十七 ためらいの宿泊
このまま適当な場所で車を降り、笑顔でさよならをするつもりだった。
だが、来た道を戻るはずの車は名古屋高速への接続を無視し、東名高速を直進して名神高速に入った。このままひた走れば数時間で兵庫県に着く。
まさか神戸に向かっているわけではないだろうが。
優梨の思考パターンを読めない俺は本日三度目となる質問をした。
「どこ行くんだ?」
「ホテル」
危うく飲んでいたコーラのペットボトルを取り落とすところだった。
薄暗い山間の道はとっくに通り抜け、防護柵の向こうには各種工場や煌々と灯りを点すベッドタウンが広がっている。
「つぎのインターにたくさんあるでしょ。泊まってこうよ」
「はあ?」
「平気平気、なんにもしないから」
「いやそれ男の台詞だし」
「じゃあ譲る」
「譲る、じゃねえよ。なに言ってんだよ」
「だって帰りたくないんだもん。帰ったら家には家族がいるでしょ。できるだけ顔合わせたくないんだ。わたしがっていうよりは向こうがそういう態度なんだけど」
「ならひとりでビジネスホテルにでも行けよ。なんで俺まで」
「一晩くらいいいでしょ。さっきはやさしかったのになんで急に冷めてるの?」
優梨が恨みがましい目つきでにらんでくる。横目で、なんてかわいらしいものではなく、首をきちっと左に回転させている。
停車中の車内だったら交渉の余地はあったかもしれないが、残念ながら現在この車は高速道路を走行する真っ最中である。追越車線を走る車のメーターは時速百キロを余裕で越えている。
走行車線を走る車との距離が狭まったような気がしてきゅっと心臓が縮み上がった。
「わ、わかった、行くから運転、運転に集中! 横、車いるし!」
前から正体不明の超危険物質が転がってくるかもしれないし!
安全と引き換えに俺は己の自由を売り払った。
いつなんどきも命は惜しい。
そしてますます優梨の考えがわからなくなった。
抱き締めろと言うわりにキスは触れる程度しか許されず、日ごろの心細さから少々甘えているだけなのかと思えばホテルに誘われる。
なんなんだいったい。俺は都合のいいぬいぐるみかなにかか?
「なんにもしない」で一晩二人で過ごせと?
優梨の横顔を一瞥すると口もとに笑みが浮かんでいる。よく聞けば鼻歌も歌っている。
泣いていないだけましかと思ってしまう自分がなんだか情けなかった。
デリヘルで使われそうな安ホテルはいやだとかなんとか言いつつ、優梨は比較的外観の新しそうなホテルを選んだ。
駐車場に車を止めると、後部座席に手を伸ばしてごそごそとなにかを探りはじめる。
やがて彼女は大量にある荷物の中から数枚の服を引っ張り出してきた。
「ええと、こっちがヒロくんの。去年うちに置いてったシャツと下着ね。洗濯してあるけど、中に持ってく?」
「……ああ……うん」
「じゃ、はい」
持って、と二人ぶんの着替えを詰めたトートバッグを渡される。
なんという用意周到さ。
「俺のはわかるけどなんで優梨の服まであるんだよ」
「んー、ここんとこ車で寝泊まりすることが多いから」
衝撃的な発言を残して彼女はフロントへつづく階段を上っていった。
空室案内のタッチパネルには最上階の一室だけが表示されていた。
宿泊料金は俺のこづかい七か月ぶん以上。
ラブホテル街という地価の安い場所で、この目の飛び出るようなぼったくり価格。利率は八割を超えそうだ。
おそらく特別な記念日に奮発して利用するか、金銭的に多少余裕のあるリーマンがちょっと見栄を張って若い姉ちゃんを連れていくような部屋なんだろう。いや、実態は知らんけど、イメージ的に。
「お姉さんここスイートって書いてあ……おいっ」
優梨は躊躇なく宿泊の文字をタッチした。
庶民の敵ともいうべきぼったくり価格をものともせず。ぽんっと軽快に。
「ほかをまわっても、金曜のこの時間に空いてる保証なんてないでしょ」
もっともなご意見を掲げてエレベーターに向かう。
去年の彼女の収入だったら俺も文句は言わないけども。
人にはそれぞれ身の丈に合った金の使いかたというものがある。ちなみに少ない不労所得によって生きている俺には、一晩の安眠に対して代価を支払う余力はない。
「あのさ、俺が言うことじゃないかもしれないけどさ、もっとこう」
「節約しろって? こういうのは今日だけだよ。それに、人の稼ぎを当てにしてるわけじゃないんだからいいじゃない」
無職だと思っていたら、日中は市内の喫茶店ではたらいているらしい。引っ越し資金を貯めるため、喫茶店が休みの日は単発のバイトも入れているそうだ。
彼女の性格上、つねに仕事を詰めこんでおきたいのかもしれないが、車中泊や引っ越しの件も含め、がんばりすぎというか、無謀というか、やけに自分を追い詰めているような印象を受ける。
「他人に頼りたくない気持ちがあるのは理解できるけど、たまにはだれかを当てにするのもアリじゃないの」
がんばるのもほどほどにと言いたかったのだが、優梨からはもしやホテル代を払えるのかという問いが返ってきた。
慌てて「主に精神面の話で」とつけ足して、彼女の視線から逃れるように回数表示灯を見上げる。
もちろん払えるはずがない。割り勘すらむりなレベルだ。
動揺した俺を見て優梨は小さく吹き出した。
最上階のスイートルームには、ツインルームのようにベッドがふたつ並んでいた。
「4P用?」
思わずつぶやくと、優梨が眉間にしわを寄せた。
「それならでっかいベッドをひとつ置いとくほうが効率がいいと思う」
「……うん」
まさか冷静なツッコミが入るとは。
窓際のソファに荷物を置いた優梨は、さっそくバスタブに湯を貯めはじめた。
身体を流してあげようかという申し出を複雑な心境で断る。「なんにもしない」前提でそんなサービスをされたってうれしくもない。ていうかつらい。
衣服を脱いだ優梨が、あれがないこれがないと言いつつ脱衣スペースとソファを下着のみで行き来する姿だって充分目に毒だというのに。
優梨が浴室へこもるととたんにやることがなくなってしまった。
窓際のベッドに寝ころがり、天井に吊り下げられたプロジェクタースクリーンを引き出して洋画を見ることにする。
映画鑑賞、またの名を現実逃避ともいう。
家族や石井さんの存在を忘れているわけではない。けれど、考えると自分のだめな部分が浮き彫りになってしまうため、なるべく思考の外側に放り出そうとしていた。
自ら設けた制約にすらろくに従えないのだから、俺が誠実な真人間を目指そうとしたのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
あるいは俺の人生そのものが間違いなのか。
映画はギャンブル依存症の男が発明品によって一発逆転を図るというストーリーらしい。
おもしろかったら堀川に薦めてやろうと思って見ていたが、たいしておもしろくなかったのでしだいにまぶたが下がってきた。
昼間あれだけ寝ても眠くなるのは、ふだんとは異なる疲労感が睡魔を呼び寄せているせいだ。いわゆる気疲れってやつだろう。
「ね、ね、お風呂の横にプールとミストサウナがあった」
優梨の弾んだ声が近づいてくる。
あとすこしで眠れそうだったのに。
「……よかったね」
「つぎシャワーどうぞ」
シャワー? 面倒だ、このまま寝てしまいたいと思っていると、カチャカチャとベルトを外す音がした。
驚いて目を開ける。
すると、腰回りで優梨の手が忙しなくうごめいていた。
「なにしてんだよ」
「眠そうだから、脱ぐの手伝ってあげる」
そういえば、とふと思い出す。
優梨はシャワーを浴びずにベッドに入ることを好まない。
本人は帰宅するといつも真っ先にシャワーを浴びていたし、酔った俺が床に沈没していると半強制的に服を脱がされて浴室に放りこまれた。
しかし、いまはシラフだ。
「ひとりで脱げますのでおかまいなく」
ところが、優梨は一向に動きを止めず、慣れた手つきでコットンパンツを足から引き抜いた。
「あ、パンツかわいい」
「これは俺の趣味じゃない」
「だれの趣味? 誕生日お祝いしてくれた子?」
ももちゃんはこんなパンツ選ばねえよ……たぶん。
せつない気分で起き上がり、ため息を吐いてチェリーピンクをさらしながらとぼとぼと身を清めるための旅に出る。
風呂が遠い。
だれだよ、たかがラブホにスイートルームなんてつくろうと思ったやつ。むだに広いだけじゃねえか。
汚れと汗を流して浴室を出ると、ちょうどドライサウナから出てきたばかりの優梨と出くわした。
バスローブの襟もとがややはだけている。
しっとりと汗で濡れている素肌に視線が吸い取られた。
優梨もこちらを凝視している。
「パンツ替えちゃうんだ」
「そりゃ替えるよ」
「残念」
かわいかったのに、と口をとがらせ、冷蔵庫から水を取り出す。
暑い暑いと言いながら、ぱたぱたとスリッパを鳴らして後をついてくる。
優梨は半裸の俺にバスローブを着せようとしたり湿った髪を乾かそうとしたりしてきたけれど、すべて断った。
「誕生日お祝いしてくれた子とつきあうの?」
「いずれはそのつもりだったけど」
「けど?」
「まずいまの俺の状況をよーく考えてみてくれ」
「無職三浪?」
「……じゃなくて、元カノとホテルにいる現状だよ」
「なんかまずいの?」
「ちょっと会って話をするだけだって言ってきたんだ。さすがに愛想つかされるんじゃないかと思う」
窓際のベッドにもぐりこむと優梨が同じベッドの縁に腰かけた。
「べつに正直に話す必要なくない?」
「俺はうそがへただし向こうはやたら勘がいいしすぐばれるよ」
「そっかあ……わたしのせいか、ごめんね。でも案外気にしないかもよ? まだつきあってもないんだから」
「さあ、本人に聞かないと」
「一回くらい拒まれても本気で好きならあきらめちゃだめだよ。そこで引いたらその程度かって思われる」
「なんであんたがアドバイザーになってんの」
「だってヒロくんにはしあわせになってもらいたいから」
布団から顔を出すと、おだやかにほほえむ顔があった。
プロジェクタースクリーンはもとどおりきれいに巻き戻されている。
自分だけ満たされたような顔しやがって、とまた布団の中にもぐる。眠気はシャワーのおかげでどこかへ旅立ってしまった。
早めに眠りにつこうとしてもすでに目が冴えてしまっている。
マッサージしようか、と優梨が掛け布団をめくろうとする。
しばし答えに迷っていると、もう一回サウナに入ってくると言って彼女はベッドから離れていった。