三 夜の散歩
「菜月、いまから駅まで散歩しよう。車で」
「は? なに、駅まで乗せてけってこと?」
夕食後、自室にこもって勉強していた妹をドライブに誘ったところ、振り向きざまゴミを見るような目を向けられた。
最近よくあることだ。気にせず、そうだとうなずく。
どうしよっかな、と妹は偉そうにシャーペンをあごに当て口の端をつり上げた。
「ジルのチーク買ってくれたらいいよ」
「いくらすんだよ」
「えー五千円くらい」
「あほか。そんだけ払うならふつうにタクシー使うわ」
「じゃあお兄ちゃんに買ってもらったつもりで自分で買うから、借金に上乗せしといていい?」
「いいわけないだろ。もういい。おまえは当てにしない」
こいつ、ちょっと免許や車を持ってるからって調子に乗りすぎじゃないだろうか。
そのまま部屋を出ていこうとしたら、妹に呼び止められた。
「待ってよ、駅になんの用があるの」
「吉田んとこ行くんだよ」
「あ、髪切ってもらうの? 遊びに行くんじゃないなら車出してあげてもいいよ。でもいま予習してるからあと三十分だけ待ってて」
三十分か。待っていたら待ち合わせ時刻に間に合わない。
それにしても妹の勉強好きにはほとほと呆れる。家にいるとたいてい机に向かっている。
俺と足して二で割ったらちょうどいいくらいの勤勉さだ。
大学生になっても勉強するなんて、もしや将来ロースクールに行って法曹界にでも入るつもりだろうか。
「いいや、時間ないから歩いてく」
今度こそ玄関へ向かおうとすると、またもや制止の声がかかった。
「ねえ、私のもの、使わないでって朝言ったよね」
ずんずん迫ってきた妹に借りていたヘアクリップを取り上げられる。痛い。
限りある資源が一、二本犠牲になった気がする。
「べつにいいだろ、減るもんじゃないし」
「減る!」
「なにが」
「ラインストーンが! ほら見てよ、お兄ちゃんが使うたびにポロポロ取れちゃうんだから。これ高かったのに」
「んなのだれが使っても取れるって。今度百均でビーズ買ってきてやるからそれくっつけとけ」
そう言ったら、はやく髪を切ってこいと部屋から蹴り出された。光りものの恨みは怖いな。
昼間教えてもらった石井さんの自宅は、我が家の最寄り駅から徒歩圏内の場所にあった。築年数浅めの十一階建マンションだ。
石井さんは高校へ入学する年の春に市内へ越してきたと話していたから、そのころに竣工した建物なのかもしれない。
約束の九時半きっかりにマンションに着くと、エントランスに石井さんの姿が見えた。
昼間と服装が違う。
まもなく彼女は俺に気づいて走り寄ってきた。
白いペプラムワンピースを着た彼女からはいつもよりやや大人びた印象を受ける。
「こんばんわ」
「おまたせ」
「いえ。あの、これってデートでしょうか」
長い黒髪を耳にかけ、はにかんだような笑みをこぼす。
うっすらと化粧をしているのか、ほんのりと頬が赤い。
「デートといえばデートかも」
駅まで往復するだけだし、たんなる夜の散歩のような気もするが。
すると、急に石井さんがもじもじしはじめた。
「えっと、あのですね、前に私のことを好きになってくれたらデートしてほしいって言ったと思うんですけど」
「そうだったっけ」
言われたっけ。
短い沈黙を経て、石井さんがくるりと背を向ける。
「あ、覚えてないならいいです。行きましょう」
はきはきした声とはうらはらに、しょんぼりと頭を垂れて歩き出す。
風呂上がりなのかシャンプーの香りが夜風に乗って流れてくる。
国道へとつづく小路には夜の闇が我が物顔で鎮座していて、ほうっておけば彼女が薄暗い闇に飲みこまれてしまいそうだった。
徐々に遠ざかっていく華奢な白い影を追いかけ、国道の方角へと足を向ける。
さっきまで面倒だと思っていたが、見慣れない夜道を歩くのは意外と悪い気分ではなかった。
湿り気を帯びた六月の風がうっとうしい髪を乱していくのも不快ではない。
最初の交差点の角にコンビニがあった。そこだけ闇が途切れている。
今朝の夢の余韻がまだ残っていたのか、店の前を通ったとき、ふいに過去の光景がよみがえってきた。
もう半年以上も前になる。
去年の秋から冬にかけ、よく覚えたての夜道を歩いた。
繁華街を抜け、日ごと冷たさを増す明け方の空気に身を縮めながら、コンビニでフライドチキンとコーラを買い、空っぽな部屋に帰って眠る。
そんな日々を繰り返していた。
あのころは空っぽな空間をなにかで埋めようと必死だった。
都合の悪いことには目をつぶり、そうやってやり過ごしていれば案外なんとかなるんじゃないかと本気で思っていた。
時が経つにつれ、ゴミ箱すら存在しない狭い部屋にもかえって愛着がわくようになっていた。
ところが、その生活は突如終わりを告げた。
時間をかけて築き上げた砂の山が一瞬で踏みつぶされるように呆気なく。
糸が途切れるようにぷっつりと。
予感はあったけれど、一方で期待もあった。
でも期待はあっさりと裏切られてしまった。
あの部屋に住んでいた期間は四か月程度だったと思う。
たったの四か月でも、二十一年の人生の中でもっとも幸福な時間だった。
「石井さん、一人で行ったら危ないよ」
足を止め、ゆっくりと彼女が振り返る。
古ぼけた街灯に照らされた彼女は夜の世界に迷いこんだ白い蝶のようだった。
闇の中に浮かび上がる姿は美しかったが、彼女にはやはり明るい昼の世界のほうがよく似合う気がした。
まだ未成年だからとかそんな決まり切った理由からではなく。
傷つけたくはないと思う。
そのためにどうすべきなのか、どうしたいのか、探してもまだ答えは見つからない。
「離れて歩いたら俺が来た意味ないじゃん」
立ち止まっている石井さんに早足で追いつく。
「あ、でも俺ケンカとかむりだし、もし絡まれたりしても落ちてる石投げるくらいしかできないと思うから、なんかあったらそのあいだに走って逃げてね」
ここで大口をたたいてもしかたがないので事実を告げておく。
自慢じゃないけど、平和な人生を送ってきたおかげで殴り合いのケンカなんて一度もしたことがない。一方的に殴られたことは一度だけあるけども。
「そしたら私も一緒に石投げますよ」
石井さんが得意げな顔で応える。
二人でせっせと道端の石を投げている姿を想像し、あまりの間抜けっぷりに苦笑いする。
彼女も笑っていた。
「手つなごうか」
手を差し出すと、石井さんは大きな目をさらに大きく見開き、忙しなく左右を確認してからおもむろに小さな手を伸ばしてきた。
その手はわずかに熱を持っていて、寒い季節はとっくに過ぎ去ってしまったのだと思い知らされる。
美容室へつづく道のりを、石井さんは足下ばかり気にして歩いていた。
国道沿いの歩道にはほどよい幅があるにもかかわらず、行き交う人を避けるように隅を行く。
目的地まで残り半分を切ったころ、彼女は汗ばんだ手のひらを恥ずかしがってつないだ手を離そうとした。
「あああのごめんなさい、私、学校行事以外で男の人と手をつないだのはじめてで、すごく緊張してしまって」
「俺も俺も」
「なんでそんなうそつくんですか」
突然石井さんの声が険を帯びる。
怒らせてしまったのかと思わず身がまえる。
「いや緊張をまぎらわせようと」
「そうですか、ごめんなさい。からかわれているのかと思ったので」
顔を上げた彼女の目は街の灯りを映してきらめいていた。
からかってないよ、と応えると石井さんはやや上体を傾け下から俺の顔をのぞきこんできた。
「私、なにかだめなところありますか」
「だめなとこ? さあ、ないんじゃないかな」
飽き性だったり不器用だったりするのは短所に入るのかもしれないが、致命的というほどではないと思う。
仮に彼女に救いようのない欠点があったとしても、俺は他人のひととなりについてどうこう言える立場にない。
相手が遊び呆けたせいで浪人生活を四年以上継続するはめになった人間ならばともかく。
「嶋本さんて私に対して甘いですよね」
石井さんはまた地面に視線を落とした。
甘い、の意味がわからず返答をためらっていると、彼女は国道のほうに顔を向けてひとりごとのように言った。
「いつも私のへたな料理ぜんぶ食べてくれたりとか」
驚いた。料理に難点があるという認識はあったらしい。
毎回毎回昂然と出してくるもんだから、てっきり自信作だと自負しているのかと思っていた。
うかつに味や形を批評しなくてよかった。
へんに落ちこまれたら困るのは俺自身だから。
「せっかくつくってくれたんだし、出されたものはぜんぶ食べるよ」
「断ってくれたっていいんですよ。今日のことだって」
「俺が断ると石井さんあからさまに落ちこむじゃん。自覚あるのかないのか知らないけど」
かるくため息を吐くと、振り向いた石井さんが頬をゆるめた。
「そんなだから、いつか私のこと好きになってくれるのかなあって期待してしまうんですよ」
「うん、まあ、そのあたりは鋭意調整中だから、もうすこし待って」
期待しててとも期待するなとも言えず、もどかしさが残る。
白か黒か、ゼロかイチか、感情が常に明白に分かれていれば苦労はないだろうに。
揺らぎ、混ざり合い、乱れ、ひっくり返る。なんでもありだから始末が悪い。
「待ちます。いくらでも、と言いたいですが、嶋本さんが大学生になったら彼女にしてもらうって約束ですからね、直してほしいところがあったら溜めこまずいまのうちにどんどん言っておいてください」
約束の日までに心変わりすることなどかけらも疑わない様子で石井さんがほほえむ。
彼女が離れていく末路はたやすく想像できる。が、自分の気持ちを定められないまま先のことばかり考えても意味がない。
できることをしようと思い、彼女の要求に応えることにした。
「直してほしいってほどでもないけど、昼に持ってきてくれるあれ、俺はパンより米のが好きだから、むりして凝ったものつくらなくてもおにぎりとかでも充分うれしいよ」
「わかりました、つぎはそうします」
「塩と砂糖さえ間違えなければいいから」
「大丈夫です、お塩は使わないので」
「え」
「おにぎりの素を使います」
「ああ、なるほど」
それなら安心だ。用量用法をきちんと守ってくれれば。
「私いまこの道の上にいる人間の中で一番幸せ者だと思います」
つないだ手を前後に揺らしながら彼女が言った。
なんとなく気になって「この道」がどこまでつづいているのかを調べてみる。
日本海付近までつながっていると知り、二人で顔を見合わせる。
日本海といえば、母方の実家が金沢にあり、俺も一歳くらいまでは日本海の近くに住んでいたらしい。そんな話をしていたら、あっという間に駅にたどり着いた。