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十二 秘密の訪問 下

 泣いている石井さんにキスをした。

 驚いて泣き止むのではないかという期待半分、下心半分。

 効果はあったようで、彼女は勢いよく身を引いた。


「え……え!?」

「びっくりするかなと思って」

「……びっくりした、すごく」


 タオルを手に取り目尻の水滴を拭う。

 なぜまた泣いたのかと問うと、「彼女にはなりたいけど、彼女なのに二番はいやだな」とつぶやいた。


「彼女なのに二番? どういうこと?」

「元カノさんが一番で、私が二番」


 どうやら俺は二股を疑われているようだった。

 もちろん、そんなつもりは毛頭ない。同時に二人とつきあえるほどの器用さは持ち合わせていない。

 一人で充分、というか手いっぱいだ。


「彼女ってふつうは一人だけだし、必然的に一番になるもんだよ。二番なんてない」

「そうかな」


 まだ不安そうに眉を寄せている石井さんに、俺は長いあいだなるべく考えないようにしてきたとある後悔と、半日考え抜いてまとめ上げた決意を正直に吐き出した。


 優梨とつきあっているころ、俺はどうにかしてあの部屋から解放してやりたいと思っていた。それが自分の役目であるような気がしていた。彼女と出会った意味をそこに見出していた。

 ところが、最後は泣いている優梨を置いて部屋を出てきてしまった。

 意地や嫉妬に負けてなにもしてやれなかったことを悔やんでいる。

 だからもしいま優梨が困っているというのなら、当時の自分に代わってできることはしてやりたい。直接力にはなれなくとも、話を聞く程度ならできるだろうから。

 完全な自己満足だと自覚している。が、自分にとってはこれが必要な過程であると信じている。


 俺の言葉を石井さんは真剣な面持ちで聞いていた。


「それできっちり終わりにしてくるよ」

「でも、まだ好きなんでしょう?」


 憂いを帯びたまなざしで問いかけてくる。

 前回、優梨をまだ好きなのかと尋ねられ、否定しなかったことが尾を引いているようだった。俺の浅はかな言動が裏目に出てしまっている。

 笑顔が印象的な石井さんの表情をくもらせてばかりいるのが心苦しかった。

 こうなったら彼女の不安が解消されるまでとことん向き合ってやろうと覚悟を決め、ひざの前で両手を組み合わせた。


「だれかと本気でつきあうにはその相手を信用しないとやってけないよね。けど俺はもうあの人を信用できないんだ。吉田から聞いたと思うけど」

「ほかにも、恋人的な立場の人がいたみたいっていうのは……聞いたよ」


 どことなく言いづらそうに石井さんが応えた。

 そうそう、と俺は肯定する。

 季節が二度変わればショックも和らぐ。無にはならないが。


「本人は肝心なことはなにも話さなかったけど、一度抱いた不信感はかんたんには消せないし消えない。ももちゃんが心配してるようなことにはならないよ」


 優梨との再会に際して望むのは、復縁ではなく、あの年末の数十分間が二人にとっての最後の時間ではなくなることだ。

 どうせなら、互いに前向きな気持ちでつぎの一歩を踏み出せるような終わりがほしかった。

 未来の見えない部屋の中で同じときを過ごしたせいかもしれない。ひとつでもいいから彼女に希望を見せてあげたかった。

 俺が彼女と出会ったことにわずかでもいいから意味を持たせたかった。

 そうでもしなければ、俺はこの先ずっとだれからも必要とされない人生を送るのではないかという疑念を、心の奥で大切に育てつづけてしまいそうな気がした。


「吉田がプロポーズとか言ったあれさ、額面どおりの意味とはべつに、俺は水面下で彼女にどっちを選ぶのかって聞いてたんだと思う。いや、どっちを選ぶのかはだいたい予想がついてたけど、万が一俺を選んでくれたら、仮に二股だったとしても、それまでのことはぜんぶ水に流してもいいかなっていう気の迷いみたいのがあったんだ」


 否定してほしい、けれど偽りの言葉はいらない。

 別れたくはない、けれどつづけていく自信もない。

 クローゼットの中身には気づいていた、けれど気づかないふりをしていた。


 あのときの俺は自分が思っているほど冷静になりきれてはいなかった。

 片づけるべきものもない床の上で、頭の中は足の踏み場もないほどぐちゃぐちゃに散らかっていた。

 優梨は俺の欲していた言葉はなにひとつ口にせずただ泣いているだけだった。


「だから俺は最後に自分の人生を賭け金にして、ある種の賭けをしたんだよ」


 結果は予想どおりの敗北。

 敗者の手にはなにも残らない。


 過去を思い出して憂鬱な気分になった。

 かつての恋愛について年下の女の子に愚痴をこぼしている現況を省みて、さらに気を滅入らせる。と、上のほうから声が降ってきた。


「私は嶋本さん一筋だからね」


 視界が暗くなる。

 ソファの上にひざ立ちになった石井さんが、両腕で横から俺の頭を包みこんでいた。

 彼女なりになぐさめてくれているようだった。

 不慣れであろう動作はこっちが恥ずかしくなるくらいにぎこちなく、胸もとに引き寄せられた左耳にはどくどくと脈打つ心臓の音が伝わってくる。


 ひどく緊張しているのが丸わかりだ。

 初々しさもむりをする姿勢もかわいらしい。けれど、あまりにがちがちな身体と全力疾走直後並みのはやすぎる鼓動に、俺はいけないとわかっていながらも堪えきれず吹き出してしまった。


「なんで笑うのっ」


 照れたようなむっとしたような声と石けんの香りが小さな起爆剤になる。

 絡みついている腕を解いて二度目のキスをした。

 片腕をとらわれた彼女は、後ずさりはしなかったものの、ソファの上に座りこんで焦ったように目をそらした。


「……また、びっくりさせようとして?」

「いまのは、純粋にしたかったから」


 つかまえていた腕を放すと、彼女は頬を紅潮させてソファにきちんと座り直した。


「嶋本さんは私に興味ないのかと思ってた。女として見られてないのかなって」


 それは大いなる勘違いというものだ。


「はじめて見たときからかわいい女の子だなあと思ってたけど」


 石井さんは「でも恋愛対象には入ってなかったよね」とまるで心中をのぞきこんだかのように俺の心情を推察してくれた。


「告白したとき断ろうとしたでしょう。あのとき私は嶋本さんにとって恋愛対象にならない女なんだなって思ったの。だけど理由がよくわからなかったし、聞いてもはぐらかされそうだったから、せめて理由を知るまではあきらめたくなかったんだ」

「理由って、年の差とか俺が受験生だからとか、そんなんだよ」

「ほんとに、それだけ?」


 自分の中に石井さんに対するなんらかの引っかかりが存在することには薄々感づいていた。けれどもそれは告白されてからの話だ。

 もしも石井さんがあの時点でその引っかかりを見抜いていたというのなら、彼女は俺自身よりも深く俺を理解していることになる。

 鋭いというか勘がいいというか、こういう子とつきあったら浮気なんて一発で見破られそうだと思った。


「前にどうして高校辞めたのか聞いたら、飽きたからって言ったよね」

「うん」

「あとはバイトが長つづきしないっていうやつ」

「それが?」


 どうかしたの、と石井さんは不思議そうに首を傾げている。

 ああ、こういうところなんだろうな、と改めて実感する。


「バイトのほうはいろいろ事情もあっただろうし、飽き性なのがだめってわけでもない。けど、もしかして俺も学校やバイトと同じ扱いをされるんじゃないかって、どっかで警戒してたのかもしれない」


 告白されてつきあったとして、短期間で「飽きたから辞めるね」なんて言われた日には。

 笑顔で「つぎが決まってるから」なんてあっさり鞍替えされた日には。

 精神的ダメージの上塗りになりはしないかと無意識に危惧していた、のだろう。自分ではっきりと認識したのはたったの十数分前だ。

 石井さんが肩を落とす。


「そんなふうに思われてたなんて」

「俺もすこし前に気づいたとこなんだけど」

「そうなの?」

「うん。俺の精神はなかなか繊細なつくりだったんだなって自分でも意外だった」


 かすかな笑い声のあとにとまどいを含んだ声がつづいた。


「私どうしたらいいのかな。たしかに飽きっぽいところはあるけど……いまのバイトは最長継続記録更新中だから、辞めずにつづけられたら、すこしは信用してもらえる?」

「いや、ももちゃんが悪いってわけじゃないんだ。俺の心持ちの問題だし。その問題もだいぶ解決しつつあるし。気にしなくていいよ」


 結局は俺が自分に自信を持てるようになればいい話なのだ。

 現状において最たる難関ではあるけども。


「ももちゃんがさっき、裏切らないって言ってくれたのはうれしかったよ。タイミング良くほしかったプレゼントを渡されたみたいだった」

「あ、あれはね、吉田さんからのアドバイス」

「……」


 恐るべしガールズトーク。てかまた吉田あいつの仕業かよ!

 お節介美容師に向かって「俺のささやかな感動を返せ!」と叫びたくなった。

 心の声を聞き取ったかのように石井さんが苦笑いを浮かべる。


「発案は吉田さんでも、言った内容はうそじゃないよ」


 両手で俺の右手に触れてくる。

 なぜかかるいマッサージがはじまった。指圧が弱いため妙にくすぐったい。


「ペンだこないね」

「あるよ」

「どこ?」

「週一くらいでぽこっと出てくる。恥ずかしがり屋なやつだから」


 うそだ、とおかしな顔をされた。

 てのひらを合わせて大きさをくらべてみると、関節ふたつぶん近く差があった。

 彼女の身体は本当にどこもかしこも小さい。真夏に港で肉体労働をしてよく倒れないものだと思う。

 その後も手首からひじへと謎のマッサージはつづいた。

 積極的にボディタッチをされているとこっちからも触れたくなる。

 Sサイズの手を握るチャンスをうかがいつつ顔を上げる。と、双方の視線が交わった。


「いまは、私も嶋本さんの恋愛対象に入ってるって思ってもいい?」

「いまさらそれ聞く? 俺が大学生になったら彼女になるってさんざん宣言してた子が」

「あれはね、いまいっしょにいるための口実に近いものなの。嶋本さんが未来の約束なんか守る気ないのも承知で言ってたんだよ。会うたびに今日が最後かもって思ってたし」

「約束は守るって言ったじゃん。ついさっきだけど」

「だって嶋本さん、ときどきうそつきだから」

「冗談は言うけど笑えないうそはつかないよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」

「じゃあ、約束守ってくれるって信じてるね」


 そう言って彼女はいつものまぶしい笑顔を見せた。

 マッサージが気に入ったのか、左手の指圧もはじめる。


「やっぱり、元カノさんとは会わないでって言ったら、だめなんだよね」

「そこは、うん、ごめん。気になるなら、同席してもいいよ」


 さすがに同席は、と石井さんはかぶりを振った。

 手もとに落としていた視線を上げる。


「ひとつお願いがあるの」

「なに」

「今日はもうすこしだけいっしょにいてくれる?」






 それからは要望に沿って滞在時間の延長を決め、石井さんの提案でDVDを鑑賞することにした。

 夏らしくホラー映画を借りてきたはいいが、怖くて一人で見る気にはなれなかったらしい。怖いならなんで借りたんだという当然の疑問はひとまず内に秘めておく。

 鑑賞会は彼女の部屋で行われることになった。


「ここが私の部屋です」


 リビングを抜けて案内された場所は、いかにもな女の子のひとり部屋だった。

 全体が整然としていて、中にあるものは大半がピンクか白の二色に染まっている。

 化粧っ気がないわりに、ドレッサーはカラフルなメイク用品や、香水、ネイルカラー等の小瓶たちで賑わっていた。

 安くてかわいいものを見つけると、使用目的も考えずについ買ってしまうのだという。その発言を聞いたとき、自宅で洗面化粧台のキャビネットを私物化しかけている妹と同じようなことを言っているなと思った。


 部屋にはソファも座椅子も見当たらない。

 一時的にベッドのサイドフレームを背もたれとして代用させてもらう。

 隣に腰を下ろしてリモコンの再生ボタンを押した石井さんは、すでに恐怖を感じているのか、俺の上半身に隠れるように寄りかかってくる。


 映画はグロテスクな映像がメインのサイコホラーだった。

 鑑賞中、片時もそばを離れようとしない石井さんがかわいくて俺はそちらにばかり気を取られていた。ので、内容はほとんど頭に入ってこなかった。


「怖いの平気?」


 エンドロールに突入しても俺のシャツの袖はつままれっぱなしだ。


「平気。目の前でほんものを見ちゃったら怖いかもしれないけど、フィクションはぜんぜん」

「私だめ」

「ぽいね」

「もうやだ夜トイレ行けないよ」

「……」

「そこのドア開けるのも怖い。あの気味悪い人形がいそうで」

「……なんで見たんだよ」


 思わずつっこんだ。

 石井さんが恐怖によって強ばった顔で見上げてくる。


「だって嶋本さんがいてくれたから」

「もう終わったけど、俺まだいたほうがいい?」

「うん、まだ帰らないで」


 怯えた声で懇願された。

 ネコを模したピンクの壁掛け時計は十時半を示している。

 長居はしないと決めていたはずなのに大幅に予定が狂ってしまった。

 夜遊びや無断外泊を理由に家を追い出されないよう、四月に自ら定めた門限(図書館閉館後一、二時間以内)はとっくに過ぎている。

 DVDを見ているあいだ、リビングでは何度か俺の携帯が鳴り響き、そのたびに石井さんがびくびくしていた。どうせ母か妹か谷村あたりだろうとすべて無視していたが、帰宅するまでには言いわけを考えなければならない。


「でもな、時間が時間だし」


 石井さんが慌てて時刻を確認する。


「あっごめんなさい」


 シャツから手を離した彼女は、ふと我に返ったようにそそくさと距離を取った。


「遅くなったらいけないよね」


 先ほどから台詞に男女逆転現象が発生している。

 もし俺が大学生で多少のハメ外しが許される身であったなら、と考えると、まじめに入試に臨まなかった数か月前の自分を恨みたくなった。が、もし俺が大学生だったら、石井さんとは一生出会わなかったかもしれない。

 どちらがましか。


「とりあえずバッグ取りに行っていい?」

「あ、うん」

「あの中に七夕飾りがあるんだ」

「折り紙でつくったの?」

「そう、七日に大量に。笹がなかったから飾る機会がなくてまだ入れっぱになってる」


 飾りが気になるのか、石井さんはちらちらとドアに目をやっている。

 前々から彼女は俺の作品にやたらと興味津々だった。


「七夕飾りをぜんぶ置いて帰るのと、ももちゃんが眠るまで俺がここに残るのと、どっちがいい?」

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