選ばれし者1
「ありやとーりゃしたー」
適当なバイト店員の声を背中に受けて俺はコンビニを後にして、俺は足早に店の前の駐車場を横切った。
この辺りは学校に近い。あと少しで部活動のない連中の下校時刻だ。顔を合わせるのはよくない――俺の事なんて誰も気にしてはいないだろうが、それでも俺の気持としては避けていたい。
引きこもりを始めてもうすぐ2か月。その初日から今日までで、外に出ると言えばこのコンビニぐらいだ。
俺よりいくつか年上だろう、右手にタトゥーの入った金髪の店員はこの時間には大体いつもいて、誰に対してもあの適当な接客をしていた。
だからこそ、俺にとってここは通いやすいコンビニだった。あの店員は高校生が平日の昼間から店に来ても何も感じないし興味もないだろうから。
高校2年生になってすぐ、俺=葉院理人は不登校になった。
数人のグループによるいじめは新学期のクラス替えからそれほど時間を置かずに始まり、それがクラス全体に広がるまで大した時間は必要なかった。そして、俺がそれを理由に不登校になって引きこもったのも。
今では家から出るのはこのコンビニへの往復だけ。時間を潰すために始めたソシャゲに課金するためのネットマネーを購入するためだけの往復だ。
だが、それもいつまで続くかは分からない。貯金なんてたかが知れている。
……なんで、俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ。
高校の方をじろりとにらみつける。今頃あいつらは楽しくやっているのだろう。俺がこうして引きこもっている間、俺なんて初めから存在していなかったかのように気にもかけず。
「ん……?」
視線を正面=駐車場に面している大通りの方へと向けた時、それが目に飛び込んできた。
恐らく野良だろう一匹の猫が、何を思ったのか車道へと飛び出している。
「あっ――」
声を上げたのは俺だった。
猫に迫っていたのはトラックだ。それなりに大きい通りで、それなりにスピードの出た。
何故そんな事をしたのかは分からない。
ただの気まぐれか、或いは猫が好きだったからか。
俺はそれを目にして、頭の中に直後に訪れるだろう悲劇を直感した瞬間、体が自然と猫を追っていた。
車道に飛び出し、猫を拾い上げ、迫りくるトラックから救う――前半二つだけは上手くいった。三つめは時間切れだ。
凄まじい衝撃。体が宙に浮く。
幸運だったのは、そこで少しだけ意識が途切れた事だろう。
「ぁ……」
次に目を開けた時、世界はひっくり返っていた。
さっきまで足の下にあったはずのアスファルトは体の下に広がっていて、駐車場もコンビニも、集まってくる通行人たちも、皆横から生えていた。
そしてそのやじ馬たちの足の間を、何事もなかったかのように猫がすり抜けて、どこかに消えていく。
野次馬の中に、2か月前まで着ていた制服姿を数人目撃したところで、俺は再度意識を手放した。
「……て」
声が聞こえる。
真っ暗な世界に、誰かが囁くような声が。
「起きてください」
それは優しくて、心地よくて、どうかするとその内容に反してずっと目を閉じていたいような気にさえなる声。
「起きてください。葉院理人さん」
その声が呼んでいるのが己の名前だという事に気が付くまで少しだけ時間がかかった。
「ん……」
流石にそこで目を開ける。
アスファルトの灰色と、道路に引かれた白線が見えていたはずの世界は、今は真っ白な世界に変わっていた。
「ここは……?」
「気づかれましたね」
先程からの声が、まるで耳元で囁いているかのように聞こえて、しかし同時に正面に人の気配を感じる。
そしてその二つが合わさった時、どういう訳か俺の頭は正面から声がしていると理解した。
「わっ!?」
そしてその理解は正しかった。
真っ白な世界に起き上がった俺が視線をそちらに向けると、いつの間にかそこには一人の女性が立っていた。
この空間をそのまま纏っているような真っ白なローブのような衣装に身を包んだ若い女性。
衣服だけではなく、全身が、その雰囲気がこの部屋から湧いてきたようなその人物は、不思議と俺にその話を聞かせようとする魔力めいたものを持っていた。
「あなたは死に、そしてこの空間にやってきました」
おかしな話だが、その異常な説明さえもそんなものかと納得してしまっていた。
「あなたの行いは私も知っています。とても勇敢で、敬意を表するべき行動でした。そして同時にあなたはまだ死ぬべき人間ではなかった。今回の件はいわば想定外のアクシデントとでも言うべきものです」
最初の説明の後のこれも例外ではなく、そういうものとして受け入れられる。
「故にあなたをもう一度生き返らせようと思います」
「あっ、えっ、いや……」
そこで反射的に声が出たのは、ここにきて初めて己の感情が復活したようにさえ思えた。
「その……生き返るって、もう一度同じ人生をやれってことですか?」
不思議と物怖じせず声が出る。
そしてその問いが、俺の考えをしっかりと表現していた。
「嫌なのですか?」
「……正直、もう戻りたくありません」
贅沢な悩みかもしれなかった。
飢えや病に苦しむとか、地雷で足を失うとか、そういう経験をした訳ではない。それらに比べればずっと恵まれた環境にいたのだろう。
だがそれでも、あの世界は俺にとって何の楽しみもない世界だ。
苛められ、引きこもって、ただ毎日が終わることをどこかで願いながら、人を嫌い、社会を嫌い、こんなつまらない世界ならいっそ終わってしまえと心のどこかで願っていた。大災害でも核戦争でも何でもいいから、いっそ全てを無に帰してくれればいいのにとさえ思っていた世界に、もう一度戻るなんてまっぴらだ。
「……分かりました」
俺のその思いをどこまで汲み取ったのかは分からないが、彼女は静かにそう言って、俺の意見を受け入れてくれた。
「ですが、失われるべきでなかった命が失われるのを見過ごすことは、私にはできません。故に、あなたには別の世界に転生していただきます」
「転生?」
オウム返しに尋ねる俺に、彼女は小さく頷いた。
「あなたに分かりやすく言えばそうですね……ファンタジーな世界でしょうか。その世界で残りの命を生きてください」
そう言うと、彼女は俺の背後を指し示す。
その指の先には、いつの間にかぽっかりと開いたこの空間の出口が、その向こうに見える地球のそれとは異なる大陸や島々が一望できた。
「そして、猫のために身命をなげうったあなたの勇敢さに敬意を表し、その世界での加護を授けましょう」
その言葉と共に、俺は自分の体が何か温かいものに包まれていくのを感じた。
それと共に後ろに引かれていくような感覚。同時に意識が遠のいていく。
「ああ、それと最後に一つ」
「え……?」
薄れゆく意識の中、その声はしっかりと聞こえていた。
「勇敢さと無謀さをはき違えてはいけませんし、勇敢である事と注意深い事は矛盾しません。道を渡るときは左右の安全を指さし呼称で確認する必要があります。事故を起こしたドライバーは幸いドライブレコーダーの映像が決め手となり温情ある措置がとられましたが、それでも迷惑を被ったことに変わりはありませんし、何よりあなた自身も命を落とした。忘れないでください。猫の死も悲劇ですが、急な飛び出しによって事故を起こして人生が狂ってしまった運転手も、勿論あなたの死も、あなたが死ぬ事によって周囲の人々に訪れるものも、みな等しく悲劇なのだから」
その声を合図に、俺の意識は再度急速に薄れていく。
どこかで聞いたようなセリフだなと思いながら――そしてそれが、小学生ぐらいの時に見た交通安全教室の映像か何かだと不完全に思い出しながら。
「それでは再度の人生、ご安全に!」
その言葉を最後に、俺はもう一度目を閉じた。
(つづく)