十八 ふたつの傷跡
眠ろうとしても眠れない。
ダブルベッドで独り寝というのは窮屈さを感じない反面寂しいものがある。
ヒツジやヤギを数えるのにも飽きてきたころ、ぱたぱたとスリッパの音が聞こえてきた。
水が飲みたいのだろう。たしか俺の枕元にペットボトルが置かれているはずだ。
案の定、間近で音が止んだ。
「ヒロくん」
湯気が立ちのぼりそうな声だった。
サウナ上がりの艶っぽい姿が思い浮かび、意識は一段と眠りから遠のく。
「隆宏……寝ちゃった?」
「起きてる」
「隣で寝てもいい?」
「来たら襲うけどそれでもいいなら」
間髪入れず優梨が滑りこんでくる。
身体にはまだ熱が残っていた。
頬を上気させた彼女と言葉もなく視線をからめ合う。
優梨がふたたび同じベッドにいるのはおかしな感覚だった。
夢ではありえない体温がすぐそばにあって、呼吸のタイミングがわからなくなる。
部屋を暗くして口づけると、熱い手が背中に伸びてきた。
「身体冷たいよ?」
「逆。あんたが熱すぎるんだって」
「ん、暑い。水ほしー」
ベッドヘッドに置いてあったペットボトルを渡すと、彼女は布団をはいで上半身を起こし、のどを鳴らして水を飲んだ。
なめらかに上下するのどもとを見つめながら、その下にあるバスローブのひもを解く。
水分補給を終えた優梨は一糸まとわぬ姿でシーツの上に横たわった。
唯一下腹部の手術跡だけは手のひらでしっかりと隠していた。
「生々しいから見ないほうがいいかも」
そう言われるとかえって見たくなるものだ。
「あっ」
手をどけると盛り上がりのないミミズ腫れのような手術跡が現れた。長さは十センチ弱で、視界が悪いせいか生々しいというほどでもない。
「気持ち悪い?」
「いや。時間が経って肌の色と同化したらかなり目立たなくなりそう」
「だといいけど」
「痛みは?」
「傷自体の痛みはないよ。テーピングの期間も終わって……あっこら、だめ、触るのは禁止。自分でも怖くて直接はあんまり触れないんだから。なんかぞわぞわして」
そう言われるとかえって触れたくなるものだ。
さきほど勝手に触ろうとした手を優梨につかまれてしまったので、舌先で跡をなぞる。と、優梨は押し殺したような声を漏らしてわずかに身をよじった。
ひょっとして新たな性感帯の発見か!? と興奮しつつ調子にのって何度か繰り返していたら、ぱこんと弱々しく頭をはたかれた。
「もうっ……だめって言ってるのにっ」
潤んだ目で訴えてくる。
けっこうかわいいとこもあるんだな。
と思ったのはそこまでで、その後の優梨は艶美なお姉さんに豹変なさった。
それはそれで悪くはないんだけども。
「思ったんだけどさ」
「なに」
「あんたあきらかに言ってることとやってることが違うよな」
「まあ……うん……ね、そういう日もあるよ」
眠たげな舌っ足らずな声で言う。
「もとから俺とももちゃんを応援する気なんてなかったろ」
「あーももちゃんていうんだ……応援する気はあるんだよ、これでも。二人がつきあってるならがまんしただろうけど……わたしだって一回くらいヒロくんとこういうデートをしてみたかったんだ」
優梨は暖を取るかのように俺の身体へと手足をからみつかせ、すこしも離れようとしない。
なんにもしないとか言ってたあれはなんだったんだ。空耳? 幻聴?
気まぐれなネコは甘えモードに入っていて、やわらかい唇を俺の肩や首に押しつけながらしゃべる。しあわせそうに頬をゆるめて。
この顔が真横にあるいまなら、どんなわがままを言われても二つ返事で聞き入れてしまいそうだった。荷づくりを手伝って、だろうと、いっしょに神戸に来て、だろうと。
俺はとんでもなく単純な人間だ。
「いつから車で寝泊まりしてる?」
左腕のあざをなでるとむずがるように身じろぎした。
からんだ手足に力がこもる。
「三日前からかな」
「どこで?」
「家の近くの公園」
「危ないだろ。なにかあったらどうすんだよ」
「そうそうないでしょ。後ろのほうで寝てるから」
危険意識の薄さに呆れつつ、あのメールを送ってきたのが実家を出た後であるという点がすこし気になった。
「引っ越しするまでつづける気?」
「んー、ガソリン代やばいから、明日は帰るつもりだけど。あ、そうだ、携帯充電しとかないと」
優梨はふいに起き上がってバッグの中をあさりはじめた。なかなか見つからないらしく、バッグの中身がソファの上に積み上げられていく。
「あれー、どこいったんだろ。ごめん、ちょっとわたしの携帯鳴らしてくれる?」
言われるがままに電話をかけてみたが、着信音は鳴らない。
車に置いてきたのかも、と優梨は残念そうにうなだれた。
「二人で写メも撮りたかったのに。デジカメは持ってないんだよね」
「写真きらいなんじゃなかったっけ」
「きらいだけど、一枚もないのはやっぱ寂しいって気づいた」
持っていた携帯を差し出すと優梨は「撮って」と笑顔でベッドに戻ってきた。
撮影した画像を優梨の携帯に送信するあいだ、隣から強い視線を感じた。
送信ボタンを押して視線の主を見やる。
ありがとう、と触れるだけのキスが返ってくる。彼女はさらになにか言いたそうに唇を動かしたけれど、なにも言わずにすり寄ってきた。
「なに?」
「なんでもない。お腹空かない?」
「空いた」
なんか頼もうよ、と優梨はルームサービスのメニューをベッドの上に広げた。
その夜は俺も彼女も本当に言いたいことを言い出せないまま、代わりに互いの温もりだけはしっかりと確かめ合って、やがて新しい朝を迎えた。