二 昼のベンチ
「ひとつ聞いてもいいですか」
「うん?」
「前髪、じゃまじゃないですか」
昼休み。おなじみの図書館の、おなじみのベンチにて。
珍しく長つづきしているというバイトでのできごとをひとしきり話し終えたあと、石井さんはにわかにそんなことを尋ねてきた。
今日はいつにも増して熱い視線を感じる気がしたが、原因は髪にあったらしい。
前髪か。たしかにじゃまだ。
家の中では視界をクリアにするべく妹のヘアピンを無断拝借するのが日常化している程度にはじゃまだ。
面倒で先送りにしていたが、そろそろ髪を切りに行かなければならない。そう伝えると、隣に座る石井さんはうれしそうに両手をチョキの形にした。
「私でよければ切りましょうか」
「切ったことあるの、髪」
「中学のときに一回だけ、自分の前髪を切ったことがあります。大失敗して一週間学校休みましたけど」
「そう、じゃあ気持ちだけもらっとくよ」
バイトの失敗談や手料理から判断するに、彼女はお世辞にも器用とはいえない。こだわるべき点を取り違えているというか、果てしなくおおざっぱというか。
俺だって人のことを言えないくらい不器用だが、たぶん彼女に任せるくらいなら自分で切ったほうがましだろう。もちろん、こんなところでむだにチャレンジ精神を発揮するつもりはないけども。
「でもサロンに行くとお金かかりますよね」
両手をチョキチョキ動かしながら、もっともな問題点を石井さんが口にした。
初めて会話をした日から二か月あまり。
俺の慢性的な金欠っぷりは彼女もよく理解してくれたようで、こうしてたびたび気遣ってくれる。
ありがたいけど限りある資源は大切にしたい。とくにフロント部分は人目につきやすいのでおろそかにしたくない。
でもどうしても切らせてくれと頼まれたら断る自信がないので、先に彼女を納得させられるであろう切り札を出しておく。
「大丈夫。駅前の美容室で働いてる知り合いがいて、髪はいつもタダで切ってもらえるんだ。閉店後になるけど」
俺のように根っからの面倒くさがりな貧乏人でも、最低限の身だしなみを整えられる方法がある。
ずばりコネだ。
練習熱心なヘアスタイリストの先輩や、アパレル系ショップに勤める服好きな従兄なんかが身近にいると、ファッション面で財布の中身を減らさずに済むのである。
先輩に予定を尋ねるインスタントメッセージを送っていると、石井さんが両手チョキの姿勢のまま首を傾げた。
「知り合いって女性の方ですか」
「そう、小中の先輩。家が近所で小さいころから仲良いいんだよ」
「カット中は、その方と夜のお店で二人きり……になるんですね」
チョキと石井さんが見る間にしおれていく。
なにやら疑われているらしい。
夜のお店で二人きり、と聞くとなんとなくいかがわしい雰囲気はある。
だが実際はほかのスタッフが残っている場合もあるし、そうでなくとも先輩とはなにもない。
「髪切ってもらうだけだから」
「ですよねへんなこと言ってごめんなさい」
と言いつつ依然として石井さんは枯れている。目はどこかうつろだし頭も斜めに傾きっぱなしだ。
自称面食いの彼女には、どういうわけか俺が無類のイケメンに見えているらしく、三浪だろうが金欠だろうが労働意欲絶無だろうがおかまいなしに好意を示してくる。
当初は、彼女が俺に対して抱いている幻想が崩れるのも時間の問題だと半ば高をくくっていた。俺の本質を知れば考えも改まるだろうと。
しかし、季節が変わっても彼女は相変わらずだった。週に一度ほど、バイトのない日に自作ランチを持って昼時の図書館に姿を現す。
先月だったか、「俺にこだわらなくても、俺より中身も外見もいい男なんてそのへんにたくさん歩いてるよ」と言ってみたことがある。
すると石井さんは、「白いカーディガンがほしいと思っている人に、違う色のジャケットをすすめたって意味ないですよ」とわかるようなわからないようなたとえを返してきた。
「はじめは色や形に惹かれて手に取るんですけど、試着してみると思っていた以上に着心地や肌触りがよくて、ますます気に入ってしまって買いたくなるんです。どうしてそれを買いたいのって聞かれたら、白いカーディガンがほしかったからって答えますけど。わかりますか」
俺は正直に「わかるようでわからない」と答えた。石井さんは困ったように笑っていた。
それでも、告白と同時に謎の「見習い」宣言をされてから、極力彼女を恋愛対象として見るよう意識はしてきた。
こんなどこぞのアイドルと見紛うような美少女に言い寄られたら、だれだってスムーズに恋愛モードに突入しそうなものだ。が、俺はどうもスイッチを切り替えられないでいる。
のどに突き刺ささって容易に取れない魚の小骨のように、ずっとなにかが心の奥底に引っかかっている。
俺が図書館通いを日課にしている受験生で、いま恋愛にうつつを抜かしていたら家を追い出されかねないから。
石井さんが妹よりも年下の女の子で、恋人同士になっても堂々と手を出しづらいから。
自分なりに理由を考えてみても浮かんでくるのはこの程度。気持ちにブレーキをかける要素ではあるが、どちらかというと逃げ口上に近い気がした。
もし俺の本質がそんな自制心と理性に基づいたものならば、いまごろは図書館ではなく大学に通っているはずだ。学力面は高い棚にでも上げとくとして。
「もっと早い時間だったらね、一緒に来るって誘えたんだけど」
何気なく漏らした言葉に石井さんが顔を輝かせた。
「えっ行ってもいいなら行きたいです」
「いやだから夜遅くなるんだって。家の人心配するよ」
「平気です。バイトが長引く日は帰宅が十時をまわることもよくありますし。だいたいの時間を伝えておけば親もうるさく言わないので」
なだめようとして言っただけなのに、真に受けた石井さんは本格的についてくる気になっていた。
いくら本人が平気だと言っても、首を縦に振れない問題はある。
学生の肩書きはなくとも彼女は年齢的には高校生だし、深夜に連れ出すのはよろしくないだろう。
どうすべきかと迷っていると、先輩から返信が届いた。
『隆宏のほうからカットの催促してくるなんて珍しいね。そろそろ連絡しようかと思ってたところなんだ。ちょうど今夜空いてるから十時頃でも良ければおいで』
即レスとは珍しい。
先輩はなにかと多忙な人なので、たまに用があって電話をしても毎度気長にコールバックを待つはめになる。いまはタイミング良く昼休憩中だったようだ。
機を逃さぬようすかさず予約確保のメッセージを送る。
よし、これで夜には視界が開けるぞ。勝手にヘアピンを借りたのがばれて妹から小言を言われることもなくなるんだ。
気が楽になり、すこし長めに息を吐いた。
「いつ行くんですか」
つかの間の安息のときを押しのけ、石井さんが黒目がちな瞳でじっと見つめてくる。
ぱっちりとした丸い目を縁取るまつ毛は長くてふさふさしている。
日焼けと無縁な白い顔には、透明なペンででかでかと『行きたい』と書かれていた。
「今夜切ってもらえるっぽい」
「ほんとですか! 私も今日の夜、空いてます」
期待のこめられた眼差し。
この目は少々邪険にしづらい。
その前に、頬を染めて至近距離で夜空いてますとか言われると、いかがわしい妄想をかき立てられるからやめてほしい。
彼女のことはかわいいと思う。触れたいとも思う。
好きかきらいかと問われたら、好きだと答える。
でもそれが純粋な恋愛感情かと問われたら、違うと答えるしかない。
彼女が向けてくるのと同じだけの情熱を彼女に返せる自信がまったくない。感情が釣り合わない。
だからなるべく彼女を傷つけないよう、つかず離れずの距離を保ちたいと思っている、のだが。
「あの、行ってもいいですか」
遠慮がちな上目遣いで遠慮なく攻めてくる。
行ってもいいかって、どっちかといえばよくないんだろうけど、やっぱり邪険にしづらい。
つぶらな瞳で見つめられたらまず断れない。
なんせノーと言えない人間だから。
「……家の人がいいって言ったらね」
「いまメールで母に聞いたらOKが出ました」
「はやっ。いつのまに聞いたの」
「嶋本さんが携帯見てるときです」
石井さんがにっこりと笑う。
というわけで結局二人で先輩の店へ行くことになってしまった。
髪を切りに行くだけでも面倒なのに、その前後に石井さんの送迎までしなくてはならない。
常時省エネ志向かつ車のない俺には酷だ。
以後失言には充分に気をつけよう。
そもそも、なぜ人の髪は伸びるのだろうか。
あればあったで手がかかるし、なくなればなくなったで心が傷むし厄介な存在だ。
だれか毛髪伸長抑制剤とか開発してくれないだろうか。リーズナブルなお値段なら買うよ。