十五 浮気の基準
優梨の運転する車はファミレスを出てまもなく高速に乗り北を目指しはじめた。
近場で個室のある居酒屋でも探そうという雰囲気ではない。
「どこ行く気?」
「んー、適当に、山のほう」
「山か」
たしかに山なら人も雑音も少なそうだ。
虫は大量にいるだろうが。
ハンドルを握った優梨はごきげんだった。
楽しそうな横顔はいつまで見ていても飽きない気がしたけれど、「顔になんかついてる?」と聞かれるまえに窓外に視線を移した。
「わたし夜の高速って好きなんだ。ひとりで考えごとするのにぴったり」
「考えごとすんのはいいけど、事故には気をつけろよ」
「大丈夫大丈夫。あ、事故じゃないんだけどね、東名走ってるときに下り車線から二メートルくらいの段ボールが吹っ飛んできたことはあったな。右はガードレールだし、左の走行車線には車いるし、後ろも詰まっててとてもブレーキなんてかけれないし、もう前進あるのみだったから覚悟決めて轢いたんだけど、そしたら分解された段ボールの半分が後続車のボンネットにべったり張りついちゃった。なんか悪いことしたなあって思った。あと、名神でフロントガラスに小石みたいな硬いものが激突してきて、ちょうど目線のあたりに蜘蛛の巣状のヒビが入って前が見づらくなったこともあったよ。あれはガラスの修理代高かったな。六万くらい」
「……」
「でも一番怖かったのは、名古屋高速で前から突然一斗缶が転がってきたとき。ぎりぎりでハンドル切って避けたけど壁にぶつかって死ぬかと思った。しかも、ええと、イーなんとか装置?」
「ESC? 横滑り防止装置」
「そうそう、それも作動しちゃった。これぜんぶ今年に入ってからのできごとだよ? 高速乗るとなぜかトラブルが多いんだよね」
高速道路の神様から見放されているらしい彼女に、ドライブをするならせめて下道にするようにと忠告し、流れていく夜景をぼうっと見送る。
カーオーディオは休息中だった。
俺がドライバーならBGMは欠かさない。音のない車内は苦手だ。なんとなく息が詰まりそうな気がする。
エアコンの風音と同居するその妙な静けさを、優梨は終始自らの声で追い払おうとしていた。
「成人式に友達とおそろで派手な袴着るって言ってたでしょ? 先輩から借りるとかって。着た?」
「着たよ。赤と金のやつ」
「見たい! 写真ある?」
「家になら」
「家かあ、残念。見たかったな。あ、そうそう、置きっぱだった荷物持ってきたからあとで下ろしてね」
優梨は延々ととりとめのない話をしつづけた。
一向に本題に入る気配はなかったけれど、雑談が永遠につづきはしないとわかっていたし、都合の良い逃げ場もないのでおとなしくおしゃべりにつきあった。
車が中央自動車道へ入ったあたりで馴染みの着信音が鳴った。
電話の相手を確認してスマホの電源を落とす。
「彼女?」
「妹」
「出ないの」
「いまどこ? なにしてる? 飯は? だいたいこのどれかかぜんぶだから」
「ふうん」
走り出してから約四十分後、周囲を山に囲まれたため池にたどりついたところでようやく車は路肩に止まった。
あたり一帯に人影はなく、街路灯がぽつりぽつりと闇間に光っている。
「はい到着」
「池?」
「ん、どこでもよかったんだけど」
シートベルトは外したものの、車からは降りなかった。
大量の蚊の餌食にはなりたくない。
優梨は温冷庫になっているコンソールボックスからお茶とコーラのペットボトルを取り出し、コーラを俺にくれた。
「ね、まえに、キスまでは浮気じゃないって言ってたよね」
「はい? なんの話?」
「ういちゃんから、どこからが浮気だと思うかって聞かれたときの話」
「ああ……言ったかも。てか聞いてたのか」
「聞いてましたとも。そのあとで顔近づけられてたのもばっちり見てました」
優梨は意味深に口の端を上げる。
バーの常連客の一人に、マイナーバンドの追っかけをしている羽衣香という女の子がいた。
顔が某男性アイドルに似ているからという理由で、俺は彼女からそのアイドルの愛称で呼ばれていた。
よく絡んでくるなと思っていたら、ある日、複雑な面持ちの優梨から「ういちゃん、ヒロくんのこと好きなんだって」と知らされた。
どうやら優梨は彼女から恋愛相談を受けていたらしい。
俺と優梨がつきあっていることは優梨の強い希望でまわりには伏せていた。むろん羽衣香にも。
羽衣香が告白を決意しても、優梨は関係を公にすることを承知しなかった。その結果、俺はしたこともない遠距離恋愛をするはめになった。
カウンターの向こうで爛々と目を光らせている優梨を前にして、俺は「ごめん、遠恋中の彼女がいるから」とうそをついて告白してくれた女の子を振らなくてはならなかった。
断り文句を考えたのは優梨だ。そのときはまだ彼女が俺たちの関係をひた隠しにしたがる意味を知らなかった。
羽衣香からの相談に優梨が心を傷めたり、それが原因で口げんかになったりしたときは、ただただ厄介だと、はやくばらせばいいのにと思っていた。
「なにもなかったよ。見てたならわかってるだろ?」
「うん。わたしもそう。なにもなかった。オーナーと連絡は取ってたけど、業務にかかわる必要最低限の伝達だけだし、それ以上のなにかがあったわけじゃないよ。キスどころか、ヒロくんと知り合ってからは、あの人と店以外の場所で会ったこともないから」
気づけば話は本題に移っていた。
優梨の主張は俺の理想そのものだった。が、彼女がうそをついていないという証拠はない。
口でならなんとでも言えるだろうし、彼女が悲劇のヒロインをきどるタイプの女で、そもそもの元凶が借金をつくった自分自身であることを棚に上げ、自分だけを被害者にしようと画策していないともかぎらない。
鍵は真実か虚偽かよりも俺が彼女を信じられるか否かだ。
信じたいという思いと猜疑の念がせめぎあう。
互いの出方を探る数秒間、俺はまっすぐ優梨の目を見据えていた。
どう疑ってかかっても彼女の表情や声色は虚言を弄する人間のものではないように思えた。俺自身がそう思いたかっただけなのかもしれないが。
優梨はひたむきに俺を見つめ返した。
「はじめに、返済が終わるまで男はつくるなって言われたのね。数か月の辛抱だから心を無にしてやり過ごそうって決めて、オーナーを慕ってるふりをして、なるべく従順な態度を取ってた。言いつけに逆らうつもりもなかった。なのに、なんか一人だけやたらしつこい子が現れて、そこからだよね、調子が狂いはじめたのは」
しつこいってほどじゃないだろ、と反論しかけたが途中で自信がなくなってやめた。昨夜堀川に指摘されたせいもある。
「その人はいつのまにかうちに住みついてて、いつのまにか店の近くでバイトもはじめてて、いつのまにかそばにいるのが当たり前になってたんだ」
まるで俺がストーカーであるかのような言いぐさだった。
強引さがゼロだったとはいわないけども。
「いやならはっきりそう言えばよかったのに」
「ぜんぜんいやじゃなかったよ。なにこの子って思ってから好きになるまでは一瞬だったから」
照れたようにほほえまれると見惚れてしまってなにも言えなくなる。
「いっしょに住むのはよくないっていう危機感はあったし、オーナーのことも話さなきゃって思ってたけど、話したあとヒロくんがどんな反応するか考えたら、軽蔑されてきらわれるかもって思ったら、ここはわたしの部屋じゃないとか、ほんとのこと言う勇気が出せなくて、明日は言おう、明日こそはって先送りにするうちにどんどん時間が過ぎていって、結局最後は心配してたとおりオーナーに見つかっちゃった」
「オーナーには前々から怪しまれてたのか?」
優梨は違うと首を振った。
偵察に来たのではなく訪問は偶然で、オーナーにとっても寝耳に水だったのだろうと。
「あの人があんな言いかたしたのは、相手がヒロくんだったからってのもあると思う。あなたはオーナーよりもかなり年下だし」
「オーナーほど稼ぎもないし、たいした人生経験もまともな社会的地位も肩書きもないし?」
俺の自虐を優梨は苦笑いで受け流した。
「ヒロくんのことも気に入ってたからよけいに頭にきたんじゃないかな。相当プライドが傷ついたんでしょ。だからわたしにも興味をなくしてあっさり解放したのかも。借用書買ったぶんの回収が済んでたからっていうのもあるかもしれないけど、わたしが逃げられたのはきっとヒロくんがいてくれたおかげだと思うよ」
「俺はなにもしてないよ」
泣いている彼女を放置して出ていっただけだ。
なにもできなかったし、なにかをしてやろうという気も起きなかった。
ファミレスで優梨が言ったように、いまだからこそ冷静に彼女の釈明を吟味できるのかもしれない。
もしこれがオーナーと鉢合わせた直後だったら、つまり、親しかったはずの男からわけもわからず一方的に殴りつけられ、頭が真っ白になっている最中にこっぴどく罵倒され、おまけに間男のような扱いを受けた直後だったら、優梨の主張を真っ向から否定していた可能性もある。
破局を避けるため表面上は納得したように振る舞ったとしても、二度と優梨を心から信用することはなかっただろう。
「携帯取り上げられたのも引っくるめて、わたしにとってはあれでよかったような気がする。このままじゃだめだって、自分のやるべきことがはっきりしたから」
傍目に見ればどうしようもない女なのに、ときに彼女はふと別人のような一面を見せる。
俺と同じようにただ惰性で流れに身を任せているのかと思いきや、ここだという場所では川底にしっかりと杭を打ちこんで流れに逆らおうとする。
その緩急の差はある意味魅力的だった。
あきらめがいいように見えて実は正反対なのだ。
はじめて彼女の部屋に上がったときにそう感じた。自業自得だからべつにいいんだと言いつつも、あの部屋には現状への不満が見事に表れていた。
いつこの不満が爆発するのだろうと目が離せなくなった。
「もとからヒロくんとは長つづきしないんだろうなって覚悟はしてた。終わるなら傷が浅いうちにはやく終わっちゃえくらいに思ってた。でもいざそのときがくるとかんたんに手放したくはなくなるんだね。難しいね」
優梨はコンソールボックスの上に身を乗り出した。
ペットボトルをドリンクホルダーにしまおうとした俺の右手に自らの手を重ねる。彼女の手はひんやりとしていて心地よかった。