煉瓦の家
煉瓦の家が嫌いだった。
あの日々を思い出すから。
煉瓦作りの、その隙間。セメントの線を、阿弥陀籤のようにして指でなぞった、そんな子供時代の日々。
桜子はいつだって、その日々を懐かしんでいた。薔薇色だなんてとても言えなくて、セピア色のフィルターの掛かったような、鮮やかな無彩色の日々と、小指の感触を。本当はそんなこと、思い出したくはなかったのに。桜子が好いているつもりなのは、今この時であるから。
「おはよー。」
「ん、日向。おはよ。」
桜子には親友がいた。それが日向だ。
日向は桜子の幼馴染で、小学生の頃、二人で見たどこまでも続く空の灰色をよく覚えていた、半ば腐れ縁のような親友。
高校に入学してからの日向は、専ら桜子に付きっきりの生活を過ごしていて、他学級でありながら休み時間の殆どを桜子のいる教室で過ごしている。
「…日向さ、嫌いなものってある?」
桜子はふと、気になった。自分の嫌っている郷愁が、この親友にとっては何であるかが、ではない。己の過去さえを嫉んでいる、今の自分の姿があまりにも醜く思えてしまって、親友も同じだということを知って安心したかったからだ。そんな自分すらも、醜悪で堪らなかったことは言うまでもない。
「嫌いなもの?うーん、特にないかなあ。あ、でも桜子。あんたがぼーっとしてるのは、好きじゃないかも。なーんて。」
冗談めかした眩い笑顔に、桜子は目を細めて、沈黙で返事をした。
太陽。
日向によく似合うな、と思った。
私の過去が色褪せたのは、この親友の光に当てられていたからか、と不思議に納得しつつ、それが嫌だとは思わなかった。その方が綺麗に見えた。
「あ、桜子。そんなことよりさ、化学教えてよ、化学。一限目、小テストだって言ってたよ。」
「あー、範囲って、どこだっけ。」
「あのー、浸透圧のとこ。」
「それなら、気体の状態方程式と変わんないよ。」
「気体の…?何、それ。」
日向の成績は悪くはない。むしろ平均を上回るほどだ。それは桜子が、いつも勉強の面倒を見ているからに他ならなかった。
そして、醜い自分を真っ直ぐに頼りにするその陽光ならば、過去を焼いてくれるのではないか、なんて考えた。それが、一つ目の要因だった。
「今日の放課後。」
「え?」
「今日の放課後さ、私に付き合ってよ。それなら、一から教えてあげる。」
「それだけでいいの?」
「まあ、教えるだけだし。」
「本当?助かるー。神様仏様ってやつだね。」
「桜子様はどこに行ったのさ。」
「それはテストが終わってからのお楽しみってことで。」
日向の言うことは、いつも底無しに明るくて、会話の苦手な桜子にとっては、それは交友を続ける一助となっていた。
桜子がこんなことを言い出したもう一つの要因には、桜子が別れを意識し始めたことにあった。高校二年生である二人は、再来年にはもう、別々の道を歩んでいる、と、そんなことを考えてしまって、この一時を、瞬き一回分の景色を、離したくなかった。
その日の放課後。
桜子と日向は二人、街の郊外に向かっていた。そこは未だに旧時代の雰囲気が残る、閑静な住宅街で、その建物の大半は木造か煉瓦作りだった。
小テストを終えて、残りの時制中日向との約束のみを考えていた桜子であったが、脱色された過去と、色彩を直視する今とを比べた挙句、桜子の目的は畢竟、褪せた日々を燃やし尽くすことに帰結した。日向との時間は未だ事欠かないと、意図的に錯覚した。
「ここらへん、懐かしいねー。小学校の時さ、秘密基地作ったの、覚えてる?」
「…うん。覚えてるよ。」
本当は覚えていたくなかった、という言葉を飲み込んで、日向の嬉しそうな光に応えた。
「それで、何でこんなとこに?それに、わざわざ勉強を人質にしてまでさ。」
「着いてから話すよ。」
元よりそのつもりではあったが、そもそも桜子には、自分の醜さを日向に誇示する勇気がなかった。
それから暫く歩いて、そろそろ足の裏に汗が滲み始めた頃、二人の足が止まった。
「着いたよ。」
「やっぱり、ここだった。」
そこは二人が、小学生時代に空き地の倉庫に作った、秘密基地であった。煉瓦作りの小屋は扉が外れていて、それが今の桜子には、只の塵置き場にしか見えなかった。そう思いたかっただけかもしれないが。
「懐かしいなあ。あ、ほら。ここ。桜子が昔、すっ転んで骨折ったとこじゃない?」
日向は段ボールの塊に歩み寄って、座り込んで思い出を噛み締めているようだった。
「…ねえ、日向。」
「何?」
「私さ、ここ、嫌いなんだよね。」
己の愚かさと、醜さと、汚さと、その全てを十七年来の親友へ晒す。その怖さに踏み留まりそうになりつつも、桜子は親友に縋った。そんな嫌いな自分を消し去ってもらおうとした。
「ふうん。何で?」
その語調のあまりの軽さが、桜子の心をビー玉越しに覗いたようで、それに救われた。
「私はね。今の日々が好きなんだ。空が青くて、雲が白くて、太陽は眩しくて。そんな、カラフルな日々が好き。」
「…私も。」
「でもさ。私、ここに来ると、昔のことを思い出すばっかりでさ。色褪せたあの頃の記憶のせいで、今見える、この綺麗な景色と、表情を忘れちゃう。」
「それが、嫌いな理由?」
「そう。だってさ、そんなこと考えちゃう、私の汚い心が、よく分かるでしょう?こんなにも幸せで、満たされてなきゃおかしいのに、私は満足できない。そんな私も、ううん。そんな私の方が、嫌い。」
日向は黙って頷いた。桜子の感情を、肯定するのではなくて、咀嚼するように。
そして暫くしてから、秋雨みたいに、ぽつり、ぽつり、と話し始めた。
「そっか、うん、うん…。ねえ、桜子。もう一つ、聞いていい?」
「何個だって。」
「ありがとう。…ねえ、どうしてさ、それを、私に話したのかな。」
日向の目は、真っ直ぐに桜子を捕らえている。その視線の鋭さは、太陽には全く似つかわしくなくて、桜子は気圧された。そしてそのままに、辿々しく釈明を始める。
「日向が…あんまり眩し過ぎるから。」
桜子の本音。けれど同時に、その奥にある真意を包み隠すような、嘘でもあった。
桜子にあるのは、後ろめたさ、とでも言うのが適当だろうと思われるような感情で、でもそれが日向に暴かれれば、それこそその隣には居られなくなる、と思った。
日向は笑う。
「私、そんなに神聖なものじゃないよ。」
笑ったその太陽の光は、今は月明かりのように、桜子には思えた。
「桜子が、私をどんなに思ってるか、私には分からないけどさ。少なくとも私は、桜子の隣に居たいかな。約束通りに。」
「…日向?」
月の光はどこか切なげで儚くて、太陽のように目を細めずともはっきりと見える。たとえ焼き付くことはなかったとしても。
桜子には、日向を正面から見つめたことがあっただろうか。今はもう、誰にも分からない。それでも、初めてとさえ言っていい日向の表情には、桜子の知らない感情が孕まれていた。
「ねえ、桜子。」
「何?日向。」
「私の汚いとこ、知りたい?」
伏し目になりながら、日向はぽつりと言った。太陽に黒点があるように、この少女にも汚れがある。桜子には分かっていた。目を背けていただけの真実。知りたくない、と思う心と、この光の全部を知りたいという欲望とがせめぎ合って、少々の間声が出せなかった。
「私にもあるんだよ、そのくらい。」
諭すような口調を受けて、日向が対等を願っていることを仄かに察する。それで、桜子は息を吸った。
「見せてくれるんだ?」
日向はその目が大きくなるのを隠さずに、桜子の顔を見続けている。白の中に浮かぶ、黒曜石の満月が震えた。
「…うん。あのね、私。桜子を」
今度は声が震えた。下を向いて、桜子から目が見えなくなる。
「私のものに、したい。」
「日向の、ものに?」
腐れ縁であった親友のその言葉に、桜子はどうしてか驚かなかった。寧ろ、合点がいった。目の前で瞳を、声を震わせている月の光が、自分のような人間と親友であることに、疑問を持つことが無いとはとても言えなかったからだ。
「ねえ、桜子。私、貴方と同じ。どす黒くて、どこまでも薄汚れた、こんな気持ちを、捨てられない。」
酷い言い草だ、と。そう怒ってやって、笑ってやって、そして何事もなかったように、冗談めかすのは簡単だった。でも、そんなことをやろうとは、思うはずもなかった。
同じ。
その言葉が、何よりも温かくて、同時に、堪らなく弱って見えた。
多分、これは、分岐点。日向の生きる道と、私の生きる道。歩く道を変えなければ、歩き方を、速度を、変えなければ。
きっとここが、最期の合流点。
桜子の口は、驚くほど滑らかに、次の一歩を踏み出した。
「…そう、ね。太陽、だなんて。とても言えないくらい、自分勝手。」
そのどす黒さが、桜子には愛おしく思えた。焦げ付いたみたいな、その黒さが。一見汚いように見える、その黒さが。
自分のと同じ色をした、日向のその黒さが。
だから、その先を紡ぎ出す。
「でも…うん。素敵。」
「え」
「驚いた?でも、本当。太陽なんかより、ずうっ、と、私好み。」
押し付けていた太陽が、別のものと重なる。
桜子の記憶の中の景色は、日向の光で色褪せたのではなく、写真を現像するみたいに、桜子の心に焼き付いていた。
脳、という台紙に。フィルム、という日々を映して。
セピアの景色の一つ一つが、煉瓦作りの家の一棟一棟が、日向の柔らかな光で、どこまでも美しく彩られていく。
桜子が、手を前に出す。
「…日向。私も。」
「うん。」
日向を包んだ桜子の記憶の中で、一つの風景が上映を始める。
煉瓦の隙間。セメントを指でなぞる、ざらざらとした感触と。
阿弥陀籤の先で巡り合うものを、桜子は知っていた。
「あ。」
「えへへ。さーちゃん、わたしのー。」
「ひなちゃんだって。わたしのだし。」
「じゃあわたしたち、ずっといっしょ?」
「うん。ずっといっしょ、だよ。」
「やくそく、ね。」
明日、隣で歩く存在を疑わない。そんな幼さは、約束という呪いと、同じ名前の呪いを、二人の心の最奥に残していた。
しかし、桜子と日向は、それを嫌だとは思わなかった。なぜならそれは、これから離れる筈だった二人の道を確かに繋ぐ、たった一切れの、強固なテープであったから。




