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一 夜明けの夢

「二人でどこか遠くへ行こうか」


 あの日、予期せぬできごとに気が動転していた俺を現実に引き戻したのは、沈黙ののちに彼女が漏らした嗚咽だった。

 はじめて聞く泣き声のおかげでかえって冷静さを手に入れた俺は、十分ほど思案に暮れてから、ようやく彼女に声をかけることができた。

 できるだけやさしく言ったつもりだったが、緊張のせいでうまくいかなかったかもしれない。


「どこかってどこ?」


 彼女は抱えたひざにうずめていた顔を上げ、こどものように頬を濡らしたまま、ささやくように問いかけてきた。

 水分を多分に含んだまつ毛が重たそうで、俺は箱ごとティッシュを渡した。

 彼女は小声で礼を述べ、鼻をすすりながら数枚のティッシュで目もとをぬぐった。


「どこでもいいよ。沖縄でも北海道でも? だれにも見つからない場所ならどこでも」


 その陳腐な台詞が、短時間とはいえ、家族や友人、将来といったこれまでろくに向き合ってこなかったような事物にまで考えを巡らせ、真剣に思い悩んだ末に導き出された結論かと思うと、自分の幼さと人生経験の浅さを痛いほど思い知らされた。

 それでも、根無し草のようにゆらゆらと流されてばかりいた二十歳の俺にとって、それは一大決心ともいうべき提案だったのだ。


 もし俺が学生かあるいは定職のある社会人だったら絶対に言えなかっただろう。

 しがらみがないからこそ言えた言葉だ。

 ほかにもっといい方法はあったのかもしれないが、もとより闘争心や対抗意識に欠ける俺には戦うよりもとにかく逃げるという選択肢のほうが現実的だった。


 思いが正確に彼女へ伝わったかどうかはわからなかったが、彼女は笑い飛ばしたり「逃げてどうするの」と聞いたりはしなかった。


 涙声でひとこと「行きたい」とつぶやき、目を伏せてまたぼろぼろと大粒の涙をこぼしはじめた。

 ほんの一瞬顔をのぞかせたかのようにみえた希望は、彼女が声をつまらせたせいで完全に姿を隠してしまった。


 語りかけるべき言葉を失った俺は空っぽな部屋でひたすら彼女が泣き止むのを待った。

 彼女の言葉にはつづきがある。それを聞いたらこの部屋を出て行かなければならない。

 わからないことだらけの現状で、唯一その点だけは理解できた。

 彼女とのあいだに横たわる一メートルにも満たない距離がとんでもなく遠く感じられた。

 部屋と同じく胃が空っぽでよかったと思った。


 そうしてどのくらい待っていたのかはっきりとは思い出せない。

 数十分かもしれないしもっと長かったかもしれない。

 時間がたっぷりあっても時計を見ることにまで頭が回らなかったのだ。俺の意識は一貫して目の前の女性に注がれていた。


 漠然とのどの渇きを感じはじめたころ、彼女がひざに顔を押しつけたまま「ごめんね」と声を震わせた。

 彼女の頭に伸ばしかけた手は、どうしていいかわからず、結局髪に触れる直前で引っこめた。


 ごめんね。

 行きたい。ごめんね。

 行きたい。けれどあなたとは行けない。もう一緒にはいられない。ごめんね。


 耳に届いた言葉と、彼女が音にしなかった言葉が頭の中でひとつながりになる。

 俺の提案は受け入れてはもらえなかった。

 彼女は俺ではなくべつのものを選んだのだ。

 そうなるともう俺は彼女に手を差し伸べることができない。ここにいる理由も意味もない。

 わかった、とうなずいて、感覚の麻痺した足をむりやり動かして部屋を出た。


 彼女の涙が乾くまで待たなかったのは、たぶんもっとも居心地の良かったあの部屋がもっとも居心地の悪い場所へと変わってしまったことに耐えられなかったからだと思う。

 それからどこをどう歩いたのかはあまり覚えていない。

 ただ、年明けを間近に控えた冬の街の、身を切るような寒さはよく覚えている。


 彼女と交わした最後の会話を思い返すたび、気の利いた台詞のひとつも言えなかった自分に嫌気が差す。

 あんなに素っ気なく出て行くこともなかったんじゃないかとも思う。が、もう一度やり直したいとは思わない。

 何度試したとしても、俺は似たような言葉しか言えないだろうから。

 彼女も似たような言葉しか言わないだろうから。

 ただ、もう二度と会うこともないのなら、せめて世話になった礼と別れの言葉くらいは告げておけばよかったと、そのことについてはいまでも少しだけ、後悔している。






 暦の上では夏を迎え、あれからはやくも半年が経とうとしている。

 事件直後は人並みに落ちこんでいたが、切り替えの早い性格が幸いし、いまはもう彼女のことを考える時間はほとんどなくなった。

 しかし、頭の切り替えはできているつもりでも、心のほうはそうかんたんに過去を切り離してはくれないらしい。

 久々に彼女の夢を見た。


 夢の中で彼女は新しい男ができたとうれしそうに報告してきた。

 安心と苛立ちがない交ぜになった感情を押しこめ、形ばかりの祝辞を述べると、彼女は笑顔のまま俺に背を向けた。

 彼女が暗闇に飲みこまれるようにして消えたあと、俺はひとりまばゆい光の中に立っていた。

 不必要に明るいだけで周りにはだれもいない。なんの気配も感じられず、呼びかけてもだれも応えない。

 突如強烈な孤独感に襲われ、焦って彼女を追いかけようとした。


 そこでふと目が覚めた。

 いやな夢だった。

 夢から覚めてもまだあの光の中にいるような感覚が残っている。


 光の残像を消すためにいったん頭まで布団をかぶる。

 記憶を底に沈めようという努力に反し、暗闇で別れ際の情景が再生される。ついで夢で見た彼女の笑顔も。

 なんでいまさら。

 過去は振り返らない主義のはずだと自分に言い聞かせ、一気に布団を押しのける。

 のろのろと上体を起こし、つい心の中で自問した。


 これはもしかするとはやいとこ新しい彼女をつくれっていう神様からのお告げなんじゃないだろうか、と。

 のんきに受験勉強なんかしてる場合じゃないんじゃないか、と。


 ところが、その心の声はうっかりリアルな音声となって公開放送されていたらしい。

 しかも最悪なことに妹の耳にも入ってしまったようだ。

 こっちを見る妹の目があきらかに据わっている。


 いや待てよ。

 なぜ妹がこんな朝っぱらから俺の部屋にいるのか。そしてなぜ当然のように俺の携帯スマホを握っているのか。

 なにしてるんだと注意しようとしたら、ものすごい勢いで先制攻撃をくらった。


「ばっかじゃないの!」


 硬い物体が顔面目がけて吹っ飛んでくる。

 あっぶね。間一髪で回避に成功したから助かったけども。

 ナイス俺の反射神経。


「気安く人の携帯投げんじゃねえよ」


 壊れたらどうすんだ。

 まだ動きの鈍い舌でがんばって抗議すると妹がにらみつけてきた。


「お兄ちゃんが彼女つくるとかくっだらないこと言うから悪いんでしょうが! 女にかまけてもしこのまま四浪なんてしたら私兄妹の縁切るからね! あと黙って私の小物使うのも禁止!」


 そんな捨て台詞を残して部屋を飛び出していく。

 なんなんだあいつは。


 ここ二か月ほど妹の態度がおかしい。

 以前にも増して俺の言動につっかかってくるようになった。

 薄情な性格は昔からだが、たまにゴミを見るような目で俺を見てくるときもある。

 あれが俗に言う反抗期なのだろうか。

 でも反抗期の反抗って中高生が親や教師に対してするもんじゃないのか。

 女子大生が兄に難癖をつける現象はなんというのだろう。

 わからん。


 深いため息をついてベッドから下りる。

 なんというか、夢といい妹といい、散々な朝だ。

 窓を見るとすでにカーテンが全開だった。どうりでまぶしいわけだよ。

 さわやかな空の青さが目に痛かった。

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