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十六 池のほとり

「キスまでは浮気に入らないんだよね」


 優梨は俺の手からペットボトルを奪うと、羽衣香と同じ台詞を口にして顔を近づけてきた。

 表情という表情はなく、ふざけているのか本気なのか判別不可能だ。

 うかつに目をそらせない。

 唇が触れる直前で彼女はぴたりと動きを止めた。

 したければ自分から行動を起こせと言われている気がして満足に呼吸ができなくなる。


「だから、それ俺の基準だって」

「彼女の基準はもっと厳しい?」

「いや知らないし……まだ彼女でもないけど」

「なんだ」


 優梨はすっと身を引き、エンジンをかけっ放しにしたまま車から降りた。寄ってきたりそっぽを向いたり、気まぐれなネコのようだ。

 ひとり取り残された車内で深く息を吸いこみ、思い切り吐き出す。

 愛車を放置したドライバーは、道路を横断して池のほうへと歩きだしていた。

 適温かつ虫刺されの心配もない環境から抜け出すのは惜しかったが、しだいに遠のいていく影が気になってエンジンを切った。


 ドアを開けると、冷えた車内に真夏の夜の空気がどっと流れこんでくる。山というだけあって街中よりもやや気温は低いが、快適な涼しさとは言いがたい。

 優梨が道路脇の柵を軽々と乗り越えるのが見えた。


「足もと気をつけろよ」


 注意してから十秒と経たないうちに、焦ったような叫び声が聞こえてくる。

 急いで様子を見に行くと、柵の下には池のほとりで尻餅をついている優梨の姿があった。

 道路から池の岸まではゆるやかな斜面になっており、斜面の途中には数十センチの段差もある。彼女は段差に気づかず落下したようだった。


「落っこちた、助けて」

「言ったさきからなにしてんだ。大丈夫か?」

「うう……痛い」


 背の低い雑草が生い茂る斜面を下り、さほど高くはない段差を飛び降りる。

 うずくまる優梨の前にまわりこみ、けがの有無を尋ねた。

 負傷者本人による自己診断はかすり傷とかるい打撲らしい。軽傷と知って安堵する。


「大丈夫だから、後ろ座って」

「後ろ?」


 いぶかしみながら指示に従うと、優梨がわずかに後退してきた。俺の両足のあいだに身体をすっぽり収め、上半身を倒して体重を預けてくる。

 甘ったるいローズの香りがした。


「元気そうだな」

「お尻痛い。右足も」

「立てる?」

「うん。けどもうちょっとこのままがいい」


 街路灯のおかげで周囲は比較的明るかったが、三メートルほどさきに広がるため池は外周が十五キロ以上もあり、形もいびつなために全貌を見渡すことは不可能だった。

 すこし離れた岸部には白い貸しボートが並んでいる。

 月の見えない夜空では薄くたなびく雲の合間から星々が顔をのぞかせていた。

 柔らかい栗色の髪が頬に当たる。優梨の背中が密着しているせいですぐにTシャツが汗ばんでしまいそうだった。


「この池、自殺者多いらしいよ」


 心持ち背中を離してから優梨が言った。

 らしいね、とうなずく。


「幽霊とか出たりして」

「会ったらこんばんはーってあいさつしとけ」

「こんばんは」


 短い髪が揺れ、振り向きざまに笑顔を見せる。背後にいるかもしれないなにかに対してではなく、俺自身に向かって。

 上体を捻った優梨の上目づかいは、キャミソールからのぞく谷間との相乗効果で破壊力抜群だった。計算だろうとわかっていても、かわいいものはかわいい。

 過去に甘えてくることの少なかった彼女だからなおさらだ。


「俺は幽霊じゃねえ」

「ほんものですか」

「ほんものですよ」

「ほんものかあ。まだ実感ないな」


 言いながら百八十度向きを変え、両手を首にまわして抱きついてくる。


「急に消えたりしないよね?」

「そんな特殊能力はありません」


 彼女の自然な動きにつられて当たり前のように腰を抱いてしまいそうになり、はっとして思いとどまる。

 車が一台、上の道路を通り過ぎる。無遠慮な走行音に怯えるように、優梨がやわらかな頬を俺の左肩に押しつけてきた。


「うそは一個もつかなかったつもり。だけど言い出せないことはいくつかあった。そのせいで、わたしの勝手なわがままのせいでたくさん傷つけてしまってごめんなさい」


 ゆっくりと穏やかな口調で優梨は言った。


「もう二度と会えないかもしれないって思ってたから、今日来てくれてすごくうれしかった。ありがとう」


 なにか返事をしようと思っても言いたいことがうまくまとまらない。言葉が出てこない。

 独りにしてごめんと伝えたかったけれど、あのときは俺のほうが独りになったのだと思いこんでいたのだから、この場で改めて謝るのもどこか違う気がした。


 俺のためらいを察したかのように、「なにも言わなくていいから」と彼女はつぶやいた。信じてくれるならぎゅってして、と耳もとでささやいてくる。

 香水と同じ甘ったるい声だった。瞬時に思考が麻痺する。

 なんかの罠かな、と頭の片隅で思う。すぐに、罠でもいいか、と思い直す。どうせこれが最後なんだ、と素直に自分の欲求にしたがった。


 人気ひとけのない夜の池畔、ただし自殺の名所、というムードがあるんだかないんだかわからない場所で、しばらく恋人同然の触れ合いがつづいた。

 気を利かせてくれたのか幽霊は姿を見せなかった。思ったほど蚊の存在も気にならなかった。




 かすかに汗をかいた首筋へと唇を寄せたとき、香水によってごまかされていた彼女自身の匂いの変化に気がついた。

 人間の体臭は千差万別でそれぞれ特徴がある。

 俺は特殊な鼻を持っているわけではないけれど、四か月間同じベッドで寝た女性の体臭くらいは覚えている。それがあきらかに前と違っていた。

 変化といってもいやな匂いになったのではなく、レモンがユズに変わった程度の微妙な変化だが。

 妙に気になって直接優梨に問うと、婦人科系疾患で春に手術をしたのだという答えが返ってきた。


「もしかしたらホルモンバランスが前とちょっと変わったのかも」

「ああ、それで……病気のほうは? もうよくなった?」

「うん、経過も順調だし、元気だよ。十二月に入ったころから座るとお腹痛いって言ってたでしょ。あのあたりからどんどん腫瘍が大きくなってたみたい。腫瘍っていっても良性だけど」

「がまんするから悪化したんだろ。俺はやく病院行けって言ったのに」

「ほっといたら治るかなって」

「ほっとくなよ」

「だって病院怖いじゃない?」

「……あなたいくつですか」

「いくつになっても怖いものは怖いんです。まあ、もっとはやく病院行ってても、どっちみち手術はしなきゃいけなかったんだけどね」


 もし優梨がはやい段階で手術を受けていたら、年末にさしかかる前に入院が決まっていたら、俺たちはどうなっていたのだろうか。

 見えない手術跡に気を取られている俺を尻目に、優梨は池の水面へと視線を注いだ。


「そうそう、わたし来月引っ越すんだ」

「引っ越す? って実家から?」


 栗色の後頭部を見つめて首を捻る。


「うん。帰ったはいいけど、やっぱちょっと居づらくて。家族に温かく迎え入れてもらえるようなことはしてこなかったから」


 優梨は地面の雑草をぶちぶちと抜いた。

 現在進行形で帰宅しづらい状況に置かれている身としては、実家に居づらいという気持ちは大いに共感できる。しかし、彼女と俺の感情はきっと同列には並べられないものなのだろう。

 いくら家庭内でお荷物扱いされていても、俺はいますぐ家を出たいとは思わない。


「どこに?」

「神戸」

「神戸?」


 そこは昨秋二人で電車に乗って出かけた場所だった。

 彼女がいつか住んでみたいと言った街でもある。

 そして生まれ育った地と同じく太平洋に面した大きな港のある都市。


「北海道でも沖縄でもないけどねー」


 聞き覚えのあるフレーズを口にして恥ずかしそうに笑う。

 遠くなくてもいいから、すれ違う人々がだれも自分を知らないような街に行きたいという。

 俺がそうだったように彼女にも封印したい過去があるようだった。

 ファミレスで耳にしたフレーズがよみがえる。

 あかりは永久に消滅。


「新神戸までなら新幹線使えば一時間くらいか」

「そんなもんかな。新しく住む家までは、新大阪で在来線に乗り換えたほうがはやいんだけど」

「へえ。ま、帰りたくなったらすぐ帰れる距離だよな」

「そうだけど、行くときはもう帰らないつもりで行くよ」

「一生?」


 冠婚葬祭はその都度考えると優梨は答えた。

 要するに、休日や盆暮れ正月等に気軽に帰ってくる気はないのだろうと解釈する。

 生まれた街を出て行く元恋人へ贈るにふさわしい言葉はぱっと思い浮かばなかった。

 ぷちぷちと草が引き抜かれる音を聞き、つぎにじいちゃんとこの草刈りをするはいつだっけ、とまったく関係のないことを考える。


「……電車乗っても切符は折りたたまないようにな」

「今回は電車乗らないよ。あの車も持ってくから」

「じゃあ高速は使わないように」

「無茶言わないで」


 引っ越し予定日は八月らいげつの八日らしい。

 末広がりでおめでたい感じがするでしょ、と優梨は得意そうに胸をそらした。

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