四 夜の美容室 上
「悪いねえ遅くに。ってなにこのめっちゃかわいいお嬢さんは!」
わざとらしい声を上げて吉田が俺たちを出迎えた。
前回会ったときよりも髪が短くなり色も明るくなっている。
ペイズリー柄のチュニックと白いパンツも相まって、麦わら帽子が似合いそうな初夏らしい格好だった。
「石井さん」
「彼女?」
「彼女の見習いだって。今日は俺のつきそいね」
「見習い?」
「そう。石井さん、この人が近所に住んでる吉田さん」
「はじめまして、石井です。突然おじゃましてすみません」
石井さんが俺の横で深々と頭を下げる。
対して吉田は「いえいえようこそ」とかるく会釈を返しつつ、見習いのワードに疑問符を浮かべている。そりゃそうか。
「俺が浪人してるあいだは見習いで、大学受かったら彼女に昇格する予定らしいよ」
「らしいって人ごとか」
「いえあの、私が嶋本さんにむりを言ってお願いしたので」
おずおずと石井さんがつけくわえる。
眉をしかめていったん宙を仰いだ吉田が、ポンと手を打った。
「そういや苗字嶋本だったね。一瞬だれのことかと思っちゃった。ふだん使わないと忘れるよね」
「忘れる忘れる。俺も吉田の下の名前覚えてない」
「いいよ、端からキミの記憶力には期待してないから。あ、でもさすがに石井ちゃんの名前は覚えてるよね?」
「えっ」
石井さんが驚いたように俺を見上げてくる。
俺も彼女を見返した。
「ええと」
あれ、なんだっけ名前。
アイドルっぽい響きだったような気がするけど思い出せない。ふだん使わないし。
そのまま数秒見つめ合い、先に目をそらしたのは石井さんだった。決まり悪そうにそっぽを向く。
「こういうやつが相手だと苦労するよねえ」
がんばって、と吉田が同情的なしぐさで彼女の肩をやさしくたたいた。
なんだよちょっと名前忘れたくらいで。死ぬわけじゃあるまいし。とはいえないので黙って肩身の狭い思いをしておいた。
施術メニューを問われ、迷わずカットオンリーで注文する。
施術料はタダでも、薬剤を使用すると薬剤代として二千円ほどかかるからだ。
石井さんには店内のソファで待っていてもらうことにして、シャンプー台へと移動する。
「ちょっとあんなかわいい子とどこで知り合ったの」
「図書館」
「図書館!? 隆宏が図書館行くとか信じらんない」
髪を洗いながら吉田がけらけらと笑う。
この反応はすでに五回以上は経験している。もう慣れっこだ。
笑いたければ好きなだけ笑えばいい。
そのうち図書館の似合う男になってやるさ。
「石井ちゃんは隆宏のどこがいいの」
「顔です」
即答する石井さんの声はどことなく不機嫌だ。
俺が名前を覚えてなかったせいか。
帰りに聞いておこう。忘れないようなにかにメモっておきたいが、妹の目につく場所は避けねばならない。携帯は真っ先にチェックされるし。
「だよねえ。隆宏から顔面と身長取っ払ったらあほしか残らないもんね」
「吉田までうちの妹みたいなこと言うなよ」
「うん、まんまなっちゃんが言ってたんだけど。あの子うちに来るたびいかに兄貴があほであるかを熱弁してくれるんだよ」
「あいつは俺になんか恨みでもあるんか」
「いやあ逆でしょ。大好きなんだと思うよお兄ちゃんが。美しき兄妹愛ってやつよ」
残念だけど愛は感じられないね。微塵も。
シャンプーが終わり鏡の前でカットクロスをかけられる。
てるてる坊主と化した俺の背後には、姿勢よくソファに腰かけた石井さんがいる。
彼女が真剣にこちらの状況をうかがう様子が目の前の鏡に映っていた。
「ご希望は?」
「ない。任せた」
「雑誌いる?」
「いらない」
「お茶は?」
「ください」
「了解」
吉田は一度奥に引っこみ、俺と石井さんに冷えたお茶を用意してくれた。
それから散髪がはじまる。
はじめて切ってもらったときにくらべると、吉田の手つきはずいぶんさまになってきたように思う。
時折、大学をあきらめて、彼女のように手に職をつけようかと考えるときがある。が、なにかをはじめるとなると、いったいなにをしたらいいのか見当もつかない。
やりたいこともとくに思い浮かばない。
結果、やっぱり大学を受験しようという結論に落ち着くのだった。
「そうそう、四月ごろだったかなあ、なっちゃんから電話あったんだよ。兄の部屋から怪しい名刺が見つかったんですけど、あの人が街金に借金してるとかそういう話聞きませんかーって」
ふたたび妹の話題を持ち出した吉田は、どういうわけかやけに楽しそうだ。
なんだか悪い予感がする。
「してないし。なんだよ名刺って」
「女の子の名前が書いてあったらしいよ。んーとたしか、あかりちゃん。心当たりは?」
あかり?
鏡に映る顔が自分でもわかるくらいにこわばった。
「あーやっぱそうなんだ。なっちゃんが心配してたよ。お兄ちゃんのおこづかいでそんな店に行けるわけないって。なんでそんなもの捨てずに取っといた」
「だってそこらにポイポイ捨てられるようなもんじゃないし」
四月ごろ。部屋から名刺。
なるほど。俺の部屋に存在する「絶対に家族には見せられないもの入れ」が妹に見つかったのもその時期だ。
あの中には件の名刺も入れてあった。
妹はおそらくあれを見て勘違いしたんだろう。
俺の身辺調査が激化しはじめたのも、やたらと金銭の心配をされるようになったのもそのあたりからだったし、改めて考えてみるとつじつまが合う。
「なんの話ですか?」
鏡越しに石井さんが疑問を投げかけてくる。
そうだ今日は彼女も来てたんだった。
適当な言いわけを考えはじめた俺の努力を無にしたのは吉田だった。
「言ってい?」
「だめだ絶対言うな」
鏡の中で吉田がにやりと笑った。
「あのね、隆宏の妹がね、兄貴の部屋で風俗嬢の名刺を発見したんだって。んでね、いつもありがとう的なメッセージが添えてあったもんだから、妹の中で兄貴が嬢に貢いでるんじゃないか疑惑が浮上したっていう話」
反応に窮したらしい石井さんが、お茶の入ったグラスを持ったまま固まっている。
できれば俺も石になってしまいたい。モース硬度十くらいの鉱石に。
でもそういうわけにもいかない。
「石井さん、あのね、この話には少々誤解があるんで。吉田も十八歳未満の子に十八禁話すんのやめて」
「えっ石井ちゃんいくつ?」
「十六」
「まじで? 女子高生? 年上に懲りてついにロリコンに目覚めたか」
「どこがロリコンだよ。大学生と高校生だと思えばおかしくないだろ」
正しくは受験生とフリーターだが。
「あー、そー言われると? そんなもんかも」
「な。で、うちの妹にはなんて?」
「知らないって答えといたよ。きっとなっちゃんには話す気なんかないんだろうと思って」
「そりゃどうも」
「あんまり心配かけないようにね」
「菜月がひとりで勘違いしてるだけだって」
家に帰ったら適当にごまかしておこう。
誤解が解ければ例の反抗期もどきも終わるかもしれない。
ゴミを見るような目で見られたり、起き抜けに携帯を投げつけられたりすることもなくなる。平穏な日々が帰ってくる。
そう思うとわずかに心が軽くなった。
「あの、嶋本さん、誤解って」
後ろで固まっていた石井さんが、どういうことなのかと不安そうに目で問いかけてくる。
危ない、安心しすぎてまた彼女の存在を忘れるところだった。
どう伝えるべきか悩んでいると、珍しく吉田が真顔をつくって言った。
「妹はともかく、未来の彼女にまで隠すのはよくないっしょ」
「隠すつもりなんてないけど、いまここで詳しく言う必要もないし」
「えー先延ばしにしたっていいことないと思うけどなあ。石井ちゃんは聞きたい?」
俺の意思を無視して吉田が問う。
石化から復活した石井さんはこくこくと強くうなずいた。