三浦 透
朝のフロアは、まだ静かだった。
エアコンの音と、コピー機の立ち上がる低い唸りだけが響いている。
三浦透は、席に着く前に一度だけ深呼吸をした。
毎朝やる癖だ。
意味があるかは、よくわからない。
最初に視界に入ったのは、高瀬課長だった。
ネクタイが曲がっている。
机の上に、いつもより書類が多い。
キーボードを叩く音が強い。
(今日は、話しかける日じゃない)
透は心の中でそう決めた。
午前十時。
どうしても報告しなければならない件ができてしまう。
「三浦」
「はいっ」
名前を呼ばれた瞬間、
高瀬課長の声は少し大きくなった。
「これ、どうなってる!」
透はその声量で即座に
言い訳を探すのをやめた。
代わりに、メモ帳を開いた。
「確認不足でした。今日中に修正します」
それだけ言う。
高瀬課長は一度、舌打ちしそうになって、やめた。
そして、何も言わずに手を振った。
(通った)
透は席に戻りながら、足の裏に力が戻るのを感じた。
次に向かったのは、宮本係長の席だった。
宮本はいつも通り、無表情でモニターを見ている。
声も抑揚もない。
正しいことしか言わない人。
「三浦です。進捗の報告を」
透は前置きを削った。
経緯も感情も、全部省いた。
「予定より一日遅れます。理由は二点。代替案はこれです」
宮本は画面から目を離さず、短く言った。
「了解。次は遅れる前に言って」
それだけだった。
冷たい、と言えば冷たい。
でも、透は胸の奥で少しだけ安堵していた。
(感情を求められてないだけだ)
昼過ぎ、最後に立ちはだかるのは真鍋部長だった。
真鍋はいつも曖昧だ。
返事も判断も、はっきりしない。
透は資料を二枚用意した。
「この方向で進めるか、
こちらで一度止めるか。どちらがよろしいでしょうか」
真鍋は資料を眺め、少し考えたあと、言った。
「……今回は、こっちで」
透は小さく頷いた。
(決めない人じゃない。
決めさせられるのが嫌な人だ)
一日が終わる頃、透はぐったりしていた。
うまくやれた気もしないし、褒められたわけでもない。
でも、誰とも衝突しなかった。
怒鳴られもせず、責められもせず、仕事は進んだ。
帰り際、ふと思う。
上司たちは怖い人たちじゃない。
ただ、それぞれ違う形で、不安を抱えているだけだ。
透はエレベーターの中で、肩の力を抜いた。
全部に正解を出さなくても、
今日を壊さずに終えられたなら、
それでいい日もある。
そう思えた日は、
少しだけ、明日が近づいても怖くなかった。




