十一 秘密の訪問 上
「どうぞ」
石井家の玄関に入るとひんやりとした空気が流れてきた。
親が不在だという石井さんの証言を裏づけるように、家の中は静まりかえっている。
「おじゃまします」
上がり端に置かれたスリッパに足を入れるとともに、気を引きしめる。訪問の形跡を残さぬようにと。
おにぎり食べて帰るだけ。
いや、違った、本題を忘れてた。おにぎり食べて話をして帰るだけ。
遅くなるとまた妹がうるさいだろうし、さくっと用を済ませて帰ろう。
長居は禁物。ナガイハキンモツ。
入念に自己暗示のようなものをかけてから、奥へと案内してくれる石井さんの後につづく。
サンダルを脱いだ彼女の後ろ姿を目にして改めて思う。
小さい。
ヒールによるかさ増しぶんがなくなり、いつもより頭が低い位置にあるせいだ。
彼女はよく五センチはありそうなヒールをはいているが、いまその足を覆っているのは毛並みのすぐれた白ウサギのスリッパである。
これがまた妙に似合っている。
華奢な彼女と愛玩用の小動物には、なにかしら通じるものがあった。
最初のドアの前で彼女が立ち止まる。すこし距離を置き、ドアを開ける彼女の全身を眺める。と、肩越しに俺の顔を見た石井さんが「なにかへん?」と尋ねてきた。
ひと目でわかるほど妙な表情でもしていたのだろうか。
「や、へんとかじゃなくて、思ってたより小柄だなあと」
「中三から身長が伸びなくなっちゃったの。背高い人のほうが好き?」
「いや。どっちでも」
「よかった」
彼女は笑って、「そこに座ってゆっくりしててね」とソファベッドを指さした。
ソファのあるリビングはモノトーンを基調とした十五畳ほどの空間だった。
白っぽいクッションフロアに毛足の短いグレイの絨毯が敷かれ、黒いソファと楕円形の二段ガラステーブルが設えられている。
家族団らんの場所にしては、なんとなく暖かみに欠ける色合いだと思う。
石井さんはバッグを人質に取ったままキッチンのほうへ行ってしまった。
指示にしたがい、ソファに座って待つ。が、手持ちぶさただ。
向かいのテレビをつけたい気分でもない。
ゆっくりしてと言われてもやることがないので、まずテーブルの上にあったおしぼりで手を拭いてみた。
ふと爪の長さが気になりはじめる。
体勢を崩してソファにもたれかかってみる。
背もたれを倒してベッドの広さをたしかめてみる。
スプリングの弾力を試してみる。おお、なかなか良いバネじゃん。
「眠かったら寝ててもいいよー?」
キッチンカウンターの奥から聞こえてきた無邪気な声に、なんともいえない気まずさを覚える。
背もたれをもとどおりに直す。
心中で般若心経を唱えて邪念を振り払う。
自己嫌悪に陥って頭を抱える。
この間およそ三分弱。なにやってんだ俺。
コットンパンツのポケットから携帯を抜き出すと、谷村からメッセージが入っていた。
内容はいたって簡潔。『海』のひと文字が踊っているだけだ。
海か。夏といや海だよな。
受験生の身でなければ、一も二もなく飛びつくのに。という建前を押しのけて、去年も一昨年もその前も最終的にはビーチの誘惑に完敗してしまったけども。
ひとまず返信は保留して、携帯をテーブルの上に置いておく。
まもなく石井さんが戻ってきて、冷えたお茶を出してくれた。
洗練されたデザインのモーニングプレートには、少々いびつなおにぎりがひとつ。
彼女は親切にもラップを使ってにぎったという製作秘話を教えてくれたが、俺はそんなことよりも失敗したおにぎり群の末路のほうが気になっていた。
「ほかのはなんでダメになったわけ?」
「ダメっていうか、かなり炭っぽくなって……」
「炭?」
「あのね、急いで帰ってきたらおにぎりの素を買い忘れちゃってね、しかたないから焼いてみようと思ったんだけど……」
目を泳がせる石井さん。
要するに、焼きおにぎりをつくろうとして焼き過ぎたらしい。
おにぎりつくろうとしたらパンができたレベルの意味不明な失敗ではなくてよかった。よくはないけど。
唯一の成功品は、焼きサケをほぐしたものが具になっていた。
サケはほどよく焼けるのに、おにぎりは焦がす。どういうことだ。グリルとフライパンの違いか?
謎めいた思考回路と料理スキルの所持者である石井さんは、ソファには近寄らずテーブルの脇に両ひざをついて女中さんのごとく控えている。そしておにぎりを食べる俺を真剣に見つめている。
よくわからない子だ。
よくわからない子だが、彼女がもしどこにでもいそうなごくふつうの女子高生だったら、俺はいっさい彼女とかかわりをもつことはなかっただろう。
「つぎはなにがいい?」
おにぎりを完食して礼を述べると、立ち上がった石井さんが新たなメニューのリクエストをしてきた。
次回予約かと思えば、エプロンを片手に冷蔵庫に向かっていく。
これからつくりはじめる気だと悟り、俺は慌てて断った。炭の量産を避けるためというよりは、長居を避けるために。
家に帰れば夕食が用意されているという断り文句(うそではない)を彼女はすんなりと信じた。エプロンをキッチンカウンターに載せ、残念そうにため息を吐く。
「ごめん。ももちゃんは食べないの」
「いま食欲なくて。バイトで水分取り過ぎたみたい」
胃のあたりをさすりつつピッチャーを運んできた彼女は、三十センチほどの間を空けて俺の左隣に腰かけた。
やっと本題に入れるかと思ったのもつかの間、俺のグラスに冷茶を注いでいた石井さんが先に話を振ってきた。
「私ね、このあいだ吉田さんのお店に行ってみたの」
「吉田の店? なにしに?」
「髪を切りに」
「ああ」
そうだよな。美容室なんだから、ふつうは髪を切るために行くんだよな。なに聞いてんだ。
石井さんは長い黒髪をすくように指先を上から下へするすると滑らせている。できばえには満足しているらしい。
「ってあれ、髪切ったんだ」
「うん。切ったっていっても、全体的にすこし量を減らして毛先を整えただけだから、長さはそんなに変わってないよ。トリートメントもしてもらったの」
言われてみれば、髪のつやが前回と違うような。天使の輪がよりいっそうきらきら光っているような。
うん、わからん。
どうぞ、と勧められ、注ぎ足されたお茶を飲む。
「ひととおり吉田さんにやってもらったよ」
「へえ」
「それでね、髪の毛をやってもらってるあいだに、例の元カノさんのお話も詳しく聞いてきて……あっ大丈夫?」
大丈夫じゃねえ。めっちゃむせた。お茶が大量にへんなとこに入った。
しばらくのあいだ激しくせきこむ。
石井さんが持ってきてくれたタオルをありがたく使わせてもらう。
空せきを連発する俺に、石井さんは「勝手なことしてごめんね」と謝ってきた。
「あれからずっと嶋本さんの意識を元カノさんから引き離すにはどうしたらいいのかなって考えてたんだけど、ぜんぜんいい方法が浮かばなくって。なにか原因があるのか、ただ忘れられないだけなのかもわからなかったし、でもあんまり根掘り葉掘り聞くと嶋本さんにいやな思いをさせてしまうでしょう」
だから代わりに吉田に聞こうと思いついたのだと彼女は言った。
べつに、するなとは言わないけどさ。
妹もそうだが、なぜこう人のプライベートを詮索したがるのだろうか。芸能リポーターか興信所の職員でも目指してるのか?
どうにか呼吸を整え、借りたタオルをかるく折りたたみ、横目で石井さんを見る。
「そう言うわりには、この前ガンガン聞いてきたよね」
「え、この前はけっこう遠慮してたよ」
「……そーですか」
複雑な気分でタオルをテーブルに置く。
すると石井さんが下唇をかるく噛んだ。
「嶋本さんはくじ運は良いのに女運は悪いって吉田さんが言ってた」
「吉田が? まあ、くじ運は良いほうだけど女運はどうだろ」
特別悪いと感じたことはない。タイミングが悪いなと思うことはあっても。
石井さんはわずかに眉を寄せ、胸もとに垂れた髪の毛先をもてあそんでいた。それから、ふいになにかを決意したような目でこちらを見上げてくる。
「どうかした?」
「私なら、絶対に嶋本さんを裏切ったりしないよ」
一瞬、なにを言われたのか理解できずにぽかんとしてしまう。
「うそつかないし、隠しごともしないよ。好きな人を傷つけたくないもの」
まっすぐな目に気圧されて、俺はただ、うなずくことしかできない。
彼女がまばたきをした瞬間、発言の意図を理解した頭の方向に、一斉に血液が駆け上がっていった。
「それだけ、先に言っておきたくて」
空の皿に視線を移して彼女はつぶやいた。
「話ってなに?」
問いかけてうつむく。
さらさらと流れる長い髪に横顔のほとんどが隠されてしまう。
「わざわざうちまで来てくれるくらいだから、大事な話なんだよね」
上方に集まっていた血が急速に引いていくような気がした。
目のやり場を失った俺は、ゆっくりと彼女の周囲に視線をさまよわせる。
カウンターの上のエプロン、廊下へつづく焦げ茶色のドア、お茶の入ったピッチャー、くもりのないガラステーブル。
最後に白ウサギの赤い目を見て、昨夜優梨から連絡があったことを告げた。半年前のできごとについてはすでに吉田から詳細を聞いたようなので、簡潔にメールの内容のみを伝える。
視界の端でかすかに黒い髪が揺れた。言葉は返ってこなかった。
「メール読んだからにはほっとけないし、会って話してこようと思うんだ」
焦点の不明な赤い目と見つめ合う。
白ウサギは当然無言。石井さんも無言。
「電話で言った話ってのは、その報告だけなんだけど」
視点を上げると、了解を示すように小さな頭がかくんと上下した。
その不自然な動きを見届けて、これでやるべきことは終わったと思った。
すべて用は済んだ。
あとはバッグさえ返してもらえれば、いつでもリビングから出ていける。
しかし、それが切り出せない。
石井さんはひとこともなく黙りこくっている。
顔も見せてくれない。こんなことははじめてだった。
この二か月あまり、俺がなにをしようと彼女はたいてい笑顔で後押ししてくれていた。途中で機嫌を損ねても別れ際は毎回にこにこ笑っていた。
今回もそうだろうと勝手に思いこんでいた俺は、にわかに焦りを感じはじめた。
「もしかして、俺が優梨とは会わないほうがいいと思ってる?」
ややあって、石井さんはふたたびこくんと首を縦に振った。
表情は隠したまま。
「そっか……ごめん」
今度はおもむろに首が左右に振られる。
なにに対する否定なのか。断固反対ってことか?
胸のあたりできりきりと糸同士がこすれあうような小さな摩擦が生じる。
脳内では、誠実、という単語がぐるぐると高速回転していた。
言いわけをするのではなく彼女を納得させるにはどうしたらいいのか。
口頭による説得など元来苦手分野もいいところだった。が、逃げ帰るわけにもいかず、俺はまるで浮気の弁解でもするような心境で懸命に言葉を探した。
「ええと、これは一応自分なりに考えた結果で、会わないっていう選択はすべきじゃないと思ったんだ。この前ももちゃんからも指摘されたとおり、どうも俺の中にはまだ未練が残ってるというか、自分の行動に納得のいってない部分があるみたいで、今回の件はそれを解消するためのチャンスなんじゃないかって気がしたんだよ。会ってなにを言われるかはだいたい見当がついてるから」
反応はない。
恋人ではないものの、俺に好意を示してくれる石井さんには、できるかぎり誠実な態度で応えようと決めていた。
投げやりになって後悔した過去があるからこそ、彼女とはきちんと向き合いたいと思った。
なにも知らせずこっそり優梨と連絡を取り合うようなことは避けたかった。だからこうして直接伝えるために家を訪ねてきた。
とはいえ、自ら導き出した結論自体を否定された場合、俺としてはどうしようもない。謝るくらいしかできない。
沈黙の長さに比例して焦燥がつのっていく。
近くにいるはずなのに遠くに感じるこの感覚には覚えがある。胃がむかむかした。
彼女が口を開いたのは、困り果てた俺が腰を浮かしかけたときだった。
「……私もう嶋本さんと会えなくなるかもしれないの」
「え?」
「もしまた元カノさんとつきあうことになったら、私との約束は取り消しなの?」
揺らいだ声を追いかけるように数滴のしずくがこぼれ落ちる。
ぎょっとすると同時に俺は彼女の誤解に気づいた。
「あのさ、ちょっと顔上げて」
また弱々しく首が横に振られる。
透明なしずくがスカラレースの端を濡らした。
「約束は絶対守るから。だから一回こっち見てくれる」
ようやく目が合った。
間近で泣き顔を見るのは半年ぶりだった。
しかも、なんの因果かあのときとは正反対の環境だ。
空っぽな狭い部屋ではなく家具や調度品のそろった広い部屋の中にいて、エアコンは温風ではなく冷風を吐き出しており、俺と彼女のほかにはだれもいない。
目の前の人物が涙を流していることだけが同じだった。
「絶対? ほんと?」
黒目がちな瞳のふちに涙を溜めた石井さんの顔には、不審と不安が混在している。
おいでと手招きすると、彼女はおよび腰になりながらも三十センチの距離を詰めてきた。
残りの距離がほぼゼロになって進行が止まる。そこで小さな身体を抱きしめる。
安心させるつもりで頭や背中をなでていたら、腕の中の少女はまた泣き出してしまった。