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二十 お詫びのしるし

 正午過ぎに石井さんが顔を出し、三人で図書館のラウンジに移動した。

 テーブルを囲うように置かれたシングルソファにそれぞれ腰かけて昼休憩を取る。


 石井さんから差し入れられたお好み焼き(諸事情により既製品)と透花から押しつけられたからあげ(透花母お手製)はすでに食べ尽くしてしまったが、石井さんとはまだたいした会話もできずにいた。

 というのも透花がさっきからずっと石井さんを独占しているせいだ。

 彼女らは傍目に見れば仲の良い姉妹のように和気藹々と、会えなかった期間のできごとを報告しあっている。


 目のぱっちりとした顔立ちといい、エンジェルリングの光る長い黒髪といい、惜しげもなく太ももをさらした涼しげな服装といい、どことなく似通ったふたりを見ていると、一人の少女の成長前と成長後を同時に見比べているような気にもなる。

 はじめて会ったときの透花は髪をまとめていてもっとボーイッシュな格好をしていた記憶があるが、いつのまにか私服のメインがワンピースやスカートにシフトしている。

 たぶん石井さんの格好をまねしているのだろう。実姉よりもやさしくてかわいいからという理由で、透花はたまに図書館で顔を合わせる石井さんになついていた。


「透花ちゃんはもうすぐ夏休みでしょう、楽しみだね」

「うん、ももちゃんは夏休みどっか行く?」

「うーん、今年は夏休みっていうほどまとまった休みが取れるかわからないから、とくになにも考えてないんだけど」


 ちらっと俺のほうに視線を寄越してから「一回くらいは海に行きたいな」と彼女は言った。


「あたしも海行くよー! 新しい水着も買ったし」

「いいなあ、どんなの?」

「んーとね、これこれ」


 水着が映っているらしい携帯の画面をのぞきこんだ石井さんは「かわいいね」と顔をほころばせる。


「私も買おうかな」


 ふたたびチラ見してくる石井さん。

 無言の連続アピールにどういう反応を返すべきか困っていると、その視線をさえぎるように透花が身を乗り出した。


「ねーももちゃん、最近シマさんとデートしてる?」

「えっ……そういうのはあんまり」

「しないの? ときどきここで会うだけ?」


 そうだね、と石井さんが愛想笑いでごまかす。

 その様子を見た透花が向かいに座る俺の足をつまさきでつついてきた。


「ふたりでいっしょに海行ったらいいじゃん」

「んな大っぴらに遊べる立場じゃないんだよ俺は。受験生なの、何度も言ってるけど」

「うちのお姉ちゃんも受験あるけど海は行くって言ってたよ」

「おまえの姉ちゃんは優秀なんだろ? あと高校受験と大学受験をいっしょにすんなよ。俺だって高校受験んときはちょっとがんばってちょっと有名な男子高行ったんだからな」

「でも落ちこぼれだったんでしょー」

「落ちこぼれって言うな。あのころはなんか知らんけど制服着てるだけでモテまくった俺の全盛期なんだぞ」


 教師陣や同級生連中から、いったいどうやって受験を突破したんだ、どう考えても採点ミスだなんだと三年間言われつづけたのは事実だが。

 人生にまぐれはつきものである。

 大学だって何度か挑戦していればそのうちまぐれで受かることもあるかもしれない。だから模試の結果が悪かろうが、無謀すぎるとそしられようが、第一志望を堀川たちの大学から変更するつもりはない。

 自宅から徒歩圏内という魅力的な物件をそう易々とあきらめるわけにはいかないのだ。


 だが、いくら運任せの受験でも、親からはつぎに落ちたら自活しろとのお達しが出ているため今年は勉強を放棄できない。

 しかも一昨日からの所業によって、我が家における俺の株は暴落の一途をたどっている。ベッドをマッサージ機にすり替えられないよう、これまで以上に勉強に専念する姿勢を見せなければならないだろう。

 となれば当然海行きも控えるべきだ。肌の色からしてごまかしも効かなくなるし。


 海デートをしろとしつこい透花に詳細をはしょって海に行けない事情を告げると、「だめだよー、ちゃんとデートしてあげないと、ももちゃんは仕事のできる超イケメンのほうを好きになっちゃうよ」と冷ややかな目を向けてきた。

 にこにこしながら俺たちのやりとりを見守っていた石井さんが急に血相を変え「なに言ってるの!?」とうろたえはじめる。


 仕事のできる超イケメン?

 なにそれ、そんな話聞いてないぞ的な俺の微妙な眉の動きを敏感に読み取ったのか、石井さんは慌てたようにぶんぶんと両手を振った。


「違うの、まえに透花ちゃんがバイト先にだれかかっこいい人いるって聞いてきたから一例として上げただけで、その人は社員さんだからバイト中は基本的に接点もないし、私はべつになんとも!」

「あはは、ももちゃん焦ってるー」

「透花ちゃんがおかしなこと言うから!」


 にやにやする透花の横で石井さんがやや取り乱している。

 見慣れない光景だった。


「あっそうだ、嶋本さんも同じバイトしましょうよ、そしたら私がいかに嶋本さんしか目に入っていないかわかると思うし、いま人手も足りてなくて週一でもいいのでぜひっ」


 なにやら石井さんが錯乱しはじめた。

 ついさっき俺は勉強に専念しないといけないと言ったばかりなのに。

 いや、家庭の事情にはうちの親は息子の労働を止めはしないだろう。というか日ごろからバイトをしろと言われている。が、俺としては目的もないのに労力を使いたくはなかった。


「悪いけどバイトはちょっと」


 断ると石井さんはしゅんとして肩を落とした。

 誤解されたと思っているのかもしれない。だが、俺は別段彼女の気持ちを疑っているわけではないし、後ろめたいことがあるとすればそれは俺のほうだ。

 優梨は黙っていればいいと言ったけれど、事前に石井さんに明言している以上、俺には優梨との再会をなかったことにするという選択はできなかった。

 さらにあの半日間の子細を伏せ、実は昨夜会ってきたんだと結果だけを知らせるという選択もやはりできなかった。


 石井さんがどう思っているかはわからないが、俺がとことん雰囲気に流されやすく、なにごとにも確固たる芯を持てない浅はかな人間であることをいまここで隠そうとしたって、どうせこのさきろくなことにならないだろう。

 困り顔をもてあましている石井さんをなだめつつ、俺は昨晩の一件を白状する決意を固め、透花に席を外させようとした。


「午後も勉強するならさきに学習室戻ってろ。俺はももちゃんと話があるから」


 しかし、透花はがんとしてソファから立ち上がろうとしない。

 じゃまはしないからまだここにいたいとしおらしく懇願されては、むりやり追い払うわけにもいかなかった。


 ふだんおしゃべりな口を殊勝にも固く閉ざした透花を、これはただの置きものだと思いこむようにして、昨夜優梨と会ったこと、そして今朝までのあいだになにがあったかを石井さんに向けて大まかに話した。

 石井さんはあいづちもそこそこに終始聞き役に徹していたが、その表情は徐々に硬くなっていき、俺があらかた話し終えるころには無表情に近いものに変わってしまっていた。

 彼女は色の抜け落ちた花弁のような顔をほとんど動かさず、抑揚のない声を発した。優梨と会うと聞いた時点でそういう展開も想定はしていたと。


「えっと、よかったですね……その、朝までいっしょだったってことは、話し合いの結果、嶋本さんは元カノさんを許すことができて、元カノさんのほうも嶋本さんに対してまだ気持ちが残ってたってことなんでしょう」


 すると、俺が答えるまえに、それまでおとなしく置きものと化していた透花が口をはさんだ。


「それってももちゃんにとってはよくないよね、ぜんぜん」

「あ、うん、そうだね……よくはないね。でもよかったって思ったのもうそじゃなくて……」


 石井さんは自分でもなにを言っているのかわからないらしく、うつろな目つきのまま困ったように首を傾げている。


「あの、元カノさんと、優梨さんとまた会うんですか」

「いや、たぶんもう会わないよ」

「納得のいくお別れができたと?」

「うん、まあ、だいたい」

「じゃあ未練はなくなったんですか」

「そうだね」

「私にはお互いにまだ好きなのに離れるというのがよくわからないです。優梨さんの置かれていた状況が変わって、二人のあいだにあった問題も解決したんでしょう、やり直そうと思えばできると思うんですけど」

「向こうは状況が変わったからこそ自由に生きたいんだと思うよ。好ききらいの問題じゃなくて、もう俺を必要としてないんだ」

「必要ないなら昨日はどうして呼び出したんですか」

「数時間だけ話し相手がほしかったとか?」

「そんなの友達でいいじゃないですか」

「友達とじゃできないことをしたかったんじゃない」

「そういうものなんですか。やっぱり私にはよくわからないです」


 石井さんは俺から視線を外し「私はこれからどうすれば?」と弱り果てた声で尋ねた。

 難しい質問だった。

 その答えを出すのは俺の役目ではない気がしたが、質問を受けた手前なにかしら回答を用意しなければならず、悩んだ挙げ句、できればいままでどおりにしてほしいと答えた。


「いままでどおり……」


 ふと遠くを見やった彼女はやがて「いままでどおりがいいんですね」とつぶやいた。

 いつのまにか言葉づかいがもとに戻っている。

 他人行儀な口調で淡々と言葉をつむぐ彼女を目にして、ついに見限られてしまったと思った。

 けれど、今回の件は俺の身から出たさびであり、しかたのないことだった。

 もともと石井さんが俺一人にこだわりつづける必要なんてどこにもなかったのだ。カノジョ見習い宣言を取り下げようが、仕事のできる超イケメンに乗り換えようが、俺にはいっさいその行為に口出しする権利はない。


 自分自身の不実さに関しては前もって脳内反省会を済ませていたこともあり、石井さんの冷めた態度を受け入れる覚悟はある程度できあがっていた。

 そりゃあ当然こうなるよなあ、と諦念のようなものが胸中に広がりはじめる。

 石井さんがそれはむりだと否定の言葉を口にするのを待っていたとき、とん、と透花が握りこぶしをテーブルの上に振り下ろした。


「シマさん、ごめんなさいは?」

「は?」

「はやく謝らなきゃ、傷つけたんだから」


 傷つけた?

 透花にうながされ、改めて心ここにあらずという様子で押し黙っている石井さんを見た。

 傷ついている?

 俺に呆れて見切りをつけたのではなく?


 再度小さなてのひらが、ぱん、と天板を打つ。

 乾いた音に背中を押され、俺は反射的に「ごめん」と謝った。


「いえ、謝られるようなことは……私は正式な彼女ではないので」


 石井さんが恐縮したように身をすぼめると、透花は「はやくつきあっちゃえばいいのに」と眉をしかめ、やたら偉そうに腕を組んだ。


「つぎ! もうしません、は?」

「さっきからなんなんだおまえ」

「素直に言えないってことはまたこっそり浮気する気なんだ」

「なわけあるか! てか浮気じゃねーよ厳密には」

「じゃあゲンミツには浮気じゃないからって、またももちゃんを悲しませるようなことしようと思ってるんだ。思ってないならもうしませんって言えるよね」

「……すいませんもうしません」


 石井さんはうつむき加減に「いえ、私こそうっとうしいこと言ってすみません」と頭を下げた。


「はいつぎー、お詫びに海行こう、は?」

「あのなあ、おまえすこしは状況を考えて」


 俺の耳打ちをかき消すように透花はわざとらしく声を大にして言う。


「お、わ、び! 悪いことしたんでしょ! ももちゃんは海に行きたいの!」

「……えーと、行く? 海」


 生意気な小学生の妙なテンションのおかげなのか、いくらか表情をやわらげた石井さんが静かにうなずく。

 断られなかったことに驚いていると、新たな注文が追加された。


「ついでにバイトもね」

「バイト?」

「ももちゃん傷つけといて、海だけで許されると思う?」


 偉そうに腕組みをした小学生が偉そうにあごを上げる。

 バイトは間違ってもなにかのついでにするものではないが、なんだかもういちいち反論する気にもなれなかった。


「ねーももちゃん、いっしょにバイトしたいんだよねっ」

「え!?」

「したくない?」

「ううん……したいけど」

「ほらー」

「……」

「なんで黙ってるの。ももちゃんといっしょはいやなの?」

「……休館日だけでもいいなら……」


 ほんとですか、と石井さんがとまどいがちに俺を見た。

 じゃましないと言っておきながら率先してしゃしゃり出てきた透花は「やったね!」と彼女に笑いかけた。つられたように石井さんも目を細める。

 笑ってくれたからよかったものの、なんで俺は小学生の言いなりになってるんだろう。


 それからしばし透花とガールズトークを繰り広げ、ほぼいつもの調子を取り戻した石井さんは、バイトの件はまた今度連絡すると告げて笑顔で帰っていった。

 この期におよんで彼女はいままでどおり俺に接してくれるつもりらしい。

 俺のなにがそんなに気に入ったのだろうという懐疑や、ゆるぎない思いに対するはがゆさ、それに見合うだけの感情が自分の中で育つまであとどれくらいかかるだろうかという不安、それらが急速にふくれあがり、気がつくとのどがからからに乾いていた。


「シマさんっていつかバチが当たりそう」


 時折振り返る石井さんに大きく手を振っていた透花が、ふいにぼそっとこぼした。

 なにか言い返そうとしたけれどとっさに言い返せない。


「将来はだれからも相手にされないかわいそーなおじさんになってたりして」

「おい、ふつうにありえそうだからやめろ」


 悲壮感ただよう未来を想像してしまい、ぞっとしてウォーターサーバーの水を一気飲みする。


「つうかおまえちょくちょく俺をおとしめてるけどさ、まさかこないださんっざん算数教えてやった恩を忘れたんじゃないだろな」

「忘れてないよー」


 テストの点も良かったし、と無邪気に白い歯を見せる。


「じゃあねえ、恩返しにねえ、もし十年後にシマさんがももちゃんに振られてさみしい思いしてたら、あたしが相手になってあげてもいーよ」

「はあ? 十年後っておまえいくつだよ」


 ハタチー、と透花がブイサインをつくる。

 なるほど、三十一と二十か。


「誕生日二月だから、夏はまだ十九歳かなっ」

「へえ、意外と悪くないかもな」

「でしょー」

「……いや待て、うかつに乗った俺が悪かった。頼むからそこはつっこんで」

「つっこむって年の差?」

「そう」


 わかった、と応えた透花は突如ソファから離れると、なにを思ったのか「このロリコンがあっ!」と容赦なくすねを蹴り飛ばしてきた。

 蹴られた箇所よりも周囲から浴びせられた視線のほうが確実に痛かった。

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