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祝勝会の夜、妻は俺をストーカーと誤解し半殺しにした

作者: 熾星
掲載日:2026/07/30

 


 私たちは七年前に秘密裡に結婚したが、融资やプライバシーのために、彼女はこれまでずっと旧姓を使い続け、私の身分を公にしなかった。


 上場記念パーティーの夜、私は黒い仮面をかぶせられ、目隠しをされてホテルに連れて行かれた。妻がサプライズを用意してくれたのだと思っていた。


 ところが、周囲から「神崎社長と久世副社長、末長くお幸せに」と祝う声が聞こえてきた。


 しかし、私は久世ではない。


 その直後、誰かに押し倒され、警備員に押さえつけられて携帯電話と結婚指輪を奪われた。


 私は必死に自分の身分を説明しようとしたが、ストーカー扱いされ、集団で暴行を受けたあげく、倉庫に吊るされた。


 怜奈がドレス姿で現れ、冷たく「気持ち悪い」と言い放ち、私を蹴り飛ばした。


 昨夜まで彼女は、上場が落ち着いたら子供を作ろうと言っていたのに、今ではまるでゴミでも見るような目で私を見ていた。



 1



 腹部を無数の針で貫かれたような痛みが走り、俺は本能的に体を丸めた。それでも、雨のように拳と蹴りが降り続ける。


「たす……けて……」


 拘束された体を引きずり、怜奈の方へ近づこうとした。


 だが彼女はハイヒールで俺の手を踏みつけた。


 指の骨から腕へ激痛が走り、五本の指が次第に感覚を失っていった。周囲にいた者の中には、ようやく目をそらしたり、ためらいを見せたりする者も現れた。


「さすがに、これ以上は危険じゃないか?」


「顔も原形が分からなくなっている。警察へ引き渡した方がいい」


「神崎社長を襲おうとしたうえ、何か盗もうとしたらしいぞ」


「ストーカーは何をするか分からない。甘く見ない方がいい」


 誰かが久世冬馬と怜奈の関係について話し始めた。


「神崎社長と久世副社長が、会社設立時から支え合ってきたのは有名な話だろう」


「今夜は二人にとって大切な記念日らしい」


 俺の思考は混乱した。


 この人たちにとって、怜奈の隣へ立つ男は、最初から久世冬馬だった。


 では、俺は何だったのだろう。


 俺はこれまで一度も、メディアの前へ出ようとしなかった。商品の基盤設計も、会社初期の経営方針も、大口顧客へ提出した企画書も、すべて俺が怜奈と共に作り上げた。


 それでも、拍手も称賛も彼女へ譲り、自分は背後で支えることを選んだ。


 会社の上場という歴史的な瞬間だけは、直接見届けたかった。


 ただ、それだけだった。


 喜ばせようとした結果、俺は全身を血に染め、妻の足元へ転がっている。


 それでも彼女は、一度も俺の顔を真剣に見ようとしなかった。


 従業員通路が突然静まり返った。


 周囲の人間が一斉に頭を下げる。


「久世副社長」


 久世冬馬が人混みの中から現れた。


 床に倒れている俺を避けることもせず、革靴で負傷した手を踏みながら怜奈のもとへ歩いていった。


「怜奈、けがはない?」


 怜奈が首を横に振ると、冬馬は安心したように息を吐いた。それから俺へ向き直り、腹部を蹴り上げる。


「怖がらなくていいよ。こんなゴミは、俺がきちんと処理するから」


 冬馬は警備員へ命じ、俺の拘束をさらに強めさせた。そして近くにあったナプキンを手へ巻きつけ、拳を顎へ叩き込んだ。


「怜奈の大切な夜を壊したんだ。二度と口を開けなくしてやる」


 一発。


 さらに一発。


 口の中から血があふれ、折れた歯が二本、赤いしずくと一緒に床へ落ちた。


 冬馬は血に濡れた手を持ち上げ、手柄を見せるように怜奈を振り返った。


「ほら、歯まで抜けた」


 怜奈はようやく笑った。


「やっぱり冬馬は頼りになるわ」


 二人が当然のように見せる親密さは、体の傷よりも深く俺の胸を切り裂いた。


 俺が怜奈を見ようと顔を上げるたび、冬馬の拳が飛んできた。胸は激しく上下し、息を吸うたびに肋骨が軋んだ。


 何本か折れている。


 そう直感した。


 それでも、最後の希望を捨てられずに怜奈を見た。


 怜奈は嫌悪を浮かべ、一歩後ろへ下がった。


「まだ私を見ているの?」


 彼女は近くのテーブルからワインボトルをつかみ、俺の頭へ振り下ろした。


 ガラスが砕け、暗赤色のワインと血が頬を流れ落ちた。傷口へアルコールが染み込み、焼かれるような痛みが広がった。


 だが、胸の中の痛みと比べれば、もはや何でもなかった。


 冬馬がゆっくり俺の前へ歩いてきた。


 腰を落とし、指で傷ついた俺の顔をつかむ。爪が傷口へ食い込んだ。


 彼は、俺たちにしか聞こえない声でささやいた。


「結城直哉、残念だったな」


「今回も俺の勝ちだ」


 俺の瞳が大きく見開かれた。


 冬馬は最初から俺だと知っていた。


 彼はさらに楽しそうに笑った。


「分かっただろう? 怜奈はお前のことなんて、少しも気にしていない」


「法律上の婚姻届が一枚あるから何だ? 世間では、俺こそが神崎怜奈の正式なパートナーなんだよ」


「今夜のことは、すべて俺が準備した」


 冬馬は怜奈が俺へサプライズを用意していると嘘をつき、目隠しをしたままホテルへ連れてくるよう手配した。


 身分証やスマートフォン、結婚指輪を奪わせたのも冬馬だった。


 警備員には、俺が長年怜奈をつけ回している危険なストーカーだと説明していた。


 パーティーの日付さえ、冬馬が決めたという。


「今日は、俺と怜奈が初めて一線を越えた記念日なんだ」


「俺が上場パーティーのことをお前へ知らせるなと言ったら、怜奈は本当に何も話さなかった」


「今のお前は、主人に捨てられた腐った犬みたいだな」


 反射的に血の混じった唾を吐きかけようとした。


 だが、今の俺にはそれすらできなかった。


 胸元から、ごく小さな音がした。


 幼い頃から身につけていた翡翠の勾玉が、殴打の衝撃で二つに割れていた。


 勾玉には結城家の家紋が刻まれている。怜奈も何度か、自分の手で組紐を取り替えてくれた。


 二十年以上、俺と共にあった物。


 それさえも、この夜に壊れた。


 意識が薄れていく中、怜奈がハンカチを手に取り、冬馬の額の汗を優しく拭う姿が見えた。


 昨日の夜、彼女は俺のために風呂を用意し、勾玉を寝間着の内側へ丁寧にしまってくれた。


 上場が終わったら、ようやく普通の夫婦として生活できると笑っていた。


 かつての怜奈は、俺が料理中に指を切っただけで、自分のことのように泣いた。


 俺が落ち込んでいると知れば、仕事を放り出して旅行へ連れ出してくれた。


 俺が笑えば、彼女の世界も晴れるのだと信じていた。


 今になって分かった。


 あの優しさは、俺だけのものではなかった。



 2



 怜奈は俺を愛しながら、同時に別の男も心へ置いていた。


 冬馬が一言不機嫌だと言えば、俺は殴られるための道具にされる。たとえ本当に死んだとしても、彼女は俺が二人の記念日を台なしにしたとしか思わないのだろう。


 そんな愛は、もういらない。


 俺は震える手を服の中へ入れ、二つに割れた勾玉を握り締めた。


 それ以上、抵抗するのをやめた。


 周囲から、小さな声が聞こえた。


「もう十分じゃないか」


「今日は上場記念の祝いだ。本当に死人が出たら、隠しきれないぞ」


 冬馬は冷たく笑った。


「今日は俺と怜奈にとって大切な記念日だ」


「こんな虫けらに壊されるような夜じゃない」


 怜奈は世間からの評価を思い出したのか、少しだけ声を和らげた。


「病院へ運んで」


「一応は人の命よ。この人のせいで、会社の上場へ傷がつくのは困るわ」


 人の命。


 俺をここまで追い込んだのは、誰なのだろう。


 七年間愛してきた女の本当の姿を、俺は初めて見た気がした。


 怜奈は突然、俺の前へしゃがみ込んだ。


「誰に入れてもらったの?」


「招待状と名刺は?」


「あなたは一体、誰なの?」


 俺は残った力で顔を上げた。


 この血にまみれ、原形さえ分からなくなった男が、彼女と共に小さな事務所から上場企業を作り上げた夫だと気づいてほしかった。


 俺は彼女の家族だ。


 本来、招待状など必要ない。


 だが怜奈は俺の顔を確認しようとしなかった。


 冬馬が用意した説明を最初から信じ、俺を危険な侵入者だと決めつけていた。


 彼女は再び俺の腹部を蹴った。


「私のパーティーを壊す権利が、あなたにあると思っているの?」


「今日の損害を弁償できるの?」


 痛みに耐えながら、冬馬を見る。


 彼は怜奈の背後に立ち、勝利を宣言するような笑みを浮かべていた。


 突然、過去の光景が走馬灯のようによみがえった。


 大学時代、怜奈は頬を赤くして俺へ告白した。


 婚姻届を提出した日、俺の手を握り、一生一緒にいると誓った。


 起業したばかりの頃、初めて大口契約を獲得した時には、泣きながら俺の胸へ飛び込んできた。


 今となっては、そのすべてが水面に映った幻のようだった。


 指先で触れれば、簡単に崩れてしまう。


 宴会場から、上場記念セレモニーが始まるという案内が聞こえた。


 冬馬は怜奈の腕を取り、大勢の祝福を受けながら遠ざかっていった。


 怜奈は最後まで、一度も振り返らなかった。


 従業員通路に設置されたモニターには、宴会場の様子が映し出されていた。


 怜奈と冬馬が並んでステージへ上がり、交互に挨拶をしている。


 スポットライトを浴びる二人は、確かに理想的な伴侶に見えた。


 客席から囃し立てる声が上がる。


 冬馬は怜奈の顎へ手を添え、大勢が見守る中で唇を重ねた。


 歓声が響く中、一人の若いホテルスタッフが俺のそばへ駆け寄ってきた。


「しっかりしてください」


「救急車を呼びました。必ず助かりますから」


 その直後、宴会場の音響設備から冬馬の声が響いた。


「その不審者には誰も手を出すな」


「助ける者は、神崎ホールディングスを敵に回したと見なす」


 助けようとしていた人々が、少しずつ離れていった。


 申し訳なさそうに目をそらす者はいても、その場へ残る者はいなかった。


 救急隊が到着して、ようやく俺は固定器具から降ろされた。


 再び意識を取り戻した時、視界に映ったのは救急車の白い天井だった。監視装置がけたたましく鳴り、医師と救急隊員が何度も俺へ呼びかけていた。


 大量の血を失い、返事をすることはできなかった。


 全身が痛い。


 この苦しみが続くくらいなら、死んだ方が楽なのかもしれない。


 俺は目を閉じ、助かろうとすることをやめた。


 もう、心残りはない。


 死だけが、俺を解放してくれる気がした。



 3



「患者はRhマイナスです!」


「特殊な不規則抗体もあります。通常のRhマイナス血液は使えません!」


「広域血液センターへ緊急連絡! 交差適合試験を急いで!」


 救急隊員の声が、次第に遠ざかっていった。


 誰かがため息をつくのも聞こえた気がする。


 俺の血液型は珍しく、さらに特殊な抗体を持っていた。短時間で適合する血液を大量に見つけることは、非常に難しい。


 白凪市立救命救急センターへ到着すると、病院はすぐに周辺地域の血液センターへ連絡した。


 その時、神崎ホールディングスの医療部門に所属する者たちが現れた。


「神崎記念病院には、すでに交差適合試験を終えた血液が数単位あります」


「ですが、来月手術を受ける久世副社長のために確保しているものです。神崎社長から、ほかの患者には使用させないよう指示されています」


 救急医は怒りを隠さなかった。


「こちらには、今まさに出血性ショックを起こしている患者がいるんです!」


「血液は企業が買い占める商品ではありません。すでに適合しているなら、目の前の命を救うために使うべきです!」


 それでも神崎側の担当者は、血液の移送を拒否した。


「神崎社長から、久世副社長のために用意した医療資源は、何があっても残すよう命じられています」


 俺は救急用ベッドへ横たわり、彼らの顔を見ていた。


 普段は俺を結城さんと呼び、会社の創業メンバーであることも知っている社員たちだった。


 それでも、彼らが神崎社長の伴侶として認めているのは久世冬馬だけだ。


 俺は最初から、笑いものだったのだ。


 見ず知らずの医師や看護師だけが、何度も俺へ声をかけてくれた。


「結城さん、意識を保ってください」


「これからの人生を考えてください。あなたを待っている家族がいるでしょう?」


 救急処置室の外から、怜奈の声が聞こえた。


「神崎記念病院にある血液は、絶対に使わせないで」


 冬馬が、優しい人間を演じるような口調で答えた。


「怜奈、まずは患者を助けた方がいいんじゃないか?」


 怜奈はすぐに冬馬の手を取った。


「駄目よ。あの血液は、あなたの手術のために準備したものなの」


「冬馬は優しすぎるわ。世の中には、助ける価値のない人間もいるのよ」


 二人の足音が遠ざかっていった。


 視界の隅に、並んで去っていく背中だけが映った。


 最終的に病院は広域血液センターから、適合する血液を数単位確保した。何時間にも及ぶ処置の末、俺はどうにか命を取り留めた。


 麻酔がまだ体に残り、意識は朦朧としていた。


 若い看護師が傷の処置をしている。


「動かないでください」


「肋骨が二本折れています。脚の神経も損傷しかけていました。命が助かっただけでも、本当に奇跡なんです」


 言い終える前に、別の看護師が慌てて病室へ入ってきた。


「神崎ホールディングスが、病院の理事会と監督機関へ苦情を入れたそうです」


「この患者を治療し続けるなら、救命センターへの設備寄付を撤回し、名誉毀損で訴えると言っています」


 若い看護師はしばらく黙っていた。


 次に口を開いた時、声が震えていた。


「それじゃ、病院へこの人を殺せと言っているのと同じじゃないですか」


 笑える話だった。


 知らない人間でさえ、俺の命のために怒ってくれる。


 それなのに、同じ枕で眠ってきた妻は、俺へ一袋の血液を使うことさえ拒んだ。


 病室の扉が乱暴に開いた。


 神崎ホールディングスの法務担当者が冷たい声で言った。


「病院への支援も、医療従事者としての立場も失って構わないということですか?」


 若い看護師は反論しようとしたが、年上の同僚に腕を引かれ、部屋から連れ出された。


 一人の患者のために、仕事も将来も失いたい人間はいない。


 その後、怜奈は神崎記念病院の方が設備が整っているという理由をつけ、俺を強引に転院させた。


 白凪市立救命救急センターから、神崎家が支配する私立病院へ。


 病室の監視映像も、医療スタッフも、出入りの許可も、すべて怜奈の手の中へ入った。



 4



 病室に残っていたのは、俺と冬馬だけだった。


 彼はベッドへ近づき、左手に刺さっていた点滴針を乱暴に引き抜いた。


「直哉、お前の負けだ」


「もうすぐ、会社でのお前の場所も、怜奈の隣も、全部俺のものになる」


 病室の扉が再び開いた。


 神崎怜奈が入ってくる。


 冬馬はすぐに不安そうな表情を作った。


「怜奈、この人が生きている限り、会社にとって危険だよ」


「目を覚まして余計なことを話せば、上場記念パーティーで起きたことが世間に知られる」


 怜奈は平然とうなずいた。


「心配しないで。病室への出入りは制限させたわ」


「この先のことは、こちらで処理するから」


 冬馬はそれでも満足しなかった。


「でも、この人は本来、俺のために使われるかもしれなかった血液を受け取った」


「そのことを考えるだけで気分が悪い」


 怜奈は彼の手を優しく叩いた。


「冬馬、私がいるでしょう」


「あなたこそが、神崎ホールディングスの本当の主人よ。何も心配しなくていい」


 俺が一度も聞いたことのないほど、甘く柔らかな声だった。


 冬馬は得意そうにこちらを見た。


「怜奈、一つお願いがある」


「言って」


 怜奈は微笑んだ。


「今日は私たちの記念日だもの。何でも聞くわ」


 冬馬は怜奈へ近づき、静かに告げた。


「本来は俺のものだった血を使ったんだ」


「命で返してもらおう」


 俺の全身が激しく震えた。


 怜奈はほとんど迷わなかった。


「いいわ」


 目の前で世界が崩れていくようだった。


 必死に口を動かし、彼女へ伝えようとした。


「俺……は……君の……」


 声になる前に、怜奈は冬馬へ言った。


「あなたに任せる」


「私は会社へ戻るわ。何か起きても、私が責任を取る」


 怜奈が出ていくと、冬馬は完全に仮面を捨てた。


「直哉、分かっただろう」


「怜奈はお前なんて、何とも思っていない」


「少なくとも歩けない体になると思っていたのに、まだ生き残っているとは残念だよ」


 俺は憎しみを込めて彼を見た。


 冬馬は楽しそうに笑っている。


「今日は何の日か知っているか?」


「俺と怜奈が初めて体を重ねた記念日だ」


 ようやく理解した。


 本当に人目を避けて生きていたのは、俺の方だった。


 法律上、俺は神崎怜奈の夫だ。


 だが彼女の心も、体も、公の人生も、別の男のものだった。


 喉の奥へ生臭い液体が込み上げる。


 血を吐き、絶望に満ちた声を漏らした。


 冬馬は喜劇でも見るように俺を眺めていた。


「怜奈は言っていたよ」


「お前と体を重ねるたび、吐き気がするほど嫌だったと」


「お前との子供なんて欲しくない」


「家の中へ隠されているだけの男に、父親になる資格などない」


 昨夜、二人の未来について語った言葉は、すべて嘘だった。


 怒りによって、一瞬だけ痛みが消えた。


 俺は冬馬へ飛びかかり、残っている力のすべてで首を絞めた。


「俺が死ぬなら、お前も連れていく」


「久世冬馬、お前こそ生きる価値がない!」


 だが、俺は死の淵から戻ったばかりの患者だ。


 健康な成人男性を絞め殺せるはずがなかった。


 冬馬はすぐに体勢を立て直し、俺の腹を蹴って突き飛ばした。背中がベッドのフレームへ激突し、治療したばかりの傷口から再び血がにじみ出た。


 外にいた者たちが物音を聞き、すぐに病室へ入ってきた。


 怜奈も戻ってきた。


「何があったの?」


 冬馬はすぐに彼女の横へ逃げ込んだ。


「怜奈、こいつが俺を絞め殺そうとしたんだ」


「自分が死ぬなら、俺も道連れにすると言った」


 怜奈の美しい目が怒りに細められた。


「この人を押さえて」


「そこまで死にたいのなら、自分の悪意に相応しい代償を払わせればいい」


 彼女は冬馬の部下が監視装置を壊し、傷を再び開かせ、術後の急変に見せかけることを黙認した。


 担当医は異変に気づき、病室の映像や診療記録を密かに保存したが、その場で神崎家の人間を止めることはできなかった。


 数人の警備員が俺へ近づく。


 引っ張られた拍子に、病衣のポケットへ入れていた翡翠の勾玉が床へ落ちた。


 乾いた音が響く。


 二つに割れていた勾玉が、さらに四つへ砕けた。


 怜奈の視線が、破片へ吸い寄せられた。


 顔色が突然変わった。


「この勾玉……」


「どうして……」


 冬馬はすぐに怜奈の前へ立った。


「怜奈、会社から緊急の連絡が来たそうだ」


「今すぐ戻ろう」


 だが、怜奈は冬馬を強く押しのけた。


 床へ駆け寄り、震える指で砕けた勾玉を拾い上げる。破片をつなぎ合わせようとして、そこに刻まれた結城家の家紋を見つけた。


 俺が幼い頃から身につけていた勾玉。


 怜奈自身、何度も組紐を取り替えたことのある物。


 彼女の顔から一瞬で血の気が引いた。


「直哉……」


「そんなはず、ない……」


 怜奈は勢いよく顔を上げ、全身を包帯と医療器具に覆われた俺を見た。


 どんな商談でも表情を崩したことのない神崎怜奈が、初めて恐怖と混乱をむき出しにしていた。



 5



 怜奈の唇は震え続け、言葉が出てこなかった。


 冬馬は慌てて彼女の手をつかんだ。


「これは罠だ」


「こいつが同じ物を用意して、怜奈をだまそうとしているだけだ」


 怜奈は彼の手を激しく振り払った。


 冬馬は隣のベッドへぶつかり、顔色を変えた。


「直哉……」


「あなたのはずがない」


「こんな目に遭うはずがないもの……」


 怜奈は一歩ずつ病床へ近づいた。


 ハイヒールが床を打つ音が、焦りを表すように響いている。


 俺は目を閉じたまま、彼女を見ようとしなかった。


 怜奈は慎重に、俺の手を覆う包帯をめくった。手のひら近くにある小さな痣を確認しようとしたのだ。


 だが俺の両手は、彼女のハイヒールによって傷だらけになっていた。


 元の皮膚が見えない。


 怜奈は次に、俺の髪をかき分けた。


 右のこめかみ近くには、髪が生えない小さな部分がある。


 付き合い始めた頃、怜奈がふざけて俺の髪を切ろうとし、誤って傷をつけた跡だった。


 彼女の手から勾玉の破片が落ちた。


 そこで、ようやく確信したらしい。


 目の前で死にかけている男は、七年間連れ添った自分の夫だ。


 俺の目尻から涙が流れた。


 怜奈は突然、大声で叫んだ。


「医師を呼んで!」


「早く直哉を助けて!」


「使える血液を全部集めて! いくらかかっても構わない。最高の治療を受けさせて!」


 話す言葉は次第に支離滅裂になった。


 運命も神も信じない女が、赤く腫れた目で祈っている。


「お願い、助けて」


「どうして直哉なの?」


「私は何をしたの?」


「どうして、こんな罰を受けなければならないの?」


 監視装置の警告音が激しく鳴った。


 完全に意識を失う直前、怜奈が必死に治療を命じる声が聞こえた。


 医師は重い口調で答えた。


「患者は生きようとする意志を失っています」


「どれほど高価な機械や薬があっても、本人の代わりに生きることはできません」


 どれほど時間が経ったのか分からない。


 再び目を覚ますと、怜奈がベッドの横へ座っていた。


 髪は乱れ、化粧も涙で崩れていた。


 あれほど取り乱した彼女を見るのは初めてだった。


「直哉、ごめんなさい」


「あの人があなただなんて、本当に知らなかった」


「私は最低よ」


「もう一度だけ、許してくれない?」


 俺はゆっくり目を開いた。


 声は自分でも聞き取りづらいほど、かすれていた。


「絶対に、許さない」


「神崎怜奈、君は俺を愛していない」


 四つに砕けた翡翠の勾玉が、枕元へ置かれていた。


 壊れた俺たちの結婚そのものだった。


 怜奈は俺の手へ触れようとした。


 しかし、そこには彼女が残した傷しかない。


 伸ばした手が空中で止まり、目には後悔があふれていた。


「直哉、これからはあなただけを大切にする」


「お願い。もう一度だけ機会をちょうだい」


 俺は見知らぬ人間を見るように彼女を見つめた。


「神崎怜奈、今さら見せる愛情には何の価値もない」


「今になって許してほしいと言うなら、あの時、君は何をしていた?」


 腫れた目から、再び涙が流れた。


「七年間夫婦だったでしょう?」


「どうか、もう一度やり直して」


「昔の私たちに戻れるわ」


 俺は枕元の勾玉へ視線を移した。


「なら、答えてくれ」


「なぜ誰もが、久世冬馬を君のパートナーだと思っていた?」


「この勾玉を、完全に元の姿へ戻せるのか?」


 怜奈は勢いよく顔を上げた。


 砕けた勾玉は、どれほど丁寧につなぎ合わせても、元の姿には戻らない。


 俺たちの結婚も同じだった。


 怜奈はその場で固まった。


「でも……私はあなたを愛しているの」


 俺は彼女の目を見た。


「君は俺も珍しい血液型だと知っていた」


「それなのに、なぜ久世冬馬のためにしか血液を残そうとしなかった?」


「夫は俺だったはずだ」


 怜奈は口を開いたが、何も言えなかった。


 突然、自分の頬を何度も叩き始めた。


 顔中に赤い跡が残るまで、自分を責め続けた。


 以前の俺なら、彼女が傷つく姿を見ただけで胸を痛めただろう。


 今は何も感じなかった。


 怜奈は力を失ったように床へ座り込み、虚ろな目をしていた。


 その姿を見て、俺は初めて胸がすくような感覚を覚えた。



 6



 怜奈は膝をついたまま病床へ近づき、何度も同じ言葉を繰り返した。


「許して」


「直哉、お願い」


 病室の外から、大勢の人間が入ってきた。


 神崎ホールディングスの創業初期から働いてきた幹部たちだった。これまで俺の前で冬馬との関係を隠し続けてきた者たちでもある。


「結城さん、神崎社長はここまで謝っています」


「夫婦なら、誰にでも間違いはあります。もう一度話し合うべきではありませんか」


「これ以上問題を大きくしても、誰のためにもなりません」


 俺は冷たい目で彼らを見た。


「全員、出ていけ」


 彼らも全員、共犯者だった。


 上辺だけの言葉を並べれば、俺が死にかけた事実まで忘れると思っている。


 全員が出ていったあと、俺は再び眠りに落ちた。


 夢の中では、付き合い始めた頃の怜奈が笑っていた。


「直哉、私たち、ずっと離れずにいようね」


 俺は必死に目を覚まそうとした。


 もう一度彼女を信じれば、次は本当に命を失う気がした。


「嫌だ……」


「もう、君を愛したくない……」


 悪夢から目覚めると、全身が汗に濡れていた。


 怜奈は隣に用意された簡易ベッドへ横になっていた。


 俺の寝言を聞いていたのか、その目には深い孤独が浮かんでいた。


「直哉、私にはもう、どうすればいいのか分からない」


「仮面をつけていた人があなただなんて、知らなかったの」


「全部、久世冬馬にそそのかされた。きちんと確認しなかった私のせいで、あなたを傷つけてしまった」


 怜奈は手を伸ばし、血のにじむ傷へ触れようとした。


 俺は静かに体を引いた。


「離婚しよう」


「最後くらい、お互いに見苦しくならずに終わらせたい」


 怜奈はすぐにシーツをつかんだ。


「嫌よ」


「絶対に離婚しない」


「私だってまだ若いし、間違えることはあるわ。今回だけ許してくれれば、これから何倍も大切にする」


 俺は彼女をまっすぐ見つめ、一語ずつ告げた。


「分かった」


「久世冬馬を、俺と同じ姿になるまで傷つけたら許す」


「砕けた勾玉を完全に元へ戻せたら、許す」


 怜奈の目に宿っていた希望が、ゆっくり消えていった。


 それでも諦めなかった。


「勾玉なら、最高の職人を探すわ」


「もっと質のいい翡翠を使って、前より立派なものを作る」


 俺は冷たく問い返した。


「久世冬馬はどうする?」


「本当に傷つければ、彼へ輸血できる血液がなくなると心配なのか?」


「神崎怜奈、君を見るだけで吐き気がする」


 怜奈はよろめきながら立ち上がり、魂を失った人形のように病室を出ていった。


 ようやく静かに休めると思った。


 だが翌日、怜奈は全身を血に染めた冬馬を俺の前へ連れてきた。


 彼女は機嫌を取るような目で俺を見る。


「直哉、見て」


「あなたが言ったとおりにしたわ」


「これで許してくれる?」


「望むなら、今ここで殺してもいい」


 冬馬は床へ倒れ、泣きながら命乞いをした。


「助けてくれ」


「間違っていた。怜奈、お願いだから許してくれ」


 見た目だけなら、あの日の俺よりもひどい状態だった。


 だが、すぐに違和感へ気づいた。


 冬馬の体についている血から、舞台用の血糊特有の甘いにおいがした。シーツへ付着しても、普通の血液のように固まったり黒ずんだりしない。


 包帯を巻いている場所も傷と一致せず、本人が激しく叫んでいるのに監視装置の数値もほとんど変化していなかった。


 二人は芝居をしている。


 俺は平静な声で言った。


「血がなくなるまで放置しろ」


 病室にいた全員が動きを止めた。


 冬馬は恐怖に顔を引きつらせ、怜奈を見た。


「駄目だ!」


「怜奈、こんなことはできない!」


「こいつをだますために、けがをしたふりだけすると約束しただろう!」


 怜奈の顔色が変わった。


「黙って!」


 俺は失望した目で彼女を見た。


 短い間に、怜奈の目には後悔、恐怖、怒りが浮かんだ。


 冬馬がもっと上手に演技をしなかったことへの怒り。


 俺が彼女の用意した謝罪を受け入れないことへの怒り。


 怜奈は冬馬の胸を蹴った。


 今度は演技ではない。


 倒れた冬馬の髪をつかみ、十数回続けて頬を打った。


「全部、あなたのせいよ!」


「余計なことを言わなければ、直哉は信じてくれたのに!」


 冬馬は大げさな悲鳴を上げた。


 彼が受けている傷は、あの日の俺の十分の一にも満たない。それでも、自分だけが世界で最も苦しんでいるように泣き叫んでいた。


 俺は黙って見ていた。


 怜奈は密かに俺の表情を確認した。


 まだ無表情でいることに気づくと、ハイヒールで冬馬の右手を強く踏みつけた。


「痛い!」


「怜奈、頼むから許してくれ!」


 怜奈は取り乱した声で問い詰めた。


「あの日、あなたは最初から直哉だと分かっていたでしょう?」


「なぜ私に言わなかったの?」


「どうして、私に夫を傷つけさせたの!」


 病室には冬馬の悲鳴だけが響いた。


 俺が露骨に不快そうな顔をすると、怜奈はようやく満足したのか、部下へ冬馬を連れ出すよう命じた。


 病室を出る前、俺へ静かに言った。


「勾玉のことは、必ず何とかする」


「今は休んで。夜になったら、また来るから」


 それから怜奈は毎日病室へ通った。


 ベッドの横へ座り、何度も謝罪し、過去の幸せな記憶を語った。


 俺は一度も返事をしなかった。


 天井を見つめたまま、目を閉じることすらできなかった。


 目を閉じれば、従業員通路へ吊るされ、全身を血で染めながら誰にも助けてもらえなかった自分の姿がよみがえる。


 医師は怜奈へ、俺に重度の心的外傷後ストレス反応が見られると説明した。


「長期的な治療が必要です」


「今は安心できる環境を整え、患者に無理やりトラウマの原因へ接触させないことが重要です」


 それでも怜奈は、さらに頻繁に訪れるようになった。


 来るたびに、新しく作った翡翠の勾玉を持ってきた。


 俺は彼女の目の前で、それを床へ投げつけて砕いた。


 俺たちの愛を、もう一度壊すように。


 怜奈は毎回、床へ落ちた破片を拾い集めた。そしてまた職人へ依頼し、新しい勾玉を持ってきた。


 第九十九個目の勾玉を砕いた頃、俺はようやく退院を許された。



 7



 退院の日、怜奈は百個目の勾玉を持ってきた。


 その日は、俺は勾玉を砕かなかった。


 怜奈の目に、すぐに明るい光が宿った。


 ようやく許されたと思ったのだろう。


 俺は勾玉を机の上へ置いた。


「壊すのが惜しくなったわけじゃない」


「もうこれを壊さなくても、俺たちの結婚が終わったことを忘れないからだ」


 怜奈はその場に立ち尽くした。


 俺たちの間にできた溝が、とうに埋められないほど深くなっていることは、彼女にも分かっていた。


 それでも俺の手をつかんだ。


「直哉、私の中で、あなた以上に大切な人はいない」


「冬馬とは、会社の宣伝のために人前でパートナーのふりをしていただけなの」


「こんなことになるなんて思わなかった」


 俺は一つだけ質問した。


「何年間、演じていた?」


 怜奈はなかなか答えられなかった。


 長い沈黙のあと、消え入りそうな声で言った。


「七年……」


 七年。


 俺たちが結婚していた期間も、七年だった。


 最初から、この結婚は嘘だったのだ。


 怜奈と冬馬は会社や社交の場で恋人を演じていただけではない。


 本当の男女関係にもなっていた。


 法律上は俺が夫だ。


 だが怜奈の公の人生では、俺の方が誰にも知られてはいけない第三者だった。


 俺は深く息を吸い、彼女を見つめた。


「神崎怜奈、俺は一生、君を許さない」


「君は俺の人生で、最も消したい汚点だ」


 それ以上彼女を見ることはできなかった。


 すべてがあまりにも馬鹿馬鹿しく、笑いさえ込み上げた。


 退院した翌日、冬馬からメッセージが届いた。


 添付された写真には、病床へ横たわる冬馬へ、怜奈が自分の手でお粥を食べさせている姿が写っていた。周囲には神崎記念病院の医師と看護師が並んでいる。


「直哉、見てみろよ」


「俺が少しけがをしただけで、怜奈はこんなに心配してくれる」


「お前へ勾玉を届けに行く前には、毎回俺のところへ来ていた」


「お前を殺しかけた俺が受けたのは、少しのけがだけだ」


「勾玉を渡しに行く時間以外、怜奈はずっと俺のそばにいる」


「一体、どちらが夫なんだろうな?」


「本当の第三者は、どちらだ?」


 結婚した日の夜を思い出した。


 怜奈は俺を抱き締め、こう言った。


「私たちの結婚に、生きたままの別れはない」


「別れる時は、死ぬ時だけよ」


 それなら、彼女の望んだとおり、この関係を本当に終わらせよう。


 退院から三十日後、体調が少し安定した頃、俺は自分から怜奈へ連絡した。


「もう一度、上場記念パーティーを開こう」


「前回は最後までできなかった。後悔を残したくない」


 退院後、俺が自分から怜奈へ話しかけたのは初めてだった。


 彼女は当然、すべての要求を受け入れた。


 ただ、表情には不安が浮かんでいた。


 二度目の記念パーティーも、白凪ベイグランドホテルで開くことになった。


 俺は新しい段階へ進む会社を象徴するという理由で、すべての来場者へ半分だけ顔を隠す仮面やメイクを求めた。


 自分はゴシック調の黒い半顔メイクを選んだ。


 暗く、どこか不吉な印象を与える化粧だった。


 俺は怜奈をまっすぐ見つめた。


「今度は、俺を見分けられるか?」


 怜奈は真剣な顔でうなずいた。


「分かるわ」


「直哉、今度は何があっても、絶対にあなたを見間違えない」


 その目は、初めて出会った頃と同じように輝いていた。


 自分の愛が本物だと、必死に証明しようとしている。


 だが、俺はもう知っていた。


 人の真心など、一瞬で変わる。


 パーティー当日、会場には不自然な緊張が漂っていた。


 怜奈が最初のパーティーの情報を必死に封じたものの、一部は外部へ漏れていた。来客も社員も、怜奈から命じられたのか、全員が俺へ挨拶をした。


「結城さん、お久しぶりです」


「今日の服装、とてもよくお似合いです」


「神崎社長と、きっともう一度やり直せますよ」


 俺は微笑むだけで答えなかった。


 怜奈はずっと神経を張りつめていた。


 俺が怒らずに笑っているのを見て、ようやく少し安心したようだった。


 俺が本当に許すつもりだと思ったのかもしれない。


 だが、彼女はまだ理解していなかった。


 砕けた勾玉は、二度と元には戻らない。



 8



 記念セレモニーの開始まで、残り三十分。


 低く不気味な音楽が突然流れ、宴会場中央の照明がゆっくり暗くなった。来場者たちの視線が、中央ステージへ集まっていく。


 その時、脇の扉から激しく争う音が聞こえた。


 顔へ道化師のメイクを施し、半顔の仮面をつけた男が、警備員に拘束されて宴会場へ連れてこられた。


 男は激しく抵抗していたが、自分の身元を明かそうとしなかった。


 警備員が怜奈へ報告する。


「神崎社長、この男は招待状を持たず、あなたの控室へ侵入していました」


「所持品から、盗品と思われる物が見つかっています」


 怜奈の表情が一瞬で厳しくなった。


「調べて」


 警備員はすぐに、男の懐から砕けた勾玉を取り出した。


 本物の、結城家の勾玉だった。


 冬馬は俺と怜奈が本当に和解することを恐れ、パーティーの混乱に乗じて控室へ忍び込んだ。勾玉を盗み、それを材料に怜奈へ刑事告訴を取り下げさせ、自分の地位を回復させようとしていた。


 監視映像や客の目を避けるため、宴会のテーマに合わせた仮面と、派手な道化師のメイクをしていた。


 警備員に見つかった際、激しく抵抗したため、口元と顎を傷つけていた。


 うまく話せない状態になっている。


 怜奈は、その事情を知らなかった。


 この数か月、俺は何度も彼女へ言っていた。


 砕けた勾玉は、修復できない結婚の象徴だと。


 怜奈が作らせた九十九個の偽物も、俺はすべて砕いた。


 だからこそ、彼女は本物の勾玉を誰よりも大切にしていた。


 怜奈は慎重に破片を受け取り、結城家の家紋を確認した。


 その直後、拘束された男の肩を蹴った。


「誰に許可されて触ったの?」


「この勾玉が、私にとってどれほど大切か分かっているの?」


 男は何度も体を動かし、盗むつもりではなかったと説明しようとしていた。


 だが怜奈は、相手の正体を確認しようとしなかった。


 取締役会や警察の捜査、そして俺からの離婚要求によって、彼女の精神は限界に近づいていた。


 ようやく見つけた、怒りをぶつけられる相手。


 怜奈は何度も男を蹴った。


「これは夫の家に代々伝わる物よ」


「あなたのような人間が触っていい物ではない!」


「逃がさないで!」


 来場者たちは少し離れた場所から見ていた。


 最初のパーティーと同じだった。


 眉をひそめる者。


 小声で話す者。


 それでも、本当に止めようとする者はいない。


 俺はその様子を、冷たい目で眺めていた。


 あの日の俺も、これほど惨めだったのだ。


 大勢に見られながら、生きることも死ぬことも許されず、地面で苦しんでいた。


 男が動けなくなるまで、怜奈は警備員を止めなかった。



 9



 怜奈は勾玉を大切そうに両手で持ち、俺の前へ歩いてきた。


「直哉、わざと失くしたわけじゃないの」


「この男がどうやって控室へ入ったのか、私にも分からない」


「だから、許してくれる?」


 周囲の幹部たちも口々に言った。


「結城さん、神崎社長は本当に努力しています」


「もう一度やり直してはいかがですか」


 俺は勾玉を受け取らなかった。


 代わりにテーブルの上のワインを手に取り、床へ倒れている男の顔へゆっくり注いだ。


 厚い道化師のメイクが流れ落ちる。


 半顔の仮面も床へ落ちた。


 久世冬馬の整った顔が、青く腫れ上がっていた。


 俺は怜奈の反応を見た。


 瞳が大きく揺れた。


 それでも、彼女は平静を装おうとした。


 救急車を呼ぶよう命じることさえ忘れている。


 自分が神崎記念病院へ置いてきたはずの冬馬が、なぜここにいるのか。


 怜奈自身にも理解できなかったのだろう。


 ようやく俺が隣に立っていることを思い出したように、慌ててこちらを見た。


「直哉、私も冬馬がここにいる理由は知らないの」


「信じて」


 俺は続けて問いかけた。


「完全に関係を切ったと言っていたな?」


「なぜ彼は君の控室へ入れる?」


「今日が何の日か分かっているのか?」


 怜奈は答えられなかった。


 ただ取り乱し、俺の手を強くつかんだ。


 俺は彼女の耳元へ顔を寄せ、ゆっくりと言った。


「俺のために復讐したら、許してやる」


 怜奈の目に、突然強い光が宿った。


 溺れていた人間が、最後の救命具を見つけたような目だった。


 彼女はテーブルの上に置かれたナイフをつかみ、冬馬へ向かって走り出した。


 冬馬が大きな悲鳴を上げる。


 同時に、宴会場の外で待機していた警察官たちが扉を開けて入ってきた。


 二度目のパーティーを準備する前、俺は警察と弁護士へ、最初の宴会の映像、病室の監視記録、医師が保存した診療記録、そして冬馬から送られてきた脅迫メッセージを提出していた。


 警察は冬馬が再び怜奈へ接触するか、パーティーへ侵入する可能性が高いと判断し、周辺で警戒していた。


 俺は冬馬を誘拐していない。


 薬も使っていない。


 盗みの罪を着せてもいない。


 勾玉を奪い、怜奈を脅迫するために、冬馬は自分の意志でこの場所へ入ってきた。


 そして怜奈も、相手の正体と真実を確認しないまま、再び暴力を選んだ。


 警察官は怜奈からナイフを奪い、彼女と冬馬の両方を拘束した。


 その瞬間になって、怜奈はようやくすべてが終わったことを理解した。



 10



 警察官に連れられて宴会場を出ようとする間も、怜奈はずっと俺を見ていた。


 小さな声で呼びかける。


「直哉……」


「私たちは、死ぬ時まで離れないと約束したでしょう?」


 言い終えると、怜奈は警察官の手を振り払い、床へ落ちていたナイフへ手を伸ばそうとした。


 だが、死なせるのは簡単すぎる。


 警察官はすぐに彼女を押さえ込んだ。


 久世冬馬は、最初の宴会における監禁と集団暴行の計画、医療機器への妨害、殺人未遂、二度目の宴会への不法侵入、窃盗未遂などの容疑で逮捕された。


 怜奈も、監禁や傷害への関与、犯罪の隠蔽、医療への不当な介入、殺人未遂などについて捜査を受けることになった。


 警察車両へ乗せられる直前、怜奈は最後に振り返った。


「ごめんなさい、直哉!」


 だが、その言葉にはもう何の意味もなかった。


 拘置されたあとも、怜奈は弁護士や昔の会社関係者を通じ、何度も俺へ連絡を取ろうとした。


 手紙を送り、新しい勾玉を作り、会いに来てほしいと繰り返した。


 俺は一通も開封しなかった。


 神崎ホールディングスは、上場記念パーティーでの暴力事件と医療法人に関する不祥事によって、全面的な調査を受けた。株価は急落し、取締役会は怜奈を解任した。


 久世冬馬も、すべての役職を失った。


 俺は弁護士を通じて離婚手続きを終え、自分が保有していた会社の株式を売却した。


 そして白凪市を離れた。


 旅立つ日、百個目の勾玉を、誰もいない昔の家へ置いていった。


 勾玉は壊れていなかった。


 だが、もう俺の物でもなかった。


 怜奈はかつて、俺たちの間に生きたままの別れはなく、別れる時は死ぬ時だけだと言った。


 だが、俺たちを引き離したのは死ではなかった。


 二人とも、まだ生きている。


 それでも、永遠に互いを失った。


 俺たちの結末は、死別ではない。


 生きたままの、永遠の別れだった。





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