺は本当にただのあほだ。
いや、感情を交えたところで結局は同じか。
石井さんがソファの背にもたれるようにずぶずぶと沈んでいくのが見えた。
俺も沈んでしまいたい。バイカル湖よりも深いところに。
吉田はあたかも善行を行ったかのように涼しげな表情を浮かべている。
高級牛肉をちらつかされ、軽々しく彼女に打ち明け話をしてしまったことを俺は心底悔やんだ。
これからはどんなに好条件を提示されても吉田に身の上話をするのはよそう。お高い肉に釣られたら負けなんだ。
「あのさ、吉田さん、話すならもうちょっとこう、オブラートに包んで話してくれてもいいんじゃないですかね」
抗議の意をこめて鏡に映った吉田を見る。
バリカンを置き再度ハサミを握り直した彼女は、手に取った毛先とにらめっこをしながら「風俗嬢じゃなくてバーのマスターって言ったらよかった? けどそしたら名刺の謎が残っちゃうじゃん」と悪びれもせずに応えた。
「じゃなくてさ、名刺のくだりだけで充分っていうか……うん、まあいいや」
不服を唱えようとしたものの面倒になって途中で言葉を引っこめる。
終わったことを悔いてもしかたがない。
過去は変えられない。
覆水は盆に返らない。
もともと前の彼女のことをありのまま石井さんに話す気はなかった。
隠したいからではなく話すことに意味を見出せなかったからだ。
半年前のできごとが俺と石井さんの関係を前進させる要素になるとは思えなかった。
事実、いま石井さんの視界に俺は入っていない。
「あーあ、石井ちゃんショック受けちゃったじゃない」
「だれのせいだよ」
「隆宏のせいだよ」
「なんで!?」
「大事なこと黙ってるから。好きな人に隠しごとされるつらさはよく知ってるでしょーに」
「嶋本さんは悪くないです。私は平気です。ちょっとびっくりしただけですから」
唐突に石井さんが会話をさえぎった。
「まさか結婚まで考えていた人がいるだなんて思ってもなくて」
膝のあたりで拳を握り、ソファに背をあずけて顔を伏せている。
「いや結婚っていうか」
言いよどんでいると吉田が「駆け落ち?」とあとを次いだ。
「そういう大げさなもんでもなくてね」
「んじゃなによ」
「なにって言われると、困るけど」
完全にその場の雰囲気に飲まれて言ったことだ。
あのときは明確に結婚だのなんだの考える余裕などなかった。
でも彼女の返答しだいでは、もしかしたら俺はいまここにいなかったかもしれないと思うと、真っ向から否定もできない。
「石井ちゃん聞いた? この男ね、根本的に考えがかなり浅はかなのよ。まじめなつきあいを望むならいまのうちに考え直したほうがいいかもよ」
吉田が石井さんに向かって諭すように言った。
白いワンピースを着た少女はうつむいたまま「そうですね」とつぶやく。
彼女のひとことを聞いて、ほっとしたような肩透かしをくらったような、なんともいえない気分になる。
腑抜けた顔をした俺に吉田がこっそり耳打ちしてきた。
「キミは圧倒的に言葉が足りないの。頭の中でいろいろ考えてたって相手に伝わらなきゃ無意味なんだよ。石井ちゃんとまともにつきあう気があるなら、あとでじっくり二人で話し合いなよ。そうでないなら早めに解放してあげたほうがあの子のためにもいいと思う」
まるで俺が石井さんを拘束しているかのような言いぐさだ。
話し合うってなにを話し合えばいいのだろう。前の彼女について?
好きな人ができたとして、俺はその人が過去にだれとどんなふうにつきあっていたかなんて聞きたくもないのに。
静まった店内にハサミの開閉音だけがやけに大きく響いた。
今日はほかのスタッフの姿もなく、閉店後の店は雑音が少ない。
背後の石井さんが、近場にあった雑誌を手にとってゆっくりとめくりはじめる。
最初は何度か鏡越しに視線が交差していたが、いまとなってはそれもない。
来なければよかったと思っているのかもしれない。
彼女がどんな思惑を抱いてここへ来たいと言ったのかはわからないが、いやな思いをしたくて来たわけではないだろう。
思いどおりにいかないことなんていくらでもある。そうやってすべてを片付けられたられればどんなにいいか。
汗をかいたグラスに手を伸ばしてお茶を飲むと、思ったよりもぬるかった。
「もしかして怒ってる?」
最後に前髪を切る段階になり、前方にまわりこんできた吉田が真顔で目を合わせてきた。
「世の無常を感じてる」
「なんだそれ」
ドライヤーで髪を乾かされ、微調節を経て一連の作業が終わる。
じゃまな前髪がなくなり、視界をさえぎるものはない。
快適だ。この快適さが永遠につづけばいいのに。
なんかつけとこうか、とスタイリング剤を指さされる。
「いいや。あと帰って寝るだけだし」
「そ。じゃ終了、おつかれさまです」
「どーも」
吉田はカットクロスを外しながら次回来店日の目安を告げてくる。
練習台のはずが常連のお客さん扱いだ。
「つぎか。つぎは秋になったら考えるよ」
「キミさ彼女いないとほんっと露骨に手抜くよね」
「手を抜くっていうか基本人に言われないと動かないだけ」
「んじゃ今日はだれに指摘されて来たの」
ティーン向け雑誌を熟読中の石井さんに目をやると吉田は短く嘆息した。
「そうだ、これやる。吉田本好きだったよな」
財布から一枚のプリペイドカードを引っ張り出してカウンターに置く。
先日、祖父母宅周辺の休耕地の草刈りを手伝ったとき、作業手当といっしょにもらった図書カードだ。
練習台とはいえ、毎回タダで切ってもらっているのでたまには礼をと思って持ってきたものである。
「いいの?」
「いいよ、俺本買わないし」
「受験生なんだから、参考書とかいるんじゃないの」
「そういうのはこないだ菜月から大量にもらった」
「まじか。まあ、なっちゃんにはもう必要ないもんね。あ、これ、いらないなら遠慮無くもらうね、ありがと」
その後、吉田から髪用日焼け止めのサンプルを手渡され、石井さんの顔に笑みが戻った。
機嫌がなおったのかと安堵していたら、そうでもなかった。