十四 真実の告白
「ごめん、こっち側の席しか空いてなかった」
「いいよ、どこでも」
優梨は機嫌良さそうに身振りで俺に着席をうながした。
来る途中、六か月半ぶりのあいさつについてあれこれとシミュレーションを重ねてきたというのに、まったくの無意味だったようだ。
なるほど、そうくるか、と腹をすえて席につく。
向こうが友人との待ち合わせ的なスタンスならばこちらも合わせるしかない。
正面に座る優梨は、ロングカーディガンをかるく肩にかけ、紺ラメのキャミソールから出た腕を冷房の風から守っていた。
グラスの中のアイスティーは半分以下まで減っている。
目が合うと彼女はさっとメニューを差し出してきた。
「話って? あ、さきに言っとくけど、経済面での期待はされても困るからな」
メニューを受け取りつつ予防線を張っておく。
優梨は一瞬きょとんとして、それからすぐに相好を崩した。
「そんなの、もとからしてないって」
「……あ、そう」
頼られても困るが、頼りにされていないと知ると、それはそれで情けなく感じるのはなぜだろう。
「そういう話だと思った?」
可笑しそうに優梨は小さな笑い声を漏らす。
ふっと肩の力が抜ける。
なけなしの気勢がかろやかになぎ払われる。
照明を反射して光る薄茶色の瞳を見て、なんだよ、と思う。
なんだよ、ずいぶんと元気そうじゃないか。
「急にあんなふうに連絡してきたら、なんか困ってんのかと思うだろ、ふつうは」
「そっか、困ってると思ったから来てくれたんだ」
なんだろう、このやりとりにイライラする。
きっと腹が減っているせいだ、と手もとのメニューをめくった。
昨日からどうも摂取カロリーが不足しすぎている。一方、睡眠時間は過剰傾向にある。足して二で割ったらちょうどいい具合になるかもしれない。
「ありがとう、来てくれて」
どうせならがっつり食えるものがいい。サーロインステーキがうまそうだ。けど微妙に高いんだよな。
いま財布にいくら入ってたっけ。
このところむだづかいをした記憶はない。たぶん足りるはず。こづかい日まであと半月はあるから、サイドメニューはがまんするとして。
「もうお金の心配はしなくてもよくなったから」
そうか、それはなにより。
ドリンクはどれにしよう。やっぱコーラかな。
「仕事も辞めた」
メニューを閉じて、視線を上げる。
優梨は髪を押さえてアイスティーのストローに口をつけている。下を向いたまつ毛がかすかに震えていた。
「辞めた?」
「うん。あかりは永久に消滅」
「なんで」
このたび自己破産をしまして、と彼女は他聞をはばかるように小声で言った。
「今年のはじめごろから手つづきをはじめて、こないだぜんぶ終わったとこ」
無学な俺でも自己破産が債務整理の一種であることはおぼろげに知っている。
詳細はわからないが、たしか数年間借入れが不可能になるだとか、ある一定の枷をはめられるかわりに既存の借金が帳消しになる制度だ。
「できるなら、もっとはやくにそうしてればよかったんじゃないのか? 俺はてっきりむりな理由でもあるのかと思ってたよ」
つきあっていたころ、借金問題に関し優梨は俺にあきらかな壁をつくっていた。部外者は口を挟むなと言わんばかりに。だが、問題自体が消滅したのであれば、もはや配慮も気遣いも必要ない。
優梨は肩にかけたカーディガンを胸もとにたぐり寄せながら答えた。
「ずっと脅されてたんだ。実家の住所は把握してる、逃げたらどうなるかわかってるなって。借金のことは家族に知られたくなかったし、迷惑もかけたくなかった」
「警察には?」
顔をうつむけ、首を横に振る。
「だって自分のことヤクザだって言うから、怖くて……債務者には警察もたいして親身になってくれないって聞いたし、もし警察に行ったのがばれて家族にいやがらせされたらって思うと……」
身を縮める彼女に寒いのかと尋ねると、寒くはないと返ってくる。
「わたし、世間知らずで頭悪いでしょ。だから何か月もそれ信じてたんだ」
「実は違った?」
悔しそうに唇を引き結んでうなずく。
「ふたを開けてみたらほとんどがうそだった。なんとか会っていう団体の下っ端と顔見知りって程度で、脅してきた本人はただの成金だったし、思い切ってもうぜんぶ辞めるって言ったら、ぜんぜん引き止めもされなくて、好きにしろってかんじで、私いままでなにやってたんだろうなって」
ふたたび優梨は背後にある窓を見た。
この建物は一階部分がコインパーキング、二階部分がファミレスになっており、窓からは高速道路の高架と、日本海付近までつづくという国道が見える。
優梨は国道を走る車のヘッドライトを目で追っているようだった。
「親にも正直にひととおり話をして、いまは実家に戻ってる」
なんと声をかけようか迷い、迷いが長引いて沈黙に変わった。
優梨が自由を取り戻せたことは祝福に値する。
しかし、あの部屋がなくなってしまったことに対しては、よろこぶべきなのか悲しむべきなのか同情すべきなのか判断がつかない。
だれの手も借りず、自ら窮地を脱したはずの彼女は、なぜか時折寂しそうな表情を見せた。
俺は自分がいったいなんのために呼ばれたのかますますわからなくなった。
車の観察に飽きたらしい優梨は、興味の対象をペーパーナプキンに移した。なにかをしていないと落ち着かないというように、白い紙を折ったり開いたりする。
いつだったか、一度だけいっしょに電車で遠出をしたとき、切符を持つと限界まで折りたたみたくなるから困る、と言って自分の切符を俺のポケットに突っこんできたことを思い出した。
「なんかね、すごいばかみたいだよね、わたし」
「みたいっていうか、ばかだよ。俺のまわりにはばかなやつが多いけど、あんたはそんなかでもダントツだな。脅してきたやつの素性調べるくらいすりゃよかったのに」
「だって、そんな心の余裕、なかった。怖いっていう感情しかなかった」
「うん、余裕なかったのは知ってる」
「じゃあがっかりした? つきあってたのがこんなばか女で」
「は? そんなん最初からわかってたよ」
借金を抱えて性風俗店に売り飛ばされた女をだれが賢いと思うだろうか。いや、なかには賢い人もいるのかもしれないが、べつに俺は彼女に賢さを求めていたわけじゃない。
「あらそうですか」
わざとらしくふいっと顔を背けてから、ちらりと横目でこちらを見る。どうかしたのかと目で尋ねると「お腹空いちゃった」といたずらっぽく笑った。
相変わらず、顔立ちも言動も思考も実年齢を大幅に下回っている。
実は五年ほどどこかで冷凍保存されていたのだと打ち明けられても驚かない。むしろ納得する。俺より三つ年上のはずだが、優梨は頼りになるお姉さんにはほど遠かった。
「ごはん頼も。なに食べるか決めた?」
俺の答えを予想しているかのように、聞きながら呼び出しチャイムを押す。
オーダーを受けたウェイトレスが立ち去ると、彼女はなぜシーフードドリアがないのかと眉をしかめた。
「そういえば、結局大学は受けなかったんだ」
「受けたよ。けど昼夜逆転の習慣が抜けなくて、試験中に寝落ちした」
「うわあ、ヒロくんもけっこうばかだね」
「知らなかった?」
「んー、知ってた!」
空腹状況は互いに深刻なレベルにまで達していたようで、食事が運ばれてきてからはどちらも黙々と咀嚼に勤しんだ。
食事中は目の前の料理に専念する、という二人のルールはいまもまだ健在だった。
「誕生日、過ぎちゃったね、どっちも」
「まあね」
食後のコーヒーを飲みつつ、俺は優梨に真の用向きをたしかめる機会をうかがっていた。
再会してから一時間弱、意外なほどふつうに会話は成り立っているが、このままとりとめもなく雑談をつづけてお開き、なんてことはないと思いたい。
たんに自己破産の報告をしたかっただけなら、メールで済ませてほしかった。
「だれかにお祝いしてもらった?」
「一応」
誕生日には図書館のベンチで石井さんからケーキをもらった。手づくりはうまくいかなかったらしく、市販の品を買ってきてくれた。律儀にろうそくつきで。
あれも「お祝い」のうちに入るだろう。
「やっぱそっかあ。服とか趣味がまえと変わってるから、そうなのかなあって思ってた」
優梨はまぶしそうに目を細める。
いくつかの勘違いを正すのが億劫で、あいまいにうなずいておく。
「わたしはついに四捨五入して二十歳でいられる期間が残り一年を切ったよ。あーやだな」
「いやならわざわざ四捨五入とかしなけりゃいいんじゃないですかね」
「そういう問題じゃないんですー」
パスタとコーヒーで身体が温まったのか、優梨はカーディガンを肩から外した。さらされた素肌は冬よりもいくぶん日に焼けている。
彼女は目立って身長が高いわけではないけれども、手足が長くすらりとした体型の持ち主だ。
短くなった髪も、一見活発そうな彼女によく似合っていた。ただし、アクティブなのはあくまで見た目だけであって、中身は存外インドア派なのだが。
ストローの袋をもてあそぶ指の動きにしばし視線を奪われ、やがてふとした拍子に左上腕の異変に気づく。
「それ」
「ん?」
「腕んとこ、どうした」
「ああ、これ? 実家の部屋片づけてたら、本棚の上からでっかい地球儀が降ってきて直撃したんだ。痛々しいでしょ? めっちゃ痛かった」
殴られたわけじゃないよ、と青あざをさすって苦笑する。
ほっとすると同時に、彼女がうそをついているのではないかという不安が鎌首をもたげる。不安に後押しされるように、聞くべきか否か迷っていた疑問が口からこぼれた。
「オーナーは元気?」
「……知らない」
「知らないって」
「知らないものは知らないよ。会ってない」
彼女は素っ気なく答えた。
オーナーの名を出したとたん不機嫌になった態度が引っかかる。
「そういや今日店休んで大丈夫だったのか」
「大丈夫もなにも、さっき辞めたって言ったでしょ」
「え、バーも?」
「そうだよ。もうあの店ではたらく意味もなくなったから」
彼女の発言に、あれ、と内心で首を傾げる。
我ながらかなりまぬけな顔をしていたと思う。
「はたらく意味ってなんだよ。やりたくて店長やってたんだろ?」
「違う。やらされてたんだよ、強制的に。ほんとはいやだった」
初耳だった。
強制労働は風俗店だけだと認識していた俺は、思いがけない台詞にとまどった。
オーナーの説明とも齟齬がある。優梨を信頼している、だから彼女の希望に応じて自分の店を任せている、と彼はかつて俺に語ったのだ。
「どういうこと?」
「ヒロくんはわたしとオーナー、どっちを信じる?」
問う声は力なくかぼそい。
なぜそんな質問をする?
胸中にただようもやもやしたなにかが急激に厚みを増していく。夕立をもたらす積乱雲のような勢いで。
「わたしが本当に逃げたかったのは、あの部屋でも仕事でもなくて、オーナーからだって言ったら信じる?」
いきなりなにを言い出すんだ。
自分の意志でオーナーのもとではたらいていたんだろう?
彼の援助のおかげで理不尽な生活にも耐えることができたんだろう?
オーナーがいたからあの部屋にとどまったんじゃないのか?
いくつもの疑問が泡のごとく浮かんでは消えていった。
意識がただ一点に集中する。俺と優梨の存在だけが、見えない衝立によって周囲の賑々しさから切り離されているようだった。
長い指の先でストローの袋が真っ二つにちぎられる。
冷めた目をして彼女が言った。
「いままで言えなかったけど、わたしはオーナーに脅されてたんだよ。昼も夜もあの人の指示でむりやりはたらかされてた」
オーナーから脅されてた。
優梨が発した音を脳はなかなか正確に処理してくれなかった。
受け入れるまでにはさらに時間が必要だった。
「なんだよそれ、意味わかんねえ」
ペーパーナプキンが手の中でくしゃくしゃになっている。俺の頭の中を抽象的に表現したらこんなふうになるのかもしれない。
優梨はなおもストローの袋を細切れにちぎっていた。
「もっとわかりやすく言うと、わたしはあの人が大きらいだった」
エアコンの微風に吹かれていっせいに紙片が散らばる。
落ちたら拾ってやろうとかまえていたが、さいわいどの紙片もテーブルから飛び降りはしなかった。
「いまさらそれ言う?」
「いまだから言えるんだよ、やっと」
優梨はひとりきりで窓の外を眺めていたときと同じ顔をしていた。
「あの状況でわたしがなにを言っても、ヒロくんにはその場しのぎの言いわけにしか聞こえなかったでしょ? ほんとのことを言っても絶対信じてくれなかったでしょ」
「なんで勝手に決めつけるんだよ。信じるか信じないか決めるのは俺だろ」
「……オーナーが部屋から出て行ったとき、自分がどんな目でわたしを見てたか覚えてる?」
薄茶色の瞳の中でオレンジ色の灯りがちらちらと揺れている。
彼女が泣き出すのではないかと、はらはらしながらその目を見つめた。
「黙ってたのはわたし自身だし、ヒロくんがオーナーの言葉を鵜呑みにするのは当然かもしれない……けど疑われたのはやっぱりショックだった。それに、オーナーがヒロくんになにかするんじゃないかって、怖くてしかたがなかった。だから、まずはなにがあってもぜんぶ清算しないといけないって思った。……そしたらこんなに時間がかかっちゃった」
俺はようやく呼び出されたわけを悟った。
つまり、これはあの日のやり直しなのだと。
長い時間をさかのぼって彼女は俺に弁解しようとしている。
それはあのとき俺が聞きたかった言葉でもある。
「いまあなたがしあわせなら、じゃまをしようなんて思ってないよ。今後勝手に連絡もしない。これで最後にするつもり。だから、今日さよならするまえにもう一回だけ、わたしの話、聞いてくれる?」
もういいよ、終わったことなんだから。
そう告げて帰るのはかんたんだ。が、それでは前回からなにも進歩がない。おそらくここへ来た目的も果たせない。
胸の内を吐き出して彼女が満足するのなら、彼女のためになるのなら、俺はすべてを受け止めるべきなのだろう。
ひとつため息を吐いて首を縦に振る。
ありがとう、と優梨はほほえんだ。かと思えばつぎの瞬間、きびきびと立ち上がって荷物を手に取る。
「ごめん、テーブル越しのこの距離ってなんか落ち着かないから」
場所替えの提案らしい。
ストロー袋の残骸を一箇所にまとめていた俺を見下ろして「移動するの面倒?」と問いかけてくる。優梨はたまにぞっとするほどおとなびた表情をつくる。
伝票はいつのまにか彼女の手にあった。
「いいけど、どこ行くんだよ」
「もっと静かに話ができそうな場所。希望はある?」
振り返らずにレジカウンターへと進む彼女の背を無言で追いかけた。俺はもしかして白昼夢でも見ているんじゃないかと疑いながら。