後編
第3章:嵐の中の共犯者
月曜日の朝。
天気予報は午後からの雷雨を告げていた。
その予報通り、東京の空は不穏な鉛色に染まりつつあったが、湊の心模様はそれ以上に曇天だった。
部長からの電話で告げられた「権田建設でのトラブル」。その詳細は、予想以上に泥臭く、そして厄介なものだった。
タクシーの後部座席で、湊はタブレット端末に表示された報告書を睨んでいた。
隣には石田梨央が座っている。彼女は膝の上で固く拳を握りしめ、顔面蒼白で前を見つめていた。
彼女の「情熱」が空回りし、事態を悪化させたわけではない。むしろ、彼女の仕事は完璧だった。
問題は、人間の「感情」という、数値化できない変数が暴発したことにあった。
「……現場の職人たちが、タブレット端末の導入をボイコットしている、か」
湊が低い声で呟くと、梨央がビクリと肩を震わせた。
「はい……。先方のご担当者からの連絡では、現場監督の頭である大山さんという方が、『こんな玩具で仕事ができるか』と端末を床に叩きつけたそうで……」
「叩きつけた? 器物破損だな」
「そ、そういう問題じゃなくて! 大山さんが動かないと、他の職人さんも誰も動かないんです。このままだと、今月から始まるテスト運用が完全にストップしてしまいます」
梨央の声は悲鳴に近い。
彼女にとって、このプロジェクトは入社以来の悲願であり、心血を注いできた結晶だ。それが、理不尽な感情論によって破壊されようとしている。
彼女の焦燥感は痛いほど伝わってくる。
だが、湊の脳内では、すでに冷徹な損益計算が始まっていた。
システム導入が遅れれば、納期が遅れる。納期が遅れれば、違約金が発生する可能性がある。さらに悪いことに、この件がこじれれば、先日ようやく懐柔した権田社長の機謙を損ね、契約自体が白紙に戻るリスクもある。
それは、湊のキャリアにおける汚点となる。
(面倒だ)
湊は心の中で吐き捨てた。
なぜ、人間というのはこうも非合理なのか。
新しいシステムを導入すれば、残業時間は減り、事務作業は楽になり、結果として彼らの利益になる。そのメリットを、数字と図解で分かりやすく説明したはずだ。
それなのに、彼らは「変化」を拒む。
「今まで通りがいい」「機械なんかに指図されたくない」という、幼児的な自尊心を守るために、自分たちの首を絞める選択をする。
愚かだ。救いようがない。
だが、その愚かな人間たちを動かさなければ、金にならないのがビジネスというゲームだ。
「……相馬先輩」
梨央が、縋るような目で湊を見た。
「どうしましょう。私、また説明資料を作り直したほうがいいでしょうか? もっと分かりやすく、メリットを強調して……」
「無駄だ」
湊は即答した。
「彼らが拒絶しているのは『システム』じゃない。『変化』そのものだ。そして、その変化を持ち込んだ『余所者』である我々に対する生理的な嫌悪感だ」
「そんな……」
「理屈で説得しようとすればするほど、彼らは意固地になる。『俺たちを馬鹿にしている』『現場を知らないくせに』とな。北風と太陽の話と同じだ。ロジックという北風を吹かせても、彼らはコートを脱ぐどころか、さらに着込むだけだよ」
湊の言葉に、梨央は唇を噛んだ。
彼女も頭では分かっているのだろう。だが、感情が納得していない。「正しいことをしているのになぜ」という義憤が、彼女の視界を曇らせている。
タクシーが現場事務所の前に到着した。
プレハブ建ての簡素な事務所。その周りには重機が並び、土埃と油の匂いが立ち込めている。
空からは、ポツリポツリと雨粒が落ち始めていた。
車を降りると、事務所の中から怒号が聞こえてきた。
「帰れって言ってるんだよ! スーツ着た案山子どもが!」
扉を開けると、そこは修羅場だった。
狭い事務所の中に、作業着姿の男たちがたむろしている。その中心に、熊のように巨大な男が仁王立ちしていた。
現場監督の大山だ。年齢は五十代半ば。日焼けした顔に深い皺が刻まれ、その目は怒りで充血している。
対峙しているのは、権田建設の若手社員たちだ。彼らは完全に萎縮し、言葉を失っている。
湊と梨央が入っていくと、全員の視線が一斉に突き刺さった。
特に大山の視線は鋭い。値踏みするような、そして敵意に満ちた目だ。
「……なんだ、また新しいのが来たのか」
大山がドスの利いた声で言った。
「あんたらも同じだろ? パソコンだかタブレットだか知らねえが、そんなもんで俺たちの仕事を管理しようって魂胆なんだろ」
「初めまして。今回のプロジェクトを担当しております、相馬と申します」
湊は、威圧感などまるで感じていないかのように、涼しい顔で名刺を差し出した。
その落ち着き払った態度が、逆に大山の神経を逆撫でしたようだ。
大山は名刺を受け取ろうともせず、床に唾を吐いた。
「けっ。澄ました顔しやがって。いいか、兄ちゃん。俺はこの道三十年だ。現場のことは、現場の人間が一番よく分かってる。機械なんかに頼らなくたって、いい仕事はできるんだよ」
「おっしゃる通りです。大山さんのご実績と現場の技術力には、敬意を表します」
湊は慇懃に頭を下げた。
だが、その言葉には温度がない。定型文を再生しているだけだ。
「敬意だ? 口先だけで調子のいいこと抜かすな! お前らのその目が気に入らねえんだよ。俺たちを『効率の悪い旧人類』だと見下してるその目がな!」
大山が湊の胸ぐらを掴み上げた。
強烈な力だ。湊の体が浮く。
隣で梨央が「やめてください!」と叫ぶ。
現場の空気が張り詰める。一触即発。
普通なら、恐怖で震え上がる場面だ。
だが、湊の心拍数は変わらない。
至近距離で睨みつけてくる大山の瞳に映る自分の顔を見ながら、湊は冷静に分析していた。
(……図星か)
大山の言う通りだ。
湊は彼らを見下している。
効率が悪く、感情的で、変化を恐れる旧人類。
その本心が、完璧な仮面の隙間から漏れ出ていたのか? あるいは、大山の野生の勘が、湊の「無機質さ」を嗅ぎ取ったのか?
どちらにせよ、このままでは交渉にならない。
「共感」の演技プランを変更する必要がある。
相手は「敬意」という言葉では満足しない。もっと泥臭い、もっと原始的な「服従」のポーズを求めている。
湊は、抵抗することなく両手を挙げた。
無抵抗の意思表示。
そして、ゆっくりと口を開こうとしたその時だった。
「離してください!」
鋭い声が響いた。
石田梨央だった。
彼女は、湊と大山の間に割って入り、大山の太い腕を両手で掴んで引き剥がそうとした。
無謀だ。
熊と兎の喧嘩のような体格差。
だが、彼女の瞳は燃えていた。恐怖よりも、怒りと、そして「大切な上司を守ろうとする必死さ」が勝っていた。
「暴力はやめてください! 私たちは、皆さんの仕事を邪魔しに来たんじゃありません! どうすれば皆さんが働きやすくなるか、真剣に考えて……!」
「うるせえ! 女が口出すんじゃねえ!」
大山が腕を振り払った。
その勢いで、梨央の体が弾き飛ばされる。
彼女はバランスを崩し、事務机の角に腰を強打して、床に倒れ込んだ。
「きゃっ」という短い悲鳴。
鈍い音がした。
その瞬間。
湊の中で、何かが「カチリ」と音を立てて切り替わった。
それは怒りではない。
「自分の所有物が傷つけられたことによる損失の発生」に対する、冷徹なアラートだ。
同時に、ほんのわずかな――本当に砂粒ほどの――不快感が、胸の奥で燻った。
昨夜の唐揚げのLINE。今朝の缶コーヒー。
彼女の無邪気な笑顔。
それが、暴力によって歪められたことへの、生理的な拒絶反応。
湊は大山の手を振りほどき、倒れた梨央の元へ歩み寄った。
膝をつき、彼女の肩を抱く。
「……石田。大丈夫か」
「う……はい、大丈夫です。ちょっと打っただけ……」
梨央は痛みに顔を歪めながらも、気丈に立ち上がろうとする。
だが、その目には涙が滲んでいた。
悔しさと、痛みと、恐怖。
それらが入り混じった、無防備な表情。
湊は、梨央を支えて立ち上がらせると、再び大山に向き直った。
その時、湊の顔から「営業スマイル」は完全に消え失せていた。
能面のような無表情。
だが、その瞳の奥には、これまで誰にも見せたことのない、底知れぬ暗闇が広がっていた。
絶対零度の、静かな殺気。
「大山さん」
湊の声は、先ほどまでの慇懃なトーンとは別物だった。
低く、重く、そして鋭利な刃物のように空気を切り裂く声。
「今のは、労働災害です」
「あ、あぁ!?」
「我々に対する暴行、および傷害。警察を呼べば、あなたは逮捕される。そして現場は止まり、工期は遅れ、権田建設の信用は地に落ちる。……それが、あなたの言う『現場の誇り』ですか?」
湊は大山を一歩ずつ追い詰める。
大山が、たじろいだ。
暴力という原始的なマウントを取ったつもりが、法と論理という近代兵器によって反撃され、さらに湊の発する異様なプレッシャーに気圧されたのだ。
この男は、何かが違う。
ただのエリートサラリーマンではない。もっと得体の知れない、危険な匂いがする。
野生の勘が、大山に警鐘を鳴らしていた。
「……ちっ。脅しかよ」
「事実を申し上げているだけです。ですが」
湊は足を止めた。
そして、ふっと表情を緩めた。
それは、獲物を罠にかけた狩人のような、冷酷で美しい微笑みだった。
「私は、警察を呼ぶつもりはありません。そんなことをしても、誰も得をしないからです」
「……何が言いてえ」
「取引をしましょう、大山さん」
湊は懐からハンカチを取り出し、大山の顔の前でひらつかせた。
「この件は不問にします。その代わり、私に時間をください。一週間。一週間だけ、このタブレットを使ってみてください。それでも『使えない』と判断されたら、私は土下座して謝罪し、このプロジェクトを白紙に戻すよう社長に進言します」
事務所内がざわめく。
梨央が「先輩!?」と驚愕の声を上げる。
白紙に戻す。それは数千万円の契約をドブに捨てることと同義だ。湊の独断で決められることではない。
だが、湊の目は本気だった。
いや、本気に見える演技だった。
「自分のクビを賭けてでも、あなたたちと向き合いたい」という、熱烈な覚悟を演じているのだ。
大山は、湊の目をじっと見つめた。
数秒の沈黙。
やがて、大山は忌々しそうに舌打ちをした。
「……一週間だ。それ以上は待たねえぞ」
「ありがとうございます。それで十分です」
交渉成立。
大山は部下たちに「仕事に戻るぞ!」と怒鳴り、事務所を出て行った。
嵐が過ぎ去る。
残されたのは、散らかった事務所と、呆然と立ち尽くす梨央、そして氷のような表情に戻った湊だけだった。
「……相馬先輩」
梨央がおずおずと声をかける。
「あんな約束して、大丈夫なんですか? もし一週間で成果が出なかったら……」
「出させるんだよ。何が何でもな」
湊は冷ややかに言った。
これは賭けではない。勝算のあるゲームだ。
大山のようなタイプは、一度「男の約束」をすれば、少なくともその期間内は約束を守る。その間に、彼らが「使わざるを得ない」状況を作り出せばいい。
飴と鞭。
恐怖と利益。
人間を動かすレバーは、いつだってその二つだ。
「それより、腰は大丈夫か」
「あ、はい。平気です」
「嘘をつくな。顔色が悪い」
湊は梨央の腕を掴み、強引に出口へと歩き出した。
「病院に行くぞ。これ以上のトラブルは御免だ」
「えっ、でも仕事が……」
「これが仕事だ。部下の健康管理も、上司の義務だからな」
義務。
その言葉に、梨央は少しだけ寂しそうな顔をした。
だが、湊に支えられた腕の温もりは、確かにそこにあった。
湊自身は気づいていない。
彼が梨央を助けた行動の根底に、単なる「リスク管理」以上の感情――かつて自分が求めてやまなかった「庇護」への衝動――が混じっていたことに。
雨脚が強くなってきた。
激しい雷鳴が、遠くで轟いている。
嵐はまだ、始まったばかりだった。
タクシーで向かった先の総合病院は、湿った雨の匂いと、鼻を刺す消毒液の臭いが混じり合い、湊の神経を逆撫でするような空気に満ちていた。
待合室の硬いベンチ。呼び出しを告げる無機質な電子音。
それらは全て、湊にとって忌まわしい記憶のスイッチだ。
幼い頃、原因不明の腹痛、実際はストレス性のものだったが、で運び込まれた夜。
二十代で自殺未遂をして、胃洗浄を受けた屈辱的な朝。
そして先日、過労で倒れて点滴を受けた時。
病院はいつだって、湊の「弱さ」が白日の下に晒され、管理される場所だった。
「……相馬さん、お待たせしました」
診察室から出てきた石田梨央が、申し訳なさそうに頭を下げた。
腰には湿布が貼られているのだろう、歩き方が少しぎこちない。だが、表情には安堵の色があった。
「どうだった」
「骨には異常なしだそうです。全治一週間の打撲。湿布と痛み止めをもらいました」
「そうか。不幸中の幸いだな」
湊は短く答え、会計を済ませるために立ち上がった。
全治一週間。
それは奇しくも、大山と交わした「約束の期限」と同じだ。
因縁めいたものを感じながら、湊は梨央を促して病院の外に出た。
雨は小降りになっていたが、空はまだ厚い雲に覆われている。
病院の軒下で、梨央が深く息を吐いた。
「すみませんでした、先輩。……私のせいで、あんな騒ぎになって」
「謝る必要はない。君は自分の仕事をしただけだ」
「でも、私が余計な口出しをしなければ、先輩が頭を下げることもなかったし、あんな無茶な約束をすることもなかったんじゃ……」
梨央は俯き、唇を噛み締めた。
自分の無力さと、感情的になって事態を悪化させたことへの自責の念。
湊は、そんな彼女の横顔を見つめ、冷淡に言った。
「勘違いするな」
「え?」
「僕が大山と取引をしたのは、君を助けるためじゃない。あの場を収拾し、プロジェクトを継続させるための唯一の手段だったからだ。君が怪我をしたことは、交渉材料の一つとして利用させてもらったに過ぎない」
湊は嘘をついた。
いや、半分は本音だ。だが、あの一瞬、梨央が突き飛ばされた瞬間に感じた「不快感」と、彼女を守らなければという「衝動」があったことは、自分の中のブラックボックスに封印した。
そんな人間的な感情は、今の湊にはバグでしかない。
「それに、君の行動は非合理的だ。あんな大男相手に、君のような小柄な女性が立ち向かって何ができる? 怪我をして戦力を喪失すれば、それこそチームにとってマイナスだ」
「う……それは、そうですけど……」
「自分の体を、会社の資産だと考えろ。無駄な損傷を避けるのも、重要な職務だ」
正論という名の氷水を浴びせかける。
梨央はシュンとして、「はい……」と小さく答えた。
だが、次の瞬間、彼女は顔を上げ、湊を真っ直ぐに見つめ返した。
「でも、怖かったんです」
「……何がだ」
「先輩が、殴られるんじゃないかと思って。大山さん、本気で怒ってたから……私、体が勝手に動いちゃって」
彼女の瞳には、嘘偽りのない心配の色が浮かんでいた。
自分の怪我よりも、上司の身を案じる純粋な献身。
それが、湊の胸の奥をチクリと刺す。
なぜ、この子はこうなのだ。
損得勘定抜きで、他人のために動ける。恐怖よりも「守りたい」という感情が上回る。
それは湊が二十年前に捨て去った、そして本当はずっと欲しかった「強さ」の形だった。
「……物好きなことだ」
湊は視線を逸らし、タクシーを拾うために手を挙げた。
これ以上、彼女の瞳を見ていると、調子が狂う。
帰りのタクシーの中で、湊は今後の作戦について話し始めた。
感傷的な空気を払拭し、ビジネスモードに引き戻すためだ。
「さて、石田。一週間だ」
「はい。……でも先輩、どうするつもりですか? 大山さんたちは、タブレットなんて絶対に使わないって顔してましたよ。マニュアルを読ませるだけでも一苦労です」
「マニュアルなんて読ませなくていい」
湊は、タブレット端末を取り出し、画面をタップした。
「人間が新しい道具を使う動機は二つしかない。『必要に迫られる』か、『使うと楽しい』かだ。今回は、その両方を同時に仕掛ける」
「両方、ですか?」
「ああ。大山のような職人気質の人間は、プライドが高い。だから『教えてやる』というスタンスで接すると反発する。だが、彼らは同時に『自分の技術を誇示したい』という強烈な欲求も持っている」
湊の目が、狩人のように細められた。
「彼らの承認欲求を利用するんだ。このタブレットを、『管理ツール』ではなく、『彼らの凄さを記録するアルバム』に見せかける」
「アルバム……?」
「そうだ。今からシステムの設定を少し変える。業務報告の入力画面を、もっとシンプルに、そしてビジュアル重視にする。彼らが現場で撮った写真をアップロードすると、それが即座に『成果』として可視化され、本社や他の現場から『いいね』が届くような仕組みだ」
湊は淡々と説明を続けた。
SNSのような承認機能の実装。
事務的な「報告」を、彼らの職人としての「自慢」にすり替える心理トリック。
それは、湊が人間観察の末に導き出した、最も効率的な「動機付け」の手法だった。
「彼らは口では『魂』だの『泥臭さ』だのと言うが、本心では『誰かに認められたい』と飢えている。特に、本社で涼しい顔をしているホワイトカラーに対してコンプレックスを持っている。だから、現場の過酷さと、そこで成し遂げた仕事の凄さを、リアルタイムで見せつけられるツールがあれば、彼らは喜んで飛びつくはずだ」
梨央は、呆気に取られたように湊を見ていた。
そして、ふふっと笑い出した。
「先輩って、やっぱり性格悪いですね」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「でも……すごいです。大山さんの性格を、あの一瞬でそこまで見抜くなんて。先輩には、人の心が手に取るように分かるんですね」
梨央の言葉に、湊は一瞬だけ表情を曇らせた。
分かるわけではない。
ただ、自分の中にある「空洞」が、他人の欲望を反響させているだけだ。
そして、その欲望の正体が、どれもこれも「寂しさ」や「不安」に根ざしていることを知っているから、操作ができるだけなのだ。
「……人の心なんて、単純なものだよ。ボタンを押せば反応する機械と変わらない」
湊は自分に言い聞かせるように呟いた。
そう、機械だ。
大山も、権田社長も、父も母も。
そして、湊自身も。
適切な入力をすれば、適切な出力が返ってくる。そこに「魂」なんて不確定な要素を介在させる必要はない。
「でも」
梨央が、湊の袖を軽く掴んだ。
「私は機械じゃありませんよ」
「……」
「先輩のボタン、私がいつか見つけてみせますから。機械じゃない、本当の相馬先輩が動き出すスイッチを」
まただ。
また、この子は踏み込んでくる。
湊は彼女の手を振り払おうとしたが、今度はできなかった。
腰を打ったばかりの彼女を邪険に扱うのは「リスク管理」上、得策ではないと判断したからだ――と、自分に言い訳をして。
タクシーが会社に到着した。
雨は上がり、雲の隙間から夕日が差し込んでいた。
濡れたアスファルトが、オレンジ色に輝いている。
湊は、この一週間が勝負だと気を引き締めた。
大山を陥落させ、プロジェクトを成功させる。
それは単なる仕事ではない。
「感情」という厄介な怪物を、「論理」と「計算」でねじ伏せ、自分の生き方が間違っていないことを証明するための戦いでもあった。
だが、湊はまだ気づいていなかった。
この「ゲーム」には、彼が計算に入れていないイレギュラーな変数が紛れ込んでいることを。
それは、大山の頑固さでも、梨央の情熱でもない。
湊自身の奥底で、長い間凍りついていたはずの「何か」が、梨央の体温に触発されて、静かに溶け始めているという事実だった。
翌日。
湊は、カスタマイズしたタブレット端末を手に、再び現場へと向かった。
今回は梨央を休ませ、単身での乗り込みだ。
大山との一対一の勝負。
武器は、嘘と、計算と、そして冷たい情熱だけ。
事務所の扉を開けると、大山が不機嫌そうに煙草を吹かしていた。
「……また来たのか。懲りねえな」
「約束ですから」
湊は微笑んだ。
獲物を前にした狩人の、残酷で美しい微笑みで。
「大山さん。面白いものをお持ちしましたよ。あなたの『伝説』を作る道具です」
戦いの火蓋が切って落とされた。
煙草の紫煙が充満するプレハブ事務所の中で、湊はタブレット端末をテーブルの上に滑らせた。
画面には、新しく開発したアプリのトップページが表示されている。
これまでの事務的で無機質な入力フォームではない。黒を基調とした、まるで高級ブランドのカタログのような洗練されたデザインだ。
「……なんだこれは」
大山が怪訝そうに眉を寄せる。
湊は、その反応を待っていたかのように、滑らかな口調で語り始めた。
「これまでのシステムは、会社があなた方を『管理』するためのものでした。作業時間を入力させ、サボっていないか監視する。……不愉快ですよね」
「当たり前だ。俺たちは囚人じゃねえ」
「ええ。ですから、変えました。この新しいアプリの目的は、管理ではありません。『保存』です」
湊は画面をタップし、写真ギャラリーを開いた。
そこには、鉄骨の継ぎ目、美しく組まれた足場、コンクリートの打設面など、現場の「仕事」の数々が高解像度で表示されている。
これは昨日、湊が徹夜で梨央に集めさせた、過去の施工事例の画像データだ。
「大山さん。あなた方の技術は、素晴らしい。ですが、建物が完成して内装が施されれば、その精緻な仕事は壁の中に隠れて見えなくなってしまう。……勿体ないと思いませんか?」
湊の言葉に、大山の視線が少しだけ泳いだ。
職人の仕事は、最終的には見えなくなる部分が多い。彼らはそれを「粋」とする一方で、誰にも気づかれない寂しさを常に抱えている。
湊はそこを突いた。
「このアプリは、あなた方の『作品』を残すためのデジタル・アーカイブです。作業報告なんておまけでいい。メインは、その日に行った『最高の仕事』を写真に撮り、一言コメントを添えてアップすることです」
湊は、大山の目の前にタブレットを突きつけた。
「本社にいるホワイトカラーの連中は、現場で何が起きているか知りません。夏は暑く、冬は寒い中で、どれほどの技術と根性でこのビルが支えられているか、想像すらできない。……教えてやろうじゃありませんか」
湊の声に、煽りの色が混じる。
「このタブレットを通じて、毎日見せつけてやるんです。『俺たちはこんなすげえ仕事をしてるんだぞ』と。この写真を見た本社の人間は、ぐうの音も出ないでしょう。数字だけの報告書よりも、一枚の『魂の写真』の方が、雄弁に現場の凄みを語るはずです」
大山が、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼のプライドという名の導火線に、火がついた瞬間だった。
「管理される」のは嫌だが、「自慢する」なら話は別だ。しかも、普段見下されていると感じている本社の人間に対して、自分たちの凄さを見せつけられるチャンスだという。
「……へっ。口が上手いな、兄ちゃん」
大山はニヤリと笑い、タブレットを手に取った。
その指は太く、油で汚れているが、端末を扱う手つきは存外に慎重だった。
「いいだろう。そこまで言うなら、試しに一枚撮ってやるよ。ちょうど今、難しい配管の溶接をキメたところだ」
「ぜひお願いします。その『神業』を、記録させてください」
大山は事務所を出て、現場へと向かった。
湊も後に続く。周囲の職人たちも、何事かとぞろぞろついてくる。
現場の奥、複雑に入り組んだ配管の前で、大山はタブレットを構えた。
不慣れな手つきでシャッターを切る。
カシャッ、という電子音が響く。
画面に、銀色に輝く溶接痕が表示された。
湊には、その溶接が良いのか悪いのか、正直なところさっぱり分からない。
だが、そんなことは関係ない。
湊は大げさに目を見開き、感嘆の息を漏らしてみせた。
「……美しい」
ただ一言。
その言葉が、大山の自尊心を極限までくすぐった。
「だろ? ここのビードの均一さがな、若造には出せねえ味なんだよ」
「ええ、まるで工芸品のようだ。……大山さん、すぐにアップロードしてください。これは全社に見せるべきだ」
大山が得意げに送信ボタンを押す。
数秒後。
タブレットが「ピロン」と軽快な通知音を立てた。
画面上に、『いいね!』のアイコンと、『素晴らしい技術です! 勉強になります!』というコメントが表示される。
本社で待機している石田梨央からの、即レスだ。
湊が事前に、「画像が上がったら、内容に関わらず即座に絶賛コメントを入れろ」と指示しておいたのだ。
「おっ、もう反応が来たぞ」
大山が目を丸くする。
自分の仕事が、リアルタイムで認められ、賞賛される。
その快感は、彼がこれまでの職人人生で味わったことのない種類の、強烈なドラッグだった。
「親父、俺にも見せてくれよ!」
「すげえ、本社の営業が褒めてるぞ!」
周囲の若手職人たちが覗き込む。
大山は「へへっ、まあな」と鼻の下をこすりながら、満更でもなさそうだ。
そして、彼はニヤリと笑って湊を見た。
「……悪くねえな。これなら、日報を書く手間賃代わりにやってやってもいい」
「ありがとうございます。……では、このシステム、使っていただけますね?」
「ああ。一週間と言わず、しばらく貸しとけ。俺の『伝説』を残さなきゃなんねえからな」
勝利だ。
湊は、胸の奥で小さくガッツポーズをした。
チョロい。あまりにもチョロい。
人間は、承認欲求という餌の前では、いとも簡単にプライドの形を変える。
「機械に使われる屈辱」は、「機械を使って自慢する快感」によって、あっさりと上書きされたのだ。
現場からの帰り道。
湊は一人、駅までの道を歩いていた。
空は晴れ渡り、夏の日差しがアスファルトを照りつけている。
成功した。
最大の障壁だった大山を、完全に手懐けた。これでプロジェクトは軌道に乗るだろう。
だが、湊の心は少しも晴れていなかった。
虚しい。
人の心を操り、思い通りに動かすことへの、底知れない虚無感。
大山は、湊のことを「自分の仕事を理解してくれた若者」だと思っているだろう。
だが実際は、湊は大山の仕事になど興味がない。溶接の良し悪しなんてどうでもいい。ただ、彼を動かすための「スイッチ」を押しただけだ。
嘘で塗り固められた信頼関係。
それがビジネスであり、湊の生きる世界だ。
駅のホームで電車を待ちながら、湊はスマホを取り出した。
梨央に報告のLINEを送る。
『大山、陥落。作戦成功だ。君の即レスが効いたよ』
すぐに既読がつき、返信が来る。
『やりましたね先輩!! さすがです! 大山さんの写真、本当にカッコよかったです。あれなら、他の職人さんも続きますよ!』
彼女は本気で喜んでいる。そして、おそらく本気で大山の写真を「カッコいい」と思ったのだろう。
彼女には嘘がない。
だからこそ、湊の嘘が際立つ。
画面上の文字を見つめながら、湊はふと思った。
――もし、僕が「本当の自分」を見せても、君はそんな風に「いいね」と言ってくれるだろうか。
空っぽで、冷たくて、計算高い自分。
そんな写真をアップロードしたら、君はどんなコメントを返す?
『幻滅しました』か?
『最低ですね』か?
想像するだけで、胸が苦しくなる。
そんなリスクを冒す必要はない。
今のままでいい。
「すごい先輩」と「素直な後輩」。その関係性の中で、適度な距離を保ちながら、仕事というゲームをクリアしていけばいい。
電車が到着するアナウンスが流れた。
湊はスマホをポケットにしまい、顔を上げた。
その時、ホームの向かい側に、見覚えのある人影が見えた気がした。
……弟の、洋介?
いや、まさか。ここは東京の大田区だ。北関東の実家にいるはずの弟がいるわけがない。
見間違いだ。
疲れているのだろう。
湊は頭を振り、到着した電車に乗り込んだ。
だが、その予感は、あながち間違いではなかったことを、数日後に思い知ることになる。
湊の「完璧な嘘」の世界に、実家という過去からの侵入者が、音もなく忍び寄っていたのだ。
大山との「賭け」から三日が過ぎた。
結果は、湊の完全勝利だった。
カスタマイズされた業務アプリのタイムラインには、毎日数枚の「現場写真」が投稿されている。
『3階フロア、配筋完了。このピッチの正確さを見ろ』
『今日は暑かったが、コンクリの乾きは最高だ』
写真には、大山だけでなく、他の職人たちからの投稿も続き始めていた。
湊の読み通り、彼らは「管理される」ことには反発したが、「自慢する」ことには貪欲だった。そして、本社側からの『すごい!』『さすがです!』という即レス承認が、彼らのドーパミンを刺激し続けている。
システムは稼働した。
もはや、誰も「使いにくい」とは言わない。彼らは自分たちの「伝説」を残すために、喜んでタブレットを操作しているのだ。
「……乾杯!」
ジョッキがぶつかり合う軽快な音が、新橋のガード下にある居酒屋に響いた。
金曜日の夜。
プロジェクトの初期導入成功を祝い、梨央が強引に湊を誘い出したのだ。
彼女は一口目を美味しそうに飲み干すと、プハッと息を吐き、満面の笑みを湊に向けた。
「やりましたね、先輩! 大山さん、すっかりご機嫌ですよ。今日なんて『次の現場の写真も楽しみにしてろ』なんてメッセージまで来てました」
「ああ。単純な男で助かったよ」
湊はハイボールをちびちびと舐めながら、冷めた口調で応じた。
成功したこと自体に喜びはない。
トラブルというマイナスがゼロに戻り、多少のプラスが上乗せされた。ただの数字の変動だ。
だが、目の前で無邪気に喜ぶ梨央を見ていると、その「無駄な熱量」が、少しだけ心地よく感じられる瞬間があるのも事実だった。
「でも、先輩のおかげです。あの時、先輩が機転を利かせてくれなかったら、今頃どうなっていたか……」
「僕じゃない。君の『いいね』のおかげだ。あんなお世辞コメント、僕には書けない」
「お世辞じゃありません! 本当にすごいと思ったんです。職人さんの手仕事って、やっぱり魂がこもってる気がして」
梨央は焼き鳥を頬張りながら、熱く語る。
魂。
湊はその言葉を聞くたびに、心の中で失笑する。
魂なんてものは、観測者の脳内にしか存在しない幻想だ。職人は金のために働き、梨央はそれを「魂」と解釈して感動する。
互いに誤解し合いながら、幸せなサイクルが回っている。
平和な世界だ。
「そういえば先輩、腰の方はもう大丈夫なんですか?」
「ん? ああ、僕の腰か? なんともないよ」
「違いますよ! 私のです! 先輩が病院連れてってくれた時のこと、もう忘れちゃったんですか?」
梨央がむくれる。
湊は「ああ, 君のか」ととぼけた。忘れていたわけではない。ただ、その話題になると、彼女との距離が近づきすぎる気がして、無意識に避けていただけだ。
「もう平気です。湿布のおかげで痛みも引きましたし。……あの時は、本当にありがとうございました。先輩、意外と過保護なんですね」
「過保護じゃない。資産管理だと言ったはずだ」
「はいはい、そういうことにしておきます」
梨央は楽しそうに笑い、湊のグラスに自分のハイボールの瓶をコツンと当てた。
その距離感の近さに、湊はわずかな居心地の悪さを覚える。
彼女は、湊の「冷たさ」を「照れ隠し」や「不器用さ」として解釈し、勝手に好感度を上げている。
それは誤解だ。
だが、その誤解を訂正する気力も、今の湊にはなかった。
このまま、適度な距離で「慕われる上司」を演じていれば、それでいい。
その時だった。
湊のスーツのポケットの中で、スマートフォンが震え出した。
短く、断続的な振動。
LINEの通知ではない。着信だ。
こんな時間に、誰だ?
仕事のトラブルか?
湊はスマホを取り出し、画面を見た。
表示された名前を見た瞬間、湊の全身の血が凍りついた。
『洋介』。
弟だ。
先週末、チャイルドシート代として五万円を送り、手切れ金代わりにしたはずだ。
なぜ、また掛けてくる?
礼の電話か? いや、そんな律儀な男ではない。
嫌な予感が、背筋を駆け上がる。
先日、駅のホームで見かけた人影――まさか。
「……悪い。ちょっと電話だ」
湊は席を立ち、店の外へと出た。
ガード下の喧騒の中、少し離れた路地裏に入り、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『あ、兄貴? 俺だ』
洋介の声。
だが、いつものようなふてぶてしさはない。
焦っている。そして、怯えているような、切羽詰まった声色だ。
背後から、雑踏の音が聞こえる。
車の走行音。電子的なアナウンス。
それは、田舎の静寂ではない。明らかに「都会」のノイズだ。
「……今、どこにいる」
湊は低い声で問いただした。
洋介が、息を呑む気配がした。
『……新宿』
「は?」
『新宿だよ。歌舞伎町の近く』
湊は、こめかみを押さえた。
予感が的中した。
最悪だ。
なぜ、北関東にいるはずの弟が、平日の夜に東京の繁華街にいるのか。
妻はどうした。子供は。仕事は。
「何しに来た。観光か?」
『ちげえよ! ……兄貴、頼む。助けてくれ』
洋介の声が震えている。
『金がいるんだ。今すぐ』
「はあ? 先週送っただろう。五万円」
『そんな端金じゃ足りねえんだよ! ……やっちまったんだ。FXで』
FX。外国為替証拠金取引。
湊の脳内で、瞬時に最悪のシナリオが構築される。
一攫千金を夢見て、レバレッジをかけすぎた素人の末路。
「……いくらだ」
『……ひゃく』
「百?」
『百五十万。……消費者金融からも借りちまって、もう首が回らねえ。真美には言えねえし、会社にもバレたらクビになる。兄貴しかいねえんだよ、頼れるのは!』
洋介が泣き声で喚く。
湊は、冷めた目で路地裏の汚れを見つめた。
怒りは湧かなかった。
ただ、「やっぱりか」という徒労感だけがある。
親の愛に飢え、兄に劣等感を抱き、安易な成功を求めて破滅する。
典型的な「持たざる者」の転落劇だ。
「自業自得だ。帰れ」
『待てよ! 見捨てるのかよ! 俺がどうなってもいいのか!』
「知ったことか。僕には関係ない」
『関係あるね! お前が金出さねえなら、今からお前の会社に行くぞ!』
湊の目が細められた。
『お前の会社、丸の内だろ? ネットで調べたぜ。エリート様が弟を見捨てたって、会社の前で叫んでやる。お前の築き上げた地位とか信用とか、全部ぶち壊してやるからな!』
脅迫。
窮鼠猫を噛む。追い詰められた人間は、恥も外聞もなく他者を道連れにしようとする。
湊にとって、それは最も避けたい事態だ。
「相馬湊は完璧なビジネスマンである」という虚像。
それを守るために、二十年間、心を殺して生きてきたのだ。
こんな、泥沼のような家族の問題で、その努力を水泡に帰すわけにはいかない。
湊は、深く息を吸い込んだ。
感情を殺せ。
怒るな。焦るな。
これはビジネスだ。トラブルシューティングだ。
弟という名の「不良債権」を、いかにして最小限のコストで処理するか。それだけの問題だ。
「……分かった。話は聞く」
湊は極限まで抑揚を消した声で言った。
「ただし、会社には来るな。僕がそっちへ行く」
『ほ、本当か? 金、貸してくれるのか?』
「会ってからだ。……場所を言え」
洋介が指定したのは、歌舞伎町の外れにある喫茶店だった。
通話を切り、湊は天を仰いだ。
曇った夜空には、星一つ見えない。
店に戻ると、梨央が心配そうな顔で待っていた。
「先輩? 大丈夫ですか? 顔色が……」
「悪い、石田。急用ができた」
湊は財布から一万円札を一枚出し、テーブルに置いた。
「これで会計を頼む。僕は先に出る」
「えっ、でも……そんな、飲みかけで……」
「すまない。明日の朝、また連絡する」
梨央の制止も聞かず、湊は逃げるように店を出た。
背中で、梨央の「先輩!」という呼ぶ声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。
タクシーに飛び乗り、「新宿」と告げる。
車窓を流れる東京の街が、歪んで見える。
綺麗に整えられた湊の世界に、汚水が流れ込んでくる。
実家という呪縛。
血縁という鎖。
どれだけ逃げても、どれだけ成功しても、彼らは地の果てまで追いかけてくる。
「家族なんだから助け合え」という、暴力的な正論を振りかざして。
(……殺してやりたい)
ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。
弟を?
いや、違う。
こんなしがらみに縛られている、自分自身をだ。
湊は拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで理性を繋ぎ止めた。
まだだ。
まだ終わらせない。
金で済むなら、くれてやる。
その代わり、二度と俺の前に現れるなと、念書を書かせてやる。
徹底的に、事務的に、法的に処理してやる。
タクシーは夜の新宿へと滑り込んでいく。
ネオンの光が、湊の無表情な顔を毒々しく照らし出していた。
そこにはもう、「優しい先輩」の面影は微塵もなかった。
あるのは、修羅場に向かう「処理人」の冷酷な目だけだった。
新宿、歌舞伎町。
欲望と絶望がネオンの光と共に渦巻く街。
湊がタクシーを降りたのは、区役所通りの入り口だった。
客引きの声、酩酊者の叫び声、救急車のサイレン。あらゆるノイズが渾然一体となって鼓膜を叩く。
普段の湊なら、決して足を踏み入れない場所だ。美しくない。合理的ではない。
だが今夜は、この街の汚濁こそが、弟・洋介という人間に相応しい舞台装置のように思えた。
指定された喫茶店は、雑居ビルの二階にあった。
昭和の時代から時が止まったような、紫煙とコーヒーの匂いが染み付いた純喫茶。
店に入ると、奥の席で背中を丸めている男がいた。
洋介だ。
安っぽいスーツは皺だらけで、髪は乱れ、目の下にはどす黒いクマができている。テーブルの上には、冷え切ったアイスコーヒーと、灰皿に山盛りになった吸い殻。
その姿は、「転落した人間」のサンプルとして博物館に展示できそうなくらいに典型的だった。
湊は無言で洋介の対面に座った。
洋介が弾かれたように顔を上げる。
「あ、兄貴……! 来てくれたのか!」
その目には、安堵と媚び、そして隠しきれない後ろめたさが混在していた。
湊は表情一つ変えずに、店員に水を頼んだ。
そして、洋介の顔を真っ直ぐに見据えた。
「単刀直入に言う。金は用意する」
「ほ、本当か!? 助かる! やっぱり兄貴は……」
「ただし」
湊は、洋介の歓喜の声を遮った。
冷たい刃物を喉元に突きつけるような、鋭い声で。
「条件がある。これを飲めなければ、僕は今すぐここを出て行く。そして二度と連絡は取らない」
洋介がゴクリと唾を飲み込む。
湊は懐からスマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーのアプリを起動してテーブルに置いた。
「一つ。この金は貸すんじゃない。くれてやる。返済は不要だ」
「えっ、い、いいのか?」
「その代わり、今後一切、金輪際、僕に金の無心をするな。親にもだ。これが最後の手切れ金だと思え」
洋介の顔が引きつる。手切れ金。その言葉の重みを理解したのだろう。
「二つ。今回のFXでの失敗と借金のことは、僕から親には言わない。墓場まで持っていく。その代わり、お前も僕の生活に関わるな。会社に来るなんてもってのほかだ。住所も、連絡先も、全て忘れてもらう」
「……絶縁しろってことかよ」
「そうだ。戸籍上の兄弟であることは変えられないが、実質的には他人になる。それくらいの覚悟でやれ」
湊は、さらに畳みかける。
「三つ。もし約束を破ったら、この録音データを親と、お前の嫁さんに聞かせる。お前が泣きついて金をせびったこと、FXで百五十万溶かしたこと、全てだ。……家庭、壊れるぞ」
洋介の顔色から血の気が引いていく。
真美に知られれば離婚は免れないだろう。子供も連れて行かれるかもしれない。
湊は、洋介のウィークポイントを的確に握り潰しにかかっている。
「……ひでえな。血も涙もねえのかよ」
洋介が震える声で言った。
その目には、兄に対する畏怖と、憎悪が浮かんでいた。
「兄弟だろ? 困った時はお互い様じゃねえのかよ」
「お互い様?」
湊は鼻で笑った。
「僕がお前に頼ったことが一度でもあるか? ないだろう。一方的に搾取されているのはこっちだ」
「それは……兄貴が優秀だからだろ! 持ってる奴が持たざる奴を助けるのは当然だろ!」
「甘えるな」
湊の声は、さらに温度を下げた。
「僕が持っているのは、運が良かったからじゃない。僕が『心を殺して』手に入れた対価だ。お前が感情のままに生き、好き勝手に振る舞っている間に、僕は感情を捨てて、機械のように働き、親の機嫌を取り、嘘をつき続けてきた。……その代償としての金だ」
湊は、テーブルに身を乗り出した。
「お前は、感情も欲しい、家族の愛も欲しい、金も欲しい、と欲張りすぎなんだよ。何かを得るには、何かを捨てなきゃいけない。僕は『人間らしさ』を捨てて金を得た。お前は『金』を捨てて人間らしく生きてきた。それだけのことだ」
洋介は言葉を失った。
反論できない。湊の言葉は、あまりにも冷徹で、そして真理だったからだ。
兄は幸福なのではない。何か大事なものを欠損させて、その穴を金で埋めているだけなのだと、洋介は本能的に悟った。
「……分かったよ。条件、飲むよ」
洋介は力なく項垂れた。
敗北宣言だ。
湊はスマホを操作し、ネットバンキングで洋介の口座に百五十万円を送金した。
指先一つで動く大金。
それは湊の労働の結晶であり、自由への切符の一部だった。それが今、弟というブラックホールに吸い込まれて消えた。
痛みはない。
ただ、少しだけ軽くなった気がした。
これで、「家族」という鎖が一本、金という溶解液で溶けてなくなったのだから。
「確認しろ」
「……あ、ああ。入ってる。……助かった」
洋介はスマホの画面を見て、安堵の息を漏らした。
その顔には、もう兄への対抗心も、嫉妬もなかった。あるのは、圧倒的な力の差を見せつけられた敗北者の卑屈さだけだ。
「じゃあな, 洋介。元気でやれ」
湊は席を立った。
コーヒー代をテーブルに置き、背を向ける。
背後から、洋介の声が聞こえた。
「……兄貴」
「なんだ」
「あんた, 寂しくねえのか?」
湊は足を止めた。
振り返らなかった。
「一人で生きて, 金だけあって……それで楽しいのかよ」
「……楽しいわけないだろう」
湊は独り言のように呟いた。
「ただ、楽なだけだ」
そう言い残し、湊は店を出た。
階段を降り、再び歌舞伎町の雑踏へと戻る。
蒸し暑い夜風が、汗ばんだ肌に張り付く。
楽だ。
本当に、楽になった。
これで弟との縁は事実上切れた。親が死んだ後の遺産放棄の念書も、いずれ書かせるつもりだ。
身軽になっていく。
人間関係という贅肉を削ぎ落とし、骨と皮だけのシンプルな機能体になっていく。
それが湊の目指す「完成形」だ。
なのに。
なぜ、こんなにも足取りが重いのだろう。
胃の奥に、鉛のような塊が居座っている。
洋介の言葉が、呪いのようにリフレインする。
『あんた、寂しくねえのか?』
寂しい?
馬鹿な。寂しさなんて感情は、二十年前に捨てたはずだ。
今の自分にあるのは「無」だけだ。
無が寂しいと感じるはずがない。
湊は、タクシーを拾おうと手を挙げた。
その時、ふとポケットの中のスマホが気になった。
石田梨央。
彼女を、店に置き去りにしてきたことを思い出した。
もう一時間以上経っている。流石に帰っただろうか。
いや、彼女のことだ。馬鹿正直に待っている可能性もある。
(……確認するか)
湊はスマホを取り出し、LINEを開こうとした。
だが、その指が止まる。
もし、彼女が待っていたら?
湊はどうする?
戻るのか?
弟という「泥沼の家族」を切り捨てたその足で、部下という「新しい人間関係」の元へ戻るのか?
それは矛盾だ。
人間関係を整理しているはずが、別の泥沼に足を踏み入れようとしているだけではないか。
湊はスマホをポケットに戻した。
連絡はしない。
このまま帰宅し、明日の朝、事務的な謝罪メールを送ればいい。
それが正解だ。
それが、相馬湊という男の生き方だ。
タクシーが停まった。
湊は乗り込み、自宅の住所を告げた。
シートに深く身を沈め、目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、洋介の惨めな顔と、梨央の心配そうな顔。
その二つの顔が、交互に現れては消える。
車が走り出す。
遠ざかる新宿の光。
湊は、自分がどこへ向かっているのか、ふと分からなくなった。
タワーマンションという名の孤独な牢獄へ帰るのか。
それとも、もっと深い、戻れない闇の中へと進んでいるのか。
雨が、また降り始めていた。
窓ガラスを叩く雨粒が、誰かの涙のように見えた。
湊は、その涙を拭うこともせず、ただ揺られ続けた。
無駄な僕の、冷たい情熱。
その炎は今夜、少しだけ揺らぎ、そして弱々しく瞬いていた。
第4章:境界線の攻防
月曜日の朝、東京・丸の内のオフィス街は、週末の雨を洗い流したような抜けるような青空に覆われていた。ガラス張りのビル群が朝日を反射し、眩しいほどの光を地上に降り注いでいる。行き交うビジネスマンたちの足取りは速く、その表情は一様に引き締まっている。新たな一週間の始まり。資本主義という巨大なシステムが、再び重々しい音を立てて駆動し始める時間だ。
相馬湊は、そのシステムの歯車の一つとして、完璧な擬態を済ませてデスクに座っていた。アイロンの効いた白シャツ、染み一つないネクタイ、整えられた髪。パソコンの画面に向かい、メールの返信を打ち込む指先には迷いがない。週末に起きたこと――弟との絶縁、百五十万円の喪失、新宿の澱んだ空気――は、すべて脳内の「処理済みフォルダ」に移動され、圧縮されている。今の湊にあるのは、有能なコンサルタントとしての機能だけだ。
(……平常運転だ)
湊は心の中で確認する。心拍数は正常。思考のクリアさも問題ない。弟・洋介との縁を切ったことによる後悔や罪悪感は、驚くほど湧いてこなかった。むしろ、長年背負っていた重い荷物を一つ下ろしたような、物理的な軽さを感じている。金で解決できる問題は、問題ではない。あの百五十万円は、洋介への援助ではなく、湊自身の「自由」を買うための手付金だったのだと思えば、安いものだ。
だが、唯一の懸念事項が、フロアの向こう側に存在していた。石田梨央。彼女は今、電話対応に追われている。明るい声でクライアントと話し、時折メモを取りながら笑っている。その姿は、金曜日の夜、新橋の居酒屋に置き去りにした時とは別人のように快活だ。
金曜日の夜。「急用ができた」と言って、彼女を一人残して店を出た。その後、土曜日と日曜日は一切連絡を取っていない。彼女からも連絡はなかった。普通なら、気まずさが残る場面だ。上司が部下を放置して帰ったのだから、何らかのフォローが必要になる。湊は、メールの送信ボタンを押すと同時に、意を決して立ち上がった。逃げるわけにはいかない。これは「業務上のリスク管理」だ。彼女との関係にしこりを残せば、進行中の権田建設のプロジェクトに支障が出る可能性がある。
湊は、給湯室へ向かう梨央の背中を追った。給湯室は、フロアの隅にある死角だ。彼女がマグカップにコーヒーを注いでいるところに、湊は声をかけた。
「……石田さん」
梨央が振り返る。湊と目が合うと、彼女は一瞬だけ目を丸くし、すぐにふわりと微笑んだ。
「あ、相馬先輩。おはようございます!」
「おはよう。……金曜日は、すまなかった」
湊は頭を下げた。謝罪に感情は込めない。ただ、事実に対する清算として、頭を下げるという動作を行う。
「急なトラブルで、君を一人にしてしまった。会計も任せきりで、申し訳ない」
「いえいえ! 気にしないでください。先輩、すっごく焦ってる顔してましたから。よっぽどのことだったんですよね?」
梨央は、怒っている様子も、拗ねている様子もなかった。あまりにもあっさりとした反応に、湊は拍子抜けした。もっと問い詰められるか、あるいは「何があったんですか?」と踏み込んでくると思っていたからだ。
「ああ。まあ、ちょっとした私用だ。もう解決した」
「そうですか。なら良かったです」
梨央はポケットからレシートを取り出し、湊に差し出した。
「これ、領収書です。先輩が一万円置いていってくれたので、お釣りが出ました。あとでデスクに置いておきますね」
「いや、お釣りはいい。君の迷惑料だと思ってくれ」
「だめですよ。公私混同は良くないって、いつも先輩が言ってるじゃないですか」
梨央は悪戯っぽく笑い、湊の手にレシートを握らせた。その指先が触れた瞬間、微かな熱が伝わる。湊は反射的に手を引っ込めそうになるのを堪えた。
「……君は、その後すぐに帰ったのか?」
何気なく、探りを入れる。もし彼女が、湊の後を追って新宿に来ていたとしたら。あるいは、湊が誰と会っていたのかを知ろうとしていたとしたら。それは湊にとって致命的なセキュリティホールになる。
梨央は首を傾げ、少し考えてから答えた。
「三十分くらい、いましたかね」
「三十分?」
「はい。まだ焼き鳥が残ってましたし、もしかしたら先輩、戻ってくるかなって思って」
ドキリとした。戻ってくるかもしれない。そんな可能性を、彼女は信じて待っていたのか。金と荷物を置いて飛び出した男が、戻ってくるはずがない。合理的考にえれば分かることだ。だが、彼女は待った。一人で、騒がしい居酒屋のテーブルで、冷めていく焼き鳥を眺めながら。
「……馬鹿だな」
思わず、本音が口をついて出た。
「戻るわけがないだろう。そんな時はさっさと帰ればいいんだ」
「ふふ、そうですね。でも、なんとなく……先輩が一人でどこかに行っちゃうのが、心配だったんで」
梨央は、湊の顔をじっと見つめた。その瞳は、何かを探るような鋭さではなく、傷ついた野良犬を案じるような、温かく湿った光を帯びていた。
「先輩、あの時……誰かに怒ってるっていうより、泣き出しそうな顔してましたから」
湊の呼吸が止まる。泣き出しそうな顔。自分が? あり得ない。あの時、湊が感じていたのは弟への軽蔑と、降りかかった火の粉を払わなければならないという事務的な焦燥感だけだ。涙など、一滴も流していない。心の中でもだ。
「……見間違いだ」
湊は冷たく言い放った。
「僕は感情で仕事をする人間じゃない。あの時は、単に時間が惜しかっただけだ」
「そうですか。……なら、私の勘違いですね」
梨央は素直に引き下がった。だが、その表情には「納得」の色はない。「今はそういうことにしておいてあげます」という、大人の配慮が見え隠れしていた。それが、湊を苛立たせる。彼女は、湊が必死に守っている「心の壁」を、壁として認識していない。まるでそこには最初からドアがついているかのように、ノックもせずに内側を覗こうとする。
「仕事に戻ろう。今日は権田社長への報告がある」
「はい! 資料、まとめておきました!」
梨央は元気に返事をし、給湯室を出て行った。残された湊は、自分のマグカップにコーヒーを注いだ。黒い液体が波打つ。その水面に映る自分の顔を見る。無表情だ。泣き出しそうな顔など、どこにもない。
彼女は妄想を見ているのだ。自分にとって都合の良い、「寂しがり屋の上司」という幻影を。そう結論づけなければ、湊の足元が崩れてしまいそうだった。
午前十時。定例のチームミーティングが始まった。議題は、権田建設のプロジェクト進捗報告だ。大型モニターに、現場から送られてきた写真がスライドショー形式で映し出される。鉄骨、配管、コンクリート。無骨な建築現場の写真に、『いいね!』のアイコンが無数についている。導入から一週間。システムのアクティブユーザー率は九十パーセントを超えていた。驚異的な数字だ。
「……以上が、初期導入の結果です。現場のモチベーション向上と、業務の可視化が同時に達成されています」
湊が淡々と報告を終えると、会議室に拍手が湧いた。部長が満面の笑みで頷く。
「素晴らしいな、相馬くん! あの頑固な職人たちをここまで乗せるとは。君の人心掌握術には恐れ入るよ」
「いえ、石田のサポートのおかげです。彼女が現場とのコミュニケーションを密にとってくれましたから」
湊は手柄を梨央に回した。これは謙遜ではない。自分が目立ちすぎることを避けるためのリスクヘッジだ。あまりに「人の心を操るのが上手い」と思われれば、周囲から警戒される。「部下の手柄にする良い上司」というポジションを維持するほうが、長期的には生きやすい。
「いやいや、先輩の策ですよ! あの『自慢大会』のアイデアがなかったら、絶対に無理でした!」
梨央が嬉しそうに否定する。彼女は、湊に褒められたこと、そしてチームとして成果が出たことを、純粋に喜んでいる。その眩しさが、会議室の蛍光灯よりも明るく感じられた。
会議が終わり、自席に戻った湊は、ふとスマートフォンに目をやった。洋介からの連絡はない。銀行口座を確認する。残高は減ったままだが、これ以上の引き落としはない。解決したのだ。過去は清算され、現在は順調に回っている。何もかもが、湊のコントロール下にある。
そう思っていた矢先だった。内線電話が鳴った。受付からだ。
『相馬さん、お客様がお見えです』
「アポイントはあったかな?」
『いえ、飛び込みのようなんですが……。権田建設の、大山様とおっしゃる方が』
大山。現場監督の、あの熊のような男だ。湊は受話器を握る手に力を込めた。なぜ、現場にいるはずの彼が、丸の内のオフィスに来る? システムに不具合でもあったか? それとも、あの時の「騙された」ことに気づいて殴り込みに来たのか?
「……分かった。すぐに行く」
湊は電話を切り、立ち上がった。隣の席の梨央が、不思議そうな顔で見上げる。
「先輩? 誰ですか?」
「大山さんだ」
「えっ! 大山さんが? どうして……」
「分からない。だが、いい予感はしないな」
湊はジャケットを羽織り、エレベーターホールへと向かった。梨央も慌てて後を追ってくる。
エントランスのロビー。洗練された空間の中で、作業着姿の大山は異彩を放っていた。彼は落ち着かなそうに周囲を見回し、革張りのソファに浅く腰掛けていた。その手には、薄汚れた紙袋が握られている。湊が近づくと、大山はバッと立ち上がった。
「よう。……忙しいところ、悪かったな」
その表情に、以前のような敵意はなかった。むしろ、照れくさそうな、バツの悪そうな顔をしている。
「大山さん、どうされました? 現場で何かトラブルでも?」
「いや、ちげえよ。アプリは調子いい。若い連中も面白がって使ってる」
大山は頭を掻き、紙袋を湊に突き出した。
「これだ」
「これは?」
「……梨。実家から送られてきたんだが、食いきれねえからよ。お裾分けだ」
梨。紙袋の中には、ゴロゴロとした立派な梨が入っていた。わざわざ、これを渡すために? 丸の内まで?
「あの時は、悪かったな」
大山が、ボソリと言った。
「嬢ちゃん……石田さんだったか。突き飛ばしちまって。怪我、大丈夫か?」
「あ、はい! もう全然平気です!」
梨央が恐縮して答える。大山は「そうか」と安堵の息を吐き、そして湊に向き直った。
「あんたの言った通りだ。俺たちの仕事は、誰かに見てもらわなきゃ、消えちまう。それを残せるってのは……悪くねえ気分だ。礼を言うぜ」
不器用な感謝。それは、湊が最も苦手とする種類のコミュニケーションだった。計算でも、取引でもない。純粋な好意の返礼。これに対して、どう反応するのが正解なのか。「どういたしまして」と笑えばいいのか。それとも「ビジネスですから」と突き放すべきか。
湊が返答に窮していると、大山はニカっと笑った。
「ま、そういうことだ。また現場に来いよ。とびきりの一枚、撮らせてやるからな」
そう言って、大山は背を向け、自動ドアの向こうへと去っていった。残されたのは、重たい梨の袋と、呆然とする湊と梨央。
「……いい人ですね、大山さん」
梨央が、梨の入った袋を覗き込みながら言った。その顔は、本当に嬉しそうだ。
「先輩の作戦、大成功ですね。システムだけじゃなくて、心まで掴んじゃうなんて」
「……計算外だ」
湊は呟いた。こんな展開は想定していない。ただ承認欲求を刺激して利用するつもりだった相手から、人間的な好意を返されるなんて。この梨は、重い。物理的な重さ以上に、そこに込められた「義理」や「人情」といったものが、湊の手首にずっしりと食い込んでくる。
湊は、袋を梨央に押し付けた。
「みんなで分けました。僕は果物は食べない」
「ええっ? せっかく頂いたのに……」
「糖分は脳の働きを鈍らせる」
適当な理由をつけて、その場を離れる。逃げたかった。この温かい空気から。「心が通じ合った」という、甘ったるい幻想から。
オフィスに戻るエレベーターの中で、湊は鏡に映る自分の顔を見た。無表情だ。だが、その目の奥が、わずかに揺れているのを感じた。大山の笑顔。梨央の笑顔。それらが、湊の心の中に築いた冷たい城壁を、少しずつ、だが確実に溶かし始めている。
――侵食されている。
湊は恐怖した。弟との絶縁で得たはずの「軽さ」が、別の種類の「重さ」によって相殺されていく。人間関係を遮断し、孤独になることこそが自由への道だったはずなのに。なぜ、周りは放っておいてくれないのか。なぜ、勝手に好意を寄せ、勝手に感謝し、勝手に湊を「人間」扱いするのか。
エレベーターが到着する。扉が開いた瞬間、湊は決意した。もっと高く、もっと厚い壁を作らなければならない。梨央に対しても。他の誰に対しても。これ以上、内側に踏み込ませてはならない。
午後八時。湊は湾岸エリアのタワーマンションのエントランス前に立っていた。見上げれば、無数の窓明かりが星空のように輝いている。その一つ一つが、「成功者」たちの安息の地だ。湊は首筋を回し、凝り固まった筋肉をほぐした。今日は疲れた。大山の梨、梨央の笑顔、そしてオフィスの温かい空気。それらはすべて、湊にとっては「有害なノイズ」でしかない。早く部屋に戻り、冷たいシャワーを浴びて、この皮膚に張り付いた「人情」という名の粘膜を洗い流したい。
自動ドアに向かって歩き出した、その時だった。植え込みの影から、ぬらりと人影が現れた。
「……よう。兄貴」
心臓が、早鐘を打った。聞き覚えのある、粘着質な声。湊は足を止め、その人影を凝視した。街灯の光に照らし出されたのは、弟の洋介だった。数日前、新宿の喫茶店で別れた時よりも、さらにやつれ、薄汚れている。目は血走り、髪は脂ぎって額に張り付いている。そこには、かつての「生意気な弟」の面影はなく、ただの「追い詰められた獣」が立っていた。
「……洋介」
湊の声は、怒りよりも困惑に震えていた。
「なぜ、ここにいる。住所は教えていないはずだ」
「調べりゃ分かんだよ。兄貴みたいな有名企業の社員なら、ネットにいくらでも情報が転がってる」
洋介はヘラヘラと笑った。その笑い声には、乾いた狂気が混じっている。
「手切れ金、もらったろ。百五十万」
「……ああ。もらったよ。サンキュ」
「なら、なぜ来た。二度と関わるなと言ったはずだ。約束を破るなら、あの録音データを……」
「やれるもんならやってみろよ!」
突然、洋介が叫んだ。深夜の静寂を切り裂く怒号。湊は反射的に周囲を見回した。幸い、人通りはない。だが、マンションの警備員や住人に見られたら厄介だ。
「……声がでかい。場所を変えるぞ」
「嫌だね! ここで話す! 兄貴の立派なお城の前でな!」
洋介は一歩踏み出し、湊の胸ぐらを掴もうとした。湊はそれを手で払いのける。酒臭い。こいつ、飲んでいるのか。
「金だ」
洋介が掌を突き出した。
「もう百、よこせ」
「……は?」
湊は耳を疑った。百五十万を渡してから、まだ三日しか経っていない。使い切るには早すぎる。ギャンブルで溶かしたとしても、あまりにも無計画だ。
「ふざけるな。あれが最後だと言っただろう」
「足りなかったんだよ! 借金の利子が膨らんでて、元金が減らねえんだ! あと百あれば、今度こそ全部綺麗になる! 頼むよ兄貴、これで最後にするから!」
嘘だ。湊の冷徹な理性が、即座に判定を下す。こいつは嘘をついている。借金の返済などしていない。おそらく、百五十万を手にした高揚感で、またFXかパチンコに突っ込み、一瞬で溶かしたのだ。「取り返せる」という根拠のない自信と欲望に負けて。ギャンブル依存症の典型的な思考回路だ。底なし沼。いくら金を注ぎ込んでも、ザルのように抜け落ちていく。
「断る」
湊は冷たく言い放った。
「一円たりとも出さない。警察を呼ぶぞ」
「警察だと? 呼んでみろよ! 俺が捕まったら、お前の会社にもマスコミにも全部ぶちまけてやる! 『相馬湊の弟は犯罪者だ』ってな! お前の出世もパーだ!」
洋介が喚き散らす。その醜悪な姿を見て、湊の中で何かがプツリと切れた。恐怖でも、焦りでもない。純粋な「軽蔑」と、そして「諦め」だった。無駄だったのだ。金を渡して解決しようとしたことも、情けをかけて手切れ金という形にしたことも。この男には通じない。言葉も、契約も、金さえも。ただの欲望の塊と化した弟を前に、湊は二十年間の努力がガラガラと崩れ落ちる音を聞いた。
「……勝手にしろ」
湊は吐き捨てた。
「会社に言いたければ言えばいい。マスコミに売りたければ売れ。僕のキャリアが傷つく? それがどうした」
湊は洋介を睨みつけた。
「お前みたいな寄生虫に血を吸われ続けるくらいなら、社会的に死んだほうがマシだ。……消えろ」
「なんだと……?」
洋介の顔が引きつる。兄が折れると思っていたのだろう。「世間体」を気にする湊なら、脅せば金を出すと踏んでいたはずだ。だが、今の湊の目は本気だった。虚無。失うものなど最初から持っていない人間の、底冷えするような強さがそこにあった。
「上等だ……! なら、今ここで死ね!」
逆上した洋介が、ポケットから何かを取り出した。きらりと光るもの。カッターナイフだ。刃先が震えている。人を刺す覚悟などない、ただの脅しの道具。だが、今の洋介は理性を失っている。
湊は動かなかった。逃げることも、防御することも忘れて、ただその刃物を見つめていた。これで終わりか。こんな、どうしようもない弟に刺されて、無駄な人生の幕を閉じるのか。それもまた、一興かもしれない。明日、会社に行かなくて済む。もう嘘をつかなくて済む。
(……ああ、楽になれる)
湊が目を閉じた、その瞬間だった。
「やめて!」
鋭い悲鳴と共に、何かが飛んできた。コンビニの袋だ。それが洋介の顔面に直撃した。中に入っていた缶ビールやスナック菓子が散乱する。洋介が「うわっ」と怯み、カッターを取り落とした。湊が目を開けると、そこには信じられない光景があった。石田梨央が、肩で息をしながら立っていた。ジャージ姿に、サンダル履き。近所のコンビニに行っていたのだろうか。その手は震え、顔は蒼白だが、瞳だけは燃えるように洋介を睨みつけている。
「……石田?」
なぜ、ここにいる。湊の思考が停止した。
「な、なんだお前!」
洋介が狼狽える。梨央は一歩も引かず、叫んだ。
「警察呼びましたから! すぐそこが交番です! もう来ますよ!」
「け、警察だと……!?」
遠くから、パトカーのサイレンらしき音が聞こえた。洋介の顔色が土色に変わる。
「くそっ、覚えてろよ!」
洋介は捨て台詞を吐き、カッターを拾うのも忘れて、脱兎のごとく走り去っていった。その背中は、あまりにも小さく、惨めだった。嵐が去った後の静寂。散乱したスナック菓子と、路上に転がるカッターナイフ。湊は、その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。何が起きたのか、脳の処理が追いつかない。
「……先輩」
梨央が、震える声で呼びかけた。彼女は湊に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 怪我は……」
「……なぜ」
湊の声は掠れていた。
「なぜ、君がここにいる」
「私、この近くに住んでるって言いましたよね? コンビニに行こうとしたら、先輩が見えて……」
偶然だ。あまりにも出来過ぎた、残酷な偶然。彼女は見てしまったのだ。「完璧な上司」であるはずの湊が、薄汚い弟に脅され、殺されかけ、そして「死んでもいい」と諦めていた姿を。
湊は、激しい羞恥に襲われた。見られた。一番見られたくない部分を。家族という呪い。金にたかる弟。それを切り捨てられない無様な自分。オフィスのガラス張りの会議室で見せていた「有能な自分」とは対極にある、泥沼の現実。
「……見なかったことにしてくれ」
湊は顔を背けた。震えが止まらない。これは恐怖ではない。プライドを剥ぎ取られた男の、最後の抵抗だ。
「忘れてくれ。頼むから……」
「忘れられませんよ!」
梨央が叫んだ。彼女は湊の腕を掴んだ。その手は熱く、力強かった。
「あんな……あんな顔して、『死んでもいい』みたいな顔して! 忘れられるわけないじゃないですか!」
「放せ!」
湊は梨央の手を振り払った。だが、彼女は怯まなかった。
「あの人、誰なんですか? 『兄貴』って呼んでましたよね? 弟さんですか?」
「君には関係ない!」
「関係あります! 私の上司が、あんな危ない目に遭ってるのに!」
梨央の目から、涙が溢れ出していた。なぜ泣く。君が泣く理由なんてないだろう。これは僕の問題だ。僕の家族の、汚くて臭いゴミのような問題だ。君のような、光の当たる場所で生きている人間には関係のない話だ。
「……帰れ」
湊は背を向け、マンションのオートロックに向かった。鍵を取り出す手が震えて、なかなか穴に入らない。惨めだ。どこまでも惨めだ。
「先輩……」
「来るな!」
湊は叫び、ようやく開いた自動ドアに滑り込んだ。ガラスの向こうで、梨央が立ち尽くしているのが見えた。彼女は追いかけてこなかった。ただ、悲しげな目で、逃げ帰る湊の背中を見つめていた。
エレベーターに乗り込み、部屋に戻る。鍵をかけ、チェーンをかけ、電気もつけずにソファに倒れ込んだ。心臓が痛いほど脈打っている。終わった。何もかもが、終わった。完璧だった仮面は粉々だ。彼女は知ってしまった。湊が抱える闇の深さを。そして、湊が「強い人間」などではなく、弟一人すら処理できない「無力な人間」であることを。きっと軽蔑しただろう。あるいは、同情しただろうか。どちらにせよ、もう以前のような関係には戻れない。 「すごい先輩」と「慕ってくれる後輩」。その心地よい距離感は、今夜、永遠に失われた。
湊は、暗闇の中で膝を抱えた。散らばったスナック菓子。洋介の怒号。梨央の涙。それらが走馬灯のように駆け巡る。
――無駄だ。
また、その言葉が口をついて出た。必死に築き上げた城壁も、たった一つの偶然であっけなく崩れ去る。人生とは、どこまで行ってもコントロール不能なカオスなのだ。そのカオスの中で、湊はただ一人、膝を抱えて震える子供に戻っていた。だが、湊は知らなかった。石田梨央という人間が、一度掴んだ手をそう簡単には離さない種類の人間であることを。彼女にとって、今夜の出来事は「失望」の理由ではなく、湊の心に踏み込むための「鍵」になったということを。
翌朝、湊は鏡の前で、三十分かけてネクタイを結んだ。いつもなら三十秒で終わる作業だ。だが、今日は指先が微かに震え、ノットがどうしても歪んでしまう。鏡の中の自分と目が合う。充血した白目。土気色の肌。そして、どこか怯えたような瞳。それは「有能なコンサルタント」の顔ではなかった。昨夜、弟に刃物を突きつけられ、死を受け入れようとした「敗北者」の顔が、薄皮一枚の下に透けて見えていた。
(……しっかりしろ)
湊は冷水を顔に浴びせ、己を叱咤した。昨夜のことは事故だ。システムエラーだ。梨央に見られたのは痛恨だが、彼女は所詮、部下だ。口止めすれば済む話だ。あるいは、それが不可能なら、人事権を行使して遠ざければいい。あらゆるリスクには、対処法がある。感情的になるな。論理で動け。湊は深呼吸をし、完璧なディンプルを作ってネクタイを締め上げた。それは、崩れかけた自我を繋ぎ止めるための拘束具のようだった。
オフィスに到着すると、いつもの月曜日の風景が広がっていた。電話の音、キーボードを叩く音、コーヒーの香り。湊はその日常に滑り込むように自席に着いた。隣の席には、すでに石田梨央が座っていた。彼女はパソコンの画面に向かっていたが、湊の気配を感じると、ゆっくりと顔を上げた。
「……おはようございます、先輩」
その声は、いつもより低く、そして硬かった。湊は、極力自然な動作でパソコンを起動しながら答えた。
「ああ、おはよう」
視線は合わせない。合わせれば、昨夜の惨めな記憶がフラッシュバックするからだ。彼女の目元が少し腫れていることに、湊は気づかないふりをした。泣いたのだろうか。あるいは、眠れなかったのか。どちらにせよ、それは湊の管理責任の範疇外だ――そう、自分に言い聞かせる。
午前中は、地獄のような緊張感の中で過ぎていった。二人の間に会話はない。業務上の必要なやり取りも、チャットツールのみで行われた。周囲の社員たちは、エースである相馬と、その愛弟子である石田の間に漂う不穏な空気に気づいているようだったが、誰も触れようとはしなかった。触らぬ神に祟りなし。それがオフィスの処世術だ。
昼休み。フロアから人が減り始めたタイミングを見計らって、湊は梨央にチャットを送った。
『13時から、第3会議室を押さえてある。昨夜の件で話がある』
すぐに『承知しました』と返信があった。感情のない、事務的な文字列。それが逆に、湊の不安を煽る。彼女はどう出るつもりだ? 「昨日は大変でしたね」と労ってくるのか。それとも「あんな弟さんがいるなんて幻滅しました」と軽蔑の眼差しを向けてくるのか。どちらでも構わない。湊が用意したシナリオは一つだ。「昨夜のことは忘れろ。業務に支障が出るなら、プロジェクトから外れてもらう」。この冷徹な通告で、彼女との間に再び鉄壁の壁を築く。
第3会議室。ブラインドが下ろされた密室に、二人は対面して座っていた。湊は腕を組み、威圧的な態度で口火を切った。
「単刀直入に言う。昨夜のことは他言無用だ」
「……はい」
「あれは個人的なトラブルだ。業務とは一切関係がない。君が見たもの、聞いたこと、全て忘れてくれ。それが君のためでもあり、組織のためでもある」
湊は、完璧な「上司」の顔で言った。そこに個人的な感情や、弱みを見せたことへの羞恥心は微塵も滲ませない。ただのリスク管理の一環として処理する。梨央は膝の上で手を握りしめ、じっと湊を見つめていた。その視線が、湊の仮面を貫通してくるような気がして、湊は思わず視線を逸らしたくなった。
「……忘れます」
梨央が、小さな声で言った。湊は安堵した。そうだ、それでいい。物分かりのいい部下だ。
「ただし」
梨央が言葉を継いだ。彼女は顔を上げ、湊を真っ直ぐに射抜いた。
「一つだけ、質問させてください」
「……なんだ」
「昨夜。あの人がカッターを出した時」
梨央の声が震えた。
「先輩、逃げませんでしたよね」
心臓が、嫌な音を立てた。
「逃げる暇がなかっただけだ」
「違います。先輩は動かなかった。防御もしなかった。……それどころか」
梨央が、テーブルに身を乗り出した。その瞳には、恐怖と、そして深い悲しみが宿っていた。
「ホッとしてましたよね?」
「……は?」
「刃物を見せられた瞬間、先輩の顔、ふっと力が抜けたんです。まるで、『ああ、やっと終わる』って安心したみたいに」
時間が止まった。会議室の空気が真空になったかのように、音が消えた。湊の喉が引きつり、言葉が出てこない。図星だった。いや、図星というレベルではない。湊自身ですら無自覚だった、深層心理の最も深い部分にある「死への渇望」を、彼女は正確に見抜いていたのだ。
あの瞬間。洋介がカッターを取り出した時、湊が感じたのは恐怖ではなかった。安らぎだった。これで、この無駄で長い演技の人生を、他人の手によって強制終了させてもらえる。自分で死ぬ勇気もなかった自分に、向こうから「終わり」がやってきてくれた。その安堵が、無意識のうちに表情に出ていたというのか。
「……馬鹿なことを言うな」
湊はようやく声を絞り出した。だが、その声は掠れ、震えていた。
「殺されかけたんだぞ? 安心する人間がどこにいる」
「いましたよ! 私の目の前に!」
梨央が叫んだ。彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
「なんで……なんでそんなに、自分を粗末にするんですか! 弟さんに何を言われたか知りませんけど、あんなの、ただの八つ当たりじゃないですか! なのに、どうして先輩が死んで償おうとするんですか!」
「償うなんて……そんな高尚なものじゃない」
「じゃあ何なんですか! あの目は何だったんですか! あんな……今にも消えてしまいそうな、寂しい目は!」
寂しい目。また、その言葉だ。洋介にも言われ、梨央にも言われた。僕は、そんなに寂しい顔をしているのか? 感情を殺し、心を空っぽにして、何も感じないマシーンになったはずなのに。その空っぽの穴から、「寂しさ」という風が吹き抜けている音が、他人には聞こえているというのか。
「……君には関係ない」
湊は立ち上がった。これ以上、ここにいてはいけない。彼女の言葉は、鋭利なメスだ。湊が二十年かけて癒着させた「仮面」と「皮膚」の隙間に刃を入れ、無理やり剥がそうとしてくる。痛い。生身の感情が空気に触れるのが、痛くてたまらない。
「関係あります!」
梨央も立ち上がり、ドアに向かう湊の前に立ちはだかった。
「私は先輩の部下です! 先輩に助けられた人間です! 先輩がいなくなったら……私が困るんです!」
「……それは業務上の損失だろう。代わりはいくらでもいる」
「いません! 相馬湊の代わりなんて、どこにもいません!」
梨央が、湊の胸をドンと叩いた。弱い力だ。だが、その衝撃は湊の心臓を揺さぶった。
「先輩はいつも『無駄だ』とか『効率だ』とか言いますけど……私、見てましたよ。大山さんの写真を褒めた時、先輩が少しだけ笑ったのを。田中くんがミスした時、怒らずにカバーしてあげた優しさを。……全部、演技なんかじゃないですよね?」
「演技だ」
湊は即答した。認めれば、崩れる。
「すべて計算だ。君がそうやって僕に好意を持つのも、僕が『優しい上司』を演じた成果に過ぎない。君は騙されているんだよ、石田」
湊は、冷酷な笑みを貼り付けた。かつて、いじめっ子に向けたあの「道化の笑顔」を、今度は自分を守るための「拒絶の笑顔」として。
「僕は空っぽだ。中身なんてない。君が見ている『相馬先輩』は、ただのホログラムだ。……だから、期待するな」
湊は梨央の横をすり抜け、ドアノブに手をかけた。これで終わりだ。ここまで言えば、彼女も幻滅するだろう。「なんて冷たい人なんだ」「最低な人だ」と軽蔑し、去っていくだろう。それでいい。孤独に戻るだけだ。
だが、梨央の声は、湊の背中に追いすがった。
「……嘘つき」
その声は、震えていたが、諦めの色はなかった。
「空っぽなんかじゃありません。だって、空っぽの人間が、あんなに悲しそうに笑うわけないじゃないですか」
湊の手が止まる。
「私は諦めませんから。先輩がどれだけ壁を作っても、どれだけ嘘をついても……私は、先輩の本当の顔を見るまで、絶対に離れません」
宣戦布告だった。湊は振り返らず、ドアを開けて廊下に出た。逃げるように、早足で歩き出す。
背中の後ろで、ドアが閉まる音がした。それが、湊と梨央の世界を分断する音ではなく、二人の共犯関係が決定的なものになった合図のように聞こえたのは、気のせいだろうか。
湊はトイレの個室に駆け込み、鍵をかけた。鏡を見る。そこには、冷酷な上司の顔はなかった。顔面蒼白で、額に脂汗を浮かべ、まるで迷子になった子供のように狼狽する、情けない男の顔があった。
「……くそっ」
湊は洗面台を殴りつけた。手が痛い。その痛みが、自分がまだ生きていることを、そして感情を持っていることを、残酷なまでに証明していた。
午後三時。会議室での「宣戦布告」から二時間が経過していた。湊は自席に戻り、まるで何事もなかったかのようにディスプレイに向かっていた。キーボードを叩く音は一定のリズムを刻み、マウスを操作する手つきに迷いはない。だが、その内実は、薄氷の上を歩くような危ういバランスの上に成り立っていた。
隣の席の石田梨央。彼女は、湊が予想していたような「泣き腫らした顔」や「沈み込んだ態度」を見せてはいなかった。むしろ、その逆だ。彼女は恐ろしいほどの集中力で仕事をこなしていた。電話を取り、資料を作成し、クライアントへのメールを打ち込む。その背中はピンと伸び、迷いがない。時折、他のチームメンバーと話す際も、明快でハキハキとした口調を崩さない。
(……どういうつもりだ)
湊は、横目で彼女の様子を窺いながら、内心で舌打ちをした。普通なら、上司にあれだけの暴言を吐いたのだ。気まずくなるか、萎縮するのが当然だろう。だが、彼女は堂々としている。まるで、「私はあなたの本性を知りましたが、それが何か?」と言わんばかりの態度だ。それが湊を焦らせる。彼女は、湊の「冷徹な上司」という演技を、もはや演技として楽しんでいる観客のように見えた。あるいは、舞台裏を知ってしまった共演者のような、奇妙な連帯感を醸し出している。
定時を過ぎ、窓の外が群青色に沈み始めた頃、オフィスからは徐々に人が減り始めた。「お先に失礼します」「お疲れ様です」帰り支度をする社員たちの声が、遠くに聞こえる。湊はまだ席を立てなかった。仕事が残っているわけではない。ただ、今席を立てば、隣の梨央と同時に帰ることになるかもしれない。エレベーターで二人きりになるかもしれない。その数分間の沈黙に耐えられる自信が、今の湊にはなかった。だから、無意味にメールの過去ログを読み返し、忙しいふりを続けた。時間を潰し、彼女が先に帰るのを待つ。「逃げ」の姿勢だ。昨夜、弟の前で見せたのと同じ、問題解決を先送りにして嵐が過ぎるのを待つだけの、無力な子供の態度。
しかし、梨央もまた、席を立つ気配がなかった。彼女も残業をしているのか? いや、手元を見ると、パソコンはすでにシャットダウンされている。机の上も片付いている。なのに、彼女は座ったまま、じっと前を見つめている。何を待っているんだ。
静寂。空調の音だけが響くフロア。残っているのは、湊と梨央、そして遠くの席で残業している数名だけだ。この息詰まるような沈黙に、先に耐えきれなくなったのは湊の方だった。
「……帰らないのか」
湊は、視線を画面に向けたまま声をかけた。梨央が、ゆっくりとこちらを向く気配がした。
「先輩こそ。今日はもう、やることはないはずですよね」
「……考え事をしていただけだ」
「そうですか。私もです」
梨央は立ち上がった。そして、湊のデスクの脇に歩み寄り、コトリと何かを置いた。コンビニの袋に入った、温かいお茶と、栄養補助食品のバーだ。
「これ、食べてください。お昼、食べてませんよね」
指摘されて、湊は自分の空腹に気づいた。そういえば、昼休みは会議室での修羅場に費やされ、その後も喉を通らなかった。
「いらない。腹は減ってない」
「嘘です。さっきから、お腹の音が聞こえてます」
「……」
「先輩の体は、先輩だけのものじゃありません。プロジェクトの責任者なんですから、倒れられたら困るんです」
まただ。「業務のため」「責任」という言葉を盾にして、湊の懐に入り込んでくる。彼女は学んでいる。湊が「情」には動かないが、「理屈」には弱いことを。だから、感情的なケアを、論理的なパッケージで包んで提供してくるのだ。小賢しい。そして、厄介だ。
湊は諦めて、栄養補助食品を手に取った。封を開け、一口かじる。パサパサとして味気ない。だが、胃の中に固形物が入ると、少しだけ思考がクリアになるのを感じた。
「……昨日のこと」
梨央が、唐突に切り出した。湊の手が止まる。
「忘れるって約束しましたけど、撤回します」
「なに?」
「無理です。忘れられません。あんな……あんな悲しい目をした先輩を、なかったことになんてできません」
彼女の声は、静かだが、強い意志が込められていた。
「私、ずっと考えてたんです。どうして先輩は、あんなに『無駄』を嫌うのか。どうして、感情を捨てようとするのか」
「……」
「きっと、感情を持つことが『無駄』なんじゃなくて、感情を持って傷つくのが『怖い』だけなんですよね」
図星だった。鋭利な刃物で、胸の真ん中を切り裂かれたような痛み。湊は、かじりかけのバーを握り潰しそうになった。
「知ったような口を利くな」
「知ってますよ。だって、私もそうですから」
「は?」
「誰だってそうです。傷つくのは怖い。裏切られるのは怖い。だから、期待しないようにする。壁を作る。……先輩は、その壁を作るのが、人よりちょっとだけ上手すぎるだけです」
梨央は、悲しげに笑った。
「でも、その壁の中で、本当の先輩は泣いてるんじゃないですか? 『誰か気づいてくれ』って。昨日の夜みたいに」
湊は立ち上がった。これ以上、聞くわけにはいかない。彼女の言葉は、湊の「核」に触れようとしている。そこにあるのは、二十年前に封印したはずの、泣き虫で弱虫な少年の残骸だ。それを見られたら、相馬湊は崩壊する。
「……帰るぞ」
湊は鞄を掴み、早足でエレベーターホールへ向かった。逃げるのだ。この、核心を突いてくる部下から。そして、自分自身の弱さから。
エレベーターホールでボタンを押す。背後から、ヒールの音が近づいてくる。梨央もついてきている。二人は無言でエレベーターを待った。到着を告げるチャイムが鳴り、扉が開く。中には誰もいない。湊が乗り込み、梨央も続く。扉が閉まり、密室ができあがる。
一階へ降りる数十秒間。その時間が、永遠のように感じられた。湊は階数表示を見つめ、梨央は床を見つめている。
「……先輩」
不意に、梨央が口を開いた。
「私、実家は北海道なんです」
「……そうか」
「親とは、もう三年会ってません。……嫌いなんです、親のこと」
湊は眉をひそめた。なぜ、今そんな話をする?
「過干渉で、ヒステリックで。私のやることなすこと、全部否定する親でした。『お前のためだ』って言いながら、自分の思い通りにならないと怒鳴り散らす。……だから、逃げてきました」
梨央の声が震えている。湊は、反射的に彼女の横顔を見た。いつも明るい彼女の表情が、今は影に覆われている。
親が嫌い。逃げてきた。そのキーワードが、湊の記憶と共鳴する。彼女もまた、「持たざる者」だったのか。天真爛漫に見える彼女も、その笑顔の下に、親という呪いを隠し持っていたのか。
「だから、なんとなく分かるんです。先輩の気持ち」
「……一緒にしないでくれ」
湊は拒絶した。同情などいらない。共感などいらない。傷の舐め合いをしたところで、現実は何も変わらない。
「一緒じゃありません。先輩の方が、ずっと重症です」
「なんだと?」
「私は逃げましたが、先輩は逃げてない。……いえ、心を殺すことで、その場に留まり続けてる。それって、一番残酷な自分への虐待ですよ」
チン、と音がして、一階に到着した。扉が開く。湊は逃げるように外に出た。だが、梨央の言葉は、背中に矢のように突き刺さったままだった。
自分への虐待。心を殺して、親の期待に応えようとし続けること。それは「親孝行」でも「処世術」でもなく、ただの自傷行為だったのか。二十年間の努力が、ただ自分を痛めつけるだけの無駄な時間だったとしたら。
湊はエントランスの自動ドアを抜け、夜の街へと歩き出した。雨上がりのアスファルトの匂い。都会の喧騒。それらが、今は遠い世界の出来事のように感じられる。背後で、梨央が立ち止まっている気配がした。彼女はもう、追ってこない。だが、彼女が投げかけた言葉の礫は、湊の心の壁に深いヒビを入れていた。
タクシーが湾岸エリアのタワーマンションの車寄せに滑り込んだ時、時刻は二十二時を回っていた。湊は機械的に支払いを済ませ、重い足取りでエントランスをくぐった。大理石の床に響く靴音。オートロックの電子音。エレベーターの上昇音。すべてが聞き慣れた、湊の生活を構成する環境音だ。だが今夜は、その一つ一つが不協和音のように耳に障る。
三十二階。自室のドアを開け、鍵をかける。カチャリ、という金属音が、世界との断絶を告げる。いつもなら、この瞬間に肩の力が抜け、完璧な安息が訪れるはずだった。だが、今の湊を襲ったのは、窒息するような圧迫感だった。
暗い部屋。窓の外に広がる、宝石を散りばめたような東京の夜景。湊は明かりもつけずにソファに沈み込んだ。静かだ。あまりにも静かすぎる。この静寂は、湊が二十年かけて守り抜いてきた「聖域」の証だった。親の干渉も、弟の騒音も、他人の感情もない、清浄な空間。しかし今、その静寂が「孤独」という名の質量を持って、湊の体にのしかかってくる。
――先輩の方が、ずっと重症です。
――心を殺してその場に留まり続けるなんて、自分への虐待ですよ。
石田梨央の声が、暗闇の中で反響する。湊は眉間を押さえた。虐待。そんな大層な言葉で片付けられるものか。僕はただ、最適化しただけだ。生き延びるために。傷つかないために。感情という、制御不能で非効率なシステムをシャットダウンし、理性というOSだけで稼働する。それは進化だ。適応だ。そう信じてきた。
だが、もし彼女の言う通りだとしたら? もし、この二十年間が「進化」ではなく、ただの「緩慢な自殺」だったとしたら?
湊はポケットに手を入れた。指先に触れたのは、夕方、梨央が強引に渡してきた栄養補助食品のバーだった。パッケージが少し潰れている。湊はそれを取り出し、月明かりの下で見つめた。
『先輩の体は、先輩だけのものじゃありません』
彼女はそう言った。傲慢だ。厚かましい。僕の体は僕のものだ。僕の人生も、僕の感情も、すべて僕の所有物だ。……本当にそうか? 湊は自問する。お前は、自分の人生を生きていると言えるのか? 親の顔色を窺い、世間体を気にし、弟の始末をし、他人の期待に応える演技だけをして。その人生のどこに、「相馬湊」という主語がある?
湊は、栄養補助バーの封を切った。一口、齧る。パサパサとした食感。人工的な甘み。美味しくはない。だが、喉を通ったその塊は、微かな熱を持って胃の腑に落ちた。それは、梨央の手の温度だった。エレベーターで彼女が掴んだ袖の感触。怪我をした彼女を支えた時の重み。それらが、味覚を通して蘇ってくる。
「……くそっ」
湊は呻いた。侵食されている。完全に、彼女というウイルスに感染している。彼女は湊の「無駄」を否定しなかった。ただ、「痛々しい」と言った。そして、自らの傷――親への嫌悪――を晒すことで、湊と同じ場所に立とうとした。 「共犯者」になろうとしたのだ。
湊はスマホを取り出した。画面を見るのが怖かった。彼女から、絶縁のメッセージが来ているかもしれない。「やっぱり無理です」「さようなら」と。あるいは、もっと踏み込んだ言葉が来ているかもしれない。どちらにせよ、これを見れば、今の均衡は崩れる。
通知センターには、一件のLINEがあった。差出人は、石田梨央。送信時刻は、二十分前。湊がタクシーに乗っている間だ。湊は、震える指でロックを解除した。覚悟を決めて、トークルームを開く。
そこに表示されたのは、一枚の写真だった。オフィスのデスクの上。大山から貰った梨が、綺麗に剥かれて皿に盛られている。その横には、残業中の彼女自身のピースサインが見切れていた。
そして、メッセージ。
『みんなで分けました! すごく甘くて美味しかったです。先輩の分も、冷蔵庫にキープしてありますからね(勝手に捨てないでくださいよ!)』
『あと、追伸』
メッセージが続く。
『私は北海道から逃げてきましたけど、今は東京で、先輩の下で働けて幸せです。だから先輩も、いつか「逃げてきて良かった」って思える場所を見つけてください。……もし見つからないなら、私が一緒に探します』
長い沈黙が、部屋を支配した。湊は、スマホを握りしめたまま、動けなかった。
逃げてきて良かったと思える場所。一緒に探す。なんて、お節介な。なんて、無責任な。そして、なんて……温かい言葉なんだろう。湊の視界が、不意に滲んだ。涙ではない。ただ、目の中の水分が、熱を持って揺らいだだけだ。そう自分に言い聞かせても、頬を伝う冷たい雫の存在までは否定できなかった。
泣いているのか? 僕が? 自分のことでは決して泣かないと誓った、この僕が?
いや、違う。これは悲しみの涙ではない。これは「解凍」の現象だ。二十年間、極低温で保存されていた心が、急激な熱量に晒されて溶け出し、溢れてしまった水分だ。ただの物理現象だ。湊は手背で乱暴に目元を拭った。拭っても、拭っても、後から後から溢れてくる。嗚咽は出ない。声も出ない。ただ静かに、ダムが決壊したように涙が流れ続ける。
その時、湊は悟った。負けたのだ。石田梨央という、無駄で、非効率で、感情的な生き物に。彼女は、湊が築き上げた論理の城壁を、正面突破ではなく、内側から溶かすという方法で攻略した。
もう、戻れない。心を殺して生きていた、あの無機質で平穏な日々には。感情という劇薬を注入されてしまった以上、湊は人間として、痛みを感じながら生きていくしかない。
湊は、濡れた画面に指を走らせた。返信を打つ。気の利いた言葉も、冷徹な言葉も浮かばなかった。ただ、事実だけを伝えたかった。
『……明日、梨を食べるよ』
送信。たったそれだけの短文。だが、それは湊にとって、白旗を上げると同時に、新しい契約書にサインをするような重みを持っていた。 「君の好意を受け入れる」という契約。「君の干渉を許す」という契約。そして、「僕も少しだけ、人間を信じてみる」という、危険な賭けへの同意。
既読がついた。すぐに、スタンプが返ってくる。泣きながら笑っている、変な顔のウサギのスタンプ。
湊は、ふっと息を吐いた。口元が、自然と緩んでいた。それは演技の笑顔でも、自嘲の笑みでもない。不格好で、頼りないけれど、心からの「苦笑」だった。窓の外の東京タワーが、いつもより少しだけ優しく光っているように見えた。孤独な夜は、もう終わりを告げようとしている。
だが、物語はここでハッピーエンドとはならない。心を溶かした湊を待ち受けているのは、生身の感情がぶつかり合う、さらなる波乱だ。会社での立場、実家との確執、そして梨央との関係性。解凍された「冷たい情熱」は、果たして湊をどこへ連れて行くのか。
湊はスマホを充電器に繋ぎ、ベッドに入った。明日は、きっと目が腫れるだろう。言い訳を考えなければならない。「花粉症だ」とでも言おうか。そんな「人間らしい」悩みを抱えながら眠りにつくのは、二十年ぶりだった。
第5章:愛すべきバグ
翌朝、湊が目覚めたとき、最初に感じたのは瞼の重みだった。洗面台の鏡に映る自分の顔は、予想通り酷いものだった。目は赤く充血し、瞼はぼってりと腫れ上がっている。まるで、殴られたボクサーか、あるいは一晩中泣き明かした失恋直後の学生のようだ。三十歳の男の顔としては、あまりに情けなく、そして無防備だった。
(……笑えるな)
湊は、蒸しタオルを顔に押し当てながら、心の中で自嘲した。たった一度、感情のバルブを緩めただけで、この有様だ。この二十年間、いかに自分が無理な姿勢で立ち続けていたか、その反動が身体症状として現れている。メンテナンスが必要だ。だが、それは機械的な修理ではなく、もっと人間的で、非効率なケアを必要としていた。
身支度を整え、家を出る。いつもなら完璧に結ばれるネクタイが、今日も少し歪んでいる。だが、湊はそれを直そうとはしなかった。「完璧であること」への執着が、不思議と薄れているのを感じていたからだ。多少の綻びがあっても、システムは稼働する。人間とは、バグを含んで初めて完成するプログラムなのかもしれない。そんな、以前の湊なら鼻で笑い飛ばしていたような思考が、自然と脳裏をよぎる。
オフィスに到着すると、石田梨央はすでに出社していた。彼女は湊の姿を認めると、パッと表情を輝かせ、駆け寄ってきた。
「おはようございます、先輩! ……あ」
彼女の視線が、湊の目元に止まる。一瞬、心配そうな色が浮かんだが、彼女はすぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「花粉、飛んでますねえ」
「……ああ。今年は酷いらしいな」
湊は、用意していた言い訳を棒読みで返した。季節外れの花粉症。誰がどう見ても嘘だが、梨央は深く頷いてくれた。
「大変ですね。目薬、貸しましょうか?」
「いや、いい。……それより、梨はどうだった」
「最高でした! 甘くて、瑞々しくて。みんな喜んでましたよ」
梨央は嬉しそうに報告する。その笑顔を見ても、昨日のような「逃げ出したい」という衝動は湧かなかった。代わりに、胸の奥がじんわりと温かくなる感覚がある。それは恐怖ではなく、安らぎに近いものだった。
「先輩の分、ちゃんと冷蔵庫に入れてありますからね。おやつの時間に食べてください」
「……善処する」
湊がデスクに向かうと、梨央も自分の席に戻った。パソコンを起動し、メールチェックを始める。日常が始まる。だが、その景色は昨日までとは微妙に違って見えた。無機質だったオフィスの風景に、色彩が戻ってきたような感覚。部下たちの話し声、電話のコール音、コピー機の駆動音。それら全てが「ノイズ」ではなく、そこで働く人々の「鼓動」として聞こえてくる。
僕は変わったのだ。湊はキーボードを叩きながら、静かに自覚した。感情を殺すのをやめた。弱さを見せることを許容した。それはビジネスマンとしては「退化」かもしれないが、人間としては「再生」なのかもしれない。
その時。デスクの上の固定電話が、けたたましく鳴り響いた。内線ではない。外線だ。ディスプレイに表示された番号を見て、湊の指が止まった。『権田建設』。担当者の携帯番号ではなく、本社の代表番号だ。
嫌な予感がした。昨夜の「心の雪解け」とは無関係に、現実世界のリスクは常に牙を研いで待っている。湊は受話器を取った。
「はい、相馬です」
『……相馬さんか。社長室の、秘書課の者ですが』
電話の主は、硬く、事務的な女性の声だった。秘書課。現場担当者や大山からではない。トップ直轄の部署からの電話。それは、ただ事ではないことを意味している。
『本日午後一番で、弊社にお越しいただけますでしょうか。社長が、緊急でお話ししたいとのことです』
「……どのような用件でしょうか」
『詳細はお電話では申し上げられません。ただ、今回のシステム導入プロジェクトに関することです。……事故が起きました』
事故。その二文字が、湊の脳内で反響した。
「人的被害は?」
『幸い、軽傷で済みました。ですが、現場の空気は最悪です。……社長は大変お怒りです。至急、ご説明をお願いします』
一方的に通話が切れた。ツーツーという電子音が、不吉な警報のように響く。湊は受話器を置き、深く息を吐いた。
「先輩? どうしたんですか?」
隣で梨央が不安そうに顔を覗き込んでいる。彼女の勘の良さが、湊の纏う空気の変化を敏感に察知したようだ。
「……権田建設だ。事故が起きたらしい」
「えっ!? 誰が……大山さんですか?」
「詳細は分からない。だが、社長がお怒りだそうだ。呼び出しを食らった」
湊は立ち上がり、ジャケットを羽織った。思考のスイッチを切り替える。感傷に浸っている場合ではない。これはクライシスだ。今求められているのは、「人間味のある相馬湊」ではない。「冷徹に問題を解決するプロフェッショナル」だ。
「私も行きます!」
梨央が立ち上がる。
「いけない。今回は社長案件だ。現場がどうなっているか分からない以上、君を連れて行くリスクは……」
「行きます」
梨央は譲らなかった。その瞳は強く、真っ直ぐに湊を射抜いている。
「このプロジェクトは、私と先輩の二人で作ったものです。トラブルが起きたなら、私も一緒に頭を下げます。それに……」
彼女は一歩、湊に近づいた。
「先輩、今、少し手が震えてますよ」
指摘されて、湊は自分の手を見た。確かに、微かに震えている。武者震いではない。恐怖だ。 「せっかく積み上げたものが崩れること」への恐怖。そして、「信頼してくれた大山たちを裏切ることになるかもしれない」という、かつては持ち合わせていなかった種類の不安。
「……一人じゃ、抱えきれないんでしょう?」
梨央が、湊の手をそっと握った。温かい。その熱が、震えを止めていく。
「頼ってください。私は先輩の『共犯者』なんですから」
共犯者。その言葉に、湊は苦笑した。そうだ。もう一人ではないんだった。この無駄で厄介な感情の世界を、一緒に歩いてくれる人間がいるんだった。
「……分かった。行くぞ、石田」
「はい!」
湊は梨央の手を離し、力強く歩き出した。二人はオフィスを飛び出し、タクシーに乗り込む。行き先は、大田区。権田建設本社。再び、嵐の中へ。
権田建設の本社ビルは、前回訪れた時よりも重苦しい、鉛のような空気に包まれていた。受付嬢の視線は冷たく、すれ違う社員たちも目を合わせようとしない。まるで、湊たちが「疫病神」であるかのような扱いだ。
通されたのは、前回と同じ応接室だった。だが、そこには権田社長だけでなく、数名の役員と、そして包帯を巻いた一人の若手職人が座っていた。若手職人の腕は三角巾で吊られている。顔には擦り傷。そして、その横には、沈痛な面持ちの大山が立っていた。
「……来たか」
権田社長が、重い口を開いた。その声には、以前のような情熱的な響きはなく、冷たい怒りが込められていた。
「説明してもらおうか、相馬くん。君たちが導入したあの『遊び道具』のせいで、ウチの社員が大怪我をするところだったんだぞ」
権田がテーブルを叩いた。その上には、画面の割れたタブレット端末が置かれていた。
「若松。何があったか、話してみろ」
促され、怪我をした若手職人――若松がおずおずと口を開いた。
「……足場で、作業をしていて……いい写真が撮れそうだと思って、タブレットを構えたんです。そうしたら、バランスを崩して……」
転落事故。足場からの落下。幸い、安全帯のおかげで地面への激突は免れたが、鉄骨に体を打ち付け、腕を骨折したという。原因は明白だ。「撮影」に夢中になったことによる、注意散漫。湊が提案した「現場の仕事を自慢する」という施策が、裏目に出た形だった。
「仕事中に写真を撮るだと? そんなふざけたことを推奨したのは、君だそうだな」
権田が湊を睨みつける。
「魂を残すだの、職人の誇りだのと言葉巧みに煽っておいて、結果がこれか。現場は遊び場じゃないんだ! 命を預かる場所なんだぞ!」
「……申し訳ございません」
湊は深く頭を下げた。反論の余地はない。リスク管理の甘さ。現場の安全意識への配慮不足。「人の心を動かす」ことに注力するあまり、物理的な危険性を軽視していた。それは、コンサルタントとしてあるまじき失態だ。
「システムは即刻停止する。契約も破棄だ。違約金はもちろん、今回の事故の補償も請求させてもらう」
権田の宣告は、死刑判決に等しかった。プロジェクトの中止。損害賠償。湊のキャリアは終わる。そして、会社にも多大な損害を与えることになる。
隣で、梨央が震えているのが分かった。彼女は何か言おうとして、言葉を飲み込んでいる。ここで感情的に反論すれば、火に油を注ぐだけだと分かっているからだ。
湊は、頭を下げたまま、必死に思考を回転させた。どうする? どうすれば、この局面を打開できる? 契約書の免責事項を盾にするか? 「使用者の過失」を主張するか? いや、それは悪手だ。法律論で勝てても、信頼は完全に失われる。今の湊に必要なのは、ロジックではない。この怒れる社長と、傷ついた現場の人間たちを納得させる「何か」だ。
ふと、視界の端に大山の姿が入った。彼は俯き、拳を握りしめている。その姿を見て、湊の脳裏に、ある言葉が蘇った。『俺たちの仕事は、誰かに見てもらわなきゃ、消えちまう』。大山が、梨を持ってきた時に言った言葉だ。
湊は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、以前のような「空虚な演技」の光ではく、覚悟を決めて人間として向き合う「静かな熱」が宿っていた。
「社長。……契約の破棄も、賠償も、すべて受け入れます」
湊の言葉に、部屋中がどよめいた。梨央が「先輩!?」と叫ぶ。権田も意外そうな顔をした。言い訳をすると思っていたのだろう。
「その代わり、一つだけお願いがあります」
「……なんだ」
「このシステムを停止する前に、現在までに投稿された写真のデータだけは、現場の皆さんに渡させてください」
湊は、割れたタブレットに視線を落とした。
「あの写真は、ただのデータではありません。彼らが命がけで積み上げた、仕事の証です。事故の原因になったことは事実ですが、そこに込められた『誇り』まで否定しないでいただきたい」
湊の声は震えていた。演技ではない。本心からの震えだった。かつて、「無駄だ」と切り捨てていた感情や情熱。それが今、湊の中で最も守るべき価値として輝いている。
「若松さんが写真を撮ろうとしたのは、ふざけていたからではありません。自分の仕事を、誰かに見てほしかったからです。認められたかったからです。……それは、人間として当たり前の欲求です」
湊は権田を真っ直ぐに見つめた。
「私は、その欲求を利用しました。その結果、事故を招いた責任は私にあります。ですが、彼らの『情熱』に罪はありません。……それだけは、分かってください」
静寂が、部屋を支配した。湊の言葉は、ロジックとしては破綻しているかもしれない。だが、そこには「体温」があった。かつて冷血漢と呼ばれた男が、初めて見せた「人間としての叫び」。
「……相馬の兄ちゃん」
沈黙を破ったのは、大山だった。彼は一歩前に出ると、権田社長に向かって頭を下げた。
「社長。……俺からも頼みます。あのシステム、残してやってください」
「大山、お前まで何を言う。部下が怪我をしたんだぞ」
「分かってます。俺の監督不行き届きです。……でもな、社長。若松のやつ、腕を折って痛えはずなのに、病院で俺にこう言ったんです。『親父、俺の写真、みんなに見てもらえましたか?』って」
大山の声が湿り気を帯びる。
「あいつら、変わったんです。ただ言われたことをやるだけの作業員から、自分の仕事に誇りを持つ職人に。……そのきっかけを作ったのは、この兄ちゃんと嬢ちゃんです。俺は、この火を消したくねえ」
大山の援護射撃。それは、湊が計算して引き出したものではない。湊が大山と向き合い、梨を受け取り、心を通わせた結果として生まれた、奇跡のような「バグ」だった。
権田社長は、湊と大山を交互に見た。その表情は厳しかったが、怒りの色は徐々に薄れ、代わりに困惑と、深い思索の色が浮かんでいた。彼は知っているのだ。現場の人間が、ここまで本気で何かを訴えることの重みを。
「……誇り、か」
権田は呟き、懐からタバコを取り出した。火をつけ、深く吸い込む。紫煙が揺らぐ。
「まったく。……どいつもこいつも、熱苦しい奴らだ」
権田は吐き捨てるように言ったが、その口元は微かに緩んでいた。
「安全対策を見直せ。撮影は休憩中のみ、指定された場所でのみ許可する。……そのルールを徹底できるなら、テスト運用を継続してやる」
「社長……!」
「ただし! 二度目はないぞ。次は本当に契約解除だ。いいな?」
権田が湊を指差す。湊は、深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……肝に銘じます」
「ありがとうございます!」
梨央も続き、若松も、大山も頭を下げる。部屋の空気が、ふっと緩んだ。雨上がりの空のように、清々しい空気が流れ込んでくる。
湊は、顔を上げ、梨央を見た。彼女は泣いていた。だが、それは悲しみの涙ではない。安堵と、喜びと、そして湊への信頼に満ちた涙だった。
湊は思った。これが、「生きる」ということか。失敗し、謝罪し、助けられ、また歩き出す。非効率で、無駄が多くて、疲れるプロセス。だが、悪くない。
湊の胸の奥で、冷たい情熱が、確かな温度を持った「炎」へと変わり始めていた。この炎があれば、どんな闇も照らせるかもしれない。そう思えるほどに、今の湊は強く、そして弱かった。
権田建設の本社を出た頃には、空はあかね色に染まっていた。雨上がりの湿ったアスファルトが夕日を反射し、世界全体がぼんやりとした金色の光に包まれている。湊と梨央は、並んで駅までの道を歩いていた。行きと同じ道のはずなのに、足取りの重さがまるで違っていた。疲労感はある。だがそれは、全力を出し切った後に訪れる心地よい気だるさだった。
「……先輩」
梨央が、歩調を合わせて隣から声をかけた。
「さっきの先輩、すごく……人間くさかったです」
「褒め言葉には聞こえないな」
「最高の褒め言葉ですよ! あんなに必死に頭を下げて、熱く語って……私、また惚れ直しちゃいました」
梨央は冗談めかして笑ったが、その瞳は真剣だった。湊は苦笑し、ネクタイを少し緩めた。喉が渇いている。言葉を尽くし、感情を消耗した代償だ。
「計算外だったよ。あんな感情的なスピーチをするつもりはなかった」
「計算外、ですか?」
「ああ。ロジックとしては破綻していた。本来なら、データの保全と損害賠償の相殺を提示して、ドライに手を引くのが正解だ」
湊は空を見上げた。
「だが、あの瞬間……大山の顔を見たら、言葉が勝手に出てきた。システムを守りたいんじゃない。彼らのプライドを守りたいんだと、体が勝手に動いた」
「それが『情熱』ってやつですよ」
梨央が断言した。
「計算でも、演技でもない。先輩の中に眠っていた、本物の熱です。……それを『バグ』って呼ぶなら、私はそのバグが大好きです」
好き。その言葉が、ストレートに胸に響く。以前なら、警戒し、拒絶していただろう。だが今は、その温かさを素直に受け止める自分がいる。バグを含んでこそ、システムは人間味を帯びる。完璧である必要はない。誰かに助けられ、誰かを助け、泥臭く生きていくのも悪くない。
「……石田」
「はい」
「ありがとう。君がいなければ、僕は今日、逃げ出していたかもしれない」
湊は足を止め、梨央に向き直った。夕日が、彼女の髪を黄金色に縁取っている。
「君は、優秀な共犯者だ」
「えへへ。やっと認めてくれましたね」
梨央は満面の笑みでVサインを作った。その笑顔を見て、湊の中で一つの決意が固まった。仕事の危機は去った。だが、まだ片付けなければならない問題が残っている。自分の人生を前に進めるために、どうしても処理しなければならない「過去」の遺物が。
「石田。僕はこれから、少し用事がある」
「え? 会社に戻らないんですか?」
「ああ。……弟に、会いに行ってくる」
湊の言葉に、梨央が息を飲んだ。彼女の脳裏に、昨夜の修羅場――カッターナイフと怒号――が蘇ったのだろう。
「大丈夫なんですか? また、あんな……」
「大丈夫だ。もう、逃げないからな」
湊は静かに言った。昨日までの湊は、洋介を「排除」しようとしていた。金で追い払い、関係を断ち切ることで、自分の世界から消去しようとした。だが、それは解決ではない。ただの先送りだ。洋介は、湊の影だ。光があれば影ができるように、湊が「有能な兄」を演じれば演じるほど、洋介は「惨めな弟」という役割を押し付けられ、闇を深めていった。その構造に向き合わない限り、彼は何度でも現れる。
「行ってきます。……明日、またオフィスで」
「はい! 気をつけてくださいね!」
梨央に見送られ、湊は駅へと向かった。その背中は、もう震えていなかった。
新宿。数日前と同じ、喧騒と欲望の街。だが、湊の目には、その景色が少し違って見えた。行き交う人々、客引き、酔っ払い。彼らは皆、何かしらの欠落を抱え、それを埋めるために彷徨っている。誰もが必死で、誰もが弱くて、そして誰もが生きている。そのカオスを、以前のような「汚物」としてではなく、ある種の「生命力」として受け入れている自分がいた。
湊は、スマホを取り出し、洋介に電話をかけた。コール音が鳴る。一度、二度。出ないかもしれない。昨夜あんな別れ方をしたのだ、着信拒否されている可能性もある。だが、十回ほどのコールの後、不意に通話が繋がった。
『……なんだよ』
不機嫌で、警戒心に満ちた声。背後からは、パチンコ店特有の騒々しい電子音が聞こえる。
「今、どこだ」
『お前には関係ねえだろ。……警察、呼ぶのか?』
「呼ばない。話がある」
『話? また説教かよ。それとも、絶縁宣言の念押しご苦労さんってか?』
洋介が嘲笑う。だが、その声の端々に、怯えが滲んでいるのを湊は感じ取った。彼は追い詰められている。金もなく、帰る場所もなく、兄に殺意を向けた罪悪感に押しつぶされそうになっている。
「会いたい。場所を指定しろ」
『……金は返せねえぞ』
「金の話じゃない。兄弟の話だ」
少しの沈黙。やがて、洋介はボソリと店名を告げた。歌舞伎町の外れにある、安いチェーンの居酒屋だった。
店に入ると、洋介は一番奥の席で、ジョッキを握りしめていた。昨夜よりもさらに荒んだ様子だ。無精髭が伸び、目は落ち窪んでいる。湊が対面に座ると、彼は威嚇するように睨みつけてきた。
「……何の用だよ。俺を笑いに来たのか?」
「そんな暇はない」
湊はウーロン茶を注文し、洋介に向き直った。かつては、この弟の顔を見るだけで生理的な嫌悪感が湧いた。自分と同じ血が流れていることへの恥辱、そして親の歪んだ愛情の犠牲者であるという同族嫌悪。だが今は、不思議と落ち着いている。目の前にいるのは、ただの「弱い人間」だ。そして湊自身もまた、同じ「弱い人間」なのだ。
「洋介。昨日のことは忘れる。警察にも言わないし、嫁さんにも言わない」
「……は? なんでだよ。脅しの材料にするんじゃなかったのか」
「気が変わったんだ」
湊は淡々と言った。
「その代わり、一つだけ条件がある」
「また条件かよ。今度はなんだ。土下座か? 靴でも舐めろってか?」
「違う。……家に帰れ」
洋介が目を剥いた。
「今すぐ実家に帰るなり、自分の家に帰るなりしろ。そして、真美さんに全部話せ。借金のことも、FXのことも」
「……馬鹿言うな! そんなことしたら離婚だ! 家族がめちゃくちゃになる!」
「もうめちゃくちゃだろう」
湊の言葉が、鋭く突き刺さる。
「隠し事をして、嘘をついて、取り繕って……それが『家族を守る』ことか? 違うな。それはお前が『自分のプライド』を守っているだけだ」
洋介が言葉を詰まらせる。湊は続ける。自分の過去を抉り出すように。
「僕は知っている。嘘をつき続けることが、どれだけ苦しいか。家族に対して自分を偽り続けることが、どれだけ心を腐らせるか。……僕は二十年間、それをやってきた」
「……兄貴?」
「僕は、お前が羨ましかったよ」
その一言に、洋介が凍りついた。時が止まる。洋介は、信じられないものを見る目で湊を見ていた。 「優秀な兄」が「落ちこぼれの弟」を羨む? そんな馬鹿な。
「何言ってんだ……。羨ましいのはこっちだろ! いい大学出て、一流企業に入って、金もあって……親父もお袋も、兄貴の話ばっかりだ! 俺なんか、いつも比較されて、見下されて……!」
「ああ、そうだな。お前は惨めだったろう」
湊は否定しなかった。
「でも、お前は感情を出せた。親に反発し、物を投げ、怒鳴り散らすことができた。『ふざけるな』と叫ぶことができた。……僕には、それができなかった」
湊は自分の胸に手を当てた。
「親の期待に応えるために、心を殺した。泣くのをやめ、怒るのをやめ、ただの『良い子』を演じ続けた。その結果がこれだ。中身のない、空っぽの人形の出来上がりだ」
湊は自嘲気味に笑った。それは、弟に初めて見せる、弱くて情けない兄の顔だった。
「金はある。地位もある。だが、それだけだ。心を許せる友人もいなければ、愛する人もいない。……昨夜、お前にカッターを向けられた時、僕は本気で『これで楽になれる』と思ったんだ」
洋介の手から、力が抜けた。ジョッキを持つ手が震えている。
「……マジかよ」
「マジだ。お前は感情のままに生きて失敗し、僕は感情を殺して生きて失敗した。……どっちもどっちだ。僕たちは、あの親の呪いが生んだ、出来損ないの兄弟なんだよ」
湊は、テーブルに置かれた洋介の手を、自分の手で覆った。汚れて、汗ばんだ手。だが、そこには確かな体温があった。
「だから、もうやめよう。虚勢を張るのも、比較するのも。……お前は弱いままでいい。情けないままでいいから、家族の前で素直になれ。『助けてくれ』と言え。金じゃなくて、心を助けてくれと」
洋介が俯いた。肩が震え始める。やがて、ポタポタとテーブルに滴が落ちた。いい大人が、居酒屋の片隅で声を殺して泣いている。かつての湊なら、「みっともない」と切り捨てただろう。だが今は、その涙が、洋介の中に残っていた最後の人間性のように思えて、愛おしくすらあった。
「……怖えんだよ」
洋介が、絞り出すように言った。
「全部話したら、真美に捨てられるかもしれねえ。親父に殴られるかもしれねえ。……全部失うのが、怖えんだ」
「失ったら、また拾えばいい」
湊は力強く言った。
「もし家を追い出されたら、僕のところに来い。金は貸さないが、ソファーくらいなら貸してやる。……再起するまで、相談に乗ってやる」
「兄貴……」
「ただし、条件付きだ。これからは、僕の前で嘘をつくな。見栄を張るな。……等身大の『相馬洋介』として接しろ。それができるなら、僕はいつまでもお前の兄貴でいてやる」
洋介は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、何度も頷いた。子供のような顔だった。三十年近く歪み合っていた兄弟の時計が、ようやく動き出した瞬間だった。
店を出ると、夜風が心地よかった。湊は、洋介をタクシーに乗せた。行き先は、彼の実家だ。これから妻に土下座し、全てを告白するという。修羅場になるだろう。離婚されるかもしれない。だが、それは彼が自分で蒔いた種であり、自分で刈り取らなければならない「人生の収穫」だ。湊ができるのは、その背中を押すことだけだ。
「じゃあな。……頑張れよ」
「ああ。……ありがとう、兄貴」
タクシーが走り去る。赤いテールランプが見えなくなるまで、湊は見送った。
一人になった。だが、以前のような「冷たい孤独」ではない。面倒で、重たくて、厄介な「絆」という鎖が、再び手首に巻き付いている感覚。だが、不思議と不快ではなかった。その重みこそが、自分がこの世界に繋ぎ止められている証拠のように思えたからだ。
湊は歩き出した。帰るべき場所がある。タワーマンションの無機質な部屋ではない。冷蔵庫の中に、梨が冷えている部屋へ。そして明日の朝になれば、また「お節介な共犯者」が待っているオフィスへ。
部屋に戻り、ジャケットをハンガーにかける。ネクタイを緩め、シャツのボタンを外す。いつものルーティンだ。だが、その動作一つ一つに含まれていた「重苦しさ」が、今日は驚くほど希薄だった。憑き物が落ちた、という表現があるが、まさに今の湊の状態を表すのに相応しい。背中に背負っていた「家族」という重石を、金と本音という劇薬を使って粉砕したのだ。破片はまだ散らばっているかもしれないが、少なくとも重力からは解放された。
湊はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。冷気と共に、庫内灯が白い皿を照らし出す。ラップに包まれた、剥かれた梨。石田梨央が「キープ」しておいてくれたものだ。変色を防ぐために塩水にくぐらせたのか、表面はまだ瑞々しい輝きを保っている。
皿を取り出し、リビングのテーブルに置く。フォークを刺す。シャク、という心地よい感触が指に伝わる。湊はそれを口に運んだ。
「……」
咀嚼する。溢れ出す果汁。冷たくて、甘い。そして、微かな塩気。その複合的な味わいが、舌の味蕾を刺激し、脳へと信号を送る。
美味い。素直に、そう思った。これまで、湊にとって食事とは「栄養摂取」か「接待の道具」でしかなかった。高級フレンチもコンビニのおにぎりも、等しく「燃料」だった。味がしないわけではない。甘い、辛い、苦いといった情報は識別できる。だが、そこに「美味しい」という情動が伴うことはなかった。だが、この梨は違う。大山という職人の不器用な感謝と、梨央という部下の無邪気な好意。それらが物理的な味覚となって、湊の乾いた身体に染み渡っていく。
湊は独り言ちた。一切れ、また一切れと口に運ぶ。あっという間に皿は空になった。腹の底から、温かい力が湧いてくるような気がした。それは「冷たい情熱」ではなく、人間が本来持っている、生々しくて温かいエネルギーだ。
湊はスマホを手に取り、LINEを開いた。梨央とのトーク画面。『明日、梨を食べるよ』と送った自分のメッセージの下に、彼女からのスタンプがある。湊は、短い文章を打ち込んだ。
『食べた。美味かったよ』
送信。深夜だ。返信は期待していなかった。だが、数秒と経たずに既読がつき、メッセージが返ってきた。
『良かったです!!!(感涙) おかわり、いりますか? 実家に頼んで送ってもらいましょうか?』
この子は、本当に眠らないのか。それとも、湊からの連絡を待っていたのか。湊は、ふっと笑みを漏らした。
『いらない。糖分の摂りすぎは毒だ』
『もう! 素直じゃないですね~。でも、先輩が「美味い」って言うなんて、明日は雪が降るかも』
軽口の応酬。以前なら「無駄なやり取りだ」と切り捨てていただろう。だが今は、この無駄なラリーが、孤独な夜を埋める心地よいノイズとして機能している。
『寝ろ。明日は忙しいぞ』
『はーい。先輩も、ちゃんと寝てくださいね。おやすみなさい』
湊はスマホを置き、ソファに深く身を沈めた。窓の外を見る。東京の夜景は、相変わらず無機質に輝いている。だが、今の湊には、その光の一つ一つが、誰かの生活の灯として、温かく感じられた。僕も、その中の一つだ。特別でもない、完璧でもない、ただの一人の人間として、この街で生きている。その事実を受け入れた瞬間、急激な睡魔が襲ってきた。二十年分の緊張が解けた反動だろうか。湊は、シャワーを浴びるのも忘れ、そのまま深い眠りへと落ちていった。
翌朝。湊が出社すると、オフィスの空気はいつもと変わらないように見えた。だが、湊自身の感覚器の感度が変わっていたため、受け取る情報はまるで違っていた。
「おはようございます、課長」
「お、相馬くん。早いね」
すれ違う上司や同僚への挨拶。これまでは「業務上のプロトコル」として発声していた言葉に、今日は自然な抑揚が乗る。相手の顔色がよく見える。疲れている人、楽しそうな人、焦っている人。それぞれの感情が、色のついたオーラのように見えてくる。自席に着くと、梨央が飛んできた。
「おはようございます、先輩! 顔色、いいですね!」
「そうか? あまり眠れなかったんだが」
「嘘だぁ。肌ツヤが違いますよ。梨効果ですね、間違いなく」
彼女は得意げに笑う。その笑顔が、朝の光よりも眩しい。湊は苦笑しながらパソコンを開いた。
「……昨日の件だが」
湊が声を潜めると、梨央も真剣な顔つきになった。
「弟のこと、ですね」
「ああ。一応、解決した」
「解決……って、どうなったんですか?」
「家に帰したよ。奥さんに全てを話して、頭を下げてこいと言ってな」
梨央が目を丸くする。
「えっ? それって……修羅場じゃないですか」
「だろうな。離婚されるかもしれないし、親も巻き込んで大騒ぎになるだろう」
「そんな……大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないさ。だが、それが彼の人生だ。僕が尻拭いをしてやることは、彼のためにならないと気づいた」
湊は淡々と言った。冷たい言い方に聞こえるかもしれない。だが、そこには以前のような「切り捨て」の響きはなく、むしろ相手を一人の人間として尊重する「信頼」のようなものが混じっていた。
「転んでも、自分で立ち上がるしかない。僕はその手助けはするが、代わりに歩いてやることはできない。……そういうことだ」
「先輩……」
梨央は、感心したように湊を見つめた。
「変わりましたね。なんか、憑き物が落ちたみたい」
「君のおかげだよ。『共犯者』」
湊が小声で言うと、梨央は顔を赤くして「もう、からかわないでください」と照れた。
その時、向かいの席の田中が、恐る恐る声をかけてきた。以前、三千万円のミスをして泣いていた彼だ。
「あの……相馬マネージャー」
「なんだ、田中くん」
「実は、その……今回のプロジェクトの件で、ちょっと相談がありまして……」
田中は萎縮している。また怒られる、あるいは冷たくあしらわれると思っているのだろう。以前の湊なら、「結論から言え」「時間は三分だ」とプレッシャーをかけていた場面だ。効率を最優先し、部下の感情など考慮しなかった。
だが、今の湊は違った。湊は、作業の手を止め、椅子を回転させて田中の方を向いた。
「どうした。また何かトラブルか?」
「いえ、トラブルというわけではないんですが……大山さんたちから、『もっとこういう機能が欲しい』っていう要望が来てまして。でも、今の仕様だと予算オーバーになりそうで……どう断ればいいかと……」
田中は困り果てている。板挟みだ。現場の熱意と、会社の予算の狭間で苦しんでいる。湊は、田中の顔を見た。不安、焦り、そして「役に立ちたい」という健気な向上心。それが見て取れた。
「断る必要はない」
湊は言った。
「え?」
「現場からの要望は、改善の種だ。予算の問題はこちらで調整する。君は、その要望を具体的にリストアップして、優先順位をつけてくれ。大山さんが何を一番求めているのか、君の視点で分析してほしい」
「えっ、あ、はい! やります!」
「期待しているよ。君は現場との関係作りが上手いからな」
湊が付け加えると、田中の顔がパッと輝いた。承認。それも、ただの結果に対する評価ではなく、プロセスと適性に対する肯定。それがどれほど人を動かす力になるか、湊は身をもって知ったばかりだ。
「ありがとうございます! すぐ取り掛かります!」
田中が勢いよくパソコンに向かい始める。その背中には、もう迷いはない。隣で見ていた梨央が、にんまりと笑って湊に親指を立てた。 『ナイス上司!』というジェスチャーだ。湊は肩をすくめて見せた。
(……悪くない)
人を動かすのは、恐怖でも論理でもない。「見てくれている」という安心感だ。それを与えることが、リーダーの役割なのだとしたら、今の湊にはそれができる気がした。なぜなら、湊自身が、梨央によって「見てもらえている」という安心感の中にいるからだ。
昼下がり。湊のスマホが震えた。洋介からのメッセージだ。
『話した。真美にぶん殴られた。離婚届叩きつけられたけど、泣いて謝ったら、とりあえず保留にしてやるって言われた。……これから死ぬ気で働くわ』
続いて、顔が腫れ上がった洋介の自撮り写真が送られてきた。殴られた頬が青くなっているが、その表情は、昨日までの澱んだ顔とは別人のように晴れやかだった。湊は、小さく息を吐いた。保留。首の皮一枚繋がったか。だが、それが現実だ。劇的なハッピーエンドなどない。あるのは、泥臭い再起の物語だけだ。
『良かったな。その腫れが引くまでは、酒は控えろ』
短く返信する。これでいい。兄弟の距離感は、これくらいがちょうどいい。突き放すでもなく、抱え込むでもなく。ただ、同じ空の下で、それぞれの泥沼を生きていることを確認し合うだけの関係。
夕方。オフィスに、一人の来客があった。受付からの内線。 『相馬さん、お母様がいらしてます』
母。その言葉を聞いた瞬間、湊の動きが止まった。背筋に、冷たいものが走る。洋介の件がバレたのか? いや、洋介は約束を守って、親には言っていないはずだ。だとしたら、なぜ? アポなしで会社に来るなど、非常識にも程がある。
「……分かった。通してくれ」
湊は、梨央に目配せをして席を立った。梨央も緊張した面持ちで頷く。彼女は知っている。湊にとって「母親」という存在が、どれほど巨大で、厄介なラスボスであるかを。
応接スペース。そこに座っていた母・恵子は、いつものように着飾っていた。派手なブラウスに、ブランド物のバッグ。湊が姿を見せると、彼女は立ち上がり、甲高い声を上げた。
「あら、湊! 仕事中ごめんなさいねえ。近くまで来たから、寄ってみたのよ」
悪びれる様子もない。「息子の会社を見学に来た自慢の母親」という役に入り込んでいる。だが、湊はその目の奥に、ある種の「探り」の色があるのを見逃さなかった。
「母さん。いきなり困るよ。ここは職場だ」
「あら、いいじゃない。立派なビルねえ。受付のお嬢さんも綺麗だし。……あ、これ、お土産。地元のお煎餅」
母は紙袋を押し付ける。湊はそれを受け取り、無表情で尋ねた。
「……用件はなんだ」
「用件だなんて、冷たいわねえ。顔を見に来ただけよ」
母は笑って誤魔化そうとするが、すぐに声を潜めた。
「……洋介から、連絡あった?」
「洋介?」
「ええ。あの子、なんか様子がおかしいのよ。真美さんもなんかよそよそしいし……何かあったんじゃないかと思って」
勘だ。母親特有の、気味の悪いほどの勘。洋介が何かをやらかしたことを、空気で察知している。そして、その尻拭いを湊がしたのではないかと疑っているのだ。
湊は、試されていた。ここで「何も知らない」と嘘をつくか。それとも、真実を話して、この歪な家族劇場の幕を引くか。以前の湊なら、迷わず嘘をついただろう。「知らないよ。元気そうだったけど」と笑顔で答え、母を安心させ、平穏を守っただろう。それが「優しい嘘」のコストだと割り切って。
だが。今の湊は、もう嘘をつきたくなかった。嘘をつくことは、自分への虐待だ。そして、母に対しても不誠実だ。彼女を「真実を知るに値しない弱い人間」として扱っていることになるのだから。湊は、母の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もう「良い子」のフィルターはかかっていない。一人の、傷つき、悩み、それでも生きていこうとする三十歳の男の光が宿っていた。
「母さん」
湊は静かに言った。
「洋介のことは、洋介に聞いてくれ。あいつの人生だ」
「え……?」
「それと。僕も、話したいことがある」
湊は深呼吸をした。心臓が、早鐘を打っている。怖い。洋介にカッターを向けられた時よりも、ずっと怖い。だが、言わなければならない。二十年間、喉の奥でつかえていた、あの言葉を。
「僕は、ずっと辛かった」
母の表情が凍りついた。
「あなたたちの期待に応えるために、自分の心を殺してきた。……泣きたくても泣けなかった。それが、辛かったんだ」
言ってしまった。パンドラの箱が開いた。もう、後戻りはできない。オフィスの一角、ガラス張りの応接スペースで、湊の「親離れ」の儀式が始まろうとしていた。
「辛かった……?」
母・恵子は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で湊を見つめていた。彼女の脳内辞書に、息子からそんな言葉が投げかけられるという項目は存在しなかったのだろう。彼女にとって湊は、「手のかからない、優秀で、自慢の息子」という完成されたフィギュアだったのだから。
「何を言ってるの、湊。仕事で疲れてるの? それとも洋介に何か吹き込まれたの?」
「違うよ、母さん」
湊は首を横に振った。その動作は静かだったが、岩のように揺るぎない拒絶の意思が込められていた。
「洋介は関係ない。これは僕自身の問題だ。……二十年前から、ずっと言いたかったことだ」
「二十年前? あんた、昔のことを蒸し返して……私たちが何をしたっていうの! あんたのために、どれだけ苦労して、どれだけお金をかけて育てたと思ってるの!」
母の声が大きくなる。ヒステリックな金切り声。かつて、幼い湊を恐怖で支配し、涙を止めさせたあの声だ。湊の背筋に、条件反射的な萎縮が走る。心臓が嫌な音を立てる。だが、湊は逃げなかった。テーブルの下で拳を握りしめ、爪の痛みで意識を現実に繋ぎ止める。僕はもう、無力な子供じゃない。自分の足で立ち、自分の金で生きている、一人の大人だ。
「感謝しているよ。育ててくれたことには」
湊は努めて冷静に言った。
「衣食住を与え、大学まで行かせてくれた。その投資のおかげで、今の僕がある。それは事実だ」
「そうでしょう! なら、どうしてそんな親不孝なことを……」
「だが、心は殺された」
湊は母の言葉を遮った。
「『泣くな』と言われた。『男の子でしょう』と否定された。母さんの機嫌が悪くなるたびに、僕は自分が悪いんだと思い込み、感情を押し殺して、顔色を窺うマシーンになった。……それが、どれほど苦しいことか、母さんには分からないだろうな」
母の顔が紅潮していく。それは「理解」によるものではなく、「攻撃された」と感じたことによる防衛反応としての怒りだった。
「なによ……なによ、それ! 私が悪者だって言うの!? あんたが泣き虫だったから、強くするために躾けたんじゃない! 近所の人に後ろ指さされないように、必死で立派に育てようとしたのよ!」
「そうだな。母さんは必死だった」
湊は淡々と肯定した。
「母さんは、自分の『不安』を消すために必死だったんだ。僕のためじゃない。僕がダメな子だと、自分の育て方が間違っていると評価されるのが怖かっただけだ。……僕たちは、母さんの自尊心を満たすための道具だったんだよ」
決定的な一言。母の表情が凍りついた。彼女が最も直視したくない、無意識の深淵にある真実。それを実の息子に突きつけられた衝撃は、計り知れない。
「……ひどい。あんた、悪魔ね」
母の目から涙が溢れた。それは湊の流した涙とは違う。自分の可哀想さに酔い、相手に罪悪感を植え付けるための、武器としての涙だ。
「こんなに尽くしてきたのに。裏切られたわ。洋介も、あんたも……どいつもこいつも、私を苦しめてばかり!」
母はハンカチで顔を覆い、すすり泣き始めた。応接スペースの外を歩く社員たちが、何事かとこちらを見ている。以前の湊なら、この状況に耐えられず、「ごめん、言い過ぎた」と謝っていただろう。その場の空気を収めるために、また嘘をついていただろう。だが、今の湊は、泣いている母を冷ややかに見つめていた。
(……ああ、小さくなったな)
そう思った。かつては絶対的な支配者に見えた母が、今はただの、わがままで弱い初老の女性にしか見えない。彼女もまた、何かに怯え、虚勢を張り、誰にも理解されない孤独を抱えて生きてきた人間なのだ。そう理解した瞬間、湊の中から母に対する「憎しみ」や「恐怖」が消え、代わりに乾いた「哀れみ」だけが残った。
「泣いても無駄だよ、母さん」
湊は静かに言った。
「僕はもう、その涙には騙されない。……謝らないし、慰めもしない」
「……っ!」
「これからは、お互いに自由に生きよう。僕は『理想の息子』を演じるのをやめる。母さんも、『理想の母親』を演じる必要はない」
湊は、懐から先日渡した温泉旅行のチケットを取り出そうとしたが、やめた。それはもう、母のものだ。行って楽しむもよし、息子への当てつけに破り捨てるもよし。それは彼女の自由だ。
「盆と正月くらいは顔を出すよ。でも、今までみたいに機嫌を取ったりはしない。僕が言いたいことを言い、やりたいようにやる。……それでもいいなら、付き合ってくれ」
それは、絶縁宣言ではなかった。もっと残酷で、健全な「対等宣言」だった。親子という上下関係を解体し、ただの大人同士としての関係を再構築する提案。母にそれが受け入れられるかは分からない。おそらく、すぐには無理だろう。彼女はずっと「被害者」の立場にしがみつき、湊を恨むかもしれない。それでも構わない。湊が変われば、世界は変わるのだから。
母は、泣き腫らした目で湊を睨みつけた。
「……知らない。あんたなんか、知らないわよ」
彼女はバッグを掴んで立ち上がった。
「勝手にしなさい! もう二度と、お米なんて送ってやらないから!」
捨て台詞を残し、母は足音荒くオフィスを出て行った。ガラスドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残された湊は、ソファに深く座り直し、天井を見上げた。終わった。本当に、終わった。スッキリしたかと言われれば、嘘になる。後味は悪いし、胃のあたりが重い。だが、呼吸は驚くほど楽だった。肺の奥底まで、新鮮な空気が入ってくる。
机の上には、母が置いていった地元のお煎餅が残されていた。湊はそれを一つ手に取り、バリっと音を立てて割った。
「……お疲れ様です」
背後から声がした。振り返ると、石田梨央が立っていた。彼女は心配そうな、でもどこか誇らしげな顔で湊を見ていた。
「全部、見てました?」
「はい。……すみません、聞き耳立てちゃって」
「いや、いい。見世物としては最低だっただろうけどな」
湊は自嘲した。三十路の男が、母親相手に「辛かった」と駄々をこね、泣かせて追い返す。客観的に見れば、情けない光景だ。
だが、梨央は首を横に振った。
「かっこよかったです」
「は?」
「すごく、かっこよかったです。……言えましたね、先輩」
梨央が、湊の隣に座った。その距離は、以前よりもずっと近い。
「私、先輩のこと、ロボットみたいだなんて言ってごめんなさい。先輩は、誰よりも人間くさくて……誰よりも傷つきやすい人だったんですね」
「……買い被りだ。ただの親不孝者だよ」
「親不孝でいいじゃないですか。自分の人生を取り戻したんですから」
梨央は、湊の手元にある割れたお煎餅を指差した。
「それ、もらっていいですか?」
「え?」
「半分こ、しましょう。共犯者なんですから」
湊は呆気にとられ、それからふっと笑った。割れたお煎餅の半分を彼女に渡す。二人で同時に齧る。醤油のしょっぱい味が、口の中に広がった。
「……しょっぱいですね」
「ああ。母さんの味だ」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。オフィスの片隅で、上司と部下が煎餅を齧りながら笑っている。側から見れば奇妙な光景だろう。だが、湊にとって、これほど心が満たされる瞬間はなかった。
数日後。権田建設のプロジェクトは、正式に「運用フェーズ」へと移行した。事故の後、湊と梨央が徹底した安全対策マニュアルを作成し、現場への説明会を行ったことが功を奏した。大山たち職人は、休憩時間になると嬉々としてタブレットを操作し、その日の成果をアップロードしている。その写真は、以前よりもさらに生き生きとして見えた。 『安全第一』のヘルメットを被った笑顔。整然と片付けられた資材置き場。彼らは「誇り」を守るために、自ら「安全」というルールも楽しみ始めたのだ。
湊は、その報告書をまとめながら、窓の外を見た。東京の空は、今日も青い。弟・洋介からは、あれ以来連絡がない。風の噂では、実家の近くのアパートを借りて、運送屋の夜勤を始めたらしい。妻とは別居中だが、週末だけは子供に会わせてもらっているという。泥沼だが、前には進んでいる。
母からは、一通だけメールが来た。 『旅行、お父さんと行ってきます。お土産はいらないわよね』 件名は無題。いじっぱりで、一言多いメール。だが、それが彼女なりの「和解」の合図なのだと、今の湊には理解できた。
「先輩、そろそろ行きましょうか」
梨央が声をかけてきた。今日は、プロジェクトの打ち上げだ。新橋の居酒屋ではなく、今回は少し奮発して、銀座のレストランを予約してある。田中や他のメンバーも一緒だ。
「ああ。行こう」
湊はパソコンを閉じ、立ち上がった。デスクの上には、何も置かれていない。以前は「何も持たないこと」が防衛策だったが、今は違う。心の中に、確かな「荷物」があるからだ。面倒で、重たくて、でも愛おしい荷物が。
エレベーターホールに向かう途中、梨央が小声で言った。
「先輩。私、先輩の『次の目標』、見つけちゃいました」
「ん? なんだ、それは」
「『逃げてきて良かった』って思える場所を作ること、でしたよね? それ、もう半分叶ってると思いますよ」
梨央は、オフィス全体を見渡すように腕を広げた。
「ここです。このチーム、今の先輩にとっては、結構居心地いいんじゃないですか?」
湊は、周囲を見渡した。田中が電話口で笑っている。他の社員たちが、忙しなくも楽しそうに議論している。そして目の前には、自分を「人間」として肯定してくれた女性がいる。
かつて、湊にとってここは「戦場」であり「仮面舞踏会の会場」だった。だが今は。
「……そうだな。悪くない」
湊は素直に認めた。百点満点ではない。不満もあるし、理不尽なこともある。それでも、ここは湊が自分の足で立ち、自分の言葉で話し、自分の感情で関われる場所になりつつある。
「残り半分は?」
「それは……これから一緒に探しましょうよ」
梨央が、湊の手を引いた。エレベーターが到着する。その扉が開いた先には、どんな未来が待っているのだろう。不安がないわけではない。また傷つくかもしれない。また裏切られるかもしれない。人間関係とは、本質的に「無駄」と「リスク」の塊なのだから。
だが、湊はもう恐れなかった。無駄上等。バグ歓迎。冷たい情熱はもう溶けてしまったけれど、代わりに手に入れたこの「生ぬるい体温」で、不器用に生きていくのも悪くない。
湊は、梨央の手を握り返した。強く、確かに。
「行こう。……腹が減った」
湊の言葉に、梨央が弾けるように笑った。二人の影が、廊下に長く伸びている。それは、寄り添い合い、支え合う、二本の頼もしい線に見えた。
エピローグ:世界の体温
季節が一巡りし、また夏が巡ってきた。東京の夏は相変わらず蒸し暑く、アスファルトからの照り返しが視界を歪ませている。だが、相馬湊は、その熱気を以前ほど不快だとは感じなくなっていた。汗をかく。喉が渇く。冷たい水が美味い。そんな当たり前の生理現象が、自分が生きていることの証左のように思えるからだ。
日曜日の午後。湊は、都内のとある公園のベンチに座っていた。隣には、石田梨央がいる。二人の手には、コンビニで買ったアイスコーヒーが握られている。デートと言えばデートだし、ただの暇つぶしと言えばそうとも取れる、名前のついていない時間。かつての湊なら、「生産性がない」「無駄な時間だ」と切り捨てていたであろうシチュエーションだ。
「……あ、見てください先輩。あの犬、可愛い」
梨央が指差した先では、ゴールデンレトリバーが飼い主にじゃれついている。湊は視線を向け、目を細めた。
「暑そうだな。毛皮を着て」
「もう、すぐそうやって現実的なこと言う。もっと情緒を楽しんでくださいよ」
「情緒か。……まあ、悪くはない」
湊は短く笑った。その笑顔は、もう鏡の前で練習した「貼り付けた笑み」ではない。目尻に自然な皺が寄り、口元が緩む、無防備な表情だ。
この一年で、湊の世界は劇的に、しかし静かに変化した。まず、弟の洋介。彼は結局、妻とは離婚することになった。自業自得だ。だが、彼は実家近くのアパートで一人暮らしを始め、運送会社でがむしゃらに働いている。先日、久しぶりに電話があった。 『慰謝料と養育費、キツイけど払ってるわ。……兄貴、またいつか飲んでくれよ。割り勘で』 その声には、以前のような卑屈な響きはなかった。自分の足で泥沼を歩く覚悟を決めた男の、乾いた強さがあった。
次に、母。あの日、オフィスから追い返して以来、彼女からの連絡頻度は激減した。たまに来るLINEは、『元気にしてるの』『今年は暑いから気をつけなさい』といった短いものだけだ。過干渉はやんだ。だが、縁が切れたわけではない。互いに干渉しすぎない、大人同士の適度な距離感。それを「寂しい」と感じるか、「清々しい」と感じるかは人それぞれだが、湊にとっては最適なバランスだった。
そして、仕事。権田建設のプロジェクトは成功を収め、湊のチームは社内でも注目される存在になった。だが、湊の評価軸は少し変わった。 「数字」や「効率」だけでなく、「チームの体温」を気にするようになったのだ。田中が悩んでいないか。梨央が無理をしていないか。メンバーの感情という「バグ」を排除するのではなく、それを織り込んだ上で最適解を探す。それは以前よりも手間がかかるし、疲れるやり方だ。だが、不思議とストレスは溜まらなかった。
「……そういえば、先輩」
梨央が、ストローを口に含んだまま言った。
「来週の連休、どうします? 北海道、行ってみませんか?」
「北海道?」
「はい。私の実家」
湊は、コーヒーを持つ手を止めた。梨央の実家。彼女が「逃げてきた」と言っていた場所だ。
「……いいのか? 嫌いなんだろう、親御さんのこと」
「嫌いです。今でも苦手です」
梨央は苦笑いをした。
「でも、先輩のお母さんへの啖呵を見てたら、私もちゃんと言わなきゃなって思ったんです。『私は私の人生を生きてます。文句は言わせません』って」
「なるほど。宣戦布告の立ち会い人になれと?」
「違いますよ。……私が逃げ帰ってこないように、見張っててほしいんです。私の『共犯者』として」
彼女は、真っ直ぐに湊を見つめた。その瞳には、信頼と、そして親愛の情が溢れている。湊は、胸の奥が温かくなるのを感じた。これは「恋」なのだろうか。それとも「愛」なのだろうか。名前をつけるのはまだ早い気がするし、あるいは名前など不要なのかもしれない。ただ、彼女の隣にいると、自分が「空っぽ」ではなくなる気がする。それだけで十分だった。
「……分かった。付き合うよ」
「本当ですか! やった! じゃあ、美味しいラーメン屋もリサーチしておきますね!」
梨央が無邪気に喜ぶ。その姿を見ながら、湊はふと、一年前の自分を思い出した。結婚式場で、他人の幸せを「茶番だ」と冷笑し、孤独を愛し、死を願っていた自分。あの頃の自分に、今のこの景色を見せたら、何と言うだろうか。 『堕落したな』と笑うだろうか。それとも、『やっと見つけたか』と安心するだろうか。
湊は空を見上げた。入道雲が、高く聳え立っている。
人生は、無駄なことの連続だ。傷つき、悩み、遠回りし、分かり合えない他者と関わり続ける。非効率極まりないシステムだ。だが、その無駄な隙間にこそ、温かい風が吹き込み、色鮮やかな感情が芽吹く。
「無駄と知るための二十年」。その時間は、湊にとって必要な助走期間だったのだ。深く屈んだ分だけ、高く飛べるように。冷たく凍りついた分だけ、溶け出した時の熱を感じられるように。
湊は、梨央の手をそっと握った。彼女は驚いたように湊を見たが、すぐに優しく握り返してきた。掌の汗が、少し不快で、そして愛おしい。
「行こうか。そろそろ夕立が来る」
「はい!」
二人はベンチを立ち、歩き出した。その先には、騒がしく、面倒で、トラブル続きの、しかし愛すべき日常が待っている。
相馬湊の心臓は、今日も規則正しく脈打っている。だがそれはもう、ただ血液を送るだけのポンプではない。冷たい情熱を溶かし、全身に「熱」を行き渡らせるための、力強いエンジンの音を響かせていた。
無駄な僕の、冷たい情熱。
その物語は終わり、温かい僕の、ありふれた人生が始まる。
(完)




