二十二 三人の関係
初ランチデートはあいにくの雨天だったが、石井さんは同じ傘に入れるとよろこんでいた。
小雨が降る中、二駅先の繁華街にまで足を伸ばし、雰囲気の良さそうなカフェに入る。
狭い入り口を越えた先に広がる空間は、昼間だというのにまるで映画館のような暗さで、ほかの客はもちろん店員の顔もよく見えないほどだった。
なので、
「お待たせしました」
とオーダーを取りに来た女性店員の声を聞いた瞬間、俺の頭からはこれから彼女に伝達すべき情報がすべて吹っ飛んでしまった。自分で決めたばかりのメニューも、石井さんがどのランチを所望しているのかも。
「ご注文お伺いいたします」
恐る恐る声の持ち主を見上げると、懐かしい営業スマイルが目に入った。
俺たちが入店した時点で気づいていたのか、唖然とする俺とは対照的に、彼女は驚いた様子もなく平然とオーダーを待っている。
「家の近くの喫茶店で働いてるんじゃ……」
「掛け持ち中」
忙しいんだから時間を取らせるなと言外に告げ、ウェイトレス姿の小原優梨は重ねて注文を尋ねてきた。
彼女に接客された経験は何度もあるが、こうも事務的な態度を取られたのははじめてだ。
奇遇ね、などと声をかけてほしかったわけではないが、あまりに素っ気ないもの言いが癪に障りそれ以上むだ口をきく気はなくなった。
なんとか思い出しつつ二人ぶんのオーダーを伝えると、優梨は最後に俺と石井さんを交互に見やって店の奥へと消えて行った。
「いまの店員さん、知ってる人?」
「知ってるっていうか……」
厨房へ向かう優梨の背中に気を取られていた俺は、不審そうに眉をひそめる石井さんの問いかけに半分上の空で答えた。
「えっ? あの人が優梨さんなの?」
面食らったような声で意識が対面の人物へと引き戻される。
「ああ、ごめん、ここで働いてるなんて知らなかったんだ」
店は石井さんが決めた。
そこにたまたま元カノが勤務していたからといって俺に落ち度はないはず。そう考えてなるべく自然体を保とうとしたけれど、動揺が隠せたかどうかはわからない。
石井さんは上目づかいで俺の表情をうかがい、ゆっくりとまばたきをした。
「すごい偶然」
「うん。本人なのかそっくりさんなのか一瞬迷った」
「暗いものね。元カノさんならもっとちゃんと見ておけばよかったなあ」
振り返った彼女の視線を追って店の奥へと目をやったが、目的の人物は見えなかった。
「なんで?」
「え、気になるから? 嶋本さんは好きな人の元カレって気にならないの」
「ならないよ」
「なんで?」
「知ったっていいことないし」
「そうかなあ」
石井さんは困ったようにわずかに首を傾げ、水をひとくち飲んだ。
注文の品はすべて優梨が運んできた。
配膳の様子を逐一目で追いかける石井さんと、淡々と業務をこなす優梨とのあいだに特別な会話はなかった。が、そこにピリピリとした空気の流れを感じ取った俺はとても彼女たちを正視できなかった。
状況しだいでは逃げ出していたかもしれない。
料理が出そろい、妙な緊張感から解放されたときは、こっそり胸をなで下ろした。
「熱心に観察してたけどなんか収穫はあった?」
「うーん、あったといえばあったかな」
あいまいに言葉をにごした石井さんの表情は店内と同じく明るさを失っていた。
歩きながら店選びをしていたときのテンションはもはや影をひそめている。
どうにか会話を弾ませて予定どおりランチデートを楽しむべきか、それともさっと食事だけ済ませて可及的速やかに店を出るべきか。二択に悩んでいた俺の顔を石井さんがじっとのぞきこんだ。
「ねえ、優梨さんっていくつ?」
「歳? たしか、二十四」
「そっか、今泉さんといっしょなんだ。あ、森さんや神谷さんとも同じだね。見えないなあ」
同じだね、と言われても、今泉さんをのぞく残り二名がだれなのかわからない。おそらくバイト先の職員か作業員か検数員だろうという推測はできるけども。
それはさておき、優梨が未成年でも通りそうだという石井さんの意見には同意せざるをえなかった。
「中身もわりとこどもっぽいとこ多いよ」
「そうなの? お料理は上手?」
優梨の手料理と呼べるものは彼女が店でつくっていた軽食しか口にしたことがない。
商品として問題なく客に出せる程度の出来映えだったが、ふつうにうまかったと言うのはよろしくない気がして、無難に食べたことはないと答えておいた。
「部屋に調理器具一個もなかったし」
「なるほど」
その後、店からはやく出たいのではないかという俺の懸念をよそに、石井さんは非常にのんびりと食事をした。
優梨と無関係な会話をつづけるうちに気分が上向いてきたようで、手よりも口がよく動いている。
石井さんがデザートを、俺が二杯目のドリンクを追加注文し、とある絵描き歌について熱い議論を交わしたりしていると、いつしか周囲の客数は激減していた。
石井さんがトイレに立ったのと入れ違いに優梨が空いた食器を下げにやってきた。
昼時の忙しさから解放されたらしい彼女はおもむろに皿を重ねはじめる。
気がつけばやけに近い位置に顔があった。
「もしかしてあの子が例のももちゃん?」
「そうだよ」
かがんだ優梨に視線を合わせてうなずくと、意味深な目つきで笑いかけてきた。
「ずいぶんとまあかわいらしいじゃない。高校生? 最初妹さんかと思っちゃった」
「妹はもっと縦に長いから」
「あーそっか、嶋本一家はみんな背高いんだっけ」
「俺その話した?」
「したした。お父さんもお母さんもおじいちゃんもみーんな大きいのに、おばあちゃんだけは小さいって言ってたの覚えてるもん。で、そのちっちゃいおばあちゃんがヒロくんをすごくかわいがってて、会うたびにおこづかいをくれるんでしょ?」
なんで去年の俺は優梨にそんなどうでもいい話をしたんだろう。たぶん酔っていたせいだろうが。
「できればもう忘れてくれ。あと顔近いです」
明るい店内ならともかく、ここでは店員と客が必要以上に接近していたとしても周りに悟られることはなさそうだった。
そもそもいまは付近に客がいない。
それをいいことにさっきから優梨はほぼ耳打ち状態で俺と話している。石井さんがいつ帰ってくるとも知れない状況下で。
ジェスチャーで離れるよう伝えると優梨はつまらなそうに姿勢を正した。
「そういえば、わたしこないだ荷物をひとつ渡しそびれちゃったんだけど」
「荷物って服?」
「主に」
「どうりで少ないと思った」
「いる?」
「いや。適当に処分していいよ」
「わかった。じゃね」
優梨が得意の営業スマイルをつくって空き皿とともに引っこむと、やがて石井さんが戻ってきた。
片づいたテーブルを見て、なにか話をしたのかと聞いてくる。
べつの店員が食器を下げたとは微塵も思っていないようだ。
「世間話をちょっと」
「そう」
石井さんは浮かない顔で腰を下ろした。
「しゃべらないほうがいいならそうするけど」
「ううん、違うの。ごめんなさい」
小さく首を振り、
「優梨さんが引っ越すって聞いて、もう二人きりで会うこともないんだろうなって勝手に安心してたから、なんかね……」
とため息を漏らす。
せっかくデートがうまくいきかけていたのにこの反動はないだろうと俺もため息を吐きたくなった。
優梨との遭遇は予定外のアクシデントだ。
だれが悪いわけでもなく、ただ時機が悪かったというほかない。
「俺だってそう思ってたよ」
半年間すれ違いもしなかった人間と、あと半月足らずのうちにまた偶然顔を合わせるなんてことはないだろう。
正真正銘これが最後だと言ったら、石井さんは体内からなにかを押し出すように長々と息を吐いた。
「そうだよね。こんなことで不安になるって、私心が狭いよね。せっかく嶋本さんがデートに誘ってくれたりして気持ちを切り替えようとしてくれてるのに」
石井さんといるときは彼女を最優先したいと思う。最近はそういう努力もしているつもりだ。
けれど、万が一なにかの間違いで優梨と二人で過ごすことになった場合、その決意が少しも揺らがないかというと正直自信がない。
優梨に対する情と石井さんに対する責任と、どちらが勝つかは自分でもさっぱりわからなかった。
石井さんはそんな俺の優柔不断さを見抜いていて不安だと口にするのだろう。
彼女の不安を取り除くためにいま俺がすべきことは、二度と優梨とは会わないと強調することだ。と思って実行してみたものの効果のほどは不明だった。
石井さんは急におとなしくなり、ぼうっとテーブルの縁を見つめている。
なにか気分を変えられるような明るい話を、と話題を探していたら、運良く谷村から吉報が届いた。つづいて送られてきた「街コンのお知らせ」なる謎の文言はひとまず無視する。
「海、来週の火曜でもいいってさ」
「ほんと? よかった」
スマホに予定をメモしつつ、いくらか表情をやわらげた石井さんは、自分の手もとと俺の顔を代わる代わる見た。
「あのね、パステルカラーなんだけどね、水色とピンクだったらどっちが好き?」
「水着の話? ならももちゃんには水色のが似合うと思う」
すると彼女は照れ笑いを浮かべて水色にすると答えた。
スマホをバッグの内ポケットにしまい、顔を上げる。
「そろそろ図書館に戻らないといけないね」
時計を見ると店に入ってから二時間近く経っていた。
なんとなくいやな予感がしたので、石井さんには先に店の外へ出ているよううながした。
単独でレジへ向かうと、予感は的中し、やはり会計係も優梨だった。
ここまでくるともうわざとやっているとしか思えない。
純粋な好奇心だけならばともかく、俺が石井さんの前でうろたえる様を見て楽しもうという魂胆が見え隠れしている。
しかし、最後の最後にむだに空気を悪くするのも本意ではない。というわけで店員の大人げない行為に対するクレームは内に秘めておいた。
「あ、けがしてる」
合計金額を告げたあと、優梨は小さな切り傷のついた俺の手を指さした。
「ああ、先週末じいちゃん家周辺の草刈りに駆り出されてさ」
「草刈り? 鎌とかで?」
「違うよ、草刈り機でガーッとね、なぎ払うように」
草刈り機がツボだったのか優梨はぷっと吹き出した。
「真夏はけっこうしんどいんだぞ。ヘビも出るし」
「それは大変」
優梨が笑いをこらえてキャッシュトレイに手を伸ばす。
釣り銭を受け取る際、細長い指がかさぶたになった切り傷の上をそっとなぞっていった。
指先の冷たさに驚いて優梨の顔を見る。視線は交わらない。
「地球儀の、あれは治ったのか?」
「うん」
「家、帰ってる?」
「帰ってる。ご心配なく」
実家の話題を出したとたん優梨の眉間にしわが出現した。
前回会ったときより若干くたびれた顔つきもバイトをつめこんでいるせいだけではなさそうだ。
「あんまむりすんなよ」
出がけに買った眠気覚ましの栄養ドリンクをチップと称してレジカウンターの上に置くと、優梨はようやく飾り気のない笑顔を見せた。
「ありがと。かわいいももちゃんとおしあわせにー」
弾んだ声に背を向けかけ、ふと思い出して足を止める。
「あのさ、絶対ないとは思うけど、もし今後どっかで会っても俺のことは無視していいから」
「はいはい。浮気現場目撃してもスルーしてあげる」
「不吉なこと言うな」
「あはは。ばいばーい」
通算三度目となる別れのシーンで優梨はこどもっぽく大げさに手を振った。
レジカウンターを通り過ぎると、石井さんが入り口の手前で待っていた。
よくよく考えてみれば外は雨だし、店内のほうが涼しくて快適に違いない。石井さんの判断はおかしくない。
しかしながら、当然のごとく外に出ているものだという認識でいた俺にとっては不意打ちでしかなかった。
彼女の立ち位置からレジは見えないし、多少距離もある。会話の内容までは聞こえなかっただろうが、優梨と話したことでまたきげんを損ねてはいないかと冷や冷やした。
振り向いて俺を見つけた石井さんがにっこり笑いかけてくれただけで、安堵のため息が漏れそうになる。同時にずっしりとした疲労感がのしかかってきた。
ただ昼飯を食うだけでどうしてこんなにつかれないといけないんだろう。
重い扉を開けると、湿気を含んだ外の熱気と中の冷気が一時的に混ざり合った。
朝から降りつづいていた雨はすでに止んでおり、頭上にはどんよりとした曇り空が見える。
「どうしたの、顔色悪いよ」
後から店を出てきた石井さんが心配そうに俺を見上げる。
こんな心臓に悪い現場にいたらそりゃあ顔色だって悪くなる、とは言えない。
「冷たいもの飲み過ぎたのかも」
「大丈夫? お店の中ちょっと寒いくらいだったよね」
財布を開きながらランチ代を尋ねてきたので、材料費や現物支給的な意味ではいままでさんざんもらっているからと断る。すると、彼女はしばし迷うそぶりを見せてから「ごちそうさまです」と丁寧に頭を下げた。
帰り道も徒歩に決まった。
雨上がりの歩道にコツコツとヒールの音を響かせる少女は、打ち合わせどおり白いショートパンツをはいている。自宅を訪ねた日のレースパンツよりも丈が短い。
横を歩いていると露出した太ももが視界の端にちらつき、ついつい目がいってしまう。
滑らかでやわらかそうな生足を起点に、決して本人には言えない妄想にふけっていたら、俺の脳内などなにも知らない彼女とばっちり目が合ってしまった。
「なに?」
「いや……今日蒸し暑いね」
「ね。混んでるしね」
繁華街は平日のわりに人出が多い。
ああそうか、こどもたちが夏休みに入ったのか、と混雑の原因を突き止めたあたりで谷村から電話が入った。
ほうっておくつもりが、石井さんにどうぞどうぞと勧められてしかたなく応答する。
「ただいま電話に出られません」
「じゃあ出るな。さっき送ったやつ見たか」
「見たよ。海のだろ?」
「街コン」
「ああ、街コンね」
「伊藤が知り合いの会社と合同で主催するそうだ。来週の土曜、夜は空けとけって」
「ちょっと待て、伊藤が主催? 怪しすぎるだろそれ。俺はパス」
「海までタダ乗りをもくろむやつに拒否権はないらしい。ちなみにおまえの役目は客ではなくスタッフな」
「スタッフ!?」
詳しくは主催者に直接聞け、と言い残して電話は切れた。
なんなんだ?
沈黙したディスプレイにしかめ面を映す俺に、石井さんの厳しい視線が突き刺さる。
「街コンに行くの?」
「まさか!」
行くわけがないと全力で否定したが、石井さんは複雑な面持ちで向かいの建物をながめた。
それからふいに目線を上げる。
「嶋本さんの予定が埋まらないうちに、先に予約しておこうかな」
「なにを?」
「来月の七日って時間ある?」
「教習所と図書館以外は予定ないけど」
「あのね、その日の夜にもらった七夕飾りを外そうと思うの。もしよかったら嶋本さんに取り外してもらいたいんだけど、だめかな。私ひとりだと届かないものもあるから」
だめだったら椅子に乗って取るんだけど、と恥ずかしそうにつけ足す。
七夕飾りが俺を自宅に招くための口実であることを隠す気はないらしい。
夜出かけるとなると家族向けにそれらしい理由をでっちあげなければならないし、詰めが甘いとまた妹に突っこまれる。
考えるだけで面倒だった。
だが、石井さん案件は最優先事項だと決めたのだから、断るという選択肢はなしだ。
「わかった。七日の夜はももちゃん家に行くよ」
分身の術でも使えたら楽だろうな、と思いながら、用済みの傘を片手に濡れたアスファルトの上を歩いた。




