運命の歯車
人生の中で何度聞いたかわからないチャイムの音が、また、校内に響く。
「はぁ・・・、やっと終わった・・・」
岸田康次は、長い溜息を吐いた。
午後の授業が古典、日本史と続き、睡魔から連続攻撃を受けた彼は、真面目に授業を受けていないにも関わらず疲れ切った顔をしていた。テスト期間である現在、部活動はどこも休止中であり、彼にとって、いや、他の生徒たちにとってもそれは幸運だった事であろう。
「ほんと、かったりーよな。勉強なんて出来なくても、人間生きていけるんだしよ」
よく耳にするいかにも男子高校生らしいそれを隣で溜息混じりにつぶやくのは、友人の霧町哲哉である。彼の愚痴に苦笑いを浮かべながら、彼は机の上の勉強道具をしまう。すると、前からもう一人の友人がこちらへ歩み寄ってきた。
「今回のテストはヤバそうだな。油断したら赤点モノだっていうのもあるし」
そういう彼、直片俊樹は、気怠そうに肩を回した後、眼鏡をくいっとあげる。
「よ~く言うわ。お前学年で1位2位を争う優等生だろ~!?」
「いや、そんなことねぇって。あ、そういえば康次」
哲哉から送られる嫉妬の視線を軽く受け流し、康次に話し掛けてきた。
「今日は親に急ぎの用を頼まれてしまってな。先に帰るわ、悪い」
「ああ、わかった。大丈夫だよ」
ちょうどそのとき、担任がHR開始を告げながら教室へ入ってきたことにより、会話はそこで終了した。
こうしていつもの雑談も終わり、HRを終え、放課後。
「さて、帰るか」
康次が席を立ち鞄に手をかけようとすると、後ろから哲哉が声をかけてきた。
「今日はゲーセン寄ってかねーの?」
「流石にテスト5日前だしな。今日は大人しく家にいるわ」
「でも勉強はー??」
「すると思うか?」
だよなー、と哲哉は笑う。康次は鞄を担ぎ、彼と別れを告げながら教室を出た。
空は茜色に染まり、他の生徒もぞろぞろと学校を出ていく。テスト期間で部活がない今だからこそ見れる風景を眺め、脳内では今晩の晩飯のメニューを考えながら、遅くも早くもないペースで、彼も帰路を歩んでいく。
──運命とは、突然にして必然的であり、不平等に与えられる物なのである。
今朝見たニュースに映っていた白髭の老人がそんなことを言っていたなと、なぜか不意に、彼は思い出す。
校門を出て、しばらく歩き──家まであと1kmと言ったところだろうか。
茜色の空の下、住宅街に入った途端にすっかり辺りは人気が失せ、聞こえるのは遠くから響くカラスが鳴き声と、彼の足音のみであった。──いや。
「ん?」
足音が、する。それもかなり早いテンポだ。彼は歩きながら耳を澄ませるが、どこから聞こえてくるのかがいまいち把握することができない。
前方の角へ差し掛かかった時、一瞬、目の端に茶色の何かがふわっと見えたと思った、次の瞬間。
「うおぁ!?」
「きゃっ!」
いきなり、何者かのタックルを食らい弾き飛ばされる康次。壁に激突する寸前で傍らの電柱を掴んで体勢を立て直し、何とか踏みとどまる。
「危ねぇ…!な、なんだ?」
康次は横にある電柱をつかんだまま、突き飛ばしてきた人物を見下ろす。どうやら女性のようである。その人物は頭を押さえてフラフラと立ち上がると、キッと康次を睨みつけた。
「いったぁ…。ちょっとアンタ、どこ見て歩いてんのよ!?」
「な…!?それはこっちの台詞だ!」
なんだこいつは。自分から体当たりしておいてこの態度。
彼は相手を睨み返し、その容姿をまじまじと見た。彼女は康次と同じ高校の女生徒服を纏い、髪は茶色で長く、前髪をヘアピンで留めている。華奢な体つきで、背は康次の肩辺りだろうか。
しばらく睨み合っていたが、少女の方が何かを思い出したような顔をすると、慌てて今し方飛び出て来た方角を振り返り──
「ちょ…ちょっとアンタ、一緒に来て!」
「は?お、おい!?」
──突如康次の腕を取って走り始めた。彼は唐突の事に困惑し、自らの手を引く少女へ叫び掛ける。
「おい何なんだよ!どうしたってんだ!?」
「いいから黙って着いて来て!少しでも状況を理解したいなら、後ろを見てみなさいよ!」
彼女は焦ったようにそう告げる。仕方なく、康次は言われたように振り返った。すると数十メートル後方に、黒い何かがこちらへ迫っているのが見えた。影、そう呼ぶに相応しいほどに真っ黒である。フードをかぶり、顔を隠した何者かが三人、こちらに走ってきている。
「お前、あいつらに追われてんのか!?」
「そうよ!見ればわかるでしょ!」
振り向く事無く走り続ける少女。康次は、困惑している脳内を無理やり落ち着かせ、冷静に考える。よくわからないが、とにかくこの状況を変えるしかなさそうだった。今のままでは、やがては追い付かれるのが目に見えている。彼女がどういった目的で追われているのか、それを聞き出す為の時間を稼ぐ必要があった。
常人であれば、その場を逃れさえすればそれで全て終わりであると考えるだろう。だが、彼はどうしても気になったのだ。彼女が追われている理由を。何故こんなにも気になるのかは、彼自身にもわからなかった。
康次は少女の手を振り払い、その場で止まる。少女は驚いた顔をし、あからさまに焦る。
「な、何やってんのよ?早く逃げないと…」
「このままじゃ追いつかれる。先に逃げてろよ」
「え?」
康次は振り返り、迫る黒服達を見据える。
「俺が時間を稼いでやるから、お前は先に行ってろって言ってんだ」
「アンタ、この状況で何言ってんの!?アンタは何も分ってないんだから、黙ってついて来ればいいのよっ!」
少女はとんだバカを見た、と言わんばかりに叫んだ。それに対して彼は出来るだけ平静を装いながら、言う。
「お前だって何もわかってねえだろ、俺の事。俺なら何とかできるかもしれないんだよ」
「アンタ…なにを…」
背後の戸惑ったような声を聞きながら、康次は辺りを見回す。目に映ったのは、【立ち入り禁止】と書かれた看板の取り付けられた、鉄柵だった。
「…よし」
彼はそう呟きながら、その鉄柵に手を翳す。すると、彼の手の先、そして鉄柵が淡く光りはじめる。
「アンタ…司鉄者…!?」
少女が、驚いたように声を上げる。
「はは、驚いたか?」
康次は得意気に鼻を鳴らし、鉄柵を掴む。そしてその手を思い切り引き払うと、鉄柵は本来の強度を忘れたかのように、いとも簡単に千切れ、反り、黒服たちに絡みつく。
『・・・!』
鉄柵に捕らわれた黒服達は勢いのまま壁に叩きつけられる。彼が手を離すと、彼の手と鉄柵から光は失われ、それと同時に鉄柵はびくともしなくなる。まるで鉄が、本来の強度を思い出したとでもいうかのようである。黒服たちが抜け出すには多少の時間を有するであろう。
康次が振り返ると、そこには先ほどの少女が驚愕の表情を浮かべ立ちすくんでいた。
「まだ逃げてなかったのか。行くぞ、こうなったからには事情を聞かせてもらうからな」
「ちょ、ちょっとアンタ…!」
康次は少女の手を取り、振り返ることなくその場を逃れた。
***
「はぁ…はぁ…。ここまで来れば大丈夫だろ…」
しばらく走り続けた康次らは、住宅地を抜けた先の路地裏に身を隠す。辺りはすっかり陽が落ちており、建物の隙間から月明かり差込んでいることで、この場所はお互いの姿が辛うじて確認できる程度の明るさである。
「アンタ…なんで…」
胸に手を当てて息を落ち着かせながら、少女は康次に問う。
「なんでって、人が目の前で襲われてんだぞ。助けないわけにはいけないだろ」
彼は息を抑えつけ、努めて冷静を装う。少女は納得がいかないといったふうに康次を見ていた。
「でも、あんな異常な光景を見て、それでも首を突っ込むなんて」
「あのなぁ、元はといえばお前が俺を無理矢理…」
「それは……わ、悪かったわよ…」
顔を逸らして謝る少女。ぶつかってきた時とは対照的なその態度に、康次はなんと返せばいいのかわからなくなる。
「──それで、なんでお前、あんな怪しい奴らに追われてたんだ?」
とりあえず、今一番気になっていることを聞いてみる康次。
「知りたいなら教えるけど、知らないほうが身のためだと思うわよ」
それに対して少女は、妙に落ち着いた態度で答えた。
「何でだよ?別に死ぬわけじゃないんだろ?」
「死ぬかもね」
そう、彼女は即答する。
今の言い方から察するに、単に冗談を言っているとは思えない。しかし彼自身、何故かその言葉に対して不思議と冷静だった。
「いいから、言ってみろよ」
すると少女は、一瞬驚いた顔をした。
しかしすぐ呆れたような表情になり、本当に知らないわよ、と前置きし──
「…私、堕天者なのよ」
──そう告げた。
「堕天者・・・」
康次はその言葉に聞き覚えがあった。
およそ60年前。人類に突如、生まれながらにしてあらゆる事象を司る特有の異能を持つ者達が生まれ始めた。人類は、そうした新しい人種を総じて【能力者】と呼称した。能力の概要は様々、能力の精度にも個人差があり、国会によって設立された機関、『能力管理会』によって正式にA~Eまで公式に段階分けされ、さらに個人に細かく能力の偏差値が定められている。
彼、岸田康次は鉄や胴、鉛などの金属類を自由自在に操ることのできる、鉄を司る能力を保持する能力者、司鉄者である。そして彼の能力段階は最高のAとされている。
そして堕天者とは──生まれた当初能力を保持していなかった者が、後天的に能力を得た者のことを言う。原因は未だに解明されておらず、堕天者の能力は、最高ランクAのそれを更に上回る力を有しているとされる。
そして…あらゆる研究機関が研究対象として堕天者を欲しがっている、などという都市伝説が出回っている事を彼は知っていた。
ふとそこで彼は思い出したように少女に問いかける。
「なぁ…、ってことは、お前も能力者なんだよな?」
「まぁ、そういうことになるわね」
「じゃあ何で襲われた時に能力使わなかったんだ?」
そう、堕天者であるならば、彼女も能力を保持しているはずだ。それならば、襲われたときに能力を使用し対処することが出来たはずである。
「あの時は、使えなかったのよ」
少女は淡々と言った。
「私は、司水者なの。襲われた時に私がいたのは住宅街を抜けた先。あの時は周りに水がなくて応戦の仕様がなかったのよ」
「なるほど。それで優雅に下校中のこの俺にタックルかました挙句、散々走りまわされた、と」
「それについてはさっき謝ったじゃない。それに、優雅ってとこには疑問を抱かざるを得ないわね」
正直傷ついた。
「能力は他の人より上なのに、いい事なんてない。私が堕天者ってだけで、訳のわからない連中に襲われるなんて、理不尽にも程があるわ」
怒りを抑えきれない様子の少女。肩をわなわな震わせながらも、その表情はどこか、毎日を生きる恐怖を表しているようであった。そして彼女のその言葉に、彼は例の噂のことを思い出す。
「確か、堕天者って──」
康次は、その先の事を口にすべきか一瞬だけ躊躇ったが、言葉を紡ぐ。
「──次々に行方不明になってるって…聞いたことがあるんだが」
少女は頷き、目を伏せた。
「アンタ、都市伝説に詳しかったりすんの?」
「まぁ、そういうのが好きな奴がいてな」
「ふぅん…」
少女は、そこには特に関心が無いらしく、表情を変えずに話し出した。
「『あらゆる研究機関が研究対象として堕天者を欲しがっている』──その通りよ。私、半年前からあの黒い服の奴らに追われてんの。忘れた頃に現れて、いきなり襲い掛かってくるのよ。理由を聞いても答えない。だから調べたの。アンタと同じくそういう関係で頼れる人がいたから、その人に頼んでね。そしたら次の日、その人がアイツらの正体を暴いてくれたわ」
最後の方は、彼女の声は少し掠れていた。康次は顔を上げ、少女に尋ねた。
「んで、その正体は?」
「これはさすがに聞いたことは無いと思う」
少女は一呼吸置いて、告げた。
「そいつらもやっぱり研究機関の内の一つだった。名前は『アルスメナス』って言うらしいわ」
「アルスメナス…」
復唱する康次。だが少女の言うとおり、彼はその名前に聞き覚えが無かった。少女は俯き、一呼吸置いて話し始めた。
「数ある研究機関の中でもかなり有力な所みたい。私はそいつらに目を付けられて、追い回されてるのよ。しかも、奴らに捕まって帰ってこなかった堕天者が多数いるって…」
怯えたようにそう告げる少女。膝を抱えて縮こまるその姿は、道でぶつかった時の気迫がまるでなかった。
「なんだよ…それ」
少女をこうして追い込んでいくその不気味な団体に、康次も思わず身を縮めた。そして同時に、その無慈悲な団体に対しての腹立たしさをも覚える。
「アンタも、もう他人事じゃないかもしれない。私を庇って一緒に逃げて、あいつらのことを知ったんだもの。私はアンタが教えて欲しいって言うから、仕方なく教えただけなんだからね。でもまぁ、アンタの選んだことなんだし、…アンタの、あの力があれば、どうにかなるかもね。せいぜい生き延びなさい」
少女は話すだけ話すと、立ち上がる。
「おい、お前はこれからどうすんだよ?このままずっと逃げることしかしねぇのか?」
康次も慌てて立ち上がり、少女を引き止めた。少女は振り返って、
「今出来ることなんてそれだけよ。まぁ、何とかなるでしょ。…悪かったわね、巻き込んじゃって」
済まなそうな顔をして、そう言った。
「お前だってさっき言ったろ。これは俺の選んだことだ、お前は謝らなくていい。それより、一人で大丈夫か?もうこんな時間だし、送るぞ」
あたりは薄暗く、とっくに日は落ちている。月明かりさえこの狭い路地からしっかりと確認できるほど暗かった。
「心配しなくても大丈夫よ。家はすぐそこだもの。アンタこそ、気をつけなさいよね。それじゃあ」
少女は再び歩き出した。その背中に彼は言葉を投げかける。
「そのリボンの色、同じ学年だろ?俺は4組の岸田康次。何かあったら、言えよな」
すると彼女は立ち止まり、驚いたような顔をして振り向く。
「アンタ…もしかして私の事、知らない?」
「…え?」
その奇妙な質問に戸惑う康次。しばらく考え込むが…。
「…どこかで会ったか?」
「…なるほどねぇ」
少女何かに納得したように呟くと、呆れたと言わんばかりの声色で彼に話す。
「忠告しておくけど、アンタ、ちゃんとクラス全員の顔と名前、把握しておいたほうがいいわよ」
「は?」
少女が何を言っているのか、康次には理解できなかった。それがわかったのか、少女は一つ、ため息を吐く。
「まあでも…、ありがと」
そう告げ、少女は帰っていった。
康次は少女の背中を見送り、自らも帰路に着く。
『堕天者』・『研究機関』・『アルスメナス』。
一日で脳内に叩きつけられた事柄が、康次の頭の中で反芻される。あまりに突然の出来事で、土壇場でありながら、それに対応できた自分が不思議に思えた。
家の前まで来た時、康次はふと思い出す。
「…そういえば、あいつの名前聞くの忘れてたな」
***
翌日、康次は知った。昨夜の少女のことを。彼女の名前は川崎 菘。康次と彼女は実は同じクラスで、窓側先頭の彼の席と対角上…つまり廊下側最後尾に彼女の席がある。康次は菘の昨晩の忠告の意味をやっと理解した。学校では酷く大人しかったらしく、友達がいないわけではないが少ないことは確かだという。
そして、もう一つ驚きの真実があった。これらのことを康次に教えた人物であり、康次の幼馴染である上星 美咲が、その菘の「超大親友っ!!」であるというのだ。美咲曰く、「すずなんは康次のこと知ってたっぽいよ~?」らしい。
その日、康次は彼女と幾度も目線が合うが、お互い(というより菘が一方的に)ガン無視であり、一度も会話を交わしていなかった。
そんな彼らの通う、私立露立高等学校はその日、午前で授業終了であった。康次が帰りの支度をしていると、いつもの調子で俊樹が話しかけてくる。
「岸田、帰ろうぜ」
「おう。ちょっと待っててくれ」
康次は急いで支度を済まし、俊樹と帰路に着く。
教室を出る際、一度中を見回したが、菘の姿は既に無かった。
「岸田って、中学んとき何部だったんだ?」
不意に俊樹が、そんな質問をしてきた。
「…忘れた」
「忘れたって…、二年前の話じゃないか」
俊樹は笑いながらそう言うが、康次の言ったことは大方間違いという訳ではなかった。
実際には、彼にとっては『忘れた』のではない。『知らない』、のだ。
康次は高校入学前までの記憶が無い。いわゆる『記憶喪失』である。
何が原因であるのかもわからない。家族の顔すら覚えてない。ある日、気がついたら病院にいたのだ。しかし、そのことを知っている人物は、その病院の医者・家族を除いて他にいない。彼は友達にも、教師たちにも、「記憶を失くす前の自分」を偽ってきた。両親に普段の自分の接し方を教わり、なんとかバレずにいる、そんな過酷な生活の中に立たされていた。彼は、中学時代の部活など把握していなかった。
康次は不意に昨夜の彼女、菘という名の少女のことが頭に浮かび、
「なぁ、直片。お前、川崎菘と面識あるか?」
口から無意識にそう漏れ、内心自分でも驚く。
「ああ、川崎か。結構静かというか、大人しい奴だったな、一年のときは」
「ん?お前去年アイツと同じクラスだったのか?」
「んまぁ、話したことは無かったけどな。何でそんなこと訊くんだ?」
俊樹のその言葉に、康次はビクッとした。
──…そうだよ。何でこんなこと訊いてんだ、俺は?
特に変なことでもない気がするが、訊かれたほうは確かに気になるだろう。
「いや、別に。ただ昨日少し話をしただけだよ」
「ふぅん…。ま、見た目も悪くないし、ハッキリ言って可愛いと思うしな。良かったじゃないか」
「ああ、まぁ…」
実際、よかった、なんて言える状況ではなかったのだが。
「さて、じゃあ、俺はここだから。じゃあな岸田!」
「おう」
俊樹と別れ、康次は河原の横道を歩いて帰る。
フェンスで遮られた川はそこまで深いわけでもなく、ただ静かに流れ続けていた。
空は晴れ渡り、所々にポツリポツリと雲が浮かんでいる。何の面白みも無い。
川の向こうには高速道路があり、微かに車の走る音が聞こえる。
そんな、のどかで平和な帰り道───
ザッバーーーーーーン!!!
───のはずだったのだが。
「なっ、何だ!?」
起こったのは川の方、何かが水の中で爆発したような、そんな音だった。振り返ると、高く水飛沫が舞い上がり、川は大きく波立っていた。
「何だこれ…っ!?」
康次は辺りを見回した。すると川の向こう、水飛沫の向こうに微かな人影が見えた。
「あれは…」
その人影は確かに。確かに昨日の少女。川崎菘だった。そして、対峙しているのはやはり昨日の黒服3人
で、川岸には全く同じ黒服が2人、倒れていた。
「クソッ!」
康次は道の先にある橋へ駆け出した。向かい側へ渡り、落ちていた鉄釘を拾い上げ、まるでゴムを飛ばすかのように発射する。その狙いは、黒服の一人、一番菘に近い奴の足元だった。
『…!』
黒服は弾き飛ばされ、もう一人の黒服を巻き込んで倒れる。
「…ちょっ、アンタ…!」
驚愕の顔を浮かべる菘。康次は彼女に頷きかけ、足元に落ちている鉄釘を拾い上げる。
すると残りの一人はこちらに気付き、懐から──ナイフを取り出した。
その光景が康次の目に映った瞬間、彼は、固まった。そして、今更気付く。事の重大さというものに。この事態には命が懸かっている。今自分の目の前にいる相手は、必要とあらば平気で人の命を絶つ。彼の目に映るナイフが、それを証明していた。
────やらなければ、殺られる。
それを認識した途端、康次の身体を恐怖感が支配する。動けない。敵は今も、ナイフを構えながらこちらを睨んでいるというのに。
そして、ついに敵はこちらに向かって駆け出す。
それでも康次は動けない。足が鉛のように重い。まるで起きたまま金縛りにあっているようだった。
[死が迫る]
この事実を理解していても身体はいうことを聞かない。そのときだった。
「何やってんだバカヤローーーーーーッ!!」
「っ!?」
突如視界の端に移っていた川の水が巻き上がり、水柱となり彼の目の前を一掃していく。黒服は不意打ちを食らい、横方向に吹き飛び壁に激突して昏倒する。康次は、その場に座り込こんだ。初めての恐怖に血の気が引いて動くことができない。
菘もまた、血の気が引いた顔をして叫んでくる。
「アンタ、何やってんのよ…!?」
「悪い…」
「何で避けようとしなかったのよ!本当に焦ったのよ!?」
「…すまん」
「住まいじゃないわよ!もう本当に…本っ当に…っ!」
「・・・」
菘は声を振り絞るように何かを言い出そうとするが、俯いたまま座り込んでしまった。
「ど、どうした?」
康次は重い腰をかばいながら菘に声をかける。
「私のせいで誰かが死ぬだなんて、そんなの…許せるわけないじゃない…」
震えた声でそう呟く菘。そんな言葉を聞いた彼は、何も言えなくなってしまう。
「…」
「…」
沈黙の中、川のせせらぎが今起こった出来事など忘れさせるように静かに聞こえてくる。
康次は、改めて身を持って感じた。菘の背負っている宿命の重さを。これほどの事を、菘は幾日も続けていたのだ。
「おい、大丈夫か?」
「……別に、アンタに心配される筋合いなんか…」
返答しつつ、菘は立ち上がる。それに康次も立とうとするが、そのとき自らの体に異変を感じた。
(腰が抜けやがった…!)
それがわかった瞬間、途轍もない情けなさに襲われる康次。いくら怖かったからと言って女子の前で腰を抜かすなんて…。
(ヤバい…、早く何とかしないと…っ)
「ちょっと、アンタこそ大丈夫なの?」
菘はこちらの異変に気づき、声をかけてくる。しかし、何かに気づいたような顔をして、急に意地悪そうに笑い、
「はっは~ん、まさか、腰抜かしたとか?」
「う…」
「…まさかの図星とはね」
…泣きたい。というかすでに彼は泣いていた。情けなすぎだ。バカにされたって仕方がない。
「っていうか、お前は大丈夫なのか…?」
「なっさけなく腰抜かしてるバカに心配される筋合いはないわよ」
「ぐぅ…」
康次は俯いた。そしてふと気付く。今日の菘は、昨日より表情の変化が大きい。いや、昨日は暗かった事もあり、ちゃんと彼女の顔を見るのは今が初めてであったりするのだ。
「アンタ、康次って言うんだっけ?」
「ああ、岸田康次だ。お前は川崎菘でいいんだよな?」
「そ。まあ、一応クラスメイトな訳だし、よろしく、位は言っておくわ」
「おう、こちらこそ」
「んで、康次は何でこんなところにいるわけ?」
(いきなり呼び捨てかよ)
なんて、気持ち悪い思考をしつつも、一応ちゃんと答える。
「そりゃ、お前を助けに来たんだよ」
「…ふうん。んで、ことごとく腰を抜かして自分が死にそうになった、と?」
「…」
康次は黙り込み、菘はあはは、と笑う。
「…バカ」
菘は視線を康次から外し、困ったように笑う。
「あんな奴ら、私1人で十分よ。今までもずっと1人で相手してきたんだから。ましてやここは、川もある。私の独壇場よ?助けなんて──」
「んなこたぁ、関係ねえよ」
「──え」
康次はまっすぐ菘を見つめ、言う。
「お前がどれだけ強くたって、どれだけ平気だって、俺はお前を助ける。これからは」
菘は目を見開き、少し驚いたような顔をした。
「大丈夫だってば。別に助けなんていらな───」
「それでも」
菘の言葉を遮り、言い放つ。
「それでも、俺は、命がけで戦ってる女の子を放って置く事なんかできない。そんなことは男として見過ごせないし、な。それに、お前が独りでこんな運命を背負うなんて、間違ってる」
微笑み、しかし眼差しは真剣に、康次は菘を見る。
「だから、これからは、俺も一緒だ」
「…っ」
菘は何かを堪えるような顔をし、後ろを向いてしまう。よく見ると肩が震えているのだが、笑われているのだろうか。まぁ、腰を抜かしている奴からこんなことを言われたら、笑いを誘うのは当然だろう。なんだか格好がつかないな、と康次は頬をかく。やがて、彼女は身体をこちらに向け、そっぽを向きながら、言う。
「し、仕方ないわね…」
一度ため息をつき、
「そこまで言うなら、見せてもらおうじゃないの、男って奴を。ただし、今後一度でも腰を抜かしたら男失格よ」
「わかってるっつの」
少年と少女は、そこでやっと、笑いあう。
空は晴れ渡り、川は静かに流れ、いつもの平和な風景の中。
一つの出会いにより、二つの運命の歯車は軋み、噛み合い、やがてゆっくりと動き出した───
「って、いつまでもこんな所に物騒な場所にいられないわ。ほら、行くわよ康次!」
「ま、待て、まだ腰がッ」
***
「アンタって、美咲の幼馴染なんだっけ?」
「あぁ」
康次と菘の二人は土手を歩いていた。
康次はやっと少し歩けるようになったものの、まだ足が重い。
「私の名前を訊いたのってもしかして…」
「ああ。あいつから聞いた」
「美咲め…。勝手に教えやがって…」
「何だよ、嫌なのか?」
「嫌とかじゃなくてさ、アンタ自分で名簿なりなんなり見て調べなさいよ。つまらないじゃない」
菘はつーんとした表情でそっぽを向いた。
「アイツに訊くのが一番手っ取り早かったんだ。別にお前の名前をどう知ろうが俺の勝手だろ」
「何よその言い方。別に嫌な訳じゃないって言ってるのに…」
「…」
「何よ!」
「何も言ってないだろ!?」
いきなり怒鳴られ、康次は焦りながら返答する。しかしどことなく、彼はこの何気ない会話をとても新鮮に感じた。思えば昨日から重苦しい会話しかしていなかった。
「…ねえ康次」
「ん?」
菘の方に顔を向けると、彼女と目が合う。しかし声をかけてきた菘の方がサッと目を逸らしてしまう。
「…やっぱなんでもない」
「なんだよそれ」
康次は、笑いながらも感じ取っていた。菘はあからさまに、何かを言いたげだ。
「言いたいことがあるなら言えばいいじゃねえかよ」
「今度言うわ。今言っても意味ないし」
「はぁ…」
菘の理解不能な行動に思わず苦笑する康次。そうしているうちに、分かれ道に辿り着く2人。
「んじゃ、私こっちだから」
「一人で大丈夫か?」
「ここまで来れば心配無用よ。それじゃ」
「おう」
菘と別れ、彼も自らの帰路を辿る。先ほど腰を抜かした時から足取りは重かったが、それよりも、今自分の感じている、気分の高揚が気になる康次だった。なぜ自分の心はこうも高揚しているのか…。彼自身わからず、不思議な気分であった。
そんなことを考えている内に康次は自宅の前まで来ていた。
「おーい!こーじー!!」
自分の家の門を通ろうとすると、背後から声が響く。声の方向には、康次の家の向かい側に住む彼の幼馴染、上星美咲が、こちらにぶんぶんと手を振っていた。
「あれ?が校門を出たときに康次を見たような気がするんだけど?」
「そ、そうか?」
まさか、さっきまで死に目を見ていたなんて言えるはずが無い。康次は苦笑しながら適当に返事を返す。
「ああーっ!わかったっ!」
そんな彼の様子をどう捉えたのか、美咲は途端に瞳を輝かせる。
「さてはさては、すずなんと一緒に帰ってたな~?」
顎に手を当ててはっはーんと言いながらいやらしく笑う美咲。咄嗟にごまかそうとした彼だが、よくよく考えれば隠す必要など何もありはしないことに気付いた。
「ま、まあ…そうだけど」
「わっ!ホントにー!?どうどう、すずなんとどうだったー!?」
どうだったといわれても。
「普通に話して帰ったよ」
「え~?つまんなーい…」
美咲は口を尖らせ、露骨にガッカリしていた。
むしろ、幼馴染が無事に生還をしたことを喜んでほしい。──そう思う康次だったがが、生憎美咲はその場に居合わせなかったため、彼らの先ほどまでの一件を彼女は知らなかったのだ。
「今日はいつにも増してハイテンションだな」
これ以上追及されまいと、康次は即座に話題変換を試みる。
「え?むふふー、どうしてか訊きたいー?」
「別に」
「えええええええ!?!?!?!?」
天変地異が起きたとでも言うかのような驚愕の表情を浮かべる美咲。相変わらず、感情の変化が激しい幼馴染である。一度の会話に喜怒哀楽のうち二種類は必ず織り交ぜて話してくるのが彼女の特徴でもあった。そんな彼女はまたしもコロッと表情を変え、今度は得意げな顔──つまりドヤ顔をかましてくる。
「いやあ実はねえ、またパソコン分解しちゃった♪」
「またかよ!?」
「だいじょぶだいじょぶ!今回もふつーに動くから!」
「お前のその技量には本気で尊敬する」
「えっへへ~♪」
機械類に対してはかなり強い美咲。パソコン等の精密機器を容易に改造・修理できる程の技量を誇る。その上、修理し終わった機械は、確実に前より高性能だったりするのだ。
「どうやってその知識を手に入れたんだよ」
「んー、小さいころから機械が好きでね、よく分解して遊んでたりとかしてたんだけど、そのうちに修理の方法まで身についちゃった。康次には小さいころからよくパソコン直してあげたりしてたじゃん?」
「ん、ああ。そうだったな」
そう適当に合わせるも、彼はやはり記憶が無いわけで、そのことも覚えていない。しかし、今日はよく昔のことを掘り返されるなぁ、と汗をかく康次。そうでなくとも、心臓に悪い日々である。
「ホントに覚えてる~?なーんか怪しいなあ」
「記憶が曖昧なだけだよ。本当に覚えてる」
「ふーん。まーいーけど」
さして気にしていない様子の美咲であったが、妙に慌てていた彼は即座に話題変更に移る。
「そういえば、今日はおばさん家にいるのか?」
「ん?今日はいるよ。明後日はいないけどね」
彼女の両親は夜も多忙であり、時々帰りが遅いことがあるらしい。そんな彼女の為に、康次は美咲の両親がいない日には彼の家で夕飯を一緒にしよう、という事にしていた。
「そっか。んじゃ、また明後日うちに来いよ。好きなもん作ってやるよ」
「ホントに?じゃあねじゃあね、私ハンバーグがいいな~!…あ、でもおばさんは?迷惑じゃないかな?」
「ああ、確かその日は残業があったはずだ。それに、母さんもお前に会いたがっていたぞ」
「私も久々におばさんといっぱいお話したいよぉ…!それにしても、お互い大変なんだね」
「そうだな。じゃあ、また明日な」
「うん!あ、また新しい都市伝説見つかったら教えるね~!」
「おう」
玄関先で挨拶を交わし、家の門をくぐる康次。
──彼が記憶を失って間もないころ、彼の心の支えとなってくれていたのはいつも美咲だった。少しくらいは恩返ししたいと思いつつも、何だか何もできていないような気がしている康次であった。
(それしても、都市伝説、か…)
脳裏に過るのはやはり、先程対峙した黒服の連中[アルスメナス]と、菘の事であった。
☆
「あー…、眠い…」
翌朝、康次はいつものようにのろのろと登校していた。
家から学校までの距離を徒歩で行く彼は、毎朝それなりの早起きをしているのだ。
「ふわぁぁ~…」
暖かな日光と早起きのせいで、大きなあくびが漏れる。決して軽い訳ではない足取りで歩く。
あぁ、またあくびが出る…。──と、大口を開けた、そのときだった。
「ふわぁぁ――ぁうあああ!?」
いきなり首筋に冷たい何かがかかり、絶叫する康次。驚き、後ろを振り向くと、そこには一人の少女がこちらを見てイタズラっぽく笑っていた。
「なぁに朝っぱらから辛気臭い雰囲気醸しだしてんのよ、こっちの気分まで下がるじゃない」
「す、菘…?ってことは今のは…」
「水よ、み・ず」
そう言って、彼に水をぶっかけた人物──川崎 菘は、掌で透明の液体を渦巻かせていた。そういえば、彼女は司水者だったなと、一瞬思い出す康次だが、すぐに自分の状況を思い出す。首にかかった水の量はそこそこ多くかったらしく、背中までぐしょぐしょになっていた。
Yシャツは背中に張り付き、風が吹くと首と背中が少しひんやりする。寒い!
「なっ、お前何すんだよ!濡れちまったじゃねえか!?」
「この天気よ?乾くに決まってんじゃない」
菘が指差す先からは、この頃強さを増してきた日差しが降り注いでいた。
「乾く乾かないの問題じゃねえ!!」
「ギャーギャー騒ぐんじゃないわよ、朝から非常識な奴ね」
「登校中に水ぶっ掛けてくるお前のほうが非常識だ!」
菘はハイハイ、と言いながら手をヒラヒラしてくる。
「くっそ、華麗にスルーかよ…」
康次は菘のマイペースさに負け、脱力してしまう。朝からこうも振り回されたせいで、重かった足取りが更に重くなった。
「そういえば、朝はあの連中、追って来たりするのか?」
あの連中、と言うのは昨日康次たちを襲った黒服達のことである。先日の一件で、彼は菘の用心棒となる事を彼女と約束したのであった。
「朝は来た事ない。大抵は放課後よ。大体朝から黒い塊が彷徨いてたら誰だって怪しむでしょ」
「いつ彷徨いてても怪しいけどな」
苦笑しながらそう言う康次。次また奴らが襲ってきたとき、自分はちゃんと、菘を守る事が出来るのだろうか。いや、守らねばならないのだ。たとえ彼女が堕天者で、一人で戦える程の強さを持っていたとしても。
「…ねえ、康次」
「んあ?」
名を呼ぶ菘に顔を向けると、彼女と目が合う。菘は、少し俯いた後、小さな声で呟く。
「…き、昨日は…ありがとう…」
なんて言う菘。こんな風に素直に礼を言われると、康次も気恥ずかしくなるわけで。
「お、おう…」
なんて、顔を逸らして返事をする。
そうしているうちに見えてきた校門を前に、はっとする康次であった。
***
その後の学校での様子は慌ただしいものだった。昼休み、いつものように俊樹、哲哉と談笑していた。
「さっきの現代文の小テスト、岸田何点だった?」
そう訪ねてきた哲哉に、康次はふふんと鼻を鳴らしながら答える。
「89点だ」
「なっ、てめぇ俺を置いて勉強しやがったな!?」
と、机を叩いて康次に抗議する哲哉を見た俊樹は、面白そうに自らも口を開いた。
「はは、俺は満点だったぞ」
「くそ、やっぱ直片には敵わねーか」
「なんでお前ら俺を置いてそんな高い点数とってんだよ畜生!」
と、喚く哲哉に、二人は苦笑いする。
「じゃあ、霧町は何点だったんだ?」
康次はニヤニヤと笑いながら、右手にくしゃくしゃに丸められた用紙を掴んでいる哲哉に問う。すると哲哉は恨めしそうに康次を睨み、大声で嘆く。
「32点だよッ!!」
そういいながら、彼は右手の紙ボールを康次めがけて投げつける。
「あっぶね」
ひょいと身体を横にずらして紙ボールを避ける康次。次いで後ろから紙ボールが何かにぶつかる音が聞こえ──
「す、すずなん大丈夫?」
「…」
物凄く危うい状況になった事を察した康次。恐る恐る振り返ると、こちらを睨む菘と目が合った。どうやら康次が投げたと思っているらしい。
「ま、待て誤解だ。今のは俺じゃ……」
そういう彼の視界には、拳を固く握ってこちらにつかつかと歩み寄るひとりの少女の姿が鮮明に映っていた。
「理不尽だ…」
放課後、まだ痛む頭を押さえながら廊下を歩いていた。日直の仕事を終え、教室に鞄を取りに行くところだ。ガラ、という音を鳴らして教室に入ると、もう教室に人はいないようだった。ほとんどは各々の部活に出席し、帰宅部は今日も己の帰宅精神に突き動かされ、颯爽と帰っていったのだろう。ほんの少しだが赤みを帯びた空に、うっすらと雲がかかっている。
時計を見るとちょうど4:30だった。
「あれ…」
教室には、菘の姿が見当たらない。昨日用心棒宣言したばかりだと言うのに、菘はさっさと学校を出てしまったらしい。
「あのヤロ、またなんかあったら…」
今ならまだ追いつけるかもしれない。康次は早足に校舎を出た。
校門を過ぎ、住宅街に入る。その住宅街を抜けると、木の生い茂った道に出る。このあたりは人通りが少なく、いつも静かな空気が流れていた。─と。
その道の端に、例の少女がいることに気付く。
「…菘」
「あ、遅かったじゃない」
「あのなぁ…!一人じゃ危ねぇだろ。何かあってからじゃ――」
「大丈夫よ、どんだけ私がこんな生活続けてきたと思ってんの?」
「そういう問題じゃな――」
「…待って」
つくづく人の話を遮るのが好きな奴だ、と康次は諦めて溜息を吐く。しかし、強張る彼女の表情から、彼は察した。これは何かがあったと見て間違いないだろう。
「昨日の連中、いるのか…?」
小声で尋ねると、菘はこくりと頷いた。康次たちの間に戦慄が走る。
「来るのか?」
「来る、というより、もう来てるわね」
その言葉に、昨日の記憶が彼の脳裏を過ぎる。死の恐怖を実際に感じたあの時、康次は動くことができなかった。恐怖に身体の自由を奪われ、頭の中は真っ白になって…。
――もし今回も、動けなかったら…。
康次の首筋を冷や汗が伝った。
「…いたわ。前」
「あれか」
そう、確かにいた。遠くにいるのでよくは見えないが、確実に黒い塊が2体、蠢いていた。いや、ただそう見えただけだが、黒服の連中はそんな気味悪さを帯びていた。
「やり過ごすわよ」
菘は左、康次は右の木陰に隠れた。
「…お、これは」
康次の隠れた木陰に、錆びれた鉄パイプが落ちていた。こんなところで鉄を見つけるとは、ラッキーだ。何かあったときにはこれを使えばいいだろう。
一方、連中はいくら経ってもその場を離れようとしない。
「奴ら、待ち伏せのつもりか?」
「そうみたいね…。なら、道を変え…──ッ!?」
そこで菘は言葉を切り、康次の背後を見て絶句した。
「ん…?どうした」
「康次ッ!!後ろッ!」
「ッ!?」
咄嗟に振り返った康次の背後には、今にも小刀を振り下ろさんとしている、人影。
康次はとっさに右手に持っていた鉄パイプをかざし、防ごうとする――が。
鉄パイプは無情に手から滑り落ち──結果、康次は右手を敵の前にかざすことしかできなかった。
「──っ!!!!」
やられる、康次は覚悟した。
反射的に目を瞑る。
「────?」
しかし、いくら待っても、攻撃がこない。
その代わり、目を瞑っていてもわかるほどの閃光と、凄まじい轟音が、康次を照らしているのがわかった。
──何が起きているんだ…?
康次が目を開けると、目の前には青い閃光が生まれていた。
そして、翳した右手。その先に───
「なんだ…、これ…ッ!」
赤黒く光る球状の塊が、彼の掌を庇う様にそこにあった。そして、その塊が、相手の振り下ろした小刀を的確に捉えている。その、黒い塊の影響か──小刀は康次には届かず、その空間に留まっている。
──一体何がどうなっているのか。
彼の戸惑い、それに呼応するかのように、赤黒の塊は弾け、刀を携えた人影は後方に吹き飛ばされる。
康次は落とした鉄パイプを拾い上げると、細かく球型に分裂させ、その一つを手に取った。
小さな鉄の弾をまるで輪ゴムを飛ばすかのように引っ張り、打ち出す構えをとる。
───もう昨日のような失敗はできない。
心の奥のそんな覚悟が、康次を瞬間的に突き動かしたのだった。構えた先の相手を見据え、康次は言った。
「お前らの目的は、何なんだ…ッ?なんでこんなことをするッ!」
訊きたいことなど、今はそれだけしかなかった。いつでも打ち出せるよう、細心の注意を払いながら、相手を睨む。しかし、よく見ると、相手は黒い服など纏っていない。
それどころか──その服装には見覚えがあった。
と、そこで目の前の相手は、ゆっくりと口を開いた。
「貴方たち自ら口を利こうだなんて…どういう風の吹き回しかしら?」
──こいつ、前にどこかであったか…?
相手は確かにその様な口振りである。顔は伏せられて見えない今、人物も特定できない。黒の長髪、華奢な身体を包むのは、なんと菘と同じ制服であった。しかし、襟元のリボンの色は、三学年の色、青。
そこで再び彼は疑問に思う。何故この人は自分たちに攻撃を仕掛けてきたんだ?
前にいる“三年生”はゆっくりと顔をあげる。
「…え?あなた…は…」
しかし、向こうもこちらを直視すると、顔色を変える。そのまましばし硬直。ややあって、
「ご、ごめんなさい!あなた、怪我はない!?」
相手が敵ではないという事を理解したようで、慌てて謝罪の言葉を口にした。
「あ、いえ、…大丈夫っす」
康次は康次でこれしか言えなかった。何せ彼も何が起きているのか理解が追いついていなかったのだ。
「本当にごめんなさい!私、てっきり…。あ、えっと、構えるのをやめてくれるかしら…」
「え?…あ」
康次は緊張のあまり、撃ち出す構えを解くことをすっかり忘れていた。手を降ろし、康次はひとつ溜め息をつく。先程から訳がわからないことが起こっている。
なぜこの人は康次達を襲ったのか。そして。
今しがたこの人をを弾き跳ばした、あの黒い塊は一体何なのか。
気付くと、身体は猛烈な怠さに襲われていた。足は重く、呼吸も荒い。まるで体育で持久走を行った直後のように、視界が揺れている。
「え?あか…り先輩…?」
と、後ろから声が発せられ、康次が振り向くと、目を丸くした菘がそこにいた。『あかり』。この先輩は今そう呼ばれた。聞いたことのない名前だし、そもそも見覚えすらないが。しかしこの人が、自分達の学校の3年生だということはわかった。
おまけに、菘は彼女の事を知──
「あれ?すずちゃん?」
──っているどころか、お互いに面識があるらしい。すずちゃんとか言われている。
「先輩!何でこんなところに?」
「すずちゃんこそ、どうして?」
康次は原因不明の微妙な疎外感に肩をすくませながらも、ひとまず『あかり』先輩に質問を投げ掛ける事にした。
「先輩、あなたは一体…」
「ごめんなさい、私は3年の釘中灯。えっと…」
自己紹介の後、灯は少しいい淀む。すると横から菘が話す。
「先輩、コイツには、事情を話してあります」
「あら、この子が昨日言っていた…」
その時何かを思い出したのだろうか、真剣な眼差しでこちらを見る。
「ごめんなさい、今は説明している暇はないの。後でいいかしら?あなた—アルスメナスの奴らとは、一度戦ったのでしょう?」
「え?」
灯の予想外な言葉に康次は目を丸くした。
──この先輩は、アルスメナスの事を知っている。
先輩が康次達を攻撃した理由は、康次達をアルスメナスと勘違いしてしまったからなのだった。
ならば、この危機を脱するには──
「康次君、少し、力を貸してくれないかしら」
──協力する必要がある。
「もちろんです」
小刀を握り、灯は道の奥に視線を向ける。
「さて、アイツ等を…片付けないとね」
「気づかれたみたいね」
菘はそう言いつつ、鞄の中から筒状の物を取り出す。康次もそちらを見ると、黒い塊がいくつかこちらへ向かってくるのを確認する。
「菘、それは?」
康次も鉄の球をゴムのように引っ張り、道の奥に向かって構える。
「水筒。何もないと危険だし」
「なんで一昨日は持ってなかったんだ──よッ!」
そうツッコミながら、威嚇射撃のつもりで小さな鉄球を黒服達の足元へ放つと、黒服達は横へ跳び攻撃をかわし、こちらへ突っ込んでくる。黒服の人数は──
「5人ね」
即座に灯は余裕を見せる口調で告げた。
5人となると人数的には不利だが、やるしかあるまい。
康次は掌に収まっている鉄球に意識を集中し、イメージする。すると鉄球は青く光り始め、1つの鉄球にまとまってゆく。金属を変幻自在に操ることのできる、司鉄者の為せる技だった。
1人の黒服が康次にナイフを向け、まっすぐ突っ込んでくる。康次は弾をゴムのように引っ張り、打ち出す。打ち出した弾は康次の手から離れると同時に散弾と変わり、黒服のいる地面へと炸裂した。
鉄球は地面をえぐり、激しい衝撃を以って黒服を吹き飛ばし、昏倒させる。
「菘!」
「わかってるわ」
菘は水筒の蓋を開け、一気に水筒の口を下へ向ける。水筒の口の下に手を翳すと、水筒の中の水は菘の手に吸い込まれるようにして集まり、まるでゼリーのように掌の上で静止揺らめいていた。
「喰らえっ!!」
水の柱はかなりの速さで菘の手から真っすぐに黒服の1人へと撃ち出され、命中する。吹き飛ばされた黒服はもう1人の黒服へ激突し、後ろにあった大木に身体を叩きつけられ崩れ落ちた。
「残りは…!」
「私がやっておいたわ」
後ろからそう言われ振り向くと、灯が両手に黒服の首根っこを掴み、立っていた。
二人の黒服は、首も手も力なく垂れている。
「大丈夫。しばらく起きることはないわ」
どさり、と黒服を放る。峰打ちで倒したのだろう、小刀に血は全くついていなかった。小刀を鞄へ仕舞いながら、康次たちへ歩み寄る。
「二人とも怪我は無い?」
「俺は大丈夫です」
「私も、大丈夫です」
「ならよかったわ」
灯の微笑みに康次の緊張も解ける。
「あ、そうそう、自己紹介がまだだったわね。私は3年の釘中灯。よろしくね」
落ち着いた笑顔で挨拶をする灯。彼女は、何か伺うような素振りで、康次に訪ねた。
「二年の岸田康次です。よろしくお願いします」
康次は少し緊張した面持ちで会釈をする。そして、今一番彼女に聞きたいことを口にした。
「先輩。この黒服の奴等のこと、何か知ってるんですか?」
──何が目的なのか。
──どういう組織なのか。
康次には目の前の少女がそれを理解しているように思えた。
「そうね…確かにあなたには話しておいた方がいいかもね。でもコイツらが目覚めても困るし、場所を変えて──」
言いながら灯は身を翻す。顔だけこちらを振り向かせる。
「──情報交換といきましょうか」
☆
「お邪魔します」
「お、お邪魔します…」
「どうぞ。こちらです」
康次は何故か緊張した面持ちで、家の中へと入る。
場所を移すことにした康次たちは、菘の提案により、彼女の家を訪れていた。灯はそれでも構わない、と言ってくれたし、家に帰れば菘が襲われる心配もない、そう思った康次も賛同した、のだが。いざ女子の家へご招待頂くと、純情男子な康次は緊張を抑えることができず、少しうつ向き気味になってしまう。そんな自分に嫌気すら差し始める康次。
──ああ…俺のヘタレ。
悲壮感にうちひしがれている間に、康次と灯はリビングに通された。
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね。今着替えてきます」
菘はそう言い残し、廊下へ出ていった。階段を登る音が遠ざかる。
敷かれた座布団に腰を下ろすと、なんとなく辺りを見回す。とても綺麗に片付いていて、埃ひとつ無いようにも見え、清潔感が漂っている。
「ええと、康次君、だったわよね?」
「あ、はい」
いきなり横から灯に話しかけられ、少し驚く康次。
「いきなりごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかしら?」
先程と同じ穏やかな笑みを浮かべ、灯が尋ねてくる。一瞬だけその微笑に見とれそうになったが、どうにか抑える。
「はい、構わないっすよ」
「ありがとう。あのね…」
その言葉の次には、灯の微笑は消えていた。何かを抑え込むように表情が曇る。
「君のことは昨日、すずちゃんに聞いたわ。康次君はすずちゃんのこと、もう知ってるのかな?」
「…」
息が詰まる。
菘のこと。それはきっとそのままの意味で取るべきでは無いものだと悟った。
灯は、──康次の表情から読み取ったのだろう──静かに語り始めた。
「あの子は、今までずっと大変だった…。初めて会ったときは、病気なんじゃないかって思うくらい落ち込んでたの。今は大分よくなったけど、それでも心配で、ね」
菘が背負っているモノ。それは決して全てを口で説明できるような事ではない、彼はそう感じた。あの強気な菘が追い込まれるほど、それまでの生活は過酷で、悲惨な物だったのだろう。
「だから、あの子から康次君のことを聞いて、とても安心したの。きっとあの子も安心できてると思うもの」
「そんなこと…」
正直、安心させてあげられている自信がない。昨日腰を抜かしたばかりだと言うのに。むしろこっちが迷惑をかけてしまっているとも考えられるのでないだろうか。
「ううん、きっとそうよ。あの子は、あなたが側にいてくれるだけで安心するの。だからね、康次君──」
一度目を伏せ、優しい笑みを康次に向け。
「──もしよかったら、あの子のこと、守ってあげて欲しいの」
そう、まっすぐな瞳で言う灯。その乞いに対する返答は、もうとっくに彼の中にあった。
「もちろんです。俺は、菘と、菘を守りたいと思う俺自身のために、この力を使うって…そう、決めたんです」
彼は、言い切った。
それは、確かな覚悟を込めた。
それは、確かな意思を込めた。
そんな言葉だった。
「…安心したわ。ありがとう、康次君」
お礼を言われ、何だか康次はこそばゆくなり、同時に、今しがた自分の発した言葉を思い出し、急に恥ずかしくなる。と、そこで灯が唐突に口を開く。
「そういえば、あなたの能力って──」
「すみません、お待たせしました」
その言葉は、着替えを済ませ部屋から戻ってきた菘に遮られてしまった。
☆
「さて、それじゃあ始めましょうか」
私服に着替えた菘が部屋へ戻り、康次たちは情報交換を行っていた。
「まず、あなたたちに何があったのかを聞かせてもらえないかしら」
そう言って灯は小さなメモ帳とペンを取り出す。
康次は、一昨日の夕方に襲われていた菘と出会いアルスメナスの一団を撃退したこと、昨日の放課後に再び襲われていた菘を助けたこと、そして今日の経緯を話した。
灯はスラスラとメモを取りつつ、真剣な表情でその話を聞いていた。
康次が話し終わり、同時に灯もメモを取り終え、小さく息を吐く。
「なるほど、大変だったわね…」
言いながら、メモを鞄に仕舞う。説明し終えた康次も息をつき、目を閉じうつ向く。少し疲れてしまった。
「先輩は、何かわかったんですか?」
菘がそう問うと、灯は頷く。
「奴らの居場所は今調べているわ。私が持っている情報は、近隣には少なくとも中継司令塔なるものが四つはあること。そして今のところ、被害はこの日本だけ、というところかしら」
被害は日本だけ、というのも、能力者は世界各地に存在する。しかし各地と比べ、日本は能力者の数が圧倒的に多く、しかも堕天者の存在はこの日本でしか確認されていない、という話だった。
「でも、このままにしておけば、いずれは世界規模にまで発展するでしょうね。確認されていないだけで、世界の何処にだって堕天者がいる可能性は十分にあるもの。そうなる前に、アルスメナスを潰す必要がある」
「でも、どうやって…。俺らだけじゃ、どうにもならないんじゃないんですか」
日本各国に存在し、しかもろくに場所もわからない組織を潰していくなど、不可能と言っても過言ではない。
「奴らに対抗するための組織は、もうあるのよ」
「えっ!?」
康次は目を見開く。灯はそんな彼を見やり、頷く。
「あるの。アルスメナスに対抗するための、組織がね」
読んでくださり、ありがとうございます。いかがでしたでしょうか。
書き始めたのはなんと中二で、当時勢いで始めた小説なので表現技法や文法がおかしかったり伝わらなかったり、といろいろあると思います。
厨房の中二病が始めたにわか小説ですので、至らぬ点満載ですが、読んでくださっている方…がおられるのなら、アドバイスなどを聞き、更なる精進をしたいと考える次第でございます。
それでは、また二章で。