十 朝の電話
妹には無視され、バッグに入れっぱなしにしていたはずの模試の結果を眺めていた母からは「なっちゃんと性別が逆だったらまだよかったのにねえ。ああ、でも女の子にお兄ちゃんみたいな生活されたら心臓がいくつあっても足りないか」と嘆息され、朝食という名のみじめな時間を過ごしたあと。
午前九時。
ふだんどおり図書館へ向かうために家を出る。
家の影が見えなくなったあたりでポケットからスマホを取り出し、十一桁の電話番号を打ちこんだ。
妹にばれないよう脳内保存してある石井さんの携帯番号だ。
用心の甲斐あってか、彼女の存在はまだ妹には知られていないようである。
知られたらまた口うるさく言われるに違いない。ので、なるべくならこのまま隠し通したいとひそかに思っている。
発信ボタンを押してから数コールで受話口から相手の声が聞こえた。
「はいっ」
「はよ-。嶋本です」
「お、おはようっ。え、あれ、どうかしたの!?」
電話の向こう側で石井さんはかなり焦っているようだった。
二か月前に連絡先を交換した際、彼女には家庭内スパイの脅威を説明して連絡は最小限にと頼んだ。
理解ある彼女は緊急の用件以外は連絡をしないと言ってくれた。
わりと平和な日本では緊急事態などそうそう起こりようもないので、いままで彼女から連絡がきたことはない。逆もしかり。
というわけで思えばこれが初電話だ。焦るのもむりもないかもしれない。
はじめて聞く電話越しの彼女の声は、聞き慣れた声よりもやや高く感じられた。
「朝からごめん。もうバイト向かってる?」
「ううん、まだ家。もうすこししたら出ようと思ってたところ」
「そっか。あのさ、急で悪いんだけど、バイトの後空いてる?」
「え?」
「今夜ももちゃん家の近くまで行ってもいいかな」
「ええっ!?」
大げさなくらい驚いてから、彼女は「ええと、うん、今日は七時前には家に帰ってると思うから、大丈夫」と答えた。
「じゃあそのくらいに行くよ」
ちょっと話したいことがあるから、と告げると石井さんはとたんに黙ってしまった。
「ももちゃん?」
「あの、それは、悪いお話?」
「なんで」
「なんだか声の雰囲気がいつもと違う気がするから」
「電話だからじゃないかな」
そこでふたたび間が生じる。
しばらく待ってからもう一度呼びかけようとしたとき、ようやく彼女から返事が返ってきた。
「わかった。家の前で待ってるね」
さきほどとは打って変わって、やけに落ち着き払った声だった。やはり彼女は察しの良いタイプなのだと実感する。
だからなおさら傷つけないためにも面と向かってきちんと話をするべきだ。
彼女と会うまでにいくつか自分の中でも整理をしておかなければならないことがある。
スマホをポケットにしまうと、夏の日差しに肌を焼かれながら一路図書館を目指した。
図書館につくと、冷房のよく効いている学習室でつらつらと考えごとをした。
この部屋に入るといつも無性に手先の器用さを試したくなり、バッグにもだいぶ力作が溜まってきたのだが、今日は細かい作業をする気にはなれなかった。
原因はもちろん優梨からのメールだ。
二人だけで話をしたい。
あのメールを読んだとき、俺は彼女のいう「話」の内容は「最後の会話」のことだと思った。
しかし、落ち着いてよく考え直してみると、状況的にもっとも可能性が高いのは「今後の身の振り方についての話」、率直にいえば「金銭関係の話」のような気がしてならなかった。
要するに、「ちょっとお金貸して」というあれだ。
実際はそんな軽いノリではだろうし、つきあっているあいだ優梨に無心されたことなどは一度もないから、彼女も相応の覚悟を決めたうえで連絡をよこしたのだろう。
理由は当然、自由になりたいからだ。
その類いの厄介な事情となると相談する相手は限られてくる。
とはいえ、彼女を助けてやれるほどの大金なんて逆立ちしたって俺の懐からは出てこない。
去年バイトで稼いだ分の残金は念のため定期預金に入れて手をつけないようにはしてあるが、それだって微々たる額にすぎない。おそらく必要な額面には到底足りない。
ではどうやってまとまった金を工面するか。
ギャンブル……で得た金はギャンブルで溶けるって堀川が言ってたな。しみじみと。
街金、またはヤミ金……から借りたせいでたぶんいま面倒なことになってるんだよな。詳しくは知らんけども。
強盗……は犯罪だ。
いやいや、もうちょっと真っ当な手段でね。
真っ当な……真っ当な金の集め方? そりゃ働くしかないだろう。けど俺が働くのはなにかがおかしい。
あとはなんだ、サイムセーリか?
わかんねえ。
俺自身は妹以外から金を借りたこともなければ法の知識もない。借金返済のために働かされてそこから逃げようとした経験もない。わかるわけがない。
参ったな。いかんせんこの問題は俺にとって荷が重い。
さらに昨夜から脳を酷使しすぎている。
このままだと頭痛に襲われる可能性がある。
そう思い、午後は大事を取って昼寝をした。
午後六時半前。すっきりした頭で図書館を出て、自宅とは反対方向にある石井さんのマンションへ足を向けた。
バイト帰りの石井さんを出迎えるくらいのつもりではやめに待ち合わせ場所に到着したのだが、エントランスの前にはすでに着替えを済ませた石井さんの姿があった。
水色のフリルTシャツに白のレースショーパンという涼やかな身なり。
彼女のバイトは荷物の総量によって終了時刻が大幅に前後するらしい。今日はずいぶんとはやく終わったようだ。
「バイトおつかれさま。ちょっと久しぶりだね」
声をかけて近づくと、石井さんはにっこりと笑ってうなずいた。
先週は図書館の休館日と彼女の休日が重なったため、長らく顔を合わせていなかった。美容室に行った夜以来の再会になる。
同じように距離を縮めてきた石井さんが、目の前に立ってかわいらしく首を傾げた。
「もうごはん食べた?」
「まだ」
「よかったらうちへどうぞ」
「いや、長話でもないし、ここでいいよ」
「うちだと話しづらい?」
「話しづらいっていうより、いきなり俺が行ったら家の人がびっくりするんじゃない」
夕食時に手ぶらで上がりこむのも不作法だし、その点をのぞいても、小学校からずっと女子校育ちだという彼女が突然男を連れてきたら親御さんも仰天するだろう。
ていうか俺も気まずい。どう自己紹介したらいいんだ? 友達とは微妙に違う気がするし、つきあっているわけでもないし。
すると、石井さんは笑顔で答えた。
「気にしないで。親はいまハワイに行ってていないから。お盆休みを前倒しして取ったみたいで、来週まで帰ってこないの」
なるほど、旅行か。
それなら安心……なわけねえ。
ためしに、妹が親の留守中に家に男を連れこんだと知ったときの父の反応を想像してみよう。
うん、恐ろしい。
想像しただけで鳥肌立った。
うちの親の場合、娘に関してのみ過保護になるきらいはあるものの、石井さんの両親だって決していい気はしないはず。
今回は断ったほうが無難だ。
「でもやっぱいいよここで。ももちゃんは旅行行かなかったんだ」
「うん、バイトが休めなかったから」
残念そうに肩を落とす。
兄弟はいないらしいし、一人きりでの留守番は心細いだろう。
彼女の両親はひとり娘を長期間国内に残して行くことに不安はなかったのだろうか。
同じように夫婦だけで出かけたとしても、うちの親はたいてい二日もすれば帰ってくる。なっちゃんが心配だと言って。
ふと目線を上げれば、日没間近の空は徐々に明るさを失ってきている。
遅くならないうちにさっさと話を済ませようと、エディターズバッグを地面に下ろしたとき。
石井さんがさっと俺のバッグを持ち上げた。
「行こっ」
「え?」
「はやく! これだけ持ってっちゃうよ」
大事そうにバッグを抱きかかえた石井さんが自動ドアを開けて俺を呼ぶ。
呆然と突っ立っていた俺は、彼女の声でバッグが奪われたことを理解し、反射的に彼女の後を追ってドアの内側へと駆けこんだ。
つまり、入ってしまった。
石貼りのエントランスホールに。
出ようと思えばいつでも出られるけども。
石井さんは俺のことなどおかまいなしにエレベーターに向かっている。
「ももちゃん!」
さすがに妹のときほど強気には出られない。
それでも多少語気を強めて、早足で進む彼女を呼び止める。
振り返った石井さんは、バッグで顔の下半分を隠して控えめに尋ねてきた。
「どうしても、だめ?」
「とりあえずバッグは返して」
「うちに入ったら返すね」
「ももちゃん」
「おにぎりつくったの。なんとか一個だけ成功したから、食べてほしいな。お願い」
完全に顔がバッグの後ろに隠れてしまった。
まるでいたずらを発見されたときのこどものようだ。
彼女はそのまましばらくラムスキンの黒い盾を顔前にかざしつづけた。
重いだろうにと思って見ていると、案の定、二の腕を中心に手がプルプルしはじめた。
呆れを通り越してつい笑ってしまいそうになる。
おにぎりはいくつ失敗したんだろう。どうやったら失敗するんだろう。
「……わかった。行くよ」
今度はため息が出た。
断りきれない自分に。
財布も携帯もポケットの中にある。バッグを残して帰ったっところで当面の支障はないというのに。
先にエレベーターに乗りこんだ石井さんの表情は笑顔だった。
彼女が策士なのか俺があほなのか。
まあ、俺があほなんだろうな。
石井さんが扉の手前でとどまったので俺は奥に進んだ。
丁寧に七階のボタンが押されて扉が閉まると、エレベーターが上昇をはじめる。
「これ意外と重たいね」
「下、置いていいよ」
「置かないよ。人質だもの」
手放したら俺が引き返すとでも思っているのか、バッグを強く抱きしめる。
今日はよく人質を取られる日だ。正しくは人質でもなんでもないが。
「中になにが入ってるの」
「過去問と参考書、あと単語帳と用語集」
「折り紙とハサミは?」
「入ってるよ」
石井さんが小さな肩を揺らしてくすくすと笑う。
なにがそんなにおもしろいんだろう。
シャツのそでやパンツのすそから伸びる白い手足をぼんやりと見つめながら、俺は淡灰色の壁に寄りかかった。