家政婦さくらと視える家
「す、すみません」
突進してきた男に、咄嗟に謝ってしまった。臆病で事なかれ主義な自分が嫌になる、そんな木曜の朝。
しかし、人混みは嫌いじゃない。余計なものを、すぐにかき消してくれるから。
待ち合わせ場所は、多摩モノレール線立川北駅の改札前。
待ち合わせ相手は、バイト先の〝伝説の家政婦〟……らしい。
バイト先というのは、〝きよら家事代行〟という家事代行サービスだ。そこの所長から、「指導員はうちの人気ナンバーワン家政婦だから安心して」と言われているが。
「逆に、絶望的なまでのプレッシャー」
バイト初日から、サッシの溝の埃とか、換気扇の油汚れとか、細かくチェックされた上に、「それで掃除したつもりですか?」なんて言われた日には、その場で消えてしまいたくなるだろう。
「こんなことで、大丈夫か……?」
深くため息をついたところで、細身の女性が前に立った。
「せり、さん、だったりします?」
女性は、下から睨むようにして、顔をのぞき込んでくる。
「は、はい。え……?」
瀬里は、思わず身構えた。
「もしかして、さくらさん、ですか?」
目の前には、おしゃれなオリーブベージュのロングヘアに黒縁メガネをかけ、オーバーシャツにデニムのボトムスを合わせた、見た目クールなお姉さん。
背中に背負った、キャンプかというくらいでっかいリュックには、フライパンがぶらさがっていた。
そのお姉さん――さくらが「うん、うん」とうなずく。
「人違いだったら詰むところだった……あ、さっそく、モノレール乗りましょうか」
さくらは「へへっ」と笑うと、改札に向かって歩き出す。
正直に言えば、笑い方はかなり意外だった。
「座れるじゃん、ラッキー」
午前中の下りのせいか、ガラ空きの車内に、さくらが控えめにはしゃぐ。
彼女が、〝伝説の家政婦〟だと?
いやいや、イメージとぜんぜん違うんですけど?
もっと、おばさん……自分の母親くらいを、想像していたんですが?
どう見積もっても、瀬里とさほど年は変わらないだろう。
「せりさん、今年の春まで大学生だったんですよね? やば、若いですねー!」
クールな外見と低い声に似合わず、口調は軽い。
色々と聞かれるのは面倒だな……。
瀬里はどうにか話題をそらそうと、ぐるぐると思考を巡らせた。
「さくらさんだって、かなりお若いですよね。失礼ですが、おいくつなんですか?」
「全然失礼じゃないし。年は二十七、四捨五入したら三十路〜」
いきなり年上ムーブになると、厚底スニーカーをきゅっと鳴らす。
二十七、ということは四つ上か……。
いや、問題はそこじゃない気がする。
さくらは、瀬里が引いていると思ったのだろう。
「数字はただの飾りだし! うちら今が一番若くない?」
取り繕おうとしたのか、いきなり声のトーンを上げてきた。
ギャルのような口調に、そっと爪をのぞいてみると、派手なネイルはなかったが。
「ですよね……でも……」
緊張のせいか、瀬里はつい余計なことを口走る。
「……ギャルって、実際、何歳までいけるんですかね?」
当然ながら、さくらはぽかんとしていた。
しまった、と慌てて口を手で塞ぐが。
「それ、聞いちゃいう?」
さくらが苦笑する。
「す、すみません!」
ああ、このバイトも続かないだろうな……。
瀬里は、大きな体をぎゅぎゅっと縮める。
「謝る必要ないし。それに、ギャルに年齢制限はないよ」
「は、はい」
「ギャルは生き様、だし」
そう言うと、さくらはドヤ顔になった。
「生き様……?」
瀬里は、心の中で「かっけー」と皮肉を込めてつぶやく。
「ところで……、男だったんだ。せり、って女の子の名前かと思ってた」
さくらが、瀬里を見て目を細めた。
瀬里がさくらを年配の女性だと誤解していたように、さくらもまた、瀬里を大卒の若い女性だと誤解していたのかもしれない。
「あ、男です。すみません」
身分証を見せるべきだろうか、と瀬里はリュックを探るが。
モバイルバッテリー、折りたたみ傘、文庫本……。
こんな時、リュックの中は不良品の四次元ポケットのようになり、ハズレしか出てこないのだから困る。
「ええと、名前は、瀬里冬馬です」
「せりって、苗字なんだ」
「はい。瀬戸内海の瀬に里です」
仕方無しに瀬里は、準備するよう言われていたネームプレートを差し出した。
「ウケる。ひらがなで、せり、だって」
防犯やプライバシーの観点から、本名をそのまま書かない決まりだったのを思い出す。これでは、なんの証明にもならない。
「すみません。他になんか、名前の分かるもの……」
「うちら一緒じゃん」
さくらが、同じように〝さくら〟とひらがなで書かれたネームプレートを、瀬里に見せてきた。
「……さくら、さん」
反応には困ったものの、馬鹿にされたわけではなかったと、ほっとする。
「あれ……じゃあ、どうして、さくらさんは、自分が瀬里だと分かったんですか?」
性別を誤解していたのに、自分が待ち合わせしていたバイト先の人間だとなぜ分かったのだろう。
身長百八十センチの瀬里では、あまりにもイメージと違っていたのではないか。
「すぐに分かったよ。きよらに雇われたってことは、うちら同じってことだし」
さくらは真顔だったが、その手にはしっかりとピースサインが作られていた。
近くのスーパーで買い物をしてから向かったのは、比較的新しい閑静な住宅街だった。
電柱は一本もなく、空が広い。石目調のタイルで統一された家々が整然と並び、植栽などで変化を付けているものの、はじめて訪れた瀬里にすればどの家も見分けがつかない。
「ここが、お客様の家」
さくらが足を止めたのも、周囲に溶け込んだ、モダンな二階建ての家だった。しかし、不思議なことに、二階の窓は遮光カーテンが引かれたままだし、一階の窓に関してはシャッターまで降りている。
「鍵は預かってるから、中入ろ」
さくらは、自宅に入るような気軽さで、鍵をドアノブに当てた。
ああ、留守なのか……。
空っぽの箱のように感じた理由が分かり、瀬里は何となく安心する。
「お世話になります。きよら家事代行センターです」
さくらは、誰もいないはずの家の中に向かって声をかけた。すると、奥からぱたぱたと足音が聞こえてくる。リビングのドアがばたんと開き、男の子が顔を出した。
「さくらさん?」
男の子はさくらを見て、安心したかのような顔をする。一人で留守番をさせられて、寂しかったのだろうか。
「よ!」
さくらが握り拳を差し出すと、男の子は素直にグータッチを返した。
「この子は、朝陽くん」
さくらは、朝陽を紹介したあと、瀬里に向かって指を差してきた。
「このお兄ちゃんのことは、瀬里って呼んで」
「せり?」
朝陽が、瀬里のネームプレートを凝視する。
瀬里は、ひとまず愛想笑いを浮かべてみた。
「朝陽くん、はじめまして。瀬里です。よろしくお願いします」
しかし、朝陽はふいっとそっぽを向いて、リビングへと駆け込んだ。
「人見知りかー。かわいいなー」
瀬里はわずかに傷つきながらも、余裕ぶってみせる。
「すぐに慣れるっしょ」
さくらは大して気にもせず、瀬里の手からエコバッグを受け取った。
「さくらさんは、朝陽くんと知り合いなんですね」
「先週、下見に来たから。そこが、洗面所ね。手洗いしてエプロン付けてきて」
てきぱきと指示を出すと、さくらもリビングへと消えてしまった。
「……生活感ないなあ」
見せない収納を徹底しているのか、歯ブラシも歯磨き粉もないモデルルームのような洗面所を、瀬里はぐるりと見回す。どこもかしこも、家事代行を頼む必要などなさそうなくらい、綺麗に片付いている。
とはいえ、綺麗だと安心するな……。
清らかなところには、悪いものは棲みつかないから。
「鏡も、水垢ひとつない」
それでも、鏡の中の疲れ切った顔と目が合い、ひやりとした。
その顔には、新卒で入社した会社をひと月足らずで辞めてしまったことへの負い目が、しっかりと刻まれたままだ。
「とにかく、三時間耐えろ。これは、社会復帰のための、アイドリングだ」
手早くエプロンと三角巾を付けながら、瀬里は自分に気合いを入れる。
「お待たせしました。自分は、何をすれば?」
「先週、オムライスがいいってリクエストもらってたから、こっちは余裕かましてたわけ。それが今日になって、ママのオムライスが食べたいとかハードル上げてきて。マジむずくない? 瀬里、作れる?」
さくらは、洗った米を炊飯器にセットしながら言ってきた。
「自分、カフェでバイトしてたんで、作れなくもないですけど。ふわとろの卵とか、けっこう得意です」
瀬里は、デミグラスソースと生クリームがかかった、カフェのオムライスを頭に思い浮かべる。
しかし、さくらは「うーん」と首をかしげた。
「いいや、ちゃっぴーに聞いてみるし。ちゃっぴー、ママのオムライスの作り方教えて。うちでも作れる感じのやつ、頼むわ」
さくらは真顔のまま、平然とスマホのマイクを口元に当てている。
〝伝説の家政婦〟が、AI頼み?
瀬里は、さくらのいい加減さに唖然とし、
『それ、マジで超難問だね。お母さんのオムライスって、絶妙な火の通り方とか、隠し味の愛情とか、データ化できないエッセンスが詰まってるからなあ……』
ちゃっぴーの回答に、冷めた気持ちになる。
「そういや、ママのオムライスは鶏肉じゃなくてウィンナーだって。あと、誕パの写真発掘しといた」
さくらが、エプロンのポケットから一枚の写真を取り出す。
写真の中央には、主役である朝陽の弾けるような笑顔。頭には斜めに被った紙の王冠。五本の蝋燭が立てられたケーキと、ケチャップがかかったオムライス。
『この写真マジで神資料じゃん! ガチで〝エモさ100%の再現レシピ〟爆誕させちゃうけど、いい?』
なんか苛つくな、このAI……。
瀬里は、ぐしゃぐしゃと頭をかきむしった。
「つーわけで、瀬里、玉ねぎ刻んで」
冷凍庫から取り出した玉ねぎを、さくらが投げてよこす。
「え、冷凍庫?」
冷たい玉ねぎをキャッチした瀬里は、思わず疑問を口にする。
「玉ねぎ切ると涙が出るのって、催涙成分が目にぶっ刺さるからなんだけど、冷やすとその勢いがマジで死ぬっていうか、空気中に飛び散りにくくなるわけ」
「へえ、そうなんですか」
感心する瀬里に、さらにさくらは得意げになる。
「そもそも、なんで玉ねぎは攻撃力高めなんだって、話だよね。ぶっちゃけ、玉ねぎからしたら、攻撃は最大の防御なんだって。ネズミとかが『うまそー』って一口いった瞬間に催涙成分ぶっ放して、『目え痛え、こりゃ食えねえ』って戦意喪失させるパターンらしい」
「マジですか……」
ちゃっぴーなんかより、ずっと刺さるんですけど。
瀬里は、頭の中でねずみと玉ねぎの攻防戦を思い浮かべてにやにやしながら、リズミカルなみじん切りをする。
「さくらさーん」
すると、二階からぱたぱたと足音が降りてくる。
リビングのドアが開き、朝陽がにこにこしながらやってきた。
「僕、お腹すいちゃったー」
「ちょい待ち、秒で終わるから」
背後の炊飯器から、炊き上がりを告げる電子音が響く。
「ブロッコリー忘れてないよね?」
朝陽が、真剣な顔で尋ねていた。
「むしろ、忘れるわけなくね?」
さくらは、素早くブロッコリーをカットすると、フライパンに投げ入れる。そこへ水を回し入れて、蓋をした。
「ブロッコリー、茹でないんですか?」
瀬里は、さくらの手元をのぞき込む。
「ブロッコリーってビタミンCとかの栄養がバカ盛りなわけ。お湯でグラグラ茹でるとかマジないし。大事な栄養がお湯に流出して、もはや事件だから。蒸すのが最強なんだけど、蒸し器出すのクソだるくない? うちはレンジよりフライパンの蒸し焼き派。ホクホク感レベチだし」
「な、なるほど〜」
いつの間にか、わくわくしながらさくらの話を聞いている自分がいることに、瀬里は驚いていた。
「ちゃっぴーが『玉子は、薄焼きな』って解析してくれた」
さくらが、スマホの画面を見せてくる。
「了解です」
瀬里は、卵を片手でボウルに割り入れた。
「写真の薄焼き玉子にするなら、濾し器使ったほうが良くね?」
さくらから、持ち手のついたざるのようなものを渡される。
「濾し器、ですか?」
「卵ってさ、白身は六十度、黄身は六十五度で固まりはじめるわけ。この温度差のせいで、混ぜ方が甘いと白身だけ先に固まって、表面ボコボコよ。白身ってマジでしぶといから、箸で混ぜるだけじゃ限界あるんだよね。要するに、濾し器を通すのが手っ取り早いって話」
「物知りっすね……」
瀬里は写真を借りて、オムライスの玉子を再度自分の目で確認した。ちゃんと均一な黄色になるように、ボウルに割った卵をしっかり濾していく。
「……もしかして、これって」
瀬里はふと、スナップ写真にしては厚みがあることに気付き、何気なく裏返した。
「写真年賀状……?」
宛名面には赤い郵便枠や年賀の文字。しかも、西暦は2016年だった。
「だけど、ここに写ってる朝陽くんって……」
リビングで大人しくお絵かきをしている朝陽へと、瀬里は目をやる。
十年前の写真の男の子は、どう見ても、今の朝陽と同一人物だ。
間違って、昔の年賀はがきに印刷したとか……?
「こっちは爆速で仕上げるから、瀬里は朝陽と遊んでな!」
ぼんやりとする瀬里に、さくらが指示を飛ばす。
「あ、はい」
とはいえ、朝陽くんには、嫌われてるっぽいしなー。
瀬里は、恐る恐る朝陽の隣に腰を下ろした。
「お絵かき上手だね。これはパパとママかな?」
「…………」
案の定、朝陽は無言で絵を描き続けるだけだった。
「パパはメガネかけてるんだね」
「…………」
「ママは美人だね」
「…………」
「朝陽くん家は、三人家族なんだね」
「……違うよ」
すると、朝陽がぼそりと言った。
「違うんだ?」
「ママのお腹の中に、僕の妹がいるから」
「そっか。もうすぐ生まれるんだ。朝陽くん、お兄ちゃんになるんだね」
朝陽が反応してくれたことが嬉しくて、瀬里は自然と笑顔になる。
「……僕、お兄ちゃんになれないかも」
しかし、朝陽は悲しそうに言う。
「そんなことないよ」
「だって、ママが、好き嫌いしてたら、お兄ちゃんになれないよって」
「苦手なものあるんだ?」
「うん。ブロッコリー」
「……あ、そういうことか」
つまり、大好きなオムライスでテンション上げて、付け合せのブロッコリーを攻略するというクエストだ。
「分かった。じゃあさ、一緒に挑戦しようよ。実は、自分もブロッコリー苦手なんだよね」
このくらいの嘘は、許容範囲だろ?
瀬里は、そっと朝陽の顔をのぞき込む。
「……うん! 僕、頑張る!」
朝陽は、きらきらとまぶしい笑顔になった。
「ビジュ最強オムライス完成〜おいしい確定〜」
キッチンからは、クールな表情のまま控えめにはしゃぐ、さくらの低い声が聞こえてくるのだった。
「おいしい!」
オムライスを一口頬張り、朝陽は満面の笑みを浮かべた。
「どう、ママンの味? 判定よろ」
「うん。ママのオムライスみたい。ケチャップで〝あさひ〟って書いてあるところとか」
「そこかい!」
低い声でツッコミを入れるさくらに、つきあいで瀬里は笑ってみせる。
「せり、一緒にブロッコリー食べよう」
「よし。頑張ろっか」
「えー、めっちゃ仲良くなってんじゃん」
目配せする朝陽と瀬里に、さくらは悔しそうに唇を尖らせた。
「ウマっ!」
瀬里は、ブロッコリーを口にして驚く。
「甘みがあってホクホク感がすごっ!」
いつも口にしているブロッコリーのように水っぽくなく、焼き目が香ばしいのもいい。
瀬里は、さくらのちょっとしたコツが、いつもの食材をこんなにも変えるのかとちょっと感動してしまった。
「僕も、ブロッコリー食べられたよ。お兄ちゃんになれるかな?」
朝陽が、どこか不安そうに聞いてくる。
「朝陽くんは、もう立派なお兄ちゃんだよ。今、〝お兄ちゃんスイッチ〟がカチッと入ったところ、自分には見えたよ」
瀬里は、励ますように言う。
「へえ、気の利いたこと言うじゃん」
さくらが隣で、にやりとした。
「お兄ちゃんになれたら……また、ママやパパに会えるかな。生まれた妹にも会えるかな」
すると、瞳に涙を溜めて、朝陽が訴えてくる。
「え……」
瀬里は、どきりとして、言葉を詰まらせた。
「大丈夫っしょ。いつでも会えるし。ていうか、見えないだけでいつもそばにいるから」
さくらが、自信満々に答える。
「美味しいもの食べた時とか、綺麗な花を見た時とかに、パパとママが『あ、朝陽も好きかな』って思った瞬間、もう隣にいるから。パパとママと一緒に、妹ちゃんもガチでそこにいるから」
朝陽の輪郭が、ぼんやりとする。周囲の世界が、曖昧になる。
ああ……と、瀬里はようやく理解する。
簡単な面接で、即日バイトに採用された理由。
さくらが、自分を〝うちら同じだし〟と言った理由。
そして、今、ここにいる理由。
こんな仕事があるとは、思わなかった――瀬里は、心の震えが何を意味するのか、一心に考える。
「うちらも、朝陽のことずっと忘れない」
さくらは、朝陽から一時も目をそらさなかった。
「本当に?」
朝陽の瞳から、涙が一粒こぼれ落ちる。
「本当だよ!」
気付けば熱くなって、瀬里は身を乗り出していた。
「僕、かっこいいお兄ちゃんになりたかったんだ……やっと、なれたんだね……」
朝陽の身体がやさしい光を帯びていく。
「良かったあ……」
朝陽が嬉しそうに微笑んだ。
朝陽は一人でずっと、ここで動けずにいたのだろう。ママやパパ、妹に会いたくて。だけど、会えなくて。
胸がいっぱいになり、瀬里は何も言えなくなった。
一歩を踏み出すのは、いつも勇気がいる。
それでも、いつまでも立ち止まってはいられない。
そんな思いが、ぐるぐると駆け巡っていた。
「……いっちゃったね」
気付けば、さくらが拝むような仕草をしていた。
テーブルの上には、食べかけのオムライス。
朝陽がもうここにはいないという事実を、瀬里は当然のことのように受け止めていた。
残された、ひだまりのような温もりを感じながら。
「卵ってさ、アミノ酸めっちゃ入ってんの知ってた? それが元で幸せホルモンとかも作られるらしいよ。卵のポテンシャル、マジでエグいよね。朝陽くんも、最後に幸せな気持ちになってたらいいなって」
「そうですね……」
卵から、幸せホルモンか……。
瀬里は、しみじみとしながらうなずいた。
「で、どう? やってけそう?」
さくらが、遠慮がちに聞いてくる。
つまり、この特殊な家事代行のバイトを続けられるかと、尋ねられているのだろう。
「あ、いや……まだ、気持ちが追いついていないというか」
瀬里は、正直に告げた。
「そっか。分かった」
さくらはあっさりとしたもので、しつこく勧誘するようなことはしなかった。
「お疲れ様でした。どうでした?」
片付けを終えて家を出ると、スーツ姿の中年男性が待ち構えていた。
「清めは終わりました。ちなみに、盛り塩などは不要です。鍵もお返ししますね」
まともに対応するさくらの背後で、瀬里は複雑な心境になる。
中年男性はぺらぺらと、元の家の持ち主が、子どもを病気で亡くした若い夫婦だったと教えてくれた。
「さくらさん、いつもいい仕事してくれるから助かってます。またよろしくお願いします」
薄くなった頭が、ぺこりと下げられる。熟練した営業スマイルを浮かべたあと、男性はそそくさと立ち去った。
「今の、不動産屋のおじさんで、きよらのお得意さん」
小さくなった男性の背中を、さくらが顎で指し示す。
「この家、男の子の足音や話し声が聞こえるって噂で、住まい手がなかなか見つからなかったんだって。有名な霊媒師とかお祓い系の人に頼みまくったっぽいけど、結局みんな無理ゲーだったみたいで。そのうち、さっきの不動産屋の手に渡って、うちに回ってきたってわけ」
「お祓い系の人がやることと、さっきやったこと、何が違うんですか?」
「さあ?」
瀬里の質問に、さくらは肩をすくめるだけだった。
「うちらはただ、掃除してごはん作って、お客様に満足していただくだけだから」
そう言うと、思い切り伸びをする。
「つまり、満足度が違うのかもしれませんね……満足度というか、魂の救われ度かな?」
朝陽の魂はきらきらと輝いて、成仏していったような気がする。
瀬里は、そんなことをふと思うのだ。
「言葉のチョイス神なんだけど。それに瀬里、ぜったい綺麗好きっしょ? この仕事マジで向いてると思うよ」
さくらが、にやっと笑う。
「どうして、綺麗好きだって分かったんですか?」
「だって、うちらにとって、綺麗にするって清めることだし」
当然のことのように言われ、瀬里ははっとする。
瀬里は子どもの頃から、潔癖症だと言われてきた。汚れは、何かよくないものを呼び込む気がしてならなかった。実際、いるはずもないものがあらわれるのは、決まって汚れた場所だった。掃除の行き届かない物置や、長く使われていない部屋の隅……。
「てかさ、頭いい大学出てるっぽいし、どこでも余裕じゃん? なんで、うちに来たの?」
「まあ自分、案外と器用で、どんなことでもだいたい、そつなくやれてきたほうなんですけど……なのに、せっかくの新卒カードを、一ヶ月で捨ててしまったんですよね」
どうして、話す気になったんだろう……ずっと、誰にも言えなかったことなのに。
しかし、瀬里は、ぽかんとするさくらを見て、すでに後悔しはじめていた。
話さなきゃ良かった……。
「それで?」
とはいえ、今さら引くにも引けず。
「隣の席は空席。そう教えられたはずなのに、自分の隣にはいつも〝あの人〟が座っていました」
朝になれば出社して、淡々とキーボードを叩く……。
自分だけが知っている、うっすら埃の積もった席に座る、存在しないはずの同僚。
〝あの人〟がそこから動けないように、自分も机から離れられない。
仕事に集中できないし、ミスも増えていく。覚えなければならないことは、まだ山程あるのに。
会社に行きたくない。仕事なんかしたくない。辞めてしまいたい。自分がそうやって悩んでいる間も……。
〝あの人〟は頼まれもしない仕事を、青白い顔をして一日中こなしていた。
それが、未来の自分のように思えてきて……。
「怖くなって……逃げるように会社を辞めました」
瀬里は、ふう、と大きく息を吐いた。
「そっか……あるあるだよね」
「あるある……?」
瀬里にすれば、かなりの覚悟で話したというのに、さくらの態度に拍子抜けしてしまう。
「うちらにはマジであるあるだから。気にすんの禁止」
「え、でも、普通に、気にしますよね?」
「そういう気が淀んでる場所に居続けたら、運気ダダ下がりで肌荒れひどいし、最悪病むから。一ヶ月で見切りつけた判断力、もはや天才」
「ははっ……」
天才って……褒められてるのやら、けなされてるのやら。
それでも、気付けばポジティブ思考になっているのだから、さくらは只者じゃない。
「どうせ、失業中でやることないし……もう少し、バイト続けてみます」
瀬里がそう言うと、しめしめとばかりにさくらがほくそ笑む。
「だったら、連絡先教えといてくんない?」
連絡先を交換すると、〝佐倉栞〟という可愛い名前が出てきた。
「さくらさんって、苗字だったんですか?」
「うちら一緒って言ったじゃん」
「そういう意味で……」
もしかして、初対面で本名や連絡先をゲットできたのって、ラッキーなんじゃないだろうか。
瀬里は、今さらさわがしくなる心に戸惑った。
「にしても、瀬里って、優しすぎん? 駅で幽霊に謝ってたの、ウケたんだけど。あんな半透明の弱小幽霊、当たってもノーダメっしょ」
見られてたのか……。
瀬里は、恥ずかしさでいたたまれなくなる。
「いい奴だって、ひと目で分かった」
だけど、にっ、と笑う、さくらの表情は、非常に軽やかで。
心をかき乱され放心状態の瀬里のことなどおかまいなしで、すたすたと駅に向かって行くさくらの背中――、夕暮れの景色がやけに胸に染みて、ただ見送ることしかできなかった。




