決して諦めない婚約破棄
「アイーシャ・ランブルグ公爵令嬢! 貴様とは今日で婚約破棄だ!」
王立学園の卒業パーティーで、バルト王太子が言い放った。
王太子の腕には、勝ち誇った表情を隠しきれていない伯爵令嬢のミランダが。どこから見ても婚約破棄の理由は明らかだった。
「かしこまりました。お二人の幸せをお祈りしています」
アイーシャは優雅に一礼すると、二人に背を向けて会場を去った。
そのあまりの呆気なさに、バルトとミランダが唖然としてしまうくらいに。
「あーっ、スッキリした!」
公爵邸に戻ったアイーシャは、ドレスを脱ぎ捨てて、平民の着るようなワンピースに着替えた。布地には、鮮やかな朱色の花が描かれている。
気分も軽くなったアイーシャが居間へ行くと、そこには父と母と兄と妹が揃っていた。
「まあ珍しい! 家族全員揃うなんていつぶりかしら? ああ、そもそも私がこんなに明るいうちに家に帰れるなんて、随分前から無かったものね」
機嫌良くソファーに座るアイーシャに、父が言った。
「何だその品がない服は」
「はい。もう『王太子の婚約者』ではないので好きな格好をしようかと思いまして。あ、そうだ。私、婚約破棄されました」
「知っておるわ!」
「さすがはお父様。情報が早いですわね」
部屋に控えている侍女が淹れてくれた紅茶を飲んでひと息つく。
「それでいいの? アイーシャ」
母が心配そうに聞いた。
その問いに
「まあ、仕方ないですよね。真実の愛なら」
と、アイーシャが明るく答えると、
「何が仕方ないだ! お前は、なぜ諦めが早いのだ! 簡単に諦めるな!」
と、父が怒った。
「なぜ諦めが早いのかって……。婚約してから十年間、とてもたくさんの事を諦めてきたからですわ」
当たり前でしょう?、という感じで返すアイーシャに、
「何を言っている。私がお前に不自由をさせたか?」
と、父はさらに怒りの形相だ。
「例えば、夏の避暑の家族旅行。私は十年前から連れて行ってもらえませんわ」
「え? お姉様は勉強の方が大切だから行きたくないのでしょう?」
妹の驚きの声に
「いつ、私がそんなことを言ったの?」
と、静かに返す。
「いつって……」
アイーシャは言っていない。
むしろ、自分も連れて行ってと縋り付いたのだ。
「王太子の婚約者の勉強があるから、と、どんなに泣きわめいても連れて行ってもらえませんでしたね」
薄く笑ってアイーシャは続ける。
「そんな私を持て余したのでしょうね。お父様とお母様は私に約束してくださったのです。『時間が出来たら、お父様とお母様と三人だけで旅行に行きましょう』って」
父と母は、アイーシャの視線から目を逸らす。思い出したようだ。
「私、本気にしましたわ。笑顔で皆の帰りを迎えて、私の番はいつ来るんだろう。突然『さあ、これから出発だ!』なんて言われたらどうしましょうって、毎日わくわくしていました」
部屋に沈黙が降りる。
「わくわくしているうちに次の夏が来て、また私は置いていかれました。そして私は家族との旅行を諦めましたの」
アイーシャはさらに続ける。
「他には……そうそう花柄のドレス。あれが流行した時、私もとても欲しかった。お母様にお願いしたら仕立ててくれると言われて、飛び上がって喜びましたの」
妹は、そう言えばそんな流行があったと思い出しているようだ。
「届いたドレスを見てどれだけがっかりしたか。灰色の花柄でしたのよ。今思えば、上品な良い物だと分かりますが、当時の私は何でこんなおばあちゃんみたいなドレスを着なくちゃいけないんだとベッドに潜り込んで泣きました」
「そ、それはね、軽薄な流行に乗るなんて淑女にあるまじき行為だからです」
母が諌めるように言う。
「ええ。お母様はあの時もそうおっしゃいました。だから、後で妹が赤い花柄のドレスを着て軽薄な流行に乗っているのを見てどれほど驚いたか」
「……」
「私は、流行のドレスを着る事を諦めました。でももう婚約破棄されたので、これからは好きな服を着る事にしましたの」
と、アイーシャはワンピースの胸に手を置いて微笑む。
「他にも、人気の歌手の歌を聞きに行きたいと言ったら、用意されたのはオーケストラのチケット。ガラス細工の髪飾りが欲しいと言ったら、届いたのは重くて古くさい金の髪飾り。その他にも色々、どれくらい私が諦めてきた事か」
父も母も、何かを言おうとするが何も言えない。
「このたび『王太子の婚約者』の座から解放されたので、これからは自分の好きにさせていただきます」
冷めた紅茶を飲み干して微笑む。本気で嬉しそうだ。
「でもね、アイーシャ。王家はお前を離さないと思うよ。残念ながら、バルト王子は凡庸だ」
今まで黙っていた兄が口を開いた。
「ええ、バルト様は決して暗愚では無いのですが、凡庸です」
凡庸、つまり平凡。
勉強するより遊びたい、公務をするよりデートに行きたい。平凡な男子だ。
「その王子を支えていたのがアイーシャだ。残念ながら他の令嬢にそれが出来るとは思えない」
「でしょうね。バルト様の遊ぶ時間を作るために、私が下調べをしたり、草稿を作ったり、ミーティングをしたりスケジュール調整したりして支えていましたから。バルト様以外は私を逃がしたくないでしょう」
アイーシャは、それが自分の役目だと信じていた。
「でももう、婚約破棄したのですから私には関係ありません。私は旅行に行かせてもらいますので、王家が何か言ってきたら『いつ帰って来るか分からない』と返してくださいな」
「勝手な事を言うな!」
また父の怒りがぶり返した。
「十年分の旅行をさせてもらうだけですわ」
「許さん。馬車も護衛も貸さんぞ。公爵家の物を使うことは許さないからな!」
父の断言をアイーシャはさらりと流す。
「要りません。帝国の大使の御一行が帰国されるそうなので、同行させていただく事にしましたので」
さすがに全員が言葉を失った。
「そのような! 公爵家の令嬢が厚かましく人の善意に頼るなんて」
母が悲鳴のような声を出した。
「同行させてもらうための旅費や食費や宿代はちゃんと支払いますので、ご心配なく」
「その金も公爵家の金だろう!」
「いいえ」
アイーシャは笑顔で続ける。
「トルマリン商会の方が以前『専門用語の帝国語の翻訳に苦労している』とおっしゃっていたので、翻訳と通訳に私を売り込みましたの。思った以上に高い支度金と報酬の前払いをくださいましたわ。帝国に着いたら商会で働きます」
「まさか、貴族令嬢が働くと言うのか?」
「そんなみっともない……!」
父と母が驚いている。
「バルト様のために無償で働くのは良くて、自分のためにお金をもらって働くのは何故いけないのですか? 別に体を売るわけじゃなく、売るのは私の知識ですよ?」
「へえ、アイーシャにはそんな特技があったんだ」
兄が驚いた顔をするので、アイーシャは密かに鼻高々だ。
「はい。私は、政治・経済・物流・宗教、どんな専門用語も翻訳出来ますわ。先月、皇帝御一家が訪問された時、不自由無く会話出来たので通訳も問題ないでしょう。決してトルマリン商会に後悔はさせません」
「そんなに……」
「バルト様が帝国語が苦手なので、外交部の方々とあらゆる単語の翻訳に取り組みましたの。テキスト化しておけばバルト様にも何とかなるかと思いまして。おかげで私は知識が付きました」
だが、自信満々だった表情が曇る。
「……でも、バルト様はそんな私より、いつも近くにいてイチャイチャできる女性の方が良かったみたいですね」
男性とはそういうものなのでしょうか。次があったらこの経験を役立てましょう、と独り言ちているアイーシャ。
「とにかく、私は旅行に公爵家の物を何一つ持って行きませんのでご心配なく。この服も自分のお金で買いましたのよ」
これで何の問題もありませんね、と言うアイーシャに、
「アイーシャ、お前はいつから計画を立てていたんだい? どうやら今日の婚約破棄は想定内だったようだね」
と、兄が呆れたように言った。
「そりゃあ、だてに長年バルト様の行動を先読みして手を打って根回ししてフォローしていたわけじゃありませんわ。婚約破棄なんて簡単に予想できたので、対策を講じてました」
「侍女たちは何をやっている! アイーシャがそのような計画を立てていると、なぜ報告をしなかった!」
父の怒りが今度は部屋に控える侍女に向かうのを、アイーシャが止める。
「お父様。侍女たちが私付きになるのを『ハズレくじ』と呼んでたのをご存知?」
父は、信じられない、という顔になる。王太子の婚約者の侍女など名誉なはずだと信じて、疑った事も無かったようだ。
「お兄様や妹付きになれば、遊びや旅行に行ったり社交もして、華やかでうまみも出会いも期待できる日々だけど、私が行くのは王宮と役場、遠くだと視察、どこに行っても会うのは年配の男性ばかり。そりゃあやってられませんよね」
侍女がうつむく。
「だから、『今日は付いて来なくていい』と言えば喜んで私一人で送り出してくれますの。護衛は部屋の中まで入りませんから、帝国大使とも、トルマリン商会ともじっくり話ができました」
父と母は頭を抱えた。
自分たちが「王太子の婚約者として」と娘にしてきた事が、全て裏目に出てしまった。
そこに執事が 「アイーシャ様にお客様です」と告げに来た。
「お待ちしてたわ! すぐにお通しして」
と、立ち上がったアイーシャは引き出しから新聞を切り抜くためのハサミを取り出すと、ジャッキリとためらいもなく自分の長い髪を切った。
「アイーシャ!」
「なんて事を!」
ザンバラ髪になったアイーシャに家族が大騒ぎの部屋に来たのは、きっちりとしたドレスを着込んだアイーシャと同じく髪の短い女性だった。
「どうしましたアイーシャ!」
「クリステラ様!」
「なんだ貴様は! おかしな髪をしおって」
髪の短い女性は、優雅に一礼した。
「初めまして。この度アイーシャ様と帝国まで御一緒する、帝国大使の秘書官のクリステラです」
「女が秘書官……?」
父が驚いている。
アイーシャも、先月皇帝一家と共にやって来たクリステラを初めて見た時は驚いた。
帝国では、女性が働くのが珍しく無いのだそうだ。短い髪も普通だとか。
短い髪を揺らして大使と対等に働き、自分のした事の成果も責任も自分で引き受けるクリステラの姿は、バルトの影となって支えるのが自分の役目と思っていたアイーシャを目覚めさせた。
婚約破棄されたら、この国を出よう。
その決断は、目の前が一気に広がる思いだった。
アイーシャがクリステラと共に部屋を出ていこうとするのを、父が慌てて止める。
クリステラは、穏やかに問いかけた。
「公爵閣下。皇帝陛下の招待を断る理由をお聞かせください」
「こ、皇帝陛下?」
「はい。先月訪問された皇帝陛下が、帰国の時に公式の場でアイーシャ様に『ぜひ一度、帝国に遊びに来てくれ』と発言されました。今回は『皇帝陛下の招待を受けるため』と、出入国の手続きをいたしております」
「………」
先月、皇帝一家が訪問された時、幼い皇子と皇女は疲れていた。いや、はっきり言って飽きていた。
アイーシャは次の日、今日は自分が皇子と皇女にこの国の勉強を教えると言って、視察には皇帝夫妻だけで行ってもらった。
勉強と聞いてうんざり顔の皇子と皇女にアイーシャが教えたのは、この国の民がお祭りで踊るダンス。
老若男女が踊れる簡単なステップを、アイーシャは太鼓の代わりに小さなテーブルを木の棒で叩いて二人に教えた。
「トンで右・トンで左・トトトン回って後ろにトン! はいもう一度」
キャッキャと騒ぎながら皇子たちがステップを覚えたら、顔馴染みの身元のしっかりした文官や女官たちに来てもらって、急拵えのダンスパーティーをした。
皇子が、教えてもらったダンスを申し込むポーズをすると、可愛らしさに一気に場が盛り上がった。文官も謹んで皇女にダンスを申し込み、皇女も嬉しそうに彼の手を取る。
机を叩くだけだった演奏も、どこからか持って来た笛や打楽器、調子に乗ってきた文官の指笛などで賑やかになる。
その日、皇子と皇女は踊りに夢中になって楽しんだようだった。
まさか、皇帝一家の帰国の時に皇子と皇女が自分の足にしがみついて泣くほど気に入られたとは思っていなかった。
困ったアイーシャに、皇帝が
「ぜひ一度、帝国に遊びに来てくれ」
と言い、皇子たちに
「帝国でアイーシャが来るのを待とう」
と納得させた。
「まさか、本当に帝国に行けるなんて」
アイーシャは、公爵相手にも物怖じせずものを言っているクリステラを尊敬の目で見ていた。
一方、クリステラも思いがけず転がり込んだアイーシャに好感を持っていた。
ダンスパーティーをした翌日、退屈な視察先で皇子と皇女は野次馬している町の子供たちに、覚えたてのダンスを申し込むポーズを取った。
「え? これってまさか?」
と思う間もなく子供の手を取ってダンスを踊り出す。
あっけにとられた周りの大人たちも、やがて手拍子の輪が広がって、僕も私もと子供たちが団子のようになって踊り始める。
帝国の皇帝の子供たちが平民の子供と自国のダンスをする光景に、視察先の役人たちの態度が目に見えて変わり、皇帝一家の視察のスケジュールは今までになく友好的に進んだ。
「こうなるのを見越して皇子たちにダンスを教えたのだとしたら、あの婚約者の令嬢は末恐ろしいな」
「あの王太子はその価値に全然気づいていないようですけどね」
大使と私の間でそんな会話があったなんて、彼女は思ってもいないだろう。
皇帝一家が帰国された後、細々とした取り決めのために残っていた私と大使の所にアイーシャ様の方から「帝国に行きたい」と言われた時は驚いた。
もうじき婚約破棄されて自由になるから、と。
皇帝陛下自ら彼女を帝国に招くほど評価が高い彼女だが、トルマリン商会も彼女を手放さないだろうから悩ましい。
そんな事を思いながら、秘書官はアイーシャの手をとって部屋を出て行く。
アイーシャは、振り返って最後に告げた。
「お父様は『簡単に諦めるな』とおっしゃいましたね。私は、この婚約破棄だけは絶対に諦めません」
それではお元気で、と去って行くアイーシャを止める手段はもうどこにも無かった。
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